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2009年6月の記事

2009.06.30

〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(2)

御厩(おうまや)河岸の舟着きのところで逮捕された〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)一味は、元締の宇兵衛はとぜんとして、小頭(こがしら)・〔思案(しあん)〕の為平(いへい 32歳)、二番小頭・〔菊名(きくな)〕の六郎(ろくろう)などの主だったところがごっそりであった。

残った幹部は、〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち 24歳)だけで、ほかは20歳(はたち)にもならない、威勢だけはいいが思慮がもう一つといえる連中であった。
宇兵衛には、男の子がいなかった。
それで、女房のお(ひさ 40歳)は、かねてから捨吉に目をつけており、むすめ・お(そめ 18歳)と娶わせようしとしていたのを、この際、実をむすばせた。

捨吉は、
「元締が八丈島からお帰りになるまで、お預かりします」
殊勝なことを誓い、名も、猪兵衛(ゐへえ)と改めた。
いろはにほへと ちりぬるお---うゐのおんくやま けふこえて---
「宇 う」のつぎの「猪 ゐ」なんだと。
小頭・為平の「為 ゐ」は、さすがにはばかった。
は、〔般若〕の猪兵衛---強そうでいいねえ、とまんざらでもなさそうな笑顔であった。

「土地(ところ)をお預かりするについて、2つ、筋をとおさせてくだせえ」
猪兵衛は、さっそくに条件をだした。

一つは、披露の仮親は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)元締に仮親を頼みたいこと。
二つ目は、同郷で髪結いをしているお(しな 23歳)を、女将(かみ)さんもおも妾としてきちんと認めること。ただしおには子をつくらせない。

二つ目には、おが不服を言ったが、無理に引きさいて首でもくくられたら世間体がわるいと、宇兵衛の妾でさんざ悋気をやいたおが、本妻のふところの広さのみせどころと、納得させた。
もちろん、いまとは夫婦の感触が大きくちがっていた当時だからとおったことである。

音羽〕の重右衛門は、
「もともといえば、〔衣板〕が慾にからんで、〔木賊〕の縄張り(しま)に手をだそうとして失敗(しくじ)ったことゆえ、新二代目が〔銀波楼〕の今助(いますけ 24歳)に遺恨をもたず、義兄弟のちぎりをむすぶなら、よろこんでひきうけさせてもらいますぜ」
であった。

義兄弟というのは、じつは、今助から重右衛門に引きあわされた銕三郎(てつさぶろう 26歳)が言い出した案であった。
宇兵衛は、桟がおとしてある戸を蹴破って押しこみました。いわゆる、重罪にあたる錠やぶりをしたのです。ほかにも博打場もひらいています。遠島はお慈悲です。父が押しこみはしたが、金にもおんなにもまだ手をつけていなかったと、温情を伺いました」
打ちとけて話す銕三郎に、重右衛門はいたく好感をもったようであった。

2人の友情は、このときに結ばれ、のちのちのおまさの誘拐の解決に、京の祇園の元締・〔左阿弥(さあみ〕の円造(えんぞう)三代目の力添えをうけられることになるが、それは、20数年も先のことである。

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2009.06.29

〔般若(はんにゃ)〕の捨吉

(てっ)つぁん。〔小浪〕で、お神酒を振舞われやした」
彦十(ひこじゅう 36歳)が注進してきた。
冬だというのに、袷1枚の姿である。

「ご苦労。飲まないで、古着の綿入れでも買うんだな」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、懐紙に手ぱやく1分金(4万円)をつつんだ。
(これで、2番目の兆しだ)

1番目の兆候は、(浅草寺)奥山で蝦蟇(がま)の脂売りの口上をのべている浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)の使いで、今助(いますけ 24歳)のところの若い衆が、昨日、かけこんできた。

上野山下から広小路へかけての盛り場を縄張り(しま)にしている香具師の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の配下の者とおもわれるのが3人、奥山の屋台店に因縁をつけた。

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(浅草・奥山の〔卯の木屋)房楊枝の仮店。屋号は柳に由来。
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

とりわけ、有名な楊枝の〔卯の木屋〕の仮店にねらいをつけ、台板をひっくり返して房楊枝を散乱させた。

浅田用心棒がかけつけると
「二代目・青二歳に伝えときな。いつでも相手になるとな」
〔卯の木や〕の売り子の若いむすめの顎に手をかけ、凄んで引きあげた。

彦十の報せでも、銕三郎は動かなかない。
だが、3番目の風音で、決心した。
(間違いない)

それは、小島町裏長屋で、小浪(こなみ 32歳)の髪を結い上げながら、お(しな 23歳)が、
「いつ、鬼怒川の湯からお帰りでした?」
はっと気づき、
「きのう」
「では、これからは、ずっと舟着きの茶店に?」
「ほかに行くところ、あらへん」
小浪の返事に、おがうなずいた。
おかしい、と猪牙(ちょき)舟をしたてた小浪自らが、高杉道場へやってきた。

小浪どの。すぐに手くばりしますから、このまま、茶店へ行って居てください」

稽古を切りあげ、屋敷へいそいで帰った銕三郎が、筆頭与力・村越増二郎(ますじろう 50歳)にことの次第を告げた。
急使が神田橋ご門外の中野組の役宅へ飛ぶ。

陽が落ち、渡しの終(しま)い舟が綱で桟橋の杭につながれたのをみすかし、茶店〔小浪〕の裏手に着いた2艘の小舟から数人が降り、横の避難口から入った。
入れ替わるように抜け出たおんな2人が乗りこむと、小舟は川上へ漕ぎ去っていった。

1刻(時間)ほどのち、闇のなかを小舟が御厩河岸の舟着きの隣りの桟橋---料亭〔片蔵屋〕専用のそれに着くと、数人が瀬戸口から中へ消えた。

五ッ(午後8時)、蔵前通りから河岸口の路地へ入ってきた数人が、〔小浪〕の潜り戸をたたいた。
待ちきれないで押すと、桟がおりて戸締りされている。
とみるや、足で数度蹴り、戸は音をたてて内側へはずれた。
龕灯提灯(がんとうぢょうちん)をつきつけるようにはいっていった先頭の男があげた、異様な声。
「げっ」
つづこうとした男は足をとめたが、引きずりこまれ、これも悲鳴。

異変と気づき、外に残っていた3人が引きかえそうとしたとき、〔小浪〕の向かいの料亭〔片蔵屋〕からあらわれた4人が長十手を構え、
「火盗改メだ。手むかいすると打ちすえる」
それでも、曲者たちは匕首(あいくち)をつきだしてつっかかっていったが、あっけなく倒されていた。

〔片蔵屋〕から出てきたのは、長谷川組の同心筆頭・内山左内(さない 46歳)と雨宮三次郎(26歳)ほか1名、それに銕三郎であった。

蔵前通りを固めていた小者たちが駆けより、たちまち縄をかける。
縛られた襲撃者の中に、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)もた。

小者たちは、別に、蔵前通りにいた見張りを2名捕らえていた。

〔小浪〕で待ち伏せていたのは中野組の同心たちで、侵入した2人は、十手でつよく首筋を強く打たれ、まだ朦朧としている。

「〔衣板〕の宇兵衛。戸じまりしてある戸をやぶったのはまずかった。死罪はまぬがれまい」
田口同心の脅しに、宇兵衛の顔色が失せている。


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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2009.06.28

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(4)

10年前、お(のぶ 20歳=当時)が、〔神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ 40歳=当時)にひろわれたと言ったので、銕三郎(てつさぶろう 26歳)はなん気もなく、
「すぐにできたか?」
と訊いてしまった。

ところが、おは、
「いいえ。お頭は、そういうお人ではありませんでした」
即座に否定した。

(はて。聞いたような科白(せりふ)だが、だれからであったか?)
すぐに思い出した。
(〔盗人酒屋〕の亭主・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)どんだった)

(あのとき、忠助どんはこう言った)
っつぁん。お頭の中には、ご存じの〔法楽寺ほうらくじ)の直右衛門(なおえもん 42歳)お頭のように、配下のおなごの躰を熟させて、おもうように操るお人も少なくはありません。しかし、〔狐火きつねび)〕のお頭と〔蓑火みのひ)〕のお頭、それに〔乙畑おつばた)のお頭は、それをなさらないということで、仲間内でとおっております」

参照】2008年10月28日[うさぎ人(にん)・小浪] (

(〔蓑火〕と〔狐火〕と〔乙畑〕の3人の首領に、〔神崎〕の伊之松も加えるか)

「〔神崎〕の教えで、いちばん、納得したことは?」
「世の中は盗人だらけだ。その中でも、もっとも大きい泥棒がお上だぁな。百姓から有無をいわせねえでふんだくっていきなさる。諸国の大名・小名さまもお上を真似ていなにさる。つぎに悪ィのか大商人(あきんど)だ。蔵にたんまり小判を貯めているのがなによりの証拠だぁな。まじめにはたらいていた日にゃあ、あんなに貯まりはしねえ。だから、おれたちがくすねて、平均(なら)しとるのよ。だがね、慾をかきすぎてはいけねえ。ほどほどに押さえておくのが長生きのコツってえものよ--でした」
「たいした道学者どのだな、伊之松って仁は---」
「いいえ。違います」
「ほう?」

それを、〔神崎〕のお頭のひがみからでたかんがえ方だと、この春の小梅村の足袋問屋〔加賀屋〕に押し入ったときのやり方でさとったと、おは断言した。

その半年前から女中として引きこみに入っていたおは、仙吉という小僧にしたわれていた。
仙吉は、砂村の小作人のせがれだが、母親を亡くし、口べらしのために〔加賀屋〕で働いていた。
陰日なたなく、こまごまとよく働いていた。
も、上総の不入斗(いりやまず)村の実家の末のおとうとに似た仙吉をかわいがった。

押しいりの日、おが連絡(つなぎ)で命じられたとおりに表の潜り戸の桟をはずし、一味を引きいれた。
それを起きぬけてきていた仙吉にみられた。

「姐(あね)さん。いけないよ」
仙吉がむしゃぶりついた。
と、伊之松仙吉を殴り倒し、刀で刺そうとしたので、
「お頭、やめてください」
「でも、お前が見られた」
「いいえ。この子はしゃべりません」

さすがに、これまで、血を流したことのない〔神崎〕の伊之松は思いとどまってくれた。
が、それから、おは、伊之松の言い分を、盗人の三分の理と疑うようになり、泥棒は自分勝手な振るまいだときめつけることができたという。

「自首したのは、そのためだったのか」
「はい」

「おどのは、博徒をどうみる?」
喉まで出かかった言葉を、銕三郎は、あやうく胃袋に落としこんだ。
よけいな知恵をつけないほうが、おが自然にふるまえると思ったのである。


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2009.06.27

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(3)

その夜---。

御厩(おうまや)河岸の渡しが途絶えた時刻に、銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、茶店〔小浪〕の戸締りされている潜り戸をしめやかにたたいた。

すぐに戸があけられ、お(のぶ 30歳)は口をきかず、目で招じた。
(さすがに、鍛えられた女賊(おんなぞく)あがりだ)
銕三郎は、さぐるともなく、無駄のないおの身のこなしを採点している。

行灯が一つだけともっている飯台に、燗をしたちろりと板わさを運び、向かい合わせに坐った。
「仕舞い舟まで、お客がたてこんだもので、買い物にも行けませんで、なんにもありませんが---」
酌をしてから、自分の盃も満たした。

「おどの。内山(左内 さない 46歳)同心筆頭が、この茶店を購(あがなう)うにあたり、そなたの金をあてることをことわり、火盗改メがすべて支払った理由(わけ)を話したかな?」
「いいえ。この茶店は、火盗改メがずっと使いたいからとだけ---」
長谷川組は、冬場の助役(すけやく)だから、来春になれば役を解かれる。そうなると、この店の後ろ盾は、きょうの昼間に引きあわせた田口与力の組---本役の中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)さまの組に引きつがれるはず。そうやって、代々の火盗改メがここを密偵の隠れ蓑として使っていくということです。もちろん、おどのが、女将ぐらしにはもう飽きたというまで、ここの女将でいられることは変わりはない」
「ありがたいことです」

「これからの話は、これとは別のことだが---」
「はい」
「客のなかに、前の女将はどうした? と訊くのがでてこよう。そのときに、いま、鬼怒川の湯につかりに行っているが、5日後には戻ってくるはずと答えてほしい。そう訊いた客がいたかどうかは、彦十(ひこじゅう 36歳)どのに、毎夕、閉店前に店をのぞきにこさせるから、そう訊いた客がきた日には、茶でなく、酒を注いだ茶碗をだしてやってほしい」
「こころえました」
は、訳も聞かないで、うなずいた。
(しっかりと鍛えられている)
銕三郎は、30歳にしては肌がすこし荒れぎみのおだが頼りになる密偵と見てとり、ここまで鍛えた〔神崎(かんざき)〕伊之松(いのまつ)という首領に興味をそそられた。

「おどの。さらにこれからのことは、拙自身のひとり言とおもい、応えたくなかったら、応えなくていい」
が姿勢をただした。

「お信どのは、〔不入斗(いりやまず)〕という〔通り名(呼び名)ともいう)]の女盗(にょとう)であったそうな」
「はい」
「〔不入斗(いりやまず)〕というのは、生まれ育った村の名だそうな」
「はい」
「18の齢までその村で育ち、なぜ、村を出た?」
「------」

「男に捨てられたか?」
「村長(むらおさ)の3男でした」
「やはりな。そなたのその美形を、若い男ばかりか、女房持ちでもその気のある男たちは放っておけまい」
「------」

「〔神崎〕の伊之松お頭には、どこで拾われた?」
「木更津で、飲み屋の酌とりをしておりしたときに---」
伊之松は幾つだった?」
「40がらみ」
「おどのは?」
「20(はたち)」
「すぐにできたか?」
「いいえ。お頭は、そういうお人ではありません」
(はて。聞いたような科白(せりふ)だが、だれからであったか?)


