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2007.01.04

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その2)

天明4年(1784)4月2日、事件から9日後に、田沼意知(おきとも)は三十六歳でその生涯を終えた。
その翌日、加害者である佐野善左衛門は乱心として切腹を命ぜられた。
(略)

『徳川実紀』4月3日の記述。
○少老田沼山城守意知瘢(はん)を病て死せりにより。新番佐野善左衛門政言(まさこと)に死を給ふ。こは獄屋に下されしのち。有司鞫問(きくもん)せしが。つゐに狂気のいたすところと断案し。獄屋にて腹きらせらる。よて目付山川下総守貞幹属吏を率て検視す。(日記、藩翰譜続編)。

殿中で鯉口を切ったんだから、切腹の断は狂気が理由ではないはず。いったい、誰がなんのために狂気と記録したのだろう?

田沼家の人々が唖然(あぜん)としたのは、取調べにに当たっての佐野善左衛門の口上であった。
まず、刃傷に及んだ理由の第一にあげていたのは、佐野家の系図を意知に貸したところ返さなかったというものであり、第ニには上州の佐野家の領地に佐野大明神という社があったのを、田沼家の家来が、勝手に田沼大明神と改め、横領した。第三は役付にしてもらいたいと、意知に六百ニ十両をさし出したが願いをきいてくれなかった。第四は昨年十二月の鷹狩(たかがり)の時、自分の射止めた鳥を意知は他の者が射たといい、自分の手柄を上様に言上しなかった。
(略)

四つの理由のうちの第ニがおかしいことは、ぼくだって反論できる。
すなわち、佐野政言は、佐野一門の末流であり、『寛政譜』によると、家禄は知行地ではなく廩米500俵の蔵前取り---つまり、「領地に佐野大明神---うんぬん」はありえない。

100_8辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、佐野家の領地につき、「一体善左衛門の領分は上州甘楽郡(かんらぐん)西岡村と高井村の両村で、四百石の高を持っておって、実はニ千石計(ばかり)納る所である。そこに佐野大明神という社があり---」としている。
『旧高旧料取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)を確かめたが、甘楽郡には「西岡村」も「高井村」も存在していなかった。念のためにgoogleで「旧高旧領」へも検索を入れてみたが、データは存在していない、と出た。
辻さんは、確認しなかったのかしらん。ほかの研究者も---。

意次は直ちに家来達を調べたが、第二、第三、第四に関しては全くの事実無根とわかった。
強いていえば、第一の理由だが、たしかに佐野がみてもらいたいといっておいて行った系図はあるにはあったが、どうみても最近、作られたもので、それ自体に値打ちがあるとは思えず、田沼家にとってはそんなのを持っていても何の役にも立たない代物(しろもの)で、意次からその系図を受け取った大目付があきれて口もきけない有様であった。
「佐野と申す奴は知恵足らずと申すか、日頃から風狂の気味があったそうな。左様な者を使って凶刃をふるわせた御方が誰か、我らにもおよそ推量は出来申す。この上とも、かまえて、御要心のほどを---」
意次の子、忠徳を養子に迎えている間柄の水野出羽守忠友がささやいたが、意次は黙って頭を下げただけだった。
(略)

水野出羽守忠友については、 [親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]を参照。

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