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2009.07.05

目黒・行人坂の大火と長谷川組(4)

「火つけ犯人らしい所化(しょけ 修行僧)を捕えたことは、一言も洩らしてはならぬ」
火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)が、組下の者はもとより、大手柄の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締、火元の大円寺の住持をはじめ、一同に厳命した。

「洩らした者は、ご公儀に対する反逆の噂を広めた科(かど)で、遠島ではすまさない」
こう言ったときの宣雄の目はつりあがっていた。

もちろん、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、父・宣雄の危惧は痛いほど通じていた。
家を焼かれた者たちが、放火犯が捕縛されていると知れば、徒党を組んで私刑をくわえに押しよせる。
火盗改メの長谷川組の与力5人、同心30名では、とても防ぎきれない。

それでも大事をとった宣雄は、〔愛宕下〕の伸蔵に言いつけ、浜松町の町会所の町(ちょう)役人や書役(しょやく)を監視させるとともに、あの僧は調べた結果、かかわりないとわかったので放免したという噂を、ひそひそとながさせた。
その一方で、銕三郎の下僕の松造(まつぞう 21歳)の頭を丸め、長五郎が着ていた高位の僧衣を着せ、網代笠(あじろがさ)をかぶらせて、別の町を4,5日徘徊させるという念のいれようであった。

ことの経緯は、この明和9年(1772)の1月から3万石に加増されて正式老中に昇格していた田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳)には、こっそりと報告してあった。
意次は、配慮を忘れなかった。
「月番若年寄・加納遠江守久堅(ひさかた 62歳 伊勢・八田藩主 1万石)侯からあがるようになされよ」

幕閣たちは、それどころではなかった。
1000家を越す幕臣の家が焼失したのである。
町方の商家や職人の困窮もなみではなかったが、幕臣のそれは、幕府の威厳にかかわることだから、金蔵を空にしてでも再建資金を貸しあたえないわけにはいかなかった。

風俗画報 臨時増刊 江戸の華 中編』(明治32年1月25日)にによると、このときの幕臣の拝借金は次のように定められた。

1000石以上  50両(800万円)
900~800石 45両(720万円)
700石     40両(640万円)
600~500石 30両(480万円)
400~300石 20両(320万円)
250石     17両(272万円)
200~100石 15両(240万円)
100~80俵   7両(112万円)
 70~50俵   5両( 80万円)
 40~30俵   3両( 48万円)
 20~15俵   2両( 32万円)
   14俵以下 1両( 16万円)
返済は10年年賦

木材や大工手間賃は高騰していたろうから、これしきの拝借金でどの程度の家が建てられたかは記されていない。
火災にあわなかった親類縁者から借財したとしても、災害前の生活水準ができるようになるまで何年かかったろう。

幸いに、長谷川家は本家・支家とも火災にあわなったからいいとして、銕三郎の嫁女・久栄(ひさえ 20歳)の実家は、たしか、このあと30年ほど和泉橋通りの屋敷にとどまったが、けっきょく、大塚へ移転している。
移転の詳細は、いまのところ、未詳。いずれ、暇ができたら、『東京史稿』でもあらためてみるつもりである。


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事

コメント

いやあ、今日のテキストはすごいッ!
家を焼かれた幕臣の拝借金の家禄別ランクづけ資料なんて、初めて目にしました。
階層性がこんなところにも現れていますね。
千石以上は、体面もあろうから、と別途考えられたのでしょうかね。
こういうデータにお目にかかれるこのブログ、お世辞ぬきで、最敬礼ものです。
これからもよろしく。
お礼に、近くの鬼平ファンに吹きまくります、、、いや、そんなこと、するまでもなく、みなさん、とっくにご存じでしたね。

投稿: 文くばり丈太 | 2009.07.05 05:50

>文くばりの丈太 さん
しばらく---でした。
家禄別の拝借金のデータ、お認めいただきありがとうございます。
何しろ、明暦(130ほど前)振袖以来の大火ですから、武家にかぎらず、延焼した商家だって、再建資金の手当ての仕方とか返済方法など、体験していた者は少なく、代がわりしていった店も多かったことでしょう。
そういうことを想像するだけでも、いくつものし市井もののタネがでてきます。
もっとも、長谷川平蔵家は焼けませんでしたし、組屋敷も無事でしたから、治安の維持に大働きをしたとおもいます。
周辺の村々から、救援の米や野菜が送られている情景の目にうかびます。

投稿: ちゅうすけ | 2009.07.05 07:05

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