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2009.06.26

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(2)

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「お(のぶ)どの。長谷川銕三郎(てつさぶろう)です」
30歳にしては、肌に疲れがにじんでいたが、おの顔立ちはよく、小浪(こなみ 32歳)よりも親しみやすい雰囲気をもっている。(国芳 お信のイメージ)
(これだと、さっそくにも、贔屓客がつくだろう)

「おと申します。このたびは、お頭(かしら)さまにたいそうになおこころづかいをいただきました」
「お引きあわせしておこう。こちらは、田口どの」
田口耕三(こうぞう 30歳)が、気持ち、会釈を返した。
銕三郎は、客の手前、田口の身分を中野組の「次席与力」とは明かさなかったが、おは、さすがに元女賊だけあって、とっさに察したようであった。

うながすと、奥の座敷口までついてきた。
を奥へ立たせ、銕三郎が口の動きをかくすように客席へ背をむけ、ささやき声で、
「このあたりが持ち場の火盗改メは、中野組で、田口どのはそちらの組の次席与力の方です。そのつもりでお付きあいなされ」
長谷川さまのお受け持ちは?」
〔冬場の助役(すけやく)なので、日本橋川から南です。しかし、困ったことがあったら、いつにても力になるから、使いを、南本所の役宅へよこすこと」
「そういたさせていただきますです」

「上総(かずさ)の不入斗(いりやまず)の生まれだそうですな」
「はい。18まで、村にいました」
「その話は、店がしまってから聞くことにして---仕事にもどりなされ---」

席料を2人分払い、店を出ると、田口与力が訊いた。
「あれで、30幾つですかな?」
「幾つと見ましたか?」
「33,4---いや、もう一つはいっているかな」

銕三郎が齢を告げると、
「けっ。若くつくるおんなは多いが、老けづくりするのは珍しい」

駒形堂まであるいて、蕎麦屋へはいった。
「じつは、村越益次郎 ますじろう 50歳)どのをとおして、中野(監物 けんもつ 59歳)組頭さまへお願いにあがらなければならないことがあるのです」
村越j益次郎は、中野組の筆頭与力である。

「どのようなことですかな?」
「さっきの茶店〔小浪〕のことです」
「おの?」
「いや。おの前の女将にかかわることで---」
蕎麦がきたので、しばらくは会話をやめてたぐることに専念した。

蕎麦湯を飲みながら、
「近く、うちの組の秋山善之進 ぜんんのしん 50歳)筆頭どのが、村越どのを訪ねて、お願いにあがるとお伝えください。それまでは、極秘の用件です」

その夜---。


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2009.06.25

〔神崎(かんざき)〕の伊之松

「〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 30歳)という女賊が、盗みがいやになったと自首してきたのです」
同心筆頭・檜山要蔵(ようぞう 40歳)の話したことを、かいつまんで書くとこうなる。

上総(かずさ)・下総(しもうさ)から武蔵へかけて、小ぎれいな盗(つとめ)をする神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ 50歳)を首領とする小さな組織(しくみ)がある。

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(上総国 上右青○=神崎 上左青○=五井 下緑○=不入斗)

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ちゅうすけ注】〔神崎〕の伊之松は、『鬼平犯科帳』巻10の[(かわず)の長助]の元のお頭(かしら)で、長助が引退するときにも、50両(800万円)を引退(ひき)祝いとしてくれたとある。p61 新装版p65

「通り名」からも察しがつくとおり、伊之松もおも上総国市原郡(いちはらこうり)の村の生まれである。
どちらの村も、千葉県市原市の町名として名をとどめている。
同じ郡の出ということで、おの引退の申し出を、伊之松は慰留しなかったばかりか、これからの生計(たつき)の元手にと、30両(約480万円)もくれたという。
火盗改メとしては、身の隠しどころとともに、生計がたつようにはかってやる義理が生じた。

「父上。長谷川組の受け持っている区域でないといけませぬか?」
長谷川組---すなわち、先手・弓の8番手の火盗改メは、冬場の加役だから日本橋川から南---日本橋通り、銀座、芝、高輪、麹町などが持ち場である。

「密偵ばたらきをさせるには、わが持ち場でないところに網を張ったほうが、万事によいかもしれないな」
宣雄(のぶお 53歳)の応えiに、筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)がうなずく。、

それなら、と---御厩河岸の舟着き前の茶店〔小浪〕なら、買えるかも---銕三郎(てつさぶろう 26歳)が説明した。

「いいお話ですな。さっそくにも、その女将の小浪(こなみ 32歳)とかけあいをはじめてみます」
檜山同心筆頭が膝をのりだした。

「ただ一つ、障りがあります」

ある組織が、女将の小浪を攫(さら)うために夜討ちをけてくるやもしれません。その夜には、火盗改メが待ち伏せし、襲ってきた者たちの捕り物となります」
「その夜が、あらかじめ、分明するのか?」
「はい」
「面妖なことよのう。ま、その茶店を手に入れてからのことだ」

今助(いますけ 24歳)は、銕三郎が噛んでいる取引きなら、茶店は半値でいいと言った。

寝所を〔銀波楼〕へ移した小浪は、わざわざ、小島町裏長屋のお品(しな 23歳)のところへ髪結いにかよい、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の動きをそれとなしに聞きだしている。

宇兵衛は、今助の〔木賊(とくさ)〕の襲名披露の宴会で、仮親をつとめた〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)が親ゆずりの貫禄をきかせ、
「村方の博徒ではあるまいし、いまどき、将軍さまのお膝下でシマあらそいの騒ぎおこしたりしないよう、香具師の元締衆がこうしてお集まりになったところで、誓いをたてやしょう」
しかし、〔衣板〕の宇兵衛だけは煙草を煙管につめるふりをして下をむいていたという。

もちろん、小浪は、茶店をやっているように装い、帰りも、尾行されていないかどうかを、〔木賊〕組の若い者(の)にたしかめさせていた。

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2009.06.24

〔銀波楼〕の今助(5)

浅田どの。しばらく、(浅草寺)奥山での蝦蟇(がま)の脂売りに戻っていただけませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)の問いかけに、浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)は、さすがに解りがはやい、
「承知しました。〔衣板(きぬた)〕一家の有象無象が、浅草寺境内でいやがらせをしないように、見張るのですな」

_120浅田の義兄(あに)ィまでまきこんで、申しわけねえ」
今助(いますけ 24歳)が謝った。
つられて、小浪(こなみ 32歳)も頭をさげる。
この茶店を売りにだして、〔銀波楼〕に今助といっしょに住むのが、よほどに気にいったらしい。

さん。鉄条いりの振り棒を、10本ばかり注文しておいてくれますか」
それまで、出番のなくて手持ち無沙汰だった井関録之助(ろくのすけ 22歳)は、
「いいとも。10本といわず、助っ人用に、もう10本、追加しておいてはどうですかね?」

参照】2008年5月12日[高杉銀平師] (

「いきなり出入引(でいりひき 喧嘩)へもっていっては困る。双方ともに、出入りを避けるのが、ほんとうの元締です」
(てつ)先輩。そんな悠長なことを言っていていいんですかい?」
「『孫子』に、およそ用兵の法は、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なり---とあります。戦いは、最後の最後、しかも、勝てるとの方策がたってからしかけるものです」
「また、『孫子』だ。先輩は、このごろ、やけに『孫子』づいている---」
録之助がひとり言のようにつぶやいた。

【参照】2008年9月13日[中畑(なかばたけ)のお竜〕 (
2008年9月20日[大橋家の息女・久栄] (
2008年9月30日[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)] (

(たしかに、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 32歳)をしってから、『孫子』を気をいれて読むようになった)
銕三郎は、胸のうちだけで、顔を赤らめる。
小浪が、それを見透かしたように、えくぼをつくった。

帰宅すると、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)が、筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)、次席・内山左内(さない  47歳)と相談事をしているらしかった。
庭を通る気配を察したか、
銕三郎か。ちょっとここへ」
障子の内側から声がかかった。

書院は、いまでは宣雄のご用部屋となってしまった。
いったん離れへ上がってから、久栄(ひさえ 19歳)にことわり、廊下づたいに書院へ入り、
「ただいま、戻りました」
秋山筆頭と、内山次席が席をあける。
銕三郎。そちは下情(かじょう)に顔がひろい」
苦笑し、密偵が隠れ蓑にでき、人と噂が目と耳に入りやすい商売屋で、すぐに手にはいるところを知らないかと訊かれた。

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2009.06.23

〔銀波楼』の今助(4)

今助どの。千住宿の元締は?」
「〔花又(はなまた〕の茂三(しげぞう 58歳)元締のご新造は、うちの先代のお妹ごで、義兄弟の仲でやす」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)がうなづき、
「両国広小路の元締は?」
「〔薬研堀(やげんぼり)の為左衛門(ためざえもん 50歳)といい、〔衣板(きぬた)の元締めとは、犬猿の仲のはずでやす」
今助(いますけ24歳)が応じ、銕三郎は、〔木賊(とくさ)〕の縄張り(しま)の周辺の見取り図のおおよそを、頭の中に描くことができた。

「『孫子』の[用閒篇]---つまり、間諜(かんちょう)の活用篇--武田方では軒猿(のきざる)と呼ばれていたものです。そうそう、お(りょう 32歳)どの母ごは、軒猿の末裔とか、聞いたことがありました」

参照】2008年10月1日~[『孫子 用間篇』] () () (
2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)} (

の名が銕三郎の口からこぼれると、寄り合いの場となっている茶店の女将・小浪(こなみ 32歳)の目があやしくひかり、
長谷川の若はんは、甲斐にいかはりましたん?」
「3年前に、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)という、盗人(つとめにん)のことで---」
「あら、「初鹿野〕のお頭(かしら)の---」
小浪長谷川さまのお話の腰を折るでねえ」
今助(いますけ 23歳)が鋭く一喝した。
「かんにん」

「その[用閒篇]---篇]に、間諜には5種類あり、うまい術(て)は、内閒を使うことだとあるのです。内閒---すなわち、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の一味の中に、こちらへの内通者をつくること。もっともいいのは、本人に内通しているとおもわないで仔細を話させてしまうことです」
今助も義兄・浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)も井関録之助(ろくのすけ 22歳)も、腕を組んで考えこんでしまった。

その沈黙を破るように、小浪がぽんと手を打ち、
「いてます、いてます」

小浪の言うところでは、〔衣板〕一家の三番小頭の〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち 24歳)がたまたま、〔小浪〕の客として一休みしていて、愚痴を話しにきていたまわりの女髪結い・お品(しな 23歳)の秩父なまりに、
「姐(あね)さん、秩父かえ?」
「はい。秩父郡(ちちぶこうり)の小鹿野(こがの)村(現・埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野)ですが、兄さんは?」
「隣の般若村の生まれよ」

「〔般若〕などと、そらおそろしい呼び名だから、背中に般若の彫りものでもしていやがるのかとおもえば、生まれた里の名か」
今助が小さくひとりごちた。

の世話をしていたさる大店の旦那が中風で倒れ、男ひでりだったので、たちまち出来上がった。
このあたりにも髪結いの客先が数軒かあるので、その帰りに油を売りにきては、捨吉ののろけをぶちまけるのだという。

「2人の意気があったのは、いつごろ?」
「春先どした」
小浪どのと〔木賊(とくさ)のせんの元締どのとのことを気づいておるようですか?」
「興味はそそられていたかもしれへんけど、気ィはついてェへんおもいます」
「それでは、この店を売りにだしても、住まいは、いまのままのところということにしておいて---そこを知っていますか?」
「知ってェへんとおもいます」
「その、おでいこう」

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2009.06.22

〔銀波楼』の今助(3)

「こないなときに、お(りょう)はんがいてくれはったら、よろしおすのに---」
小浪(こなみ 32歳)が、じれったげに、つぶやいた。
(りょう 32歳)は、盗賊〔狐火きつねび)〕の勇五郎(初代・ゆうごろう 50歳前後)の軍者(ぐんしゃ 軍師)である。
小浪は、こういうときにこそ、おの軍略が今助(いますけ 24歳)を助(す)けてくれるとおもっているのである。

「おどのほど、武田信玄(しんげん)公の戦さ采配には通じていないが、拙だとて『孫子』は学んでおりますぞ」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、場の気分をやわらげるために、おどけて言った。
「かんにんどすえ。べつに、長谷川の若はんが頼りないとはいうてえしまへん。おはんの知恵を借りられたら、もっと味様(あんじょう)いくのやないかと---」

小浪。言葉をつつしめ」
今助が一喝した。
「かんにん」
小浪は、ちろりの燗ぐあいをたしかめるふりで、腰をあげた。

小浪のいい分にも、もっともなところがある)
おもったが、今助の体面をおもんぱかって、口にしなかった。
小浪は、故人となった〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 享年62歳)の囲い者であったのに、今助とも情を通じていた。
林造が逝った以上、もう、2人の仲は、誰にはばかることもない。

今助どの。小浪どのを〔銀波楼〕へお引きとりになってはどうかな?」
「考えてみやすが、小浪が承知しやすかどうか---」
「いや。ここにいては、小浪どのが危ない。上野広小路の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳) が、今助どのの泣きどころをしらべれば、小浪どのに行きつくのは、いともたやすい」
「それほど、卑怯な奴でござるか、〔衣板〕の宇兵衛というのは?」
浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)がうめいた。
小浪どのを平気で犯すやもしれませぬ」
小浪が身ぶるいした。
「いやどす。うち、いやどす」

