〔真浦(むうら)〕の伝兵衛(8)
(半鐘を打たせるまでもなかったかもしれない。あの早鐘の音が、吾平を追いつめたかのかも---)
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、曲松(まがりまつ)の幹にもたれるようにして死んでいる吾平(ごへい 18歳)に手をあわせた。
曲松は、東江見村の西を北へ、久留里藩領へ通じる街道に枝をさしかけている。
早鐘が打たれてから、小半刻(こはんとき 30分)もしないで、村触れに廻っていた村役人が、そこで発見した。
農家の納屋から盗んだ鎌で首を切っていたのである。
提灯の弱い明かりでも、かなりなれたところまで血がとんでいるのがわかった。
報らせで駆けつけてきた父親・伍作(ごさく 48歳)とその老妻・お末(すえ 43歳)が、遺骸にすがりついた。
「伍作。銭を持たせて、逃がしてやるつもりであった」
「申しわけねえこってす。こいつがいけねえんです」
伍作は、それでも銕三郎に頭をさげた。
老母は、銕三郎を無視、そうすれば生き返りるとでも信じているのか、吾平の顔をなぜつづけている。
「あとは、たのむ」
村役人にまかせて、銕三郎はその場を離れた。
(今夜は、眠れそうもない)
細い三日月が、吾平が手にしていた鎌のように、冷たく光っていた。
翌朝。
五ッ半(9時)すぎに、継立の問屋場から使いの者が、吾平あての便をとどけてきた。
なんと、大多喜往還を経由、勝浦からきたものであると。
急ごしらえに手ぬぐいを引き裂いた端布(はぎれ)で包んだものをあけてみると、紙切れと南遼二朱銀が6枚(約6万円)でてきた。(右::明和南遼2朱銀)
紙切れには、かな釘流の筆跡で、
大たきにはいない
えど、すざきべん天うら、こまものしろこまやへこい
りょぎんにしな
「すざきべんてん、といえば、深川の---」
「そう、洲崎弁天でしょうな」
(洲崎弁天社 『江戸名所図会』 塗り絵師・ちゅうすけ)
「こまものしろこまや、とは?」
「小間物屋?」
二日酔いの有田(祐介 ゆうすけ 31歳)同心と銕三郎の会話である。
(しろこまや---どこかで耳にした---そうだ、お竜(りょう 32歳)が探索にいくと言っていた盗人・〔白駒(しろこま)の幸吉(こうきち)だ)
声にはださなかった。
有田同心にはかかわりのない名前である。
【ちゅうすけ注】鬼平ファンなら、ここでお竜を引き合いにだすまでもなく、〔白駒〕の幸吉と見ただけで『鬼平犯科帳』文庫巻9[浅草・鳥越橋]の小判いただきみたいな小賢い盗賊をおもいだされるであろう。
【参照】2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛]
(とんだところで、〔真浦〕の伝兵衛と、〔白駒〕の幸吉が結びついたが、お竜は、なんのために〔白駒〕を追っているのか。幸吉の店が洲崎弁天宮の近くにあることを、お竜は知っているのであろうか。しかし、拙は、お竜の居場所を聞かなかったから、連絡(つなぎ)のつけようもない)
銕三郎は、有田同心に代わって、〔真浦〕の伝兵衛が配下の2人とともに木更津から江戸しりしたこと、2人の特徴、立ちまわり先が〔白駒〕の幸吉の店であることをしたため、早急に捕り物をと、継(公用)速飛脚に託した。
「有田どの。お願いがあります。この明和南遼銀は、そっくり、吾平の供養料のたしに、伍作のもとへとどけてやりたいのですが---」
「手前は見なかった、聞かなかったことにしておきます」
あとは、勝浦港の荷運び船の知工(ちく 庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳)に、明日朝、江見の浦へ迎えに寄ってもらうことを頼めばいい。
そのことは、庄屋・幸兵衛(こうべえ 56歳)が手くばりしてくれた。
東江見村から勝浦港まで、海辺ぞいの房総往還を片道5里強(21km)ほどである。
風がよければ、帆舟だと半刻(1時間)ちょっとでわたってしまう。
幸兵衛が、さも、残念そうに言った。
「日蓮祖師さまがお生まれになった東条郷小湊(現・千葉県鴨川市天津小湊町)も房総往還ぞいだし、勝浦海岸の岩礁も天下の奇観でございますのに、お目におとめにならずにお帰りとは、もったいない」
それから、そっと洩らした。
「有田さまは、今夜も、あの妓(こ)をとおっしゃっておりますが、長谷川さまは、昨夜はあのような仕儀で仕方がなかったとしましても、今宵もまた、お独り寝でよろしいのでございますか。さようございますか。では、そのように---」
【後日談】江見から速飛脚書簡で、深川の小間物商〔白駒屋〕に打ち込ん火盗改メ・永井采女直該(なおかね)組の同心と捕り方は、難なく〔真浦〕の伝兵衛と配下の2人は捕縛したが、仕入れにでかけていた〔白駒〕の幸吉と手代は、風をくらって姿ょを消した。
捕縛された3人は、所持金をほとんど持っていなかった。
20年後の[浅草・鳥越橋]事件では、本所I二ッ目の裏通りで小間物店〔三好屋〕の主人となって登場している。
なお、各藩からの顛末書が証拠となり、伝兵衛たちはは死罪(打ち首)と決まった。
銕三郎は、八助と佐吉の親たちの顔をおもいうかべながら、こころの中で合掌して、念仏をとなえた。
【ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火盗改メの長官となってからも、処刑になった盗人たちの供養を欠かさなかったと、史料に記録されている。
お竜からの連絡(つなぎ)? あるわけがない。
【緊急アナウンス】スパム・コメント防止のため、しばらく、コメントの受付を中止させていただきます。
| 固定リンク
「147里貴・奈々」カテゴリの記事
- 奈々の凄み(2011.10.21)
- 奈々の凄み(4)(2011.10.24)
- 〔お人違いをなさっていらっしゃいます」(3)(2010.01.14)
- 茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(2)(2009.12.26)
- 古川薬師堂(2011.04.21)
コメント