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2009年7月の記事

2009.07.31

〔川端道喜〕.

ちゅうすけは、24年前(1085)の初秋、〔川端道喜〕を、某誌の連載シリーズ[日本の老舗]のために、取材した。

以下、ちょっと長文だが、お(とよ 24歳)の説明よりも、この店の歴史と奥行が分かっていただけるとおもうので、ほとんど全文を転載してみよう。
取材に応じてくださったのは、15代のご当主。

[ちゅうすけのひとり言](36)として記録。


・「道喜門」のいわれ

秋里籬島(りとう)による『都名所図会』は、こうした案内記の鼻祖ともいえる『京童』(1658)に百数十年おくれて、安永9年(1780)年にでました。

京童』がうたいあげるような叙述文なのに対し、籬島の文体は平明で簡潔、必要なことだけをのべてあとは見学者の想像力にまかせるといった、教育的なところがあります。

また『都名所図会』は、竹原春朝斎(しゅんちょうさい)の挿し絵も広角レンズをぐんとひき、ななめ上から俯瞰したような視点を多くとりいれて、建物や川などの全体の位置をわからせるような工夫をこらしています。
で、冒頭の挿し絵が「内裏之図」です。

Photo
(内裏之図 『都名所図会』の巻頭)

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(上掲絵図の右端の拡大道喜門と南門)

解説文はありません。

いっぱんの人たちには拝観はゆるされない名所ゆえ、案内するだけムダと考えたのかもしれません。

挿し絵の右手前には「南門」が描かれています。
さらにその右、ほとんど枠からはみでそうなところに、ぼくが手もちしている活字版 『都名所図会』(1920刊)には、「道喜門」という字がはっきりとみとめられます(図版でも読めるといいのですが)。

「道喜門」について、西田直二郎博士は、

_200正親町天皇(1557~86)の御宇、内裏のいよいよあれまさるを拝し、(川端)道喜は志をおこし、おのが修理のことに勤め、天正5年(1577)年の御修造にあたりては、竹木を運ぶ工人等の出入りのため、衛門の東に穴をつくりまゐらせたことがある。(初代:川端道喜)

これによって、この穴門を道喜門と名付けさせられて、今に御所の内に遺させられてゐるといふ。
(『立入宗継文書・川端道喜文書』国民精神文化研究所。昭和12年刊)

川端家は羅生門の鬼退治で名をあげた渡辺綱の後裔で、もともと渡辺姓を名のって京都の南郊の紀伊郡鳥羽に住み、鳥羽院の北面……つまり、院の御所を警護する武士だったといいます。

渡辺進の代(16世紀初葉)に同村の中村五郎左衛門を女婿にむかえましたが、この五郎左衛門がのちに入道して道喜といいました。
店名はすなわち、これに由来しています。

初代道喜こと五郎左衛門が入り婿するとまもなく、岳父の渡辺進は住まいを京師禁裏の西側の新開地である、新在家にうつしました。

林星辰三郎先生の『町衆』(中公新書)は、応仁の乱(1467~77)後、京都にも復興の気運がおこり、もっとも戦禍のひどかった上京へも、地方へ逃避していた没落公家たちが帰つてきて住まいをはじめたが、その地の一つが「六丁町」と

天文(1532)のころ、上京に住んだ山科言継が記したように、「六町衆」には餅屋もあれば米屋もあり、大工もあれば蒔絵師もいるというありさまで、当時内蔵頭であった言継は「此辺之衆」と一つの地域的集団生活のなかに包含されていた。
その京餅座が、すなわち、こんにちも「ちまき」で知られた川端道喜の店である。

 ・川端姓の由来

由緒のある渡辺姓が川端姓にかわったのは、店が「禁垣の外を流れる御溝(かわ)の傍にあった」ので、川端をもって家の名にしたためと、前出の西田博士が書いています。

もっとも、道喜15代目にあたる当主によると、川端姓を名のったのは四代目あたりからだろうということです。

また9代目道喜が、江戸時代中期の儒学者の皆川淇園(きえん 1734~1807)、おなじく国学者の伴蒿渓(そばん こうけい 1733~1806)の手と御所の絵師の原在正の絵筆をかりて当家の家史をまとめた『川端道喜家の鏡』は、初代の五郎左衛門人道道喜が鳥羽村から新在家にうつった年月はつまびらかではないが、