「『孫子』は言っております。[その愛する所を奪わば、すなわち聴(き)かん]と。小浪どのを奪われては、今助どの立ちむかう力は半減します。いや、今助どのの配下の衆たちが、小浪どのの身を案じて、動けなくなりましょう」
「『孫子』とは、そういうところまで目くばりしている兵法でござったか。これは勉学になりもうした」

ちゅうすけ注】『孫子』の原文をあたってみた。兵法に「愛」などという言葉がほんとうに記されているのか、疑問におもったからである。
「曰、奪其所愛---」
はっきり、「愛」という字が書かれてあったのに、納得するやら、違和感をおぼえるやら---。

浅田用心棒に感心され、照れた。
孫子}は、敵大軍、味方は兵員が少ないときは、敵が大切にしている食糧庫とか砦に急襲してこれを獲れば、敵は軍列をみだして獲りかえしにくるから、そこを撃て---とすすめている。

しかし、銕三郎の口説は、とんでもない効きめあらわした。
小浪がよろこんだのである。
「わあ、孫子はんて、そないなええこというとうやすか。愛するところを奪え---どしたなあ。愛する者を奪え---宇兵衛もそないにみてくれてますねんな?」

今助がはしゃぐ小浪をたしなめる。
「馬鹿もいい加減にしとけ」
「かわいい、おもうてる、愛してる---いうてたんは、うそどすか?」
「痴話喧嘩は、小浪どのが〔銀波楼〕へ移ってから、ゆっくりやってくること。いまは、縄張り(しま)を護ることに知恵をあつめる刻(とき)です」

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2009.06.21

〔銀波楼〕の今助(2)

長谷川さま。〔音羽(おとわ)〕の元締さんは、ご府内の安泰のためならと、快く引きう:けてくだせえました」
御厩(うまや)河岸の舟着き前の茶店〔小浪〕で、そう告げたのは、〔木賊(とくさ)〕一家の小頭だった今助(いますけ 24歳)である。
暮れ六ッのこの日最後の渡し舟が対岸の石原橋ぎわから戻ってき、乗客がすべて散ったのを見すまし、女将の小浪(こなみ 32歳)は戸をたててまわし、小女を家へ返した。

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(御厩河岸の渡し 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

(暮れ六ッといえば、ふつうは午後6時とおもいがちだが、日暮れどきの意味なので、師走が近いこの季節なら、午後5時ごろとみておいていい)

木賊〕の林造(りんぞう 享年62歳)の葬儀から、5日目の夕刻である。

行灯をともした店内にいるのは、小浪のほかは、今助から首尾を告げられている銕三郎(てつさぶろう 26歳)と井関録之助(ろくのすけ 22歳)、それに浅草・田原町の質舗〔鳩屋〕の用心棒・浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)である。

浅田用心棒は、いまでは〔鳩屋〕の脇の裏長屋の一軒を借りうけ、細君・於布美(ふみ 27歳)を向島から呼んで、いっしょに暮らしている。
もちろん、夜更けから朝までは、〔鳩屋〕に泊まりこむという変則の夫婦生活ではあるが。

参照】2009年4月3日~[用心棒・浅田剛二郎] () () () (
2009年4月18日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶっちょう)] () () () (

今助の父親は〔木賊〕の林造であるが、姉の於布美の父親は立派な武家であったという。
だから、いってみると、今助浅田用心棒にとっては、義弟にあたる。

その義弟が、香具師の〔木賊〕一家の縄張り引き継ぎの披露をするというので、銕三郎が知恵を貸しているのである。
それというのも、上野山下の盛り場を取り仕切っている〔布板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)や深川・櫓下のいかがわしい一帯をたばねている〔横川〕の太市などが、浅草・今戸といういい島をねらっているらしいので、
「とりあえず今助どのは、主だった元締衆を招いて襲名披露をするしか、血の雨を避ける術(て)はなさそう」
江戸の香具師界ににらみをきかせている〔音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)に仮親を頼むようにすすめたのである。

ちゅうすけ注】〔音羽〕の重右衛門は、『仕掛人・藤枝梅安』文庫巻3[梅安最合傘]に収録の[梅安鰹飯]p18 新装版p20に登場している〔音羽〕の半右衛門と女房・おくらとのあいだに生まれた男子である。父・半右衛門は矮躯(わいく)だが、母方の血を引いてどっしりした貫禄だが、色白で目がやさしい。
京の祇園一帯をしきっている〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう)のところにおくられて修行をつんで還ってくるなり、名跡をつぎ、江戸の香具師界に重きをなしている。

「これから、〔布板〕(きぬた)の宇兵衛がいろいろ仕掛けてくるであろうが、手下の若い衆に相手にならないように、きつく言い聞かせておいてください。それから、宇兵衛についての身のまわりの仔細をあつめてください」

横川〕の太市については、黒船橋ぎわで駕篭屋をやっている〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 38歳)の手の者に調べさせることを約した。

参照】2009年3月13日~[〔風速(かぜはや)〕の権七、駕篭屋業] () () () (

今助も、深川のもう一人の香具師の元締・〔丸太橋(まるたばし)〕の源次(げんじ 55歳)とは気があっているから、牽制を頼んでみると言う。
「そうです。柔(やさ)ごとですませられる術(て)は、できるだけ広くうっておくにかぎります」
銕三郎は、今助のわかりがいいのに、内心、感心していた。

「近攻遠交---が基本です。襲名披露には、遠地の元締衆にもできるかぎり案内をしておくように---」
銕三郎が念いれる。


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2009.06.20

〔銀波楼〕の今助

長谷川先輩。今夜の〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 享年62歳)元締のお通夜には、行きますか?」
稽古を終えた銕三郎(てつさぶろう 26歳)に、弟(おとうと)弟子の井関録之助(ろくのすけ 22歳)が耳打ちした。
「なに? 〔木賊〕の元締が亡くなったのか?}
「おや、ご存じではなかったのですか? 〔小浪〕あたりから報らせがいっているとばっかりおもっていましたが」
(そういえば、小浪(こなみ 32歳)にも、しばらく会っていない)

小浪は、御厩(おうまや)河岸の渡しの舟着きの前の茶店〔小浪〕の女将で、〔木賊〕の林造の囲い女だ。
それだけではない。
盗賊〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50歳すぎ 先代)の江戸でのうさぎ人(にん)の一人である。
うさぎ人とは情報集めの要員で、盗賊にとっては、甞役(なめやく)とともに、重要な役をになっている。

参照】2008年10月23日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 

「そうか。長谷川先輩はともかく、ご尊父が火盗改メにおなりになったから、今助(いますけ 24歳)の奴、回向の人たちが恐れるからと、報らせを遠慮したかな」
「通夜へ行くかどうかはともかく、死因はなんだったのだ?」
「ひどい目くらみ---つまり、卒中です」
「突然死といえば、そのあたりだろうな。で、通夜はどこで?」
「寺から断られて、〔銀波楼〕で」
〔銀波楼〕は、林造の老妻・お(ちょう 55歳)がやっている今戸橋ぎわの料理屋である。
〔銀波楼〕などと、たいそうな屋号だが、向かいの〔金波楼〕にくらべると、格もそうとうに落ちるが、林造が浅草・今戸一円の香具師の元締であったので、繁盛はしていた。

「それで、林造元締が守っていた縄張り(しま)はどうなる?」
こういう話は高杉道場ではできない。
高杉銀平師(ぎんぺい 66歳)が嫌う。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

銕三郎録之助を法恩寺門前の茶店{ひしや〕に誘い、串団子を注文して、切りだした。
今助が引きつぐようです。お蝶も承知です」
今助は度胸もあり、義侠心(おとこぎ)も十分だし、頭も悪くはない。しかし、浅草という願ってもないようなしまを守っていけるかな」
「早くも、上野広小路あたりを縄張りにしている、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)や深川の櫓(やぐら)下を取り仕切っている〔横川(よこかわ)〕の太市(たいち 38歳)が目をつけているようです」
「盗賊ならともかく、香具師相手ではなあ」

銕三郎の分の串団子にも手をだした録之助が、
「あの者たちの賭場をあげるってのは? 火盗改メは、博打の取り締まりも役目でしょう?」
「それは、薮蛇になりそうだよ」
「どうして?」
「金づるをとりしまると、よけいに他のしまへ手をだすだろう」
「なるほど」

「今宵、とにかく、通夜には顔をだすが、長谷川の名は、決して出すな」
「なんということに?」
初瀬(はつせ)だ。わが一族の、元の姓だから、まんざら、嘘ではない」

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2009.06.19

宣雄、火盗改メ拝命(6)

(てつ)。今宵、夜廻りをいたすが、伴(とも)をするか?」
平蔵宣雄(のぶお 53歳)が、高杉道場へ行く身支度をした銕三郎(てつさぶろう 26歳)を呼びとめた。

「今夜でございますか?」
「そう、申したはずじゃか---差しさわりでもあるのか?」
{いいえ。お供をいたします」
「五ッ(午後8時)発(だ)ちである」
「はい」

じつは、今夜は、久栄(ひさえ 19歳)が、隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 64歳 1050石)の後妻・於千華(ちか 36歳)仕込みの、睦み・その2を実習することになっていた。

銕三郎はあわてて、夫婦の居室になっている離れへ引きかえし、久栄に、
「今宵は、父上の夜廻りのお伴を仰せつかってしまった。だから、その2の演技は、日延べとなった」
「楽しみにしておりましたのに---」
舌の先で唇をなめ、わざと不満そうな姿態(しな)をつくった。
それも、於千華の得意技の受け売りらしい。

10月も晦日近くなると、空っ風が冷たい。
久栄は、姑(しゅうとめ)・(たえ 46歳)から、6年前に火盗改メだった本田采女紀品(のりただ 52歳 2000石)の夜廻りのお伴をした鉄三郎が袷の下に着こんだ綿をいれて刺し子にした半纏を渡された。
それをうしろから着せかけるとき、久栄はわざわざ、銕三郎の胸に手をいれて撫ぜ、耳元でささやいた。
「明日の晩、その2を、きっと---」
辰蔵(2歳)がまわらない舌で、
「ちちうえ。ちょの2でちゅ」
「そう、その2だ、その2だ」
銕三郎辰蔵の頭をぽんぼんと2つ叩いた。

参照】2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] () () () (

宣雄の乗馬の口とりは、若党・梅次(うめじ 22歳)である。
長谷川家の表紋の左藤巴を描いた高張提灯をもった小者が2人、刺股をかついだ者が3人、いまは若侍頭格の桑島友之助(とものすけ 38歳)、それにお頭の初めての夜の微行というので次席与力・小野史郎(46歳)、古参同心・等々力式部(しきぶ 51歳)に雨宮三次郎(さんじろう 26歳)と同心見習・横田八十二(やそじ 20歳)がしたがった。

一行が門をでるとき、久栄に手を引かれて見送りにでた辰蔵が、小さな手をふり
「父上、ちょの2でちゅ」

高橋をわたって小名木川ぞいに大川へ向かったとき、宣雄銕三郎を呼び、馬上から、
(たつ)が、ちょを煮る---と言っていたようだが、〔ちょ〕とはなんであるか?」
「一向に、わかりませぬ。若奥がなにごとか、吹きこんだのでしょう」
銕三郎が胸のあたりに冷や汗を感じたのは、暖かい刺し子の半纏のせいではなかった。
「〔ちょ〕---山鯨(やまくじら)の猪(ちょ)のことではあるまい」
「あ。軍鶏(しゃも)やもしれませぬ」
「〔五鉄〕のな、はっ、ははは」
宣雄は、意味ありげな笑い方をした。
(お(りょう 32歳)のことが発覚(ば)れたか。まさか)

先行して、先々の辻番所に、火盗改メのかお頭じきじきの夜廻りを告げているら者がいるしい。
どの辻番所も、全員が出迎え、口ぐちに
「変わりはございません」

(これでは、微行にならないな)
銕三郎は、自分が火盗改メになったときの微行について、案を練りながら歩いていた。

長さ128間(230m)の永代橋をわたりきったところで、日本橋川の河口をまたいでいる豊海(とよみ)橋にかかる。
日本橋川の北側は本役の持ち場だからである。
助役(すけやく)の受け持ちは日本橋川以南であった。

今夜の見廻りは、豊海橋の南側の霊岸島の町屋の通りであった。
亀島橋ぎわの番小屋で、羽織袴の町(ちょう)役人たちが出迎え、縄つきの男をさしだした。
20歳をすぎたばかりで、色が褪(さ)め、膝が破れた紺の股引のその男は、昼間、菓子屋の饅頭を2ヶ盗んだために、近所の若者たちに捕まったという。

宣雄は、その男を丁重に受けとり、桑島にいいつけ、茅場町の大番屋へ明日まで預けに行かせた。

役宅へ帰ってから、銕三郎が、
「あれが儀式でございますか?」
と訊くと、
「そうだ。町役人たちは大真面目で、歴代の助役に、ああして芝居じみたことを振舞っているのだ。だから、こちらも、役柄を演じてやらないと、あとあと、協力してくれない。覚えておけ」
(また一つ、教わった)
銕三郎は、頭をさげて離れに戻った。

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2009.06.18

宣雄、火盗改メ拝命(5)

「きょうは、いたく、こころした」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、辰蔵(たつぞう 2歳)を寝付かせている久栄(ひさえ 19歳)に述懐している。

