相良城・曲輪内堀の石垣
「三好どのと仰せられますと、近江の---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石 西丸目付)が、相良藩の普請奉行・三好四郎次郎に訊いた。
老中格で側用人も兼務している田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)の木挽(こびき)町の下屋敷である。
久びさに私邸でくつろぐために下城した意次が、そろえて招くのが通例のようになっている、新番組頭の本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石)、先手の組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)とその嫡男・銕三郎(てつさぶめろう 25歳)、そして佐野政親の4人。
【参照】2009年3月6日[蝦夷への思い] (2)
2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
田沼意次の財政面の知恵袋ともいわれている勘奉行で足かけ9年来長崎奉行を兼任している・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石うち300石は当年加増)も、連日つづく激務にいささか憔悴した面持ちで、いつものようにつらなっている。
【参照】2007年3月29日{石谷備後守清昌] (1) (2) (3)
新顔は、この6月に相良城の基礎工事である二の丸、三の丸の堀の石垣工事が成った報告と、あとの築城の指示をうけに出府してきていた三好普請奉行である。
【参照】2009年3月3日[ちゅうすけのひとり言] (31)
「ほう。佐野うじはさすがにお目付衆、三好普請奉行が近江・浅井の旧臣と、よくも推量なされた」
意次が、すかさず、与八郎をもちあげた。
「お恥かしいかぎり。長谷川組頭どのゆずりの、武鑑の知識でございます。ご普請奉行どののお腰の印籠(いんろう)の大割牡丹(おおわりぼたん)の蔭紋で推察をつけただけのことで---}
そのむかし、北近江の浅井家は越前の朝倉家に味方して、織田信長の恨みを買い、ほろぼされた。
牡丹は、浅井家の蔭紋でもあり、重臣たちはいろいろにくずして自家の蔭紋としていた。
主を失った三好家の子孫は、諸国をめぐりなから築城術を学んだという。
その知識に目をつけた意次が、四郎次郎を召しかかえた。
もっとも、その時点では、城持ちになるとは考えていなかった。
由緒のある家柄の家臣ならいくらでもほいしほど、意次の家禄は急激にふくらんでいたのである。
堀の石垣の工事ぶりを観察したことを、銕三郎は黙している。
意次が父とともに自分を招いてくれるのは、そんなことを聞くためではないことを承知していたからである。
相良へは、〔仲畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 30歳=当時)といったことも秘密にしておきたかった。
【参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30)
しかし、話は相良城の郭の石垣におよんでいた。
江戸城の石垣の石の多くが伊豆から運ばれたように、相良城のための石も、西伊豆からきりだされていた。
運搬も、江戸城のときにそうしたように、筏から綱でしばった石を海中にたらして重さを軽くし、つないだ筏を船で引いて駿河湾を横断させた。
このときのことが、江戸で石を手早く調達するならと、銕三郎が工夫を重ねるきっかけの一つとなった。
20年ほどのち、満潮時には水びたしの湿地になる石川島に人足寄場をつくることになり、寺社奉行にかけあい、無縁仏の墓石を寺でらからかき集め、江戸ふうテトラポットとして、たちまち地揚げを果たすことにつながった。
【ちゅうすけ注】佐野与八郎政親の武鑑を見る趣味は、長谷川宣雄ゆずりというのは、いつだったか、宣雄がもらしたこの話に刺激されたものである。
2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (2)
銕三郎が父・宣雄から学んだことで、石川島の人足寄場の創設に生かされた知恵の一つ---無縁仏の墓石の件についての裏話:2006年6月21日[家風を受けつぐ]
宣雄から学んだことが人足寄場の創設で実地に生かされてもう一つの例:2008年3月3日[南本所・三ッ目へ] (10)
【ちゅうすけ注:とくに歴史好きな方へ】田沼意次の財政の知恵袋・石谷備後守清昌について
2007年7月27日~[石谷豊後守清昌] (1) (2) (3)
2007年や月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] (1) (2) (3)
【参照】2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2007年11月6日[相良城址の松樹]
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