そのころ新在家は今のよのごとき人家もすくなく、御門などもあらざりき。このほとりに御溝ありて、道喜が家このながれにそいてありければ、世に川ばたの道喜といいしが、いつしかといひなりて氏とはなせる也。
むかしよりそのすむ所の名のやがて氏となれる事すくなからず。
この川端も猶そのたぐいながら、これは地名というにもあらず、この川のはたなりけるよりいひなりたるにて、ことにはまれとすべきこと也。

と、たんに所在をしめず川端姓が特別に名誉あるものだと強調しています。

のこっている初代道喜の肖像画は、晩年のものでしょう。
卒する5年前の天正15年(1587)年には、豊臣秀吉によって千利休の茶筵に親子で召され、自家製の粽(ちまき)が茶うけになるきっかけもえていますから、その表情には満ちたりたものがただよってます。

千利休が秀吉の激怒にあい、白刃したのはこの4年あとで、それを追うように、道喜も翌年夏に没しています。

川端道喜の秀吉との縁は、たぶん、織田信長が京都にはいって御所の修理に手をつけたときからのものでしょう。
このときに道喜が、「道喜門」をあけたことは、すでにご紹介しました。

はなしは突然、幕末までとびますが、有吉佐和子さんの『和宮様御留』(講談社文庫)は、将軍家茂のもとに東下した皇女和宮が替え玉だったという設定で書かれています。

替え玉になったのは下使いのフキという少女で、召されて和宮と生活をともにする。そのはじめのころに、フキがこの御殿に来て間もなく、道喜からの献上があった。
今日は祇園会だからと藤が宮に御説明していた。粽は宮のお膳に盛上げられていたから、フキも頂だいすることができた。
笹の香りが高く、餅の甘さが喉もとをするりと流れて、涙がでるのほどおいしかったが、御殿ではそれきり祇園さんが話題にのぽったことがない。

有吉さんはこの作品の「あとがき」に、ある豪農の婦人が訪ねてきて、身代りになったのがその人の大伯母だったという告白を聞いて、この小説を思いたったと書いています。

執筆にあたってはそうとうにつっこんだ取材もしたようで、15代道喜夫人からも御所との関係をいろいろと教わったといいます。

いや、聞き書きだけではなく、評判の高い道喜の葛粽もじっさいに食べてみたことでしょう。
そうでないと、「笹の香りが高く、餅の甘さが喉もとをするりと流れて、涙がでるほどおいしかった」などという実感的な描写が、想像だけでできるはずがありません。
もっとも、環境が悪化してきている現在、「笹の香り」を高くたもつためにはそれなりの苦労があるとは、15代道喜当主の弁。
戦前までは鞍馬でまかなえたが、いまではもっと奥の別所や花背まで仕入の手をのばしていると。
「夏の土用のあとの秋口にとったものを、北山の冷気で干すと長もちします。しかしさすがに、祇園祭のころあたりになると、葉の色がおちてきます」

クルマ公害のなかった和宮の時代には、祇園会のころでも緑色もちゃんとしていたの亡しょうね。

15代目はこうもいいました。
「信州産の笹の葉には産毛がはえていて、ダメなんですよ。大陸のものだと番茶の匂いがしますしね。柔らかい北山のものしかつかえないので、この点からも一日の生産数にかぎりがあるのです」 

この笹の葉で包む葛も、奈良県でできる寒にさらした吉野葛だけをつかっています。

「葛を炊きあげて、葉でまいてから、もう一度、時間をかけて炊いて糖分をおとすのです。
そのためにロスも多くなります。
しかし、見えないところに、さりげなく、こんな手間ヒマをかけらからこそ、京菓子といえるのではないでしょうか。
一方、いかにも手間をかけましたとみえみえなのは、プロの仕事とはいえません」

・餅屋か、粽屋か

 『和宮様御留』にはほかにも、こんな箇所があります。
 藤が納戸へ入ってきて、
 「道喜が献上したおあつあつえ。おあがり」
と言って、杉板の上に餅をのせて、またあたふたと出て行った。

それは掲きたての餅を薄く丸く引き伸ばしたもので、菱形の紅色の餅と同じ数だけ重ねてのせてあった。
白味噌の飴と甘く煮た牛蒡(ごぼう)が横に置いてある。
 (中略)
掲きたてだからおあつあつというのだろうか、
柔らかくて、びっくりするほど美味しかった。