牛込山伏町に本多讃岐守昌忠(まさただ 60歳 430俵)を訪ね、卯木(うつぎ)づくりの十手を拝観した経緯(ゆくたて)を話すのである。

「舅(しゅうと)どの作法は、万事がそのように、こちらが悟るまで、黙って見守っていてくださるやり方なのです」

父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)が火盗改メを拝命し、南本所・三ノ橋通りの長谷川邸が役宅となった。
それで、先手・弓の8番手の与力・同心たちが、市谷本村町の組屋敷から、毎日、通ってきている。
2年ほど前に銕三郎は、父・宣雄にいつ火盗改メの下命があってもいいように、組屋敷から歩いて距離をはかり、1万232歩---1里20丁(6.3km強)と割り出し、毎日の通勤は苦労だから、1直2日勤務1休制を宣雄に提案して、実現していた。

参考】2009年2月19日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () (

町廻りの同心は、役宅に顔を見せてから出かけるのでなく、府内のあちこちに連絡所を設け、そこに指示を伝えておき、そこから見廻りに就くようにもした。

しかし、ただでさえ捕り物好きの銕三郎が、宿直をしている筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)や、若手の同心・雨宮三次郎(さんじろう 26歳)などに、盗賊探索の手伝いを申しいれているのを、宣雄が憂い、本多讃岐守から木製の十手の由来を聞かせ、火盗改メの職務は、探索ばかりではなく、盗みをしなければ生計(たつき)がなりたたない者たちへの慈悲を悟らせたのである。

ちゅうすけ注】銕三郎平蔵を襲名し、火盗改メとなったとき、配下の者たちに、十手の使いすぎを禁止した史実が、『よしの冊子』に記録されて残っているのは、父・宣雄の教訓を肝の銘じたからであろう。
2007年9月15日[よしの冊子] (14
よしの冊子』を(1)からお読みになるなら、()←をクリック、あとはタイトルと当日の日付の上の右側の(3)(4)---を順のクリックしてください。

男の子は、父に反発しながら、父から多くのことを学びとるものである。

「舅どのは、(てつ)さまに、賊の探索よりも、賊をつくらない手だてをかんがえよと、暗にお示しになったのでございましょう」
久栄。それは、火盗改メの仕事ではなく、お仕置き(政治)をなさる老職衆(老中と若年寄など)の役目であろう」
「いいえ。火盗改メのお頭が慈悲をお示しになれば、その噂は千里をはしるがごとくに盗人たちのあいだに伝わり、お仕置きへの反発(すね)から盗みをしていた人たちが思いとどまることもありましょう」
「盗人と浜の真砂は尽きぬというぞ」
「根っからの悪人半分、やむなく悪に手をだす者半分でございましょう」
「うむ。思案をしてみよう」

「ところで、腹のややは、何ヶ月であったかな?」
「4ヶ月でございます」
「では、今夜は、静かに眠るとするか」
「いいえ。お隣の於千華(ちか 36歳)さまから、4ヶ月目の睦み方を教わりました」
於千華は、隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 64歳)の後妻で、夜の精力をもてあまし、なにかと久栄を焚きつけている。
「なに? そのような秘め事も教わっているのか---」
「この屋敷では、与詩(よし 14歳)さまの耳がありますから、姑(しゅうとめ)どのには、訊けませぬ」
「母上に、そのようなことを訊いてはならぬぞ」
「だから、於千華さまに---。2通りありますが、今宵は、その1を。さま。上を向いてお構えくださいませ」

久栄の指が銕三郎の下腹をやさしくまさぐった。
と、上へかぶさり、手を添えて、するりと---。

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(清長 『梅色香』イメージ)


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2009.06.17

宣雄、火盗改メ拝命(4)

新番・一番手の組頭、本多讃岐守昌忠(まさただ 60歳 430俵)の屋敷は、牛込山伏町(現・新宿区牛込山伏町)にあった。
いまの市谷小学校に隣接している幼稚園がそれである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 53歳)・銕三郎(てつさぶろう 26歳)父子は、牛込ご門北詰から右に折れて神楽坂をのぼり、善国寺・毘沙門天の門前で軽く頭をさげた。
その先、酒井修理太夫忠貫(ただつら 25歳 若狭・小浜藩主 10万3000石)の下屋敷の東端から矢来垣に沿ってぐるっとめぐりながらゆるく北へのぼり、山伏町に達した。

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(青○:牛込山伏町の本多讃岐守屋敷 上:北)

銕三郎の供をしていた松造(まつぞう 20歳)が、土盛りの上の長い矢来垣に驚き、
「お屋敷の中が丸見えです」
「この矢来は、将軍家をお護りした由緒あるものだから、めったなことょをいうでない」
銕三郎にたしになめられて肩をすくめ、
「お江戸はおっかねえや」
小声でつぶやいた。

本多讃岐守の屋敷は、長屋門を構えた500坪で、東は先手・弓の一番手の大縄地の飛び地である。
書院に通されると、着流しの昌忠がすぐに入ってきた。
鬢は齢相応に白いが、腰もしゃんとのび、肌のつやもいい。
「非番の日は、来客があっても袴を着けないことにしておりましての」
口ぶりがすでにくだけている。
「こたびは、火盗改メの重責、ご苦労に存じおりますぞ」

恐縮している宣雄に、
秋山善之進 ぜんのしん 50歳)筆頭(与力)から聞きましたが、前任の石野藤七郎唯義 ただよし 60歳)どのの組から引きついだ事件を、さっそくに評定所へおあげになったとか---」
「はい。盗人の平七が、麻布・無宿ということで、火盗改メ・ご定役(じょうやく 本役ともいう)の中野監物清方 きよかた 49歳 300俵)どのが、日本橋から南の犯人・事件は、助役(すけやく)の管轄と仰せられまして---やむなく、伺い書を、手前どものほうから差しあげました。それでよろしかったのでございましょうか?」
昌忠は笑って、
「おっしゃるまでもなく、長谷川どのは 公事(くじ 裁判)ごとにかぎらず、案件がとどこおるのがお嫌いで、その日めくりは、ほかの組頭の倍の早さでめくられておると、秋山が舌をまいておりましたぞ」
宣雄の役方の処理が手ばやいことをほめた。
/strong>宣雄は、75歳の老爺が博打の罪状で伝馬町の牢へ送ったが、老体を100叩きの刑にするのはしのびないのだが、
本多さまのときの評定所の裁定はいかがでございましたか?」
あと、二つ、三つの裁定のおもむきを質問したあと、銕三郎に目配せをする。

讃岐守さま。火盗改メのころにご愛用になっていた十手を拝観させていただけと、父からすすめられました」
「ほう。あんなものをご所望とな」

気軽に立ち、緋のふくさに包んだものをもってきた。
ふくさごと渡されたが、あまりの軽さに奇異な表情をした銕三郎に、昌忠が、
「あけてご覧(ろ)うじなされ」

ふくさの内から、長さ1尺8寸(54cm)ほどの黒漆塗りの十手があらわれたが、鉄製ではなく、木製であった。
「うつぎで作らせたのござる。太刀よりも短い十手といえども、鉄製だと、りっぱな武器となり、傷つけることも、殪すことさえでき申す。それを危ぶんで、木製にしたのです」
「恐れいりましてございます」
「なに、余の独創ではありませぬのじゃ」

昌忠の解説によると、40年ほど前の八代将軍・吉宗の元文ころ、別所孫右衛門矩満(のりみつ 40歳 1000石)が火盗改メに任じられて木製の十手を所持したいたのだという。

参照】2006年05月05日[たかが十手---の割り切り]
2006年9月19日[平蔵の練達の人あしらい

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(本多讃岐守昌忠の個人譜)

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2009.06.16

宣雄、火盗改メ拝命(3)

(てつ)。明日は、新番組・1番手の番頭・本多讃岐守どのをお訪ねする。そちも相伴(しょうばん)するように」
「承りました」

本多讃岐守昌忠(まさただ 60歳 420俵)は、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳=当時)が明和2年(1765)に先手・弓の8番手の組頭に抜擢されるまで、足かけ4年、同組の組頭をつとめていた仁である。
そのあいだに約3年、火盗改メ・本役を遂行していた。

弓の8番手の筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 62歳)にいわせると、前任の久松忠次郎定愷(さだたか 42歳=拝命時 1200石)とくらべると、こころがけが違いましたな---であった。
自身が気張っているわけではなく、与力同心たちに意見を述べさせ、
「なるほど。そういう見方もあったか。いや、もっともである。その機略をおこなってみよう」
と、配下のものに花をもたせた。

「父上。本多讃岐守さまと、表六番町にお屋敷のある本多采女(うねめ)どのとのかかわりは、いつだったか、左立葵のご紋をお使いの本多さまからお聞きしました」
銕三郎が言った本多采女紀品(のりただ 58歳 2000石)は、いまは新番の6番手の番頭をしているが、その前は先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭であった。
銕三郎は、紀品を伯父のように敬愛している。


【参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] () () () () () () () (
2008年2月1日~[銕三郎、初手柄] () () () (

その讃岐守昌忠と采女紀品の両本多家の家門の流は、紀品が話したことを要約すると、次のようになる。

本多家は、もともと、藤原の流れで、助秀(すけひで)が豊後国本多郷に住み、郷名を姓として称したことから始まる。識者によると、本多郷がどこであったかは、いまのところ、特定されていないと。

本多一族のうちで、早くに三河国へきて、松平(のちの徳川泰親(やすちか 家康の11代前)の配下に入った者たちがいるらしい。
うち、2門の家譜が記録されている。
定通(さだみち)と定正(さだまさ)である。
定通の一族で名が高いのは、平八郎忠勝(ただかつ)と忠刻(ただとき)といってもよかろうか。

平八郎忠勝は、家康の陣営にあってまだ20代のときに、敵・武田方から「家康に過ぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」と、その勇猛ぶりをはやされたという逸話が伝えられている。

忠刻は、秀忠(ひでただ)のむすめ・千姫を正室に迎えたことで知られている。忠刻その人は31歳で卒したので、千姫は剃髪して天樹院と号した。

一方の定正の流れには、家康のために知略・策謀をめぐらせた本多正信(まさのぶ)・正勝(まさかつ)父子、駿州・田中城主の本多伯耆守正珍(まさよし)もそうだし、本多紀品自身もそう。

「豊後から遅れて東上し、大権現家康公の麾下となったのが、讃岐守昌忠どのの祖・権左衛門正敏(まさとし)どのでしてな。その息・権右衛門正房(まさふさ)どのは、大坂の夏の陣で、燃える城中から千姫さまをお救いしたお一人なのです」(本多采女紀品 (4)から抜粋再録)
讃岐守どのにお目にかかったら、ぜひ、お願いしてみるがよい」
「なんでございましょう?」
「火盗改メ・お頭(かしら)の時代の十手を拝見させていただきたい、とな」
「火盗改メのお頭のときにお持ちになっていた十手でございますか。それは興味深い、ぜひにも、お願いいたしてみます」


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2009.06.15

宣雄、火盗改メ拝命(2)

辰蔵(たつぞう 遺跡継承=26歳ののち平蔵宣教 のぶのり)が、祖父・宣雄(のぶお)が火盗改メの職に任命されていたことを、故意に消そうとしても、公文書までは隠せない。

その一つに、幕府の最高裁判所ともいえた評定所に伺われた町奉行とか火盗改メからの記録がある。
それらは昭和16年に司法省の手で整理され、『御仕置例類集』と銘うって14冊公刊されている。

中に、火盗改メ・長谷川平蔵名義のものが207例あり、うち、4例には、明和8~9年と安永2年の年号がふられているから、明らかにこのときの伺い者・平蔵宣雄と推量できる。
(もっとも、安永2年には、宣雄は京都西町奉行の職にあり、かつ、その年の夏に病歿しているから、この記年についての解釈は、引用したときに述べたい)

最初の明和8年といえば、宣雄が公式に火盗改メを拝命したその年の10月17日からわずか50数日のあいだに伺ったものである。

これまで幾度も記しているが、平蔵宣雄が組頭をつとめていた先手組は、弓の8番手である。
この組は、宣雄のすぐの前任者2人が火盗改メを拝命していた。
すなわち、

久松忠次郎定愷(さだたか 1200石)
 宝暦8年(1758)7月18日から 42歳
  〃 9年(1759)9月3日まで  43歳

本多讃岐守昌忠(まさただ 420俵)
 宝暦12年(1762)9月10日から 51歳
 明和2年(1765)4月1日まで   54歳

組下の者たちは、火盗改メの経験を通算で4年もっていた。
6年の間隔があって高齢者が引退し、継嗣たちが新しく入れ替わったとしても、そう、たいした数ではなかったろう。

ところが、着任早々の宣雄が、麻布無宿・平七の盗みについて、その刑を評定所に伺っているのは、念には念を入れるのがこの人の性格であろうか。

火附盗賊改メ
  長谷川平蔵伺
 1 麻布無宿・平七、盗みいたし一件、
             麻布無宿
               平七
右のもの、身持ち不埒につき、親の勘当を受け、紙漉き・源四郎方をも欠落いたし、無宿になり、宵のうち、戸をあけている町屋3ヶ所へ入り、衣類・銭を盗みとり、あるいは昼、武家屋敷・門内長屋の戸があいているところへ2ヶ所まで入り、衣類・銭を盗みとり、その上、、暮れ時をすぎ、町人・庄右衛門方では、錠がおりているのに、隣の空き家の壁をこわして入り、夜具を盗みとったのは、不届きにつき、引きまわしの上、死罪。

死罪にあたるのは、錠がおりていた庄右衛門方へ、壁を破って侵入したこととおもえる。
宣雄も、あとの5度の盗みは死罪にはあたらないが、重版であるから---と、添え書きしている。

