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2007.04.13

寛政重修諸家譜(9)

2007年4月7日の[寛政譜(3)]に、寛政譜の一覧性を高めるために、見開き2ページがA4判になっている原本をコピーして、A3の用紙に貼りこんでいる例として、長谷川一門のそれを掲げておいた。
重複するが、一部に手を加えて再掲載しよう。

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(4段赤○=平蔵宣以、5段赤○=次男・正以---長谷川正満の養子)

2007年4月6日[寛政譜(2)]で、徳川軍団に加わった長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が、元亀3年(1572)極月の三方ヶ原の合戦で戦死したとき、3人の遺児が浜松へ連れてこられていたことを記した。

長男・正成 天正4年(15776)に家康に仕える。のち1,451石
次男・宣次 天正10年(1582)家康の小姓となり、のち400石。
3男・ 正吉 天正7年(1579)に秀忠の小姓に召され、4050石余。

次男に先んじて召された3男の高禄は、その眉目秀麗さが秀忠の好みにあったとしかいいようがない。
次男・宣次とは、母親が異なっていたのかも。

正吉家は、ずっと高禄を保ち、一門でもっとも裕福だった。
御納戸町に1000坪を越える屋敷に住み、数万坪の別荘地を千駄ヶ谷に拝領してもいた。

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青○=牛込御納戸町の長谷川邸(久三郎は10代目)

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(A3判貼りこみ家譜では、正吉家は第2ページ目にまわっている)。

8代目にあたる正満(まさみつ 青○)は、安永6年(1777)に家督したが、一生無役だったから、役柄にともなう出費もなかったろう。
天明・寛政初期とおもえる時期に、思い立って家祖の地・駿河国志太(しだ)郡小川村を訪れ、三方ヶ原の合戦で戦死した正長の墓(信香寺)と、今川義忠と竜王丸に仕えた法栄長者の墓(林叟禅寺)を一新し、それぞれの寺へ供養料を供えた。

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(長谷川正満が建立した祖・正長の墓 信香寺)

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(長谷川正満が建立した祖・法栄長者夫妻の墓 林叟院)
これを←クリック、目次から[林叟院の探索](SBS学苑〔鬼平〕クラス 中林さん)へ。

鬼平こと平蔵宣以は、この4000余石の長谷川分家へ、次男・正以(まさため)を養子に入れた。それだけ、一門の中での宣以の発言権が強くなっていたといえる。

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正以は、平蔵宣以が没した3年後の寛政10年12月22日にお目見をすませた。18歳であった。
家譜には、母親は小説でいう、久栄とある。
天明元年(1781)年の生まれだから、父35歳、母29歳の子。
辰蔵とは10歳違い。

【つぶやき】長谷川一門の遠祖にあたる法栄長者は、司馬遼太郎さん『箱根の坂』で、相当に大きな役目を演じている。このことは、次の機会に紹介。
法栄長者が、鬼平=長谷川平蔵の遠祖である史実を、司馬さんは友人の池波さんへ告げたフシがない。
ということは、司馬さんも、法栄長者が鬼平の遠祖であることに気づかなかったのかもしれない。

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コメント

西尾先生に焼津の林叟院に連れて行っていただいたのは春早い小雨煙るなかでした。
確かホルトの木の下でした。
ホルトとは、後でわかったことですがポルトガルのことだそうです。

唐突ですが疑問におもっていることがあります。
鬼平長谷川家の表紋の「左三巴藤」です。
寛政重修家譜に載っているのは反対だと思うのですが?

投稿: 秋山太兵衛 | 2007.04.15 21:54

主君の馬前での討死に対する論功、本でよくでくわす言葉だが、長谷川家の具体例をみるにつけ子孫の為に一命を賭ける武士の心根を感じる。

今日の写真、懐かしいですね。
昨年鬼平倶楽部でお参りした林叟院・法栄長者夫妻のお墓、ホルトの大木と杉の大木に囲まれ、鬱蒼とした中で苔むしていた。ホルトという名前が珍しく記憶に残っている。

投稿: 聡庵 | 2007.04.15 22:03

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