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2007.01.08

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その6)

【終章】つづき

印旛沼、手賀沼の工事は、印旛沼が全体の三分の二以上、手賀沼が九分通り完成して、今一息と関係者は勇み立っていた。
五月になって関東では長雨が続いていた。六月に入って雨の範囲はいよいよ広がり、大豪雨が利根川一帯に襲いかかった。七月、草加、越谷、粕壁(かすかべ)、栗橋(くりはし)など浸水がはじまり、家は流され、多数の死者が報告された。印旛沼、手賀沼の干拓工事はこのため、壊滅状態になってしまった。
(略)

歴史に「もし」はないといわれる。しかし、もし、この長雨がなく、印旛沼、手賀沼の干拓が成功をおさめていたら、御三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの、田沼引き落としはなかっただろうか。
いや、そんなことで計画をやめるような、お人よしではなかった。
意次は暗殺されていたかも知れない。

印旛沼の北岸---佐倉・臼井は、鬼平の剣師・高杉銀平、剣友・岸井左馬之助、そしておまさの父親・〔鶴(たずがね)〕の忠助の故郷である。

家治危篤(きとく)の知らせが入ったのは(天明六年八月)二十五日、実はその死は二十日の深夜のことで、二十四日、印旛沼の工事中止の命が、溜之間詰から発令されているりを、意次は全く知らなかった。
(略)

意次の政治家としての、徳川幕府の将来を見据えた遠大な計画は、こうして四つとも葬りさられたのである。
彼の、何十年後を予想した政治能力について、いま、再評価の波がうねっている。
しかし、松平定信派によって巧妙に捏造された意次への汚名は、容易なことでは正されない。
平岩弓枝さんは「100年経っても無理ね」と苦笑気味におっしゃった。作家の鋭い直観力が、こればかりは外れてほしいものだ。

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