評定所の裁定は、平七が存命であったら、死罪、とくだしているところから、この件は、ひょっとしたら、火盗改メの前任者・石野藤七郎(とうしちろう 65歳 500俵)組あたりから引きついだ事件の始末をつけたとも考えられる。
つまり、平七は、量刑がきまらないまま永く入牢していたのを、能吏の宣雄がケリをつけるべく、伺ったともかんがえられる。

参照】石野藤七郎唯義は、2009年6月9日[〔からす山〕の松造] (>)
2009年6月4日[火盗改メ・中野監物清方(きよかた)] (
2008年11月16日[宣雄の同僚・先手組頭] (

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2009.06.14

宣雄、火盗改メ拝命

徳川の正史ともいわれている『徳川実紀』の、明和8年(1771)10月17日の項に、こう記されている。

○十七日先手組頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。

もっとも、池波さんは、この条を見ておられたかどうか。
というのは、、『寛政重修l諸家譜』編纂のために、後年、辰蔵(たつぞう 家督後、平蔵宣教 のぶのり)が幕府に提出した[先祖書]には、このことが記されていないからである。

その[先祖書]は、長谷川本家の後裔である長谷川雅敏さんが、国立公文書館が所蔵しているものから、コピーをおとりになったものをいただいた。

_360

さらに、これを釣 洋一さんが活字化なさった。
横書きで一部を写してみる。

一、七代目  生  武蔵  長谷川備中守宣雄
         養母  無御座候
         実母  元水谷古出羽守 徒三原七郎兵衛女
  右備中守宣雄義
  延享五戌辰年正月 権十郎宣尹義病気
  差重 男子無御座候ニ付 従弟之続を以
  同月十八日 養子奉願置 同十日卒 同年
  四月三日 養父権十郎宣尹跡目賜旨 菊之間
  本多伯耆守伝 小普請組柴田七左衛門支配
  同年閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
  組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
  之節
  宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命
  明和二年乙酉年四月廿一日 御手先御弓頭被命
  安永元壬辰年十月十五日 京都町奉行
  被命 同年十一月諸大夫被命

つまり、職歴では、先手弓頭から一気に京都町奉行へ飛んでいる。

これをそのまま受けたか、『寛政譜』も、宣雄(のぶお 53歳)の火盗改メ拝命を省略している。

_360

しかし、宣雄が火盗改メ・助役に命じられたことは、『柳営補任』を確認するまでもなく、まちがいないため、これまでもさまざまな機会に報じてきた。

参照】2007年1月17日[ちゅうすけのひとり言] (
2007年9月13日[『よしの冊子(ぞうし)』] (12
2008年2月18日[本多采女紀品(のりただ)] (
2009年2月21日[隣家・松田彦兵衛貞居] (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/02/post-056f.html)

宣雄は、用部屋へ呼ばれ、月番若年寄・酒井飛騨守忠香(ただか 57歳 越前・敦賀藩主 1万石)から申しわたされた。
もちろん、事前に目付から打診があり、謹んでお受けすると答えてあった。

当夕は、長谷川家一門の当主たちが祝辞をのべに集まり、酒宴がお開きとなったのは、六ッ7(午後7時)をまわっていた。
武家の夕食は、4時すぎから始まる。

客たちが退けてから、銕三郎(てつさぶろう 26歳)と身重の久栄(ひさえ 19歳)が辰蔵(2歳)をともなって祝いのことばを言上した。
「父上。お役目のお手伝い、いかようにもいたしますゆえ、どのようなことでもお申しつけくださいますよう」
つづいて、久栄が、
「お舅(しゅうと)さま。このたびの大役、おめでとうございます。若に火付人(ひつけびと)の2,3人も捕縛させて、京都町奉行へとご栄進の上、久栄辰蔵に京見物をさせてくださいませ」
言いはなったものである。

嫁に甘い宣雄も、さすがに苦笑で応じ、
「当家の家系には、遠国(おんごく)奉行にまで上りつめた者はおらぬゆえ---」

遠国奉行はおろか、宣雄がこれまでに就任してきた小十人頭、先手組頭といった役職にすら就いていない。
いずれも両番(書院番士と小姓組番士)のヒラのまま終わっている。
病気がちだった者、勤務をはすにみていた者、出世よりも己れの趣味を優先させていた者がつづいていた。
先祖が、今川方からの主(しゅ)替えということもあったかもしれない。
(いや、これは理由にならないであろう、武田方からの1000家近い帰順組の中には、けっこう要職についている家もあるし、北条方からの者にも例はある)

ところが、一年もしないうちに、久栄の予想どおりの運びになるとは、このときだれも予見していなかった。
 

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2009.06.13

〔白駒(しろこま)〕の幸吉(2)

「若さま。申しわけもございません」
土下座して謝っているのは、下僕の〔からす山〕の松造(まつぞう 20歳)である。

「もう、いいから、立て。お主の手落ちではない。向こうのほうが一枚上手(うわて)だっただけのことだ」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、なぐめるように松造の脇の下に手をいれて、引きあげた。
その手を両手でつかんだ松造が、拝むように胸の前にささげた。

昨夜、〔五鉄〕の前で不審な挙動をしていた男を、二ノ橋北詰の辻番所へ預けた。
この朝五っ半、二ノ橋下から舟で竪川(たてかわ)から大川、そして神田川を遡行して、神田橋ご門外の火盗改メ役宅・中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)方へ連行、訊問することになっていた。

二ノ橋ぎわ、〔五鉄〕の向かいの辻番所は、あたりの軽輩の御家人とともに建てたものだが、鈴木兵庫直美(なおみ 8歳 2400石)方が、諸がかりのほとんどを負担していた。
ただ、当主が幼く、出仕もしていないために、番人たちも気がゆるみががちであったろう。

ちゅうすけ注】この鈴木家の当主はも四郎左衛門を名乗る仁が多い。『鬼平犯科帳』文庫巻9、寛政6年(1794)2月の事件である[浅草・鳥越橋]p205 新装版p214で、鬼平組が捕えた賊・〔三好屋幸吉---すなわち20年後の〔白駒〕の幸吉の仮名---を預けたときも、鈴木四郎左衛門と書かれている。
池波さんは、幕末近くの切絵頭によったのであろうが、鬼平の時の直美は31歳の成人で、小姓組に出仕していた。

銕三郎は、鈴木家の先代・四郎左衛門直賢(なおかた)が6年の前に37歳で病没、当主はまだ少年で、家政がゆるんでいようから、連行にはくれぐれも注意を怠るな、と松造に念をいれることをしなかった自分の手ぬかりを責めていた。

男は、二ノ橋下で小舟に乗りうつろうとしたとき、向こう岸の林町1丁目の家の裏から放たれた矢を胸にうけたのである。
松造と付きそいの番人が、いそいで林町に駆けつけたときには、犯人はとうに逃げ、半弓だけが放置されていたという。

けっきょく、松造たちが中野組にとどけたのは、男の屍体であった。

銕三郎は、男が殺されたことを、日本橋3丁目箔屋町の白粉屋〔野田屋〕のお(かつ 30歳)に知らせに行ってみたが、おは昨夜から帰ってきておらず、荷物も金目のものはすっかり消えて、当主・文次郎はがっくりで、まともに話ができない体(てい)であった。

その足で、神田橋ご門外の中野組の役宅へまわり、主席与力・村越益次郎(ますじろう 50歳)にあいさつをしたが、男は、身元を語るようにものは何ひとつ身につけていなかったことを知らされただであった。
ただ、着ている着物が粗末なのにかかわらず、銭袋だけは似合わない筋のとおったものをもっていたから、小間物屋あたりに奉公していたのではないかと、村越与力が推量していた。
さすがに伊達に与力をしていないと、銕三郎は舌をまいた。

小間屋といえば、深川の洲崎弁天社の脇で〔白駒(しろこま)〕の幸吉(こうきち)が開いていたのも、小間物屋であった。
そのことを告げてやりたいお(りょう 32歳)に連絡(つなぎ)をつける手立ては切れた。

白駒〕の幸吉とすれば、生まれ故郷の上総国周准郡(すえこおり)白駒村(現・千葉県君津市白駒)を探索したおの身辺を、逆にさぐらせたのかもしれない。

銕三郎は、〔白駒〕の幸吉と名乗る、小賢(さかし)げな賊の名を脳裏にきざみこむとともに、おと会えなくなったことに、夢が消えたようなおもいをかみしめていた。
孫子』の話し相手を失った悲しみだと、自分には言い訳をしていたのだが---。

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2009.06.12

〔白駒)〕の幸吉

「こいつでやす」
彦十(ひこじゅう 36歳)が、店の常連の客3人に手伝ってもらい、鼻血をだした男を、〔五鉄〕の店前の天水桶に押しつけていた。

銕三郎が、太刀の鞘尻を男の鳩尾(みぞおち)にあて、
「逃げようと動いたら、衝く」
そうおどすと、観念したように、身もだえをしなくなった。

松造(まつぞう 20歳)に、
(さん)どのに、縄をもらってこい」
三次郎(さんじろう 22歳)が縄をもって、
「何者ですか?」
手助けした客たちも、離れずに成りゆきを見物している。

銕三郎が太刀の柄(つか)の頭をほんと叩くと、男は、
「げっ」
崩れおちた。
松造。縛っておけ」
松造が、男のふところから白木鞘の匕首(あいくち)を抜きとって渡したのを、銕三郎は竪川へ無造作に投げすてる。
水音が、いやに大きく聞こえた。
「明日は雨だな」

〔五鉄〕と相生町5丁目の通りをはさんた向かいにある辻番所へのあいさつに、三次郎に行ってもらった。
そういうことは、町屋と武家地との違いはあるとはいえ、同じ町内同士、とりわけ、〔五鉄〕がときどき軍鶏どんぶりを差し入れているあいだがらなので、話は早い、一晩、預かってくれることになった。

番小屋の隅の柱にくくりつけてから、明かりにてらされた男をあらためて観ると、まだ、20前の男であった。
銕三郎は、なぜだか、この春、安房国朝夷郡(あさいごおり)江見村で聞き取りをした吾平(ごへい 18歳)をおもいだした。
吾平は、村人に追い詰められて自裁した。
いかにも下作人の家の生まれといった朴訥なくせに気をゆるせないものがまざっている風貌が、吾平と共通していた。

「だれに頼まれたか、訊いても応えまい。明日、火盗改メの役宅で、拷問にかけて、吐かせるしかないだろう」
銕三郎が、わざと男の耳にはいるように番人に言い、
どのに、喉湿めらせをとどけさせます。今夜一晩、よろしくお頼み申す」

竹造にも、
「手助けしてくださった衆に、一杯さしあげてくれ」
そう言いおき、入れこみの奥の階段をあがっていった。

襖をあける前に、
「拙です」
声をかけた。
あけると、お(りょう 32歳)がとびついた。
銕三郎が、後ろ手に襖をしめるまも、口を吸い、躰の重みをあずける。

「大丈夫だ。向かいの辻番所へ預けた。送っていこうか」
松造さんがいるんでしょ?」
「先に帰す」
「いけません。奥方に知れます。私なら、大丈夫です。すぐ、近くですから---」

(誰がよこしたのですか?)
と訊きたいだろうに、必死にこらえている。
内心では、〔白駒(しろこま)〕の幸吉(こうきち 30歳前後)一味と察している。

「すべての訊問は、明日だ」
「はい。(てつ)さま、どうぞ、お先にお帰りください」
「うむ。あの男の素性を訊きだしたら、連絡(しらせ)は、どこに?」
「お(かつ 30歳)も、〔野田屋〕から消えますから、〔小浪〕へでも---」
「わかった。〔野田屋〕をあきらめたのだな?」
は返事をしなかった。

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2009.06.11

〔からす山〕の松造(4)

七輪の鍋の具はほとんど消え、汁けだけになっていた。
それを七輪ごと、階段口の廊下へはこぶと、お(りゅう 32歳)は、銕三郎(てつさぶろう 26歳)の耳に口を寄せると見せかけて、ついと横にきた。

(てつ)さま。〔野田屋〕へ、賊がどこから侵入したか、お教えします」
指をとってまさぐりながら、
「お(すぎ)がうった手妻(てづま 手品)なんです。店屋の2階の者たちが寝いっているのをいいことに、打ち合わせた時刻に大戸のくぐりの戸締りをはずしておき、己れは寝床へ帰り、賊にしばられたのです」

「なるほど、それなら、難なく押しいれる」
「賊は、火盗改メ方の考察をまどわすために、みんながはいってから、戸締りを元どおりに締めたのです」

は、銕三郎の手を八ッ口へみちびき、豊満な乳房をにぎらせた。
掌の下で、乳房が大きく盛りあがったり、引いたりする感触を、銕三郎はたのしんだ。
そのうち、指が乳首をまさぐりはじめると、躰から骨が抜けたようにもたれかかった。

「せつない。お口を吸いたいけれど、漱いでいないから---」
足を曲げたり伸ばしたりし耐えながら、ささやく。
さまがお嫌でなかったら、おいでになってもいいのですよ。終わりかけていますから---」
「ここでか?」
首をふり、
「湯のあるところで」

銕三郎は乳房から手を抜き、気力をつくして断った。
「またのことにしよう。下の入れこみに、下僕の松造(まつぞう 20歳)を待たしている」
「〔白駒(しろこま)〕の幸吉の探索ということで、保土ヶ谷あたりまでお出張りになることはおできになりませんか?」
「できそうなら、どこへ報らせたらいい?」

は、銕三郎の太腿を袴の上からまさぐりながら、あちこち考えている。
(かつ 30歳)にも小浪(こなみ 32歳)にも知られたくない。
といって、〔五鉄〕や〔盗人酒屋〕では銕三郎が困る。