牛蒡の香りと白味噌の舌ざわりが、歯の内で柔らかい餅と混ざりあい、この世にこんな取りあわせがあるのかと思うほどの美味であった。

藤の妹が、次の分を手さばき鮮やかに作ってフキに渡し、
「流石に道喜や、おいしおすな」
と呟きながら、自分も次々と食べた。
 
道喜というのは川端にある粽屋のことであろうか、とフキは思った。
「これ、なんどす」
フキは叱られてもいいと覚悟して訊いた。
「お正月なら花びら餅と言うところやかな」
と、藤の妹は平然とこたえ、また次の分を作りにかかった。

川端道喜のことを、この作品は、「粽屋」と書いています。
15代目の名剌にも、
と印刷されています。

大仏次郎さんの『天皇の世紀』(朝日文庫)は、天皇の「おあさの餅」にふれて、一条摂政家の侍で下橋歌長の言をひき、

「御上においても、恐多くも殊の外御難渋を遊ばされまして、召しあがる物がございませぬ。

所が河端道喜というこれは俗に申す餅屋でございますが、桓武天皇様が大和国から山城国長岡へ御遷都の時から御供してきたと申すのが、河端の家の申伝えでございます。
格別の御由緒が 「御粽 ございますから『おあさの餅』というものをこしらえまして献上いたします。
その餅は先ず普通の団子ぐらいの大きさで、そとに飴を沢山かぶせてあります。`
それも砂糖のない時分でございますに依って塩餡でございます。
それも、おさまりのいい三つ五つとか七つとかといった奇数にすればよかりそうなものなのに、きつちり偶数の六つ献上したというのです。
 
15代目の解説によると、この六つという数は、容れものだった硯のふたにきちんとならべるとちょうど六つになるのだそうです。
この硯のふたにいれて献上したことから、その後、物をすすめる台を「硯蓋」と呼ぶようになったのだとも。

ついでにいうと、「おあさの餅」を献上にあがるときに道喜の着ていたものが、褐染(からぞめ)の素抱だったので、宮中では餅のことを「かちん」というようになったのだとも。

正親町天皇のみ代から、皇居が東京にうつった明治のはじめまで、一日も欠かすことなく、毎朝、歴代の川端道喜が、塩味の「おあさの餅」を天皇に供進したのです。

もっとも、塩味の餅なんて、よほど空腹時ならともかく、それほどおいしいものではなかったので、そのうちにそれは形式だけになり、「御覧遊ばすだけ」で、お下げになったとも書かれています。

ところで、『天皇の世紀』で道喜は餅屋となっています。

_130京都には古くから餅座という同業組合的な存在がありましたから、餅屋でもいいのかもしれません。
(15代川端道喜・当主 似顔絵:針すなお さん)

ちなみに、天保4年(1833)年に刊行された『商人買物独案内』では、川端道喜は「く」---「菓子 くわし」の部の筆頭に掲載されています。

【参照】2009年7月30日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (11)

15代目は、学校をでてから長いあいだジャーナリストとして仕事をつづけてきた人です。
自家の記録『川端道喜家の鏡』の記述に対しても、学問的な疑問は疑問として指摘して、説明によどみがありません。老舗のご当主としては珍しく、ヨーロッパの老舗的な思考をなさる方だと思いました。(転載 了)

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2009.07.30

〔千歳(せんざい)〕のお豊(11)

浴衣を羽織っても、お(とよ 24歳)は帯をつけないで、前をひらいたまま、
「湯あがりのお酒(ささ)は、冷やでおよろしいでしょう?」

部屋には、布団が延べてあった。
(湯屋へ来る前にすませていたのであろうか。とすると、文を寄こした時からそのつもりでいたのだ。お(りょう 33歳)の事故のことは、まだ、しらかなかったのだから、仕方がなかろう)
そう推測した銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、悪い気はしなかった。

裾(すそ)をひらめかせながら、板場から、衣かつぎと銀杏(ぎんなん)と片口をもってきた。

「宿に断ってきていない。四ッ(午後10時)までには帰らねばならぬ」
「とどけ文で、察しているでしょう?」
「いや。明日、出直したほうがよさそうです」
「四ッ前まで、1刻(とき)半(3時間)あります。和歌より実(じつ)を---」

