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2009.06.22

〔銀波楼』の今助(3)

「こないなときに、お(りょう)はんがいてくれはったら、よろしおすのに---」
小浪(こなみ 32歳)が、じれったげに、つぶやいた。
(りょう 32歳)は、盗賊〔狐火きつねび)〕の勇五郎(初代・ゆうごろう 50歳前後)の軍者(ぐんしゃ 軍師)である。
小浪は、こういうときにこそ、おの軍略が今助(いますけ 24歳)を助(す)けてくれるとおもっているのである。

「おどのほど、武田信玄(しんげん)公の戦さ采配には通じていないが、拙だとて『孫子』は学んでおりますぞ」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、場の気分をやわらげるために、おどけて言った。
「かんにんどすえ。べつに、長谷川の若はんが頼りないとはいうてえしまへん。おはんの知恵を借りられたら、もっと味様(あんじょう)いくのやないかと---」

小浪。言葉をつつしめ」
今助が一喝した。
「かんにん」
小浪は、ちろりの燗ぐあいをたしかめるふりで、腰をあげた。

小浪のいい分にも、もっともなところがある)
おもったが、今助の体面をおもんぱかって、口にしなかった。
小浪は、故人となった〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 享年62歳)の囲い者であったのに、今助とも情を通じていた。
林造が逝った以上、もう、2人の仲は、誰にはばかることもない。

今助どの。小浪どのを〔銀波楼〕へお引きとりになってはどうかな?」
「考えてみやすが、小浪が承知しやすかどうか---」
「いや。ここにいては、小浪どのが危ない。上野広小路の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳) が、今助どのの泣きどころをしらべれば、小浪どのに行きつくのは、いともたやすい」
「それほど、卑怯な奴でござるか、〔衣板〕の宇兵衛というのは?」
浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)がうめいた。
小浪どのを平気で犯すやもしれませぬ」
小浪が身ぶるいした。
「いやどす。うち、いやどす」

「『孫子』は言っております。[その愛する所を奪わば、すなわち聴(き)かん]と。小浪どのを奪われては、今助どの立ちむかう力は半減します。いや、今助どのの配下の衆たちが、小浪どのの身を案じて、動けなくなりましょう」
「『孫子』とは、そういうところまで目くばりしている兵法でござったか。これは勉学になりもうした」

ちゅうすけ注】『孫子』の原文をあたってみた。兵法に「愛」などという言葉がほんとうに記されているのか、疑問におもったからである。
「曰、奪其所愛---」
はっきり、「愛」という字が書かれてあったのに、納得するやら、違和感をおぼえるやら---。

浅田用心棒に感心され、照れた。
孫子}は、敵大軍、味方は兵員が少ないときは、敵が大切にしている食糧庫とか砦に急襲してこれを獲れば、敵は軍列をみだして獲りかえしにくるから、そこを撃て---とすすめている。

しかし、銕三郎の口説は、とんでもない効きめあらわした。
小浪がよろこんだのである。
「わあ、孫子はんて、そないなええこというとうやすか。愛するところを奪え---どしたなあ。愛する者を奪え---宇兵衛もそないにみてくれてますねんな?」

今助がはしゃぐ小浪をたしなめる。
「馬鹿もいい加減にしとけ」
「かわいい、おもうてる、愛してる---いうてたんは、うそどすか?」
「痴話喧嘩は、小浪どのが〔銀波楼〕へ移ってから、ゆっくりやってくること。いまは、縄張り(しま)を護ることに知恵をあつめる刻(とき)です」

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