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2007.01.09

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その7)

【終章】つづき・2

(天明6年 1786)九月八日、将軍家治の死去が正式に発表され、十月四日には上野寛永寺に埋葬されたが、意次はその葬列に加わることはなかった。
十月五日、意次は「諸事不届のあるによって」という、曖昧(あいまい)な理由で、五万七千石の中、二万石を召しあげられ、神田橋の上屋敷と大坂の蔵屋敷を没収の上、江戸城への出仕を禁じられた。
(略)

この間、訊問や申しひらきの機会は与えられていない。
政敵を倒すときには、そのような斟酌は無用ともいえないこともないが、正当とはいいがたい。
翌天明7年(1787)6月、老中首座についた松平定信は、まだいじめ足りないとおもつたかのように、10月、意次の蟄居と所領の2万7000石を没収し、孫・意明に陸奥と越後に捨て扶持のように1万石の領知を与えた。
その1万石も、定信の性格からしては、必要ないとおもったであろうが、周囲にいさめられての、しぶしぶの結果であろう。

意次が死んだのは、その翌年の七月二十四日、七十歳であった。

相良湊(さがらみなと)は小春日和の中にあった。
岸壁に続く砂浜に、品のよい老夫婦とも見える男女が腰を下ろし、海原を眺めている。
男は板倉屋龍介、女はお北であった。

板倉屋龍介は、物語の中の狂言まわし役の、意次の幼馴染。美禄の幕臣の次男で、蔵前の札差の家へ養子へ入っていた。
お北も幼馴染で、のちに意次がもっとも心を許した個人秘書のような形で、諸事をとりしきった。

「全く、十年一昔とはよくいったものだな。殿様がお歿(なくな)りになって五年、殿様のお供をして俺が相良城を見物させて頂いたのが、その八年前のことだった」
大海へ向って白く輝やく美しい城は、跡形もなくなっている。
白河なんて奴(やつ)は何を考えていたんだか。御倹約を御政道の旗じるしにしたくせに、うちの殿様が気に食わない。坊主(ぼうず)憎けりゃ袈裟(けさ)までと、折角、出来たお城を叩(たたき)きこわして元も子もなくしちまった。どれほどの無駄か。とっておけば後から入って来るお大名の役にも立とうに、ものを粗末にするにも程があるよ」
龍介がふりむいたあたりには、なにもなかった。かつて、小さいながらも優雅なたたずまいをみせていた相良城は消えて、ただ荒涼とした風景が広がっている。
(略)

城の破壊を命じた定信は、その取り壊し費用を考えたろうか。
それよりも、取り壊しにかり出されたり、取り壊しをながめていた領民のこころに気持ちがおよんだろうか。
築城のために、意次といえども、領民の税を使っている。
領民は、無力感を味わったろう。

「いいたかないけど、あのお方はうちの殿様がおやりになったことは片っぱしから御破算にしちまいたい、いいものはきちんと受け継いで、後の世の役に立てたいなんて度量は芥子粒(けしつぶ)ほども持ち合わさない、そんな小人だからこそ、たった六年足らずで、ばっさり首を切られちまったんじゃありませんか」
お北はいささか溜飲(りゅういん)を下げたという顔をし、龍介も笑った。
(略)

松平定信が寛政五年(1793)三月、外国船が房総沖に姿をみせたとの報告によって、自ら伊豆、相模(さがみ)、房総の海岸巡視に出た留守に、将軍家斉が決断して定信を老中から解任したことは、江戸中の評判になっている。
(略)

「まあ、一番、腹黒いのは一橋様だと、これもみんながいっている。自分の子が将軍様になって、白河と通じてうちの殿様をおとし入れたあげくに、白河の実家の田安家にも自分の五男を相続させた。もともと、白河の奴は田安家相続を餌(えさ)に、一橋を篭絡(ろうらく)したんだが、どっこい、むこうのほうが役者は一枚上だった。取るものは取って、要らなくなると、はい、さようならと来たけさ。義理も恩義も知らねえ犬畜生のすることだ」
(略)

二人がわざわざ相良城址まできたのは、相良湊に、世界の国々から船と人材が、魚が群れるように集まってくることを願って築城した、意次の気持ちを反芻するためであった。
「魚の棲む城」と命名されたゆえんである。

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