池波さんから、再度---。

お豊の情欲の烈(はげ)しさは、そのころの女として瞠目(どうもく)に価(あたい)するもので、あそびなれた平蔵(銕三郎=この時期)が目眩(めまい)するようなしぐさをしてのける。

(これまで、どのような世すぎをしてきたのか)
横です裸のまままで余韻を陶然と味わいつくしているをおの顔を盗み見ながら、銕三郎は、想像をめぐらせた。

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(清長『柱絵巻物』右部分 イメージ)

(この家と店が買えるほどのものを惜しまなかった男とは?)
銕三郎が、下床の縁までそっと太刀を引きよせたのに気づいたらしく、
「だれも参りはしません。心おきなく、お味わいくださっていいのです」

「さようか。狐に化かされているのかも---」
「いいえ。真葛ヶ原の鬼婆ァでございますぞ」

銕三郎は、昨日の朝がた見た夢の半分を語ってきかせた。

参照】2009年7月25日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

くっくっと笑ったおが手をみちびいて、
「ふさふさでしょう?」

C_360
(同上 部分)

「そうそう。ご禁裏に出入りの商舗(みせ)をお探しでしたね。こころあたりがお一人ございます」
祇園の料亭へ食事にくるついでに、〔千歳(せんざい)〕でお茶を飲んでいく、烏丸蛤御門前(現・左京区下鴨南野々神j町2丁目)の粽(ちまき)司の〔川端道喜〕が客だといった。

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(〔川端道喜〕 『商人買物独案内』天保4年(1833)刊)

「道喜さんは、御所の南門の脇に、道喜門というのがあるほど、禁裏とのかかわりが深いお舗(みせ)です。ほかの出入り商人のことも、商人同士でよくご存じではないでしょうか」
「おみごと!」
「私って、実がみたされると、頭がよくまわるのです」、
「明日の夜、目眩するほど、まわるようにして進ぜよう」
「うれしい。きっと、ですよ」


参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () () () () () () () () (10

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2009.07.29

〔千歳(せんざい)〕のお豊(10)

「この人も、忘れられないおなごの一人になりそうな---」
脱ぎながら、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、予感をおぼえた。

「浴衣を用意しますから、先に浴びていてくださいな」
浴室の柱に行灯をかけたお(とよ 24歳)は、出ていったままである。

湯舟が、つねの家のものよりも大きいのは、2人が入れるということだ。
(この湯舟におといっしょに入っているのは、だれだ? 丸腰のいま、襲われたらひとたまりもないな)
つかりなから、防具を、目で探した。
湯舟の垢おとしのための、先端にぼろぎれをしばりつけた棒しかない。
そこまでの距離を頭に入れた。

板の間ですっかり脱いだおがはいってきた。

全身を、行灯の灯にさらす。
手ぬぐいも手にしていない。

池波さんの文章を、ふたたび、引く。

裸身になったお豊は、骨格意外にとのい、肩や胸の肉(しし)おきはすんなりしていても、乳房もゆたかで、腰まわりから太股(ふとももにかけて白い肌が女ざかり凝脂(ぎょうし)にみちて、みごとなふくらみを見せていた。

もちろん、これは、寝室での姿である。
立ち姿だと、乳房がたっぷりとして見える。

そのことを、お自身もこころえており、裸身をわざと見せつけるかのように、湯舟のわきに立ったまま、前をかくしもしないで、
「おかげんはいかがですか? この家の前の持ち主の好みの造作なのです。でも、銕三郎さまといっしょにつかるのを、待っていたような湯舟---」

銕三郎
が、視線を外しながら、躰を引いて余裕(あき)をつくった。
「寒いだろう。早くあたたまりなさい」

縁(へり)をまたぐとき、片方の足は湯舟に差し入れたまま、また、とまって、黒い茂みを銕三郎の目の前にさらし、話しかけた。
「私、ぬるめのの長湯が好きって、言いました?」
かけ湯に濡れた茂みが先細りになり、その先端からしずくが、ぽとり、ぽとりとたれている。

「聞いてはいないが、湯加減はぬるめ。早く、つかりなさい」
銕三郎が、がまんしきれずに、せかした。
直立しきってしまったのである。

全躰が湯につかるや、銕三郎のものをつかみ、
「先手の衆はかかれ! の太鼓待ちですね。こちらもそう---」
薬指を秘部にみちびく。

「先手組と?」
「私、武家の子と信じているのです。武家のむすめならと、自分の中だけで話をしてきました。銕三郎さまがお武家さまだから、口にだしてみたのです。 お嫌?」

