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2009.06.15

宣雄、火盗改メ拝命(2)

辰蔵(たつぞう 遺跡継承=26歳ののち平蔵宣教 のぶのり)が、祖父・宣雄(のぶお)が火盗改メの職に任命されていたことを、故意に消そうとしても、公文書までは隠せない。

その一つに、幕府の最高裁判所ともいえた評定所に伺われた町奉行とか火盗改メからの記録がある。
それらは昭和16年に司法省の手で整理され、『御仕置例類集』と銘うって14冊公刊されている。

中に、火盗改メ・長谷川平蔵名義のものが207例あり、うち、4例には、明和8~9年と安永2年の年号がふられているから、明らかにこのときの伺い者・平蔵宣雄と推量できる。
(もっとも、安永2年には、宣雄は京都西町奉行の職にあり、かつ、その年の夏に病歿しているから、この記年についての解釈は、引用したときに述べたい)

最初の明和8年といえば、宣雄が公式に火盗改メを拝命したその年の10月17日からわずか50数日のあいだに伺ったものである。

これまで幾度も記しているが、平蔵宣雄が組頭をつとめていた先手組は、弓の8番手である。
この組は、宣雄のすぐの前任者2人が火盗改メを拝命していた。
すなわち、

久松忠次郎定愷(さだたか 1200石)
 宝暦8年(1758)7月18日から 42歳
  〃 9年(1759)9月3日まで  43歳

本多讃岐守昌忠(まさただ 420俵)
 宝暦12年(1762)9月10日から 51歳
 明和2年(1765)4月1日まで   54歳

組下の者たちは、火盗改メの経験を通算で4年もっていた。
6年の間隔があって高齢者が引退し、継嗣たちが新しく入れ替わったとしても、そう、たいした数ではなかったろう。

ところが、着任早々の宣雄が、麻布無宿・平七の盗みについて、その刑を評定所に伺っているのは、念には念を入れるのがこの人の性格であろうか。

火附盗賊改メ
  長谷川平蔵伺
 1 麻布無宿・平七、盗みいたし一件、
             麻布無宿
               平七
右のもの、身持ち不埒につき、親の勘当を受け、紙漉き・源四郎方をも欠落いたし、無宿になり、宵のうち、戸をあけている町屋3ヶ所へ入り、衣類・銭を盗みとり、あるいは昼、武家屋敷・門内長屋の戸があいているところへ2ヶ所まで入り、衣類・銭を盗みとり、その上、、暮れ時をすぎ、町人・庄右衛門方では、錠がおりているのに、隣の空き家の壁をこわして入り、夜具を盗みとったのは、不届きにつき、引きまわしの上、死罪。

死罪にあたるのは、錠がおりていた庄右衛門方へ、壁を破って侵入したこととおもえる。
宣雄も、あとの5度の盗みは死罪にはあたらないが、重版であるから---と、添え書きしている。

評定所の裁定は、平七が存命であったら、死罪、とくだしているところから、この件は、ひょっとしたら、火盗改メの前任者・石野藤七郎(とうしちろう 65歳 500俵)組あたりから引きついだ事件の始末をつけたとも考えられる。
つまり、平七は、量刑がきまらないまま永く入牢していたのを、能吏の宣雄がケリをつけるべく、伺ったともかんがえられる。

参照】石野藤七郎唯義は、2009年6月9日[〔からす山〕の松造] (>)
2009年6月4日[火盗改メ・中野監物清方(きよかた)] (
2008年11月16日[宣雄の同僚・先手組頭] (

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