「通旅籠町(とおりはたごちょう)の〔山科屋〕の帳場ではいかが?」

参照】2008年5月31日[〔瀬戸川〕の源七] (

「三日のうちに---」
「保土ヶ谷の旅籠へは飛脚をだします」
「なにも、わざわざ保土ヶ谷まで遠出することもあるまい」
「いいえ。夫の敵をさがす兄嫁と、助太刀の弟武士に扮した旅をしましょう」

が、顔をあげてた唇をねだったとき、階段の下から、松造の声がした。
「若殿。妙な奴が、さっきからこの店をうかがっておりやす、おります」

「お。いいというまで、この部屋から動くでない」


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2009.06.10

〔からす山〕の松造(3)

「お(かつ)の後ろをお尾行(つけ)になりませんでしたね」
(りょう 32歳)がうれしそうに言い、頭をさげた。

本所二ノ橋北詰りの軍鶏なべ〔五鉄〕の2階の東側の小部屋である。

ちゅうすけ注】〔五鉄〕の2階には3部屋あり東側の小部屋は、のちにおまさ、そのあと彦十が住んだことは、『鬼平犯科帳』のファンで、知らない人はいまい。

このとき銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、店主代行の三次郎(さんじろう 22歳)に、わざわざこの部屋を指定したのは、店の横の猫道から裏側へぬけ、板場の勝手口についている階段から2階へあがれ、店内の客の目に触れないですむからである。
と会っていることは、秘めておきたかった。

何かの拍子に、久栄(ひさえ 19歳)の耳にはいりかねないので、供の〔からす山〕の松造にも、知られたくはなかった。
もちろん、松造には、自分たちはご公儀の秘密の任務についているのだから、見聞きしたことは死んでも洩らすことはあいならぬ---ときつく言い含めてはある。
それでも用心するにこしたことはない。

今夕も、入れこみで彦十と軍鶏なべをつついているように手配した。
いや、三次郎には、
「酔いつぶれるほど、飲ましてやってくれ」
用心に用心を重ねている。

そういうことだから、おは取りきめた時刻よりも小四半刻(約15分)ほど早くき、2階の小部屋で待っているように、お(いまはお みや で通している 30歳)に言っておいた。

「おには、付け人がいたんだな?」
「大事な仕事は、一人ではさせせん」
「おどのと会うことが、大事な仕事かな?」
(てつ)さまには大事でなくても、私にとっては大事なことです」
「そう、おもってくれるだけでも、うれしい」
「うそ。奥方さまのほうが---」
「それを言ってはならぬ。武家の家には武家のしきたりというものがある」
「はい」

が、真剣なまなざしを銕三郎にそそぎ、
「木更津のお諏訪さまでお話しした、〔白駒しろこま)〕の幸吉(こうきち 30がらみ)の身元を調べるために、おが望陀郡(まうたごおり)白駒郷(現・千葉県君津市白駒)へまいったことは、覚えていらつしゃいますか?」
「忘れてはおらぬ」

参照】200余年5月22日[真浦(もうら)〕の伝兵衛] (

を案内する形で助(す)てくれていた〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 30男)が、幸吉の生家は、同村・熊野下の白駒社の脇にあることを、現地でたくみに聞きだした。
生家には、老父とこれもそれなりの齢の後妻がいるだけであった。
亀吉がそこそこの金をつつみ、
「江戸で幸吉どんから1年前に借りた金を返そうとしやしたが、引越してしまっていて、手がかりがつかめねえんで、五井にけえったついでに、親ごどのに預けておこうとおもいつきやして---」
と、深川の洲崎弁天ぎわの住まいを聞きだした。

江戸へ戻って、その住まいへ押しかけてみると、2日前に火盗改メが3人の安房者を捕らえただけで、幸吉は行方をくらませていた。

参照】2009年5月27日~[真浦(もうら)〕の伝兵衛] () () (

「〔白駒〕の幸吉は、〔狐火(きつねび)〕一味に、何をしたのだ?」
は、ちょっとのあいだためらったのち、意を決したか、
「ふなどめ盗(づと)めです」
「ふなどめ盗め?」

さまは、小判鮫(こばんざめ)という魚をご存じありませんか?」
「見たことはないが、小判いただきともいうとか、耳にしたことはある」
「その鮫のようなお盗(つと)めをするのです。他のお頭が仕掛けたお盗め先を、先まわりして獲物を横取りしてしまうのです」

が軍者(ぐんしゃ)として半年がかりで手くばりをした仕掛け先が、去年の暮れ、なにものかに先取りされた。
手配りの一つが、飯炊きにお(すぎ)とう老女賊を引き込みに入れたことであった。
あちこちの盗賊仲間をあたり、〔白駒〕の幸吉の線が浮かんできた。
それで、白駒村へ出張ることになった。

しくじったおを、おの芝居で白粉問屋〔野田屋〕の飯炊きに入れこんだが、どうも挙動がおかしい。
女の印があがっているのに、男ができ、これが最後の出事(でごと 性交渉)とばかりに、相手に入れあげているらしい。
その男は、どうやら、白駒〕一味の者と気がついたときには、その者たちが〔野田屋〕に押し入ってきて、真っ先にお勝がしばられた。
しかし、翌朝、逃げようとしたおは、〔狐火〕の者に捕まり、処分された。

「なるほど、そういうことだと、火盗改メとしては、〔白駒〕の幸吉が的になるな」
さま。幸吉への仕返しは、〔狐火〕におまかせくださいますよう。そうでないと、このおの面目がたちませぬ」

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2009.06.09

〔からす山〕の松造(2)

「お(かつ)、出てこい」
〔五鉄〕の店頭に積みあげられている薦樽にむかい、鋭く、低い声で銕三郎(てつさぶろう 26歳)がうながした。

暗い蔭から、ゆっくりとお(いまの名はお みや 30歳)があらわれ、気まりわるそうに微笑みかけた。
「なにをしていた?」
「お(りょう 32歳)姉さんからの伝言(ことづけ)を、こちらの三次郎(さんじろう 22歳)さんへと、入りかけたら、火盗改メのお役人が出てきたので、驚いて隠れました」
氷見どのと、よく、わかったな」
「出る前に、長谷川さまとの話し声で、そうかな、と---。これでも、〔狐火(きつねび)〕一味のおさんですから」
「大きくでたな。まあ、氷見どのの目にとまらなかった機転をほめておこう」
長谷川さまに、初めてほめられました。うれしいし」

「それはそれとして、おどのの伝言というのは?」
「明日のお約束を2日ほど、延ばしていただきたいと---」
「なにか、不都合でもできたのか?」

はしばらく黙ってうつむいて考えるふりをしていたが、眸(め)をあげたときには艶っぽい表情になっていて、
「おんなの例のものなんです」
銕三郎は、心配して損をしたといった顔で、
「なんだ、出歩けないほどなのか?」
「おかしいでしょ、お姉さんの例のもののときはひどいなんて---」
「そんなこと、男の拙にわかるか」
「でもそうなんです。それに、匂いを長谷川さまにかがれたくないんでしょ」
逆に、銕三郎の顔がすこし赤くなったが、さいわい、夜陰なのでさとられなくてすんだ。

もう、なんども記したが、おは、18歳のときからおんな男の立ち役できた。
その恋人役がおである。
ところが、おは、銕三郎に生まれて初めて自分のおんなにめざめ、身をまかせた。

参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] (

「〔野田屋〕へ帰るのであろう。送ってやる。ちょっと、松造に断ってくる」
松造さんって?」
「新しく、拙の下僕になった若者だ」

長谷川さま。送りはなしにしてください。〔福田屋〕へ帰るのではありません」
「なんだ、他所泊(よそど)まりか。おのところか?」
「そうです。お世話をしないとなりません。それに、お姉さんから、長谷川さまには、いまの宿をお教えしないようにって言われているんです。奥方さまのところへ早く帰っておあげなさいませ」
「こいつ! それもおどのの伝言か}
「はい」

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2009.06.08

〔からす山〕の松造

「同心の氷見どのは、この5日間は組が非番だから、一向にさしつかえないと---」
伝えているのは、〔からす山〕の寅松改め、松造(まつぞう 20歳)である。

【参照】2008年9月10日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜](4) (5) (6) (7) (8) 

もとは掏摸(すり)であったが、銕三郎(てつさぶろう 26歳)の人品をしたって、下僕になりにやってきた。
きょうは、先手・鉄砲(つつ)の10番手の同心・氷見隆之介(りゅうのすけ 31歳)の都合をたしかめに、市ヶ谷本村鍋弦町の組屋敷まで遣いにいってきた。

「それで、〔五鉄〕へお越しくださるのだな?」
「ですから、ご指定のところへ出向くと---」
「告げの言葉遣いがおかしいのだ。〔五鉄〕へ今夕五ッ半(午後5時)には伺うとのお返事でした---と、こう言えば、一度で用がたりる」
「はい。これからは、気をつけます」
「うむ。ご苦労であった。ついては、お前にも〔五鉄〕の軍鶏なべをつつかせてやる」
「ひえっ、軍鶏鍋でやすか。初物だあ」
「これ。やすか、ではあるまい」
「はい。お軍鶏なべでございますか。生まれて初めて口にいたします」
「よくできた」

氷見同心は、この7月末近くまでか火盗改メをしていた石野藤七郎唯義(たたよし 65歳 500俵)の下で、日本橋3丁目・御箔町の白粉問屋〔福田屋〕の盗難事件を担当していた。
その件を引き継いだ中野組から力を貸してほしいと頼まれた銕三郎が、〔福田屋〕へ訊きとりに出張ってみると、なんと、お(みや)と名のっているお(かつ 30歳)がいたではないか。

は、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 32)の相方である。
銕三郎は、その男役のおと、ひょんなことから出事(でごと 性交渉)をいたしてしまい、おのはじめての男になった。

参照】2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛] (
2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言葉] (30
2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (

〔五鉄〕の三次郎(さんじろう)は、いまでは22歳---父親・伝兵衛(でんべえ 46歳)を、板場からも帳場からも追いだしている。
伝兵衛も、なじみ客にはさも不満げこぼしているようだが、すっかり三次郎にまかせきりで、朝顔の鉢に凝っている。

氷見同心は、小肥(こぶとも)りで、小男であった。
三次郎に押されるように階段をあがってきたそのうしろに、松造がしたがっていた。
「三(さん)どの。には、下の入れこみで適当に食べさせてやってくれ。酒は3合まで。なんなら、彦(十 ひこじゅう 36歳)さんのところへ遣いを走らせて、竹造に軍鶏なべのつつき方を教えるよう言ってはくれまいか」
心得た三次郎が、松造を追うようにして降りていった。

「たいした顔ですな」
これがあいさつとなった。
「いえ、山の手と違い、大川の東側はあけっぴろげがとりえでしてな」

とりあえず、酌をし、
「用件は手早くすませ、あとはゆっくりと呑みましょう」
「いいですな」
「こんな江戸の端っこまでご足労いただいたのは、お城のある大川の西側では、お勤めにまつわることはお定めが多すぎるとおもったからです。お許しください」
「なんの、なんの。酒の味は、大川の東も西も変わりないでしょう」

銕三郎が問うたのは、白粉問屋〔福田屋〕文次郎(ぶんじろう 38歳)方の盗難を調べたときに、覚え書きに書かれていない、氷見同心個人として、感じたなにかがあったら、話してほしいということであった。

_100氷見同心は、盃の手を口の手前でとめ、しばらく考えてから、
「変といえば、あの店ではそれほど古顔ではないおとかいう化粧(けわい)指南と称している年増を、みんなでかばっている感じをうけましたな」(お宮(じつはお勝)のイメージ)
「かばう感じ、といいますと---?」

身元をたしかめたかと訊くと、掛川のなんとかいう料理屋で江戸へきてもらう話をだしたときに、料理屋の主人が町奉行所のなんとかいう与力の請け状があるということだったので信用している、なんなら、火盗改メ方から掛川藩へおたしかめになっみては、とやんわり釘をさされたのだと。

また、事件の翌日に消えた飯炊き婆・お(すぎ)の身元についても、おが請けたのだから、と不安をもらさなかったことに不審をおぼえたことを覚えていると。

「〔福田屋」の者たちにすれば、おの美貌で、客足が1割方あがっていることに満足しきっているようにもおもえました。このままいくと、2割方は増えそうだと洩らした手代もいたほどで---」
「美形の看板年増で、男客が増えるというのはわかりますが、おんなの客足が増えるというのはどうも---」

相づちを打ちながら、
「おの外出(そとで)のことで、なにかお訊きになりましたか?」
「外出? 他所泊(よそと)まりのことですか?」
「はい」
「それは訊いておりません。そのことと、賊と、なにかかかわりでも?」
{そうではありませぬ。〔福田屋〕文次郎の申したてでは、おはおんな男の相方ということでした。とすれば、おんな男とどこで会っているかと---」
「なるほど。その相方というのは、どんなおんななのでしょうね。顔を拝ましてもらいたいものですな」

下賎(げせん)な話題におちたところで、銕三郎は手を打って新しい酒を注文し、氷見同心へのみやげに肝の甘醤油煮をいいつけた。
この甘醤油煮を、お(りょう 32歳)が喜んだことまで、ついでにおもいだしてしまい、苦笑した。

氷見同心を見送りに降りると、入れこみで、彦十松造が盃の応酬をしていた。
眸(め)で、そのままと合図し、表へ出た。

〔五鉄〕の表に詰まれた薦樽のむこうで、ついと動いた人影を見落としはしなかったが、氷見同心が二ノ橋をわたりきるまで、動かなかった。

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2009.06.07

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(5)