「武家の子女にしては---」
「秘めごとが、あからさますぎる---とおっしゃりたいのは、分かっています。でも、これを愉しむのは、武家も町方もありません。男もおんなも、できるだけ深く、長く、たっぷり、堪能したいとおもっているはず---ただ、口にしないし、いざとなると、恥ずかしがってしまって---」

浪人する前の父ごの藩はわからないのかと、訊きながら、親指が花芯にふれている。
左の指が乳首を軽くなぶる。
5,6歳のときに捨て子されたので、ほんとうは、いまの年齢も自分できめたのだと答え、銕三郎の首に手をかけて顔を引き寄せ、乳首を吸わせる。

銕三郎は、「風呂」でなく「湯」と2度ほど自然に口にしたから、西国生まれとおもう---といいかけて、口をふさがれた。
耳は、店や部屋のほうの物音に聞きのがすまいと研ぎ澄ましていた。


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2009.07.28

〔千歳(せいざい)〕のお豊(9)

_100「お顔の色がさえませんが---」
いつものように飯台の左手の片側に坐lり、冷や酒を注いだ片口から酌をしたお(とよ 24歳)が、首をかしげて科(しな)をつくった。(歌麿 お豊のイメージ)
深い黒瞳(くろめ)が銕三郎を見据える。

「ゆうべ、寝ていないのです」
「どう、なさったのですか? お差支えなかったら、お聞かせくださいな」
の盃を満たしてやる。

銕三郎さまの心痛事が晴れますように---」
目の高さまで盃をあげた。
「かたじけない。しかし、酒では、この悲しみは癒すことができないのです」
盃を一気にあけて飯台においたその手首に、おがつっと白い手を置き、
「お話しになれば、いくらかは、お気も晴れましょう。でも、聞き役が私ではご不足?」

の手の甲に右手を重ね、
「大切なひとが死んだ」
の手に力がはいった。
「奥方でございますか?」
「いや。奥は江戸にいます。なにごとも相談できたおなごでした」
「お察しします。このたびのご上洛は、そのお方にご相談ごとがおありだったのでございましたか?」
言って、もう一方の手を重ねた。

「うむ」
「私では、代役がつとまりませんか?」
銕三郎は、ちらっと板場へ視線を走らせた。

察したおが、声を投げる。
どん。あとは私がするから、帰っていいよ。帰る前に、表戸をぜんぶたててしまっておくれな」

「仔細は言えない。そのおなごの知恵者に、助(す)けてもらうつもりだったのです」
「そのお人とは---?」
「あるところの軍者(ぐんしゃ)を勤めていました」
「軍者---?」
「さよう」
「もしや、して---」
「うん?」

「いえ。お人ちがいのようです」
が眸(め)をそらし、手を抜き、酌をし、自分の盃にも注いだ。
そぷりの変化を、ふだんの銕三郎らしくもなく、気にとめなかった。

参照】軍者としてのお 
2008年11月1日[甲陽軍鑑] () () (
2009年1月3日[明和6年(1769)の銕三郎] (
2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火)〕] (

は、銕三郎の相方(あいかた)が〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 33歳)ではないかと推測したが、そうなると、自分も盗賊の仲間であることを明らかにすることになるので、我慢した。

「いつ、お亡くなりになったのですか?」
(うわさに聞いていたおさんが逝った?---このお武家が、おさんのいい人だったのだろうか? あの人はおんな男と聞いているが。信じられない)
「きのうの夕方---」
「おいたわしゅう---」
「うむ」

「それで、そのお人に、なにをご相談なされたかったのでございましょう?」
「御所に出入りしている商人」
「ご禁裏に?」
「他言は無用である」
銕三郎が言葉をあらためた。
「誓って---」

手のひらを、こんどは、銕三郎の右掌の下にいれ、つよく握った。
「誓って---」
さらに言うと、銕三郎が握り返した。
その手を、おは、頬に押しつけ、じっと銕三郎を瞶(みつ)めたまま腰をすり寄せ、襟元から乳房へみちびく。

「おどの」
一方の手で肩を抱いた銕三郎が、
「初めて会ったときからお訊きしたかったことがありました」
「なんでