長谷川豊栄長者の屋敷跡(2)
安池欣一さんからのリポートのつづき。
昭和29年(1954)に刊行された[小川町誌]のなかに、「豊永長者屋敷(小川城跡)」とキャプションのある写真をみつけました。
(豊永長者屋敷(小川城跡」 [小川町誌])
田んぼの中にここだけ残されて、いかにも、「田中の古土手の跡」という風情です。
[小川町誌]にはありがたいことに城域の見取り図も掲載されていたので拝借する。
ぼくが三ヶ名(さんがみょう)不動院を訪れたときには、院の前は畑で、その向こうには新しい住宅群が建っていたから、新開地として発展しつつあったのであろう。
(三ヶ名不動院の門前から豊栄長者屋敷跡を望む)
安池さんのリポート――――、
これが発振された小川城の土居跡とすると、そこは、西小川(町名)であり、三ヶ名不動院とはどういう位置関係になるのか。
先生のプログによると、三ヶ名にあるということで、三ヶ名地図で探索しました。
土地勘がないので知りませんでしたが、三ヶ名は西小Jlの隣ですね。
でも、小川城跡と不動院とは大分離れています。
上掲の見取り図では、堀が大きく屋敷を取り囲んでいるから、不動院の近くまで、堀がきていたとかんがえられないだろうか。
安池さんのリポート――――、
不動院のお婆ちゃんと面談しました。
「法永長者のことを調べているのですが---」と前置きし、[小川町誌]の豊永長者屋欺(小川城跡)Jの写真を見せ、
「昔は、こうなっていたのですか?」
と訊くと、懐かしそうに、
「そうそう」という返事。
でも屋欺跡と大分離れているのに、見えたのかと確認すると、
「50年も前には、ここから海が見えるくらいで、何もなかったから。この写真みたく見るには田んぼの中には入って撮るしかないけど」
ということでした。
かつては、豊永長者の屋敷跡の所在を説明するには、
「不動院前、田中の古土手の跡」と書くよりなかったのかもしれません。
[小川町誌]にも豊栄長者についての記述があり、大正2年の[小川村誌]よりも調査がすすんでいるので転記しておく。
豊栄長者(長谷川次郎左工門政宣)
(叉は法永)
南北朝の頃、今川義忠の旗下に藤原鎌足の後裔にして、大和国長谷川の出身長谷川長重と称する勇将があった。
戦国のならいとて征戦に寧日なく、家を顧る閑がなかったので、良き後継者を得たいと思い、大いに人選した結果、小川城嗣として当国坂本村の豪将加納彦工門義久の男、次郎左工門尉政宣を迎えた。
政宣は、文武二道に通じ治政斉家の宜敷を得、家又大いに富み、世人は豊栄長者と呼んだ。
また仏法を信ずる事が篤かったので文明十ニ年、日頃帰依する処の遠江国高尾山宋芝の弟子・賢仲禅師と諜り会下(えげ)ノ島の海辺に精舎・林叟院を建立した。
其後国主今川義忠が遠州塩買坂に戦死、父長重もまた馬前に箆れた。
国内は二派に分れ騒乱が続き、已むことがなかったので、石脇城主(東益津村)伊勢新九郎氏 (後の北条早雲)の謀いで幼君竜王丸(今川義元の父)は母・北川氏と共に密かに豊栄の居城に隠れた。
豊栄は篤くこれを遇した。
間もなく太田道観等の調停によって駿河八幡において和義成立し、竜王丸は帰城した。
この時、豊栄大いに喜び、新九郎迎えの武士に馬鞍其他を送って祝い、自分達父子も随行した。
夫れより豊栄の長子元長は伊賀守に任官し、今川の近習に列せられた。
明応6年、異人来り、天変地異を予言葉したので、豊栄再び賢仲禅師と諜って林叟院を高砂山下坂本に移した。
翌年8月、大津浪があり溺死する者二万六千、会下島の林叟院跡は海底となった。
翌年、林叟院の伽藍完成(以下略)
小川城跡には、「小川城遺跡」の案内板と小川城祉の碑があります。
(安池さん、写す)
出土品は:[焼津市歴史民俗資料館]に展示・保管されています。
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