目黒・行人坂の大火と長谷川組(6)
長五郎真秀(しんしゅう 18歳)は、ずるがしこく、しぶとかった。
昨日の自供と、今日の告白が食いくちがっている点を指摘されると、
「銕三郎さまに話す」
と、しらをきる。
そのたびに、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が対面した。
「どうしたのだ? 正直に白状する約束ではなかったのか?」
「お役人は、おれがのっぴきならねえ悪(わる)のように、誘いこむだ」
「お前は、のっびきならない悪だ」
「んだども、江戸を焼きつくすほどの悪ではねうだど」
「だから、お前が、極楽へ行けるようにここの住持どのも、火付改メのお頭も導いておられる」
「銕三郎さまは、どうだべ」
「拙は半々だな」
「半々?}
{いまのままでは、右足は極楽、左足は地獄」
「なしてだ?」
「お前が、正直でないからだ」
で、正直に自白すると約束をかわすのだが、すぐにまた、ごねた。
一日でも火刑を先にのばすための方便をつくしているとしかおもえない。
銕三郎は、18歳かそこらにも手におえない悪党がいることを悟った。
真秀は、934町が家を失い、14,700人が焼死したことに対して、まったく反省とか同情の念をみせなかったのである。
どこかが狂っているとしかおもえなかった。
父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)は、彼が放火から、捕まるまでの行状を、ことこまかに記録し、火刑が妥当との量刑を上申した。
それを待ちかねていたように、老中首座・松平右近将監武元(たけちか 63歳 上野・館林藩主 6万石)は、町中引き廻しの上、小塚原の刑場で火あぶりの刑をいいつけた。
処刑は、6月21日であったという。
宣雄が放火犯を追っていた最中の3月4日に、火盗改メ・本役の中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の死がみとめられた。
私見だが、じつは、中野清方は、大火の直前に卒していたのではなかろうか。
火事騒ぎのごたごたで、先手・弓の4番手の退職願いの届けと認可が4日まで遅れたとみる。
大火の7日前の2月22日に卒したとしている資料もある。
『徳川実紀』の安永元年(---じつは改元前の、まだ明和9年)3月6日の項に、
先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。中山主馬信将をもこれにくわえらる。
つまり、宣雄は助役(すけやく)から本役(ほんやく)へよこすべりし、中山信将(のぶまさ 42歳 2100石)が宣雄のあとの助役にうめたということである。、
中山信将の家祖は、水戸家の家老・中山備前守信吉(のぶよし)の二男・吉勝で、信将は四代目、前年、先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に任じられていた。
屋敷は、小川町裏猿楽町。
組屋敷は、市ヶ谷五段坂。
与力5名、同心30人。
泥棒がはびこる火災後の重責である。
(中山主馬信将個人譜)
| 固定リンク
「003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事
- 備中守宣雄、着任(6)(2009.09.07)
- 目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)(2009.07.03)
- 田中城の攻防(3)(2007.06.03)
- 平蔵宣雄の後ろ楯(13)(2008.06.28)
- 養女のすすめ(10)(2007.10.23)
コメント