銕三郎、先祖がえり (4)
司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫 1987.4.15 新装版2004.6.15)には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が、伊勢の津へあらわれる場面が描かれている。
伊勢の国は、その西方はながい海岸線となって伊勢湾にのぞんでいる。
「津(つ)」
といえば、古くから唐船までがここに入港するという名津(めいしん)で、市中に豪商富民多く、国司北畠氏の侍屋敷と混在し、さらには大きな人工による需要をまかなうための鍛冶(かじ)や弓矢の工人の家も多い。
この港まち津は、ふるくは安津野とか安濃の津などとよばれたが、いつのほどか単に津とよばれるようになった。戸数は二千戸ほどもあるであろう。
---これはたいそうな賑(にぎ)わいじゃ。
と、物の反応のにぶい荒木兵庫でさえおどろいてしまった。(略)
それらの物資をあつかう交易業者がこの津にあつまり、利を積んで巨富をなすのは当然であるといっていい。
「駿河の小川(こがわ)の長者(法栄 ほうえい)もこの津に蔵をもっていて、手代(てだい)を置いているのだ
と、早雲はいった。
「今夜は、そこへとまる」(中巻 p18 新装版p20)
書いている小説に関連する膨大な量の史料を買いこみ、それらに片っぱしから目をとおして必要なものだけを残す司馬さんのこと、長谷川家の祖の一人・法栄長者に鳥羽出張支店があったことは、なにがしかの史料でみつけられたに相違ない。
史料にあるほどなら、長谷川本家か大身になっている納戸町の支家に伝わっていよう。
そのことを銕三郎(てつさぶろう 23歳)も耳にいれていたとおもう。
(法栄長者どのは、いま、京の呉服屋で、日本橋本町あたりに江戸店を出してい〔越後屋〕とか、大伝馬町の呉服太物の〔大丸屋〕ほどの勢いのある交易をされていたのだろうなあ。同じ長谷川家に生まれるのであれば、そのころ、法栄どの甥っ子に生まれていれば、明国へも往還したであろう)
銕三郎は、前で蒲焼をついばんでいる茶問屋〔万屋〕源右衛門をうかがいながら、ひとり空想していた。
【参照】2007年4月13日[寛政重修l諸家譜] (9)
箸を置いた源右衛門が、ふと思いついたように、
「井関さんの腕はあがりましたか?」
「録之助(ろくのすけ 22歳)は、まもなく、免許をゆるされます」
「ほう。それは、めでたい」
「お店(たな)のほうに、用心棒でもご入用なんですか?」
「いいえ---」
〔万屋〕源右衛門の返事は、意外にもみみっちい計算づくのものであった。
町内の大店(おおだな)に組みする店は用心棒の浪人をやとっているが、聞いてみると、手当てはたいてい月1両1分(約20万円)、それに食費や晩酌2合が月2分2朱(約10万円)---これだけで年に24両(320万円)の費(つい)えになる。
それだったら、盗賊へのご苦労賃(200両)を渡してお引きとりいただいたほうが安あがりである---という勘定になると。
その上、赤の他人に家の中をみられてしまう。
娘姉妹がいる大店なら、その中の一人が傷ものにされるかもしれない。
だいたい、他人が一つ屋根の下にいるというのが嫌なんです。
「分かりました。〔万屋〕さんに押しこむ盗人が、200両で素直に引きあげてくれることを、日枝(ひえ 神社)さんにでも祈っておきましょう」
日本橋から南は、日枝神社の氏子で、北は神田明神。
銕三郎は、
(商売人というのも、法栄どののようにおおらかなこころがけの者ばかりとはかぎらないようだな。 ま、人の器(うつわ)は侍だって、大・中・小と、それぞれだから---)
それでも、今日の場合、いささか幻滅を感じた。
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