役宅へ帰る同心・田口耕三(こうぞう 30歳)とは、日本橋南詰で別かれた。
田口同心は、〔福田屋〕が、奥さまへといって持たせた白粉〔千代の雪〕の包みをふりふり、一石橋のほうへ去った。

銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、日本橋をわたり、先日、茶問屋〔万屋〕の主人・源右衛門といっしょにきた、浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕の2階にあがった。
昼どきはとっくにすぎ、夕どきまで1刻(2時間)ほど間があり、店には客がいなかったが、銕三郎の顔をおぼえていた亭主が、こころえて小部屋をあてがってくれた。

「3丁目御箔町の白粉問屋〔福田屋〕の、化粧(けわい)指南のお(みや)という女性(にょしょう)に、この結び文をとどけてもらいたいのだが---」
銕三郎が差し出すと、亭主はそういう客の頼みごとには馴れたもので、にやりともしないで、下へ降りていった。

文には、
「手がすいていたら、うきよこうじ、かばやきの〔おおさか屋〕にいる。はせ川」
と書いた。
(じつはお かつ 30歳)が、どのていど字が読めるのか知らなかったからである。

4半刻(30分)も待たさないで、おがやってきた。
「きっと、お声がかかるとおもっておりました」
「店のほうは、いいのか?」
「そんなに長くはいられません。もし、お話が長びくようなら、あらためて、店が閉まってからでも---」
「いや。長くはかからない。蒲焼でも食べるか?」
「わたしは、お昼が遅かったので、遠慮しておきます。長谷川さまは、どうぞ」

下へ注文を通してから、
「どういうことなんだ?」
「どういうことといわれますと?」
「お前は、〔福田屋〕へ引き込みに入っていたんだろう?」
「そう、見えますか?」
「見え見えだ」
「どうしてですか?」

掛川城下の高級料理〔花鳥(かちょう)〕で〔福田屋〕文次郎に口説かれたが、返事をその場でしないで、半月か1ヶ月もかけたのは、お(りょう 32歳)や〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 初代 50がらみ)の指図待ちをしていたのであろ、と指摘すると、こっくりうなずいた。

「仕事が終わったのに、逃げないのは、どういう了見だ?」
「ちがうんです。〔福田屋〕のお盗(つとめ)は、〔狐火〕一味ではないのです」
「では、誰の?」
「それを調べるために、居座っているんですよ」
が、声をひそめて言った。

銕三郎が納得がいかないという眸(め)でおを見据えると、
「ほんとうなんです。おおねさんも、そのことであれこれ、調べているんです」
「おどのは、いま、江戸か?」
はまたもこっくりうなずき、
長谷川さまが、お上におおねさんを売るのでなければ、3日がうちにあわせてさしあげます」
「それは、会って委細をきいてからのことだ」

「そういうことだと、こちらも、おおねえさんの気持ち次第です。どこへ連絡(つなぎ)をつければいいですか?」
「そうだな。御厩河岸の茶店の〔小波〕では?」
「あそこは、おおねえさんが嫌がります」
「なぜだ? 小波(こなみ 30歳)も〔狐火〕のうさぎ人(にん)だろうに」

【参照】2008年10月23日~[うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「一味のことではないんです。おおねえさん自身のこと---」
「なんだ、それ?」
「お分かりになっているくせに---」

「それでは、本所・二ノ橋北詰の軍鶏なべ〔五鉄〕の三次郎(さんじろう 22歳)なら、おどのもしっているはず」
「では、3日後の暮れ六ッ(午後6時)に---」

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2009.06.06

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(4)

白粉問屋〔福田屋〕は、日本橋通りの三丁目・箔屋町の南角を曲がった1軒目で、間口6間(約11m)の大店(おおだな)であった。

裾に分銅をつけた日除け大暖簾(のれん)を幾枚も張り、表から店内が見えないようにしているが、1箇所だけは、出入りをかね、〔福田屋〕で買っていることを見せびらかしたいおんな客のためにあけてある。
容貌に自信のある女客ほど、その、見えるところで試し化粧(けわい)をしてもらいたがるらしい。

田口耕三(こうぞう 30歳)同心と銕三郎(てつさぶろう 26歳)が大暖簾が切れたところから店内にはいると、ちょうど、お(じつはお 30歳)が、町むすめの顔をつくっているところであった。
男の気をそそるような甘く濃厚な香気が店いっぱいに満ちている。

は、何度かの訊き取りで顔なじみになっている田口同心にちょっと頭をさげたが、銕三郎のほうは無視した。
そのそぶりが、銕三郎には、わざと知らぬふりをよそおったとしかおもえなかった。

田口同心を認めた番頭がかけよってき、脇の通路から奥座敷へ案内する。
店の奥の部屋のすみずみにまで、香気が染(し)みていた。
(雑司ヶ谷の(ぞうしがや)の鬼子母神堂脇の料理茶屋〔橘屋)の離れの客間にも、このような香気がただよっていたのをおもいだした銕三郎は、つい、苦笑した。
(人間、匂いや色とか音を忘れないものだな。ことに、肌をあわせたおんながからんでいたとなると、よけい---)

参照】2008年8月15日~[〔橘屋〕のお仲] () () () () () () () (

「番頭さん。ご当主の文次郎(ぶんじろう 38歳)さんを呼んでもらおうか。きょうは、盗賊考察の巧者・長谷川うじもいっしょと伝えるように---」
(ははあ、この男が主人の供をして京へのぼった一番番頭・常平(つねへい 45がらみ)だな)
番頭は、中庭をへだてた奥の別棟へ、渡り廊下をわたっていく。

待つ間もなく、太りぎみの中年男がすり足でやってきた。
田口同心に、
「ご苦労さまにございます。お茶でよろしゅうございますか? それとも---」
「ううーん。お茶を所望いたそう。〔福田屋〕のお茶は、とりわけ美味だからな」
とってつけたような返事をすると、番頭が、また奥へ消えた。

お互いの紹介がすんだところで、銕三郎が、
「化粧指南という考案は、おを見る前からのものですか、それとも、おに会っておもいついた?」
「かねがね、考えておりましが、ふさわしい人に出会いませんで。それらしい女性もあったことはあったのでごさいますが、うちの者の気にいらなくて---」
「しかし、おは、ご新造に会わないで決めたように聞いておるが---」
「はい。掛川城下で話を切りだしましたおり、男にはまったく気がなくて、おんな男の相方がいると言われたので、これなら、うちの者の悋気(りんき)の心配もないということで---」
「本人の口から、男ぎらいと申したのですな」

「はい。はっきりと---で、なんでございますか、おが、盗賊を招きよせたとでも---」
「いや、そうでないことは、事件のあとも、そのまま店にのこっていることで、はっきりしておる。お客さま化粧指南という仕事がおもしろいとおもったので、つい---」
「いや、もう、絵に描いてようにぴったりの仕事ぶりで、うちの者ともども、よろこんでおります」

銕三郎は、おにこだわりすぎたことにちょっと気がひけ、話題を切り替えた。
「賊たちは、どのようにして侵入してきたのかな?」
番頭の常平が答えた。
おんな客相手の白粉問屋に長くつとめてきた者らしく、声がなめらかである。
しかも控えめで、男を感じさせないように、馴らした口調も自然のようだ。

店側の建屋の2階のそれぞれの間で寝ていた者たちが、異様な気配に目を覚ましたときには、賊は枕元にいて、抜き身でそれぞれをおどし、しばりあげてたという。
もちろん、一番番頭の常平は通いで、五丁目の南鞘町の路地裏の一軒家に所帯をかまえているから、当夜のことは、店で寝起きしている若手の番頭や手代、小僧たちから聞いてまとめたものである。

「化粧指南のおは、どこで寝起きしておるのかな」
「奥の建屋の2階でございます。あの人は、そこでしばられていました」
「なるほど。で、賊はどこから侵入したのかな」

引き上げるときに、小僧の一人が表の大戸のくぐり口の戸締りをあけさせられたから、表からはいってきたのではないという。
猫道ぞいの横手の戸も破られてはいない。
とすると、勝手口の戸締まりをあけた者がいるか、庭の塀をのりこえたか。

「賊たちが押し入った翌(あく)る朝、姿を消した者がいたそうだが---」
「飯炊きのお(すぎ)婆(ばあ)さんですが、あの人も縛らました」

翌朝、40がらみの男が会いにき、それきり、持ち物一つもたないで、ふっといなくなったのだという。

「請け人はだれです?」
「おさんです」
「お?」
前の飯炊きが3ヶ月前に、嫁に出したむすめが子を産んだからその世話をするといって暇をとった翌日、おが、4丁目の上槙町の於万(おまん)稲荷の鳥居のところで倒れていたと、連れてきたのを雇うことにしたという。

「それでは、ろくな持ちものもなかったであろう」
「それでも、冬物の着物やこまごましたものを持っておりました」
「それをすべて置いて消えたと?」
「はい」


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2009.06.05

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(3)

被害店の白粉問屋〔白粉問屋〔福田屋〕文次郎方の訊き書きに、店がこの1年のうちにの新しく雇った店の者3人の、名前が記されていた。
その中の1人---

お客さまの化粧(けわい)指南がかり
 お 30歳 生国・甲州八代郡(やつしろこおり)中畑村

(たしか、お(かつ)は、掛川城下の高級料亭〔花鳥(かちょう)〕の座敷女中をしていたとき、おと名乗っていたが---)

参照】2009年1月23日~[掛川城下で] () (

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 32歳)の誘いで、〔狐火きつねび)〕が向島に構えていた寮に泊まったときのおの寝姿をふっとおもいだして苦笑した。
(あれで、お客さまの化粧指南がかりとは、な)

参照】2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (

銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、訊き書きの先へ目をはしらせた。

今春、〔福田屋〕の主人・文次郎(ぶんじろう 38歳)と一番番頭・常平(つねへい  45がらみ)が、仕入れ先の京の御幸町三条下ル東側の白粉問屋〔雁金屋〕権吉方と、四条通麩屋町東入ルの口紅問屋〔紅屋〕平兵衛方へ年賀をかねて注文をしての帰り、掛川城下に一泊し、〔花鳥〕で食事をしたとき、給仕に出たおを見たとたん、文次郎がお客さま化粧指南というあたらしい職種をおもいついたらしい。
いまのことばでいうと、メイクアップ・デモンストレイター---美容部員である。

_360
(京の白粉問屋〔雁金屋〕 『商人買物独案内』)
_360_2
(同じく口紅問屋〔紅屋〕平兵衛 同上)

話をかけてから、1ヶ月後に、お(じつは、お)が江戸へくだってき、〔福田屋〕に住みこみ、指南がかりをはじめた。
根が美形のうえ、客あしらに卆がなので、たちまち、看板むすめならぬ、看板年増---いや、化粧指南師となった。

しかし、賊が押し入った夜も、みんなといっしょに縛られていた。
不審なところはないと書かれている。

銕三郎は、あえて、この件の掛かりの同心・田口耕三(こうぞう 30歳)に質問したりはしないかった。
「だいたいのところは、分かりました。もし、お差し支えがなければ、いちど、〔福田屋〕をあたってみたいとおもいますが--」
「手前が案内します」
田口同心が申しでた。
「こちらの役宅から、さほどもないので、これから、ご一緒いただけましょうか?」

2人は、日本橋3丁目御箔屋町の〔福田屋〕へ向かった。
道中、田口同心が、
「飯炊き婆ぁが、押しこみの翌日から姿を消しました。あれが一味とおもわれます」
「そうかもしれませぬな」
銕三郎は、生返事をしながら、それとなく、この事件を最初に手がけた前任の石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)組の担当与力と同心の名を聞きだした。

石野組の組屋敷は鍋弦町にあった。

参照】2008年10月12日~[お勝という女] () () () (

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2009.06.04

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(2)

神田橋ご門外の中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)の役宅へ行ってみると、家禄300俵にしては、かなり広い屋敷地であった。
もちろん、神田橋門外という江戸城に至近という地の利のいい拝領地にしては---ということだが。
銕三郎(てつさぶろう 26歳)の目分量で、
(ざっと、600坪というところか)
600坪といえば、600石から800石の幕臣が拝領する広さである。

長屋門もどっしりとしている。
(600石級の旗本の家だったのではなかろうか)
銕三郎は、大奥の力を目のあたりにした気分であった。
絶家した600石級の家屋敷をそのまま引きついだのであろう。

いまさらいうまでもなく、火盗改メの役宅は、『鬼平犯科帳』に書かれている清水門外ではなく、組頭の屋敷がそのまま使われるのが史実。

銕三郎は、与力部屋へ通された。
待つまもなく、筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 50歳)があらわれた。
2年ぶりの対面であったが、鬢の白いものが目立つほどふえてる。

「この前のときのお勤めは冬場の助役(すけやく)でしたが、今回は本役(ほんやく)なので、いささか気がはっております」
「お役目、ご苦労さまでございます。その節は、 〔墓火(はかび)〕の秀五郎(初代)の妾・お(すえ 45前後=当時)にご寛大なお取りはからいをいただき、面目をほどこしました」
銕三郎は恐縮した口ぶりである。

参照】2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] (1) () () () () (

「いろいろとご出精のおもむき、あちこちから耳にはいってきておりますぞ」
「お恥ずかしいかぎりです」
「ついては、また、ご助力をいただきたいとおもいましてな、お頭(かしら)に言上したところ、ぜひ、お目にかかりたいとのことで、お越しを乞うた次第です
村越筆頭の言葉が終わらないうちに、若い同心に先導された中野監物清方がはいってきた。
長谷川どののご子息だそうで。役柄で、ご指導を仰いでおります。監物でござる」
背丈はあり、鼻すじのとおった面高の顔だちであるが、痩せており、顔色が冴えない。
臓腑のどこかを病んでいる風情である。

