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2009.05.14

銕三郎、初見仲間の数(3)

久栄(ひさえ 18歳)は、こもなげに、
「忠義は、家族の何千もの涙の上になりたっているのものなのです」
と言いすてたが、徳川時代に入ってからとくに精神的にも忠義を求められる男としては、そう簡単に割りきれるものではない。

しかも、浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石)と付きあうことと、切腹させられた内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり  35歳=事件時)とは、別ごとであるはず。
大学長貞の家祖は、赤穂藩から新墾地3000石を分与されて別家をたてた大学長広(ながひろ)---内匠頭長矩とは1歳違いの同腹の実弟というだけのことである。

とはいえ、刃傷沙汰を城内でおこした者に対する将軍・綱吉の怒りは、長広にまでおよび、閉門と領地を取りあげ、そのうえ翌年、本家・安芸守綱長(つななが 43歳=元禄15年 広島藩主 42万5000石)の封地への謹慎を命じた。
許されて江戸へ呼びもどされ、500石の幕臣に取りたてられたのは9年を経て、綱吉が隠居した宝永6年(1709)8月(44歳)であった。

のちになって、銕三郎が長広の孫にあたる大学長貞に奇縁を感じたのは、別家・浅野家の菩提寺が、備中・松山藩の元藩主の末、水谷(みずのや)(出羽守勝久 かつひさ)家と同じ高輪の泉岳寺であったことである。

この先、4年後の安永3年(1774)のことになるが、遺跡を継いで平蔵を襲名した銕三郎改め宣以(のぶため)が初出仕をした西丸・書院番4番組の番頭が水谷伊勢守(に改め)勝久であった。

参照】2006年4月28日[水谷伊勢守が後ろ楯] 
2006年9月28日@[水谷伊勢守と長谷川平蔵

浅野大学長貞の屋敷を、『江戸幕府旗本人名事典 第Ⅰ巻』(柏書房 1989.6.30)は、市ヶ谷牛小屋と記している。
牛込という呼称が、神崎牛牧からきたらしいと諸書にあるが、広域すぎて探しようがない。
平凡社『東京都の地名』(2002.7.10)の索引には載っていない。
_120手持ちの『牛込区史』(1930.3.31 復刻・臨川書店 1985.10.30)には、牛小屋跡として、「市ヶ谷より四谷への通の付いた後七軒町と唱へられし処」とあった。

牛小屋跡の前後は、

放生寺門前(旧上戸塚)
牛惟小屋跡
加賀屋舗空地(市ヶ谷加賀屋敷)

とあって、それに対応する昭和初期の町名は、加賀屋舗空地(市ヶ谷加賀屋敷)のみが記されてでいた。
察するに、七軒町は、尾州家の上屋敷に取りこまれてしまったか。

ちゅうきゅう注】四谷七軒町だと、『鬼平犯科帳』で、長谷川組の組屋敷とされた四谷坂町を上がったところの左手にあたる。文庫巻22[迷路]で、組屋敷へ戻るべく、七軒町から了覚寺へきた与力・秋本源増が首に矢を射こまれるシーンに登場するのだが。p95 新装版p91

とにかく、とりあえず、尾張屋板で加賀屋敷と尾州家周辺をルーペで数時間しらべたが、浅野邸は見つからなかった。
500石なら、25間に30j間---750坪(2500㎡)前後の屋敷地を拝領しているはずだから、見つからないほえうがどうかしているのである。

寛政以後、屋敷替えでもあったのであろうか。

調べものは、とにかく時間をくう。1中に調べて、ブログの3行分ということも、しょっちゅうである。

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