ちゅうすけ注】いささが先走るが、中野監物は、翌年3月に病死。その5ヶ月前(明和8年10月)から火盗改メの助役(すけやく)についていた平蔵宣雄が、監物の死とともに本役へ横滑りし、目黒行人坂の放火犯を逮捕、その褒賞として京都町奉行へ栄転したことは、このあと、機をみて記す。

銕三郎宣以(のぶため)でございます。父・平蔵宣雄(のぶお)から、くれぐれも失礼のないようにと言いつかって参じました」
「いや、堅苦しいことは抜きにして、村越与力を助(す)けてもらいたい」
「できますかぎり---」

監物組頭は、若い同心に合図した。
「失礼だが、当座の足代に---」
前に置かれた紙づつみを、頭をさげて受けた。

「頼みごとは、村越与力からお聞きくだされ」
監物組頭は、そう言って座を立った。

足音が消えてから、
村越筆頭どの。立ち入って申しわけありませんが、殿はどこかお悪いのですか?」
「腎の臓がいささかよくないとおっしゃられております」
「いけませぬな」

村越筆頭与力は銕三郎がすでに顔なじみである、田口耕三(こうぞう 30歳)同心を呼び、いま探索している件を説明させた。

事件は、前任の石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)組から引きついだもので、5月末、梅雨があけた早々に起きた盗難であった。
日本橋3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕文次郎(文次郎 38歳)方に賊が押し入り、260l両(約4160万円)を奪いさられた。

仔細を聞くうちに、銕三郎の眉間が寄った。


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2009.06.03

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)

その年---明和8年(1771)7月29日、火盗改メの本役が交替した。

先手・鉄砲(つつ)の10番手の組頭であった石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)が、1年ちょっとで無事に任免となり、弓の4番手を統率していた中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)が、同日づけで引き継いだ。

銕三郎(てつさぶろう 26歳)の父で、6年ごしに先手・弓の8番手の組頭をつとめている平蔵宣雄(のぶお 53歳)と、鉄砲の10番手とのかかわりでいうと、組屋敷が隣りあっていたことぐらいであろうか。
弓の8番手組は市ヶ谷本村町だが、石野の10番手組は、市ヶ谷本村のあとに鍋弦町がついた。

たしか、石野家の曾孫にあたる鹿之助唯善(ただよし)が、『寛政重修l諸家譜』のために幕府に呈上した「先祖書」に、唯義が火盗改メをやったことを落としていたと、当ブログに書き留めておいたような気がするのだが、ぬかっていたかもしれない。

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B_360
(石野藤七郎の[個人譜})

書いているとすると、浅草田原町の質商〔鳩屋〕の盗難事件を記した、

【参】2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () () (

だとおもうのだが---。
浅草あたりは本役の石野組の持ち場だから、とうぜん、出張っているはすなので。

さて、『徳川実紀』は、明和7年(1770)6月27日の項に、

先手頭松田彦兵衛貞居盗賊考察をゆるされ、石野藤七郎唯義是にかはる。

また、翌8年(1771)7月29日のところに、

先手頭石野藤七郎唯義是捕盗の事をゆるされ、中野監物清方これにかはり命ぜらる。

とにかく、石野組のために、銕三郎が知恵と力を貸したことはなかった。

ところが、中野組が盗賊考察を命じられた10日もしないうちに、筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 50歳)から招きの使いがやってきた。

そうそう、書き忘れていたが、中野組の直前の組頭は、菅沼摂津守虎常(とらつね 57歳 700石)であったと書けば、ああ、御徒町とおりに屋敷があった---と思いだしていただけようか。

参照】2009年3月19日~[菅沼攝津守虎常] () () () (
2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] (1) () () () () (

村越どののお招きとあれば、行かざるをえないな)

下城してきた父・宣雄に、中野組の与力・村越筆頭から招かれたことを告げると、
〔昨秋、ご宿老(田沼意次 おきつぐ 53歳)の下屋敷で、あのお方がお尋ねになったことを覚えておるか?」
「はい。よく覚えております」

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

有徳院殿(将軍・吉宗)さまにつきそって城内へおはいりなった紀州勢の方々が、いまにいたっても優遇されすぎていると、古くからの幕臣たちに妬(ねた)まれてはいないか、とのお尋ねでした」
「こんど、火盗改メを拝命された、中野監物うじもそのお一人なのだ」
「と、申しますと---」

50年ほど前の享保元年(1712)に、はからずも江戸城入りをした吉宗の警護として、赤坂藩邸から二の丸へ入った紀州藩士の名簿が『南紀徳川史 第一冊』に載っていることは、いつかも報じた。
その130人ほどの紀州藩士の中に、奥小姓・中野喜三郎(200石)の名がある。

寛政譜』にある中野清房(きよふさ)の名は喜太郎である。
喜三郎喜太郎が同一人物である確率は、かなり高いとおもえる。
紀州藩士時代に200石の家禄の者が、幕臣となって300俵というのは、いかにも少ない。
代わりに、清房には出羽守の称呼がゆるされたとあるが、『寛政譜』はそれを記さず、次男・定之助清備(きよとも 300俵)が称している。

寛政譜』の清房の項は、

喜太郎 竹右衛門
紀伊家にをいて有徳院殿につかへたてまつり、小姓をつとめ、享保元年本城へ入らせたまふのとき従ひたてまつり、御家人に列し、六月二十五日廩米三百俵をたまひ、御小姓となる。(以下略)

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(清房・清方の[個人譜])

清房どのは、お小姓というお傍近い職にありながら、300俵のまま、据え置かれてなさった」
宣雄がつづける。
「嫡男・清方どのの代になっても家禄はそのままであった。6年前にやっと小十人頭に登られて、役料1000石がついた。そして、今春、役料1500石の先手の頭にあがられた。お齢は49歳と聞いておる。ご本人も、どうしてこんなに遅かったのだと、ご自身を恨んでおられよう」
「どうして遅かったのですか?」
「人事のことは、傍目とは違う。ただ、弟の清備うじがお小姓に登用され、300俵を給されているから、あわせると600俵にはなる。中野うじの役宅へお伺いするときには、このあたりのことをこころしておくように」

「そうそう、も一つ。清方清備うじのお妹が大奥へ召され、老女職から竹千代君(家基 いえもと 10歳=当年)のお乳人(めのと)に登られている」
「ほう---美男美女系ですか」


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2009.06.02

銕三郎、先祖がえり (4)

司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫 1987.4.15 新装版2004.6.15)には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が、伊勢の津へあらわれる場面が描かれている。

伊勢の国は、その西方はながい海岸線となって伊勢湾にのぞんでいる。
「津(つ)」
といえば、古くから唐船までがここに入港するという名津(めいしん)で、市中に豪商富民多く、国司北畠氏の侍屋敷と混在し、さらには大きな人工による需要をまかなうための鍛冶(かじ)や弓矢の工人の家も多い。
この港まち津は、ふるくは安津野とか安濃の津などとよばれたが、いつのほどか単に津とよばれるようになった。戸数は二千戸ほどもあるであろう。
---これはたいそうな賑(にぎ)わいじゃ。
と、物の反応のにぶい荒木兵庫でさえおどろいてしまった。(略)

それらの物資をあつかう交易業者がこの津にあつまり、利を積んで巨富をなすのは当然であるといっていい。
「駿河の小川(こがわ)の長者(法栄 ほうえい)もこの津に蔵をもっていて、手代(てだい)を置いているのだ
と、早雲はいった。
「今夜は、そこへとまる」(中巻 p18 新装版p20)

書いている小説に関連する膨大な量の史料を買いこみ、それらに片っぱしから目をとおして必要なものだけを残す司馬さんのこと、長谷川家の祖の一人・法栄長者に鳥羽出張支店があったことは、なにがしかの史料でみつけられたに相違ない。

史料にあるほどなら、長谷川本家か大身になっている納戸町の支家に伝わっていよう。
そのことを銕三郎(てつさぶろう 23歳)も耳にいれていたとおもう。

(法栄長者どのは、いま、京の呉服屋で、日本橋本町あたりに江戸店を出してい〔越後屋〕とか、大伝馬町の呉服太物の〔大丸屋〕ほどの勢いのある交易をされていたのだろうなあ。同じ長谷川家に生まれるのであれば、そのころ、法栄どの甥っ子に生まれていれば、明国へも往還したであろう)
銕三郎は、前で蒲焼をついばんでいる茶問屋〔万屋〕源右衛門をうかがいながら、ひとり空想していた。

参照】2007年4月13日[寛政重修l諸家譜] (

箸を置いた源右衛門が、ふと思いついたように、
井関さんの腕はあがりましたか?」
録之助(ろくのすけ 22歳)は、まもなく、免許をゆるされます」
「ほう。それは、めでたい」
「お店(たな)のほうに、用心棒でもご入用なんですか?」
「いいえ---」

〔万屋〕源右衛門の返事は、意外にもみみっちい計算づくのものであった。
町内の大店(おおだな)に組みする店は用心棒の浪人をやとっているが、聞いてみると、手当てはたいてい月1両1分(約20万円)、それに食費や晩酌2合が月2分2朱(約10万円)---これだけで年に24両(320万円)の費(つい)えになる。
それだったら、盗賊へのご苦労賃(200両)を渡してお引きとりいただいたほうが安あがりである---という勘定になると。

その上、赤の他人に家の中をみられてしまう。
娘姉妹がいる大店なら、その中の一人が傷ものにされるかもしれない。
だいたい、他人が一つ屋根の下にいるというのが嫌なんです。

「分かりました。〔万屋〕さんに押しこむ盗人が、200両で素直に引きあげてくれることを、日枝(ひえ 神社)さんにでも祈っておきましょう」
日本橋から南は、日枝神社の氏子で、北は神田明神。

銕三郎は、
(商売人というのも、法栄どののようにおおらかなこころがけの者ばかりとはかぎらないようだな。 ま、人の器(うつわ)は侍だって、大・中・小と、それぞれだから---)
それでも、今日の場合、いささか幻滅を感じた。


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2009.06.01

銕三郎、先祖がえり (3)

長谷川の若さま。こんどは、手前のほうから、お教えをいただきとうございます」
茶問屋〔万屋〕の主(あるじ)・源右衛門(げんえもん 50歳)がきりだした。

蒲焼をつついていた銕三郎(てつさぶろう 26歳)は箸をおき、笑顔の源右衛門を眸(み)た。
顔は笑みをたたえているが、目は真剣というか、もっとおもいつめている。
「なんでしょう?」

「茶葉の売り上げを増す妙法は、ございましょうか?」
「売り上げを増さねばならない、さしあたっての事情でもあるのですか?」
「さしあたってのことではございません。仕入れている茶園のほうから、畑をどのような割合でひろげていいか、と訊かれておりまして、な」

考えるふりをしながら、
(『孫子』にいわく。敵の情を知らざる者は、不仁(ふじん 職務に不忠実)の至りなり、とあるのは、このことだな)
口をひらいた。
「〔万屋〕どの。ご商売(なりわい)の、いちばんの障(さわ)りなっているものは、なんですかな?」

「もっとも大きいのは、ずっとむかしにだされた、農家は茶をひかえるようにとのお触れが、いまだに取り消されておりません。
100年以上もたったいまとなってみれば、あってなきがごときお触れですが、後生大事に守っている在所がございます。あれを、ご公儀がお取り消しくだされば---」
「といって、江戸の朱線引きの内側では、農家はほとんど残っていまいに---」
「長谷川さま。そうではないのです。〔万屋〕は、関東一円はおろか、陸奥のほうにまで卸しております」
「それは失礼した。わかった。こんど、田沼さまにお会いしたら、お触れ用ずみのことを話してもいい」
長谷川さまは、ご執政格の田沼さまとお親しいのでございますか?」
「ときどき、下屋敷のほうへ、お招きいただいています」
「それは重畳。田沼さまのご領内の相良あたり(現・静岡県牧之原市)も、茶葉の産地の一つでございます」

これは、1ヶ月ほど先の話だが---・
茶問屋の組合から、田沼主殿頭意次(おきつぐ 53歳)の用人・三浦庄司(しょうじ)のもとへ、さっそくに音物(いんもつ)がとどけられた。

三浦用人から呼び出しがあり、神田橋内の役宅へ銕三郎が出向くと、
長谷川どのの口利きといい、茶問屋の十組(とくみ)の者が陳情にきたが、まこと、銕三郎どのにかかわりのあることかな?」
「まちがいありませぬ。すでに使命を果たしおえているお定書(さだめがき)だかお触書(ふれがき)だかは、早くお取り消しになりませぬと、しもじもが混乱いたしましょう」
「きついことをおっしゃる。じつはな、お耳になされた殿も、笑っておられた。いまの宿老のご領内で茶葉を勧業しているのはうちの殿だけなので、なんとも面映いと仰せられたが、お取り計らいになりました。殿が申されておりましたぞ。さすが、平蔵組頭(宣雄 のぶお 53歳)どののご継嗣だけあり、町方のことがよう分かってござると。はっ、ははは」

【参照】2007年12月19日[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (

茶問屋十組からは、銕三郎にお礼の志として、〔万屋〕源右衛門と年番(世話役)が、10両(約160万円)を持参したが、銕三郎は受けとらなかった。

安房行きの旅銀が半分以上のこったし、川越藩からも薄謝がきていた。
こちらは、ありがたく受けた。
幕府に知られてもどうということもない金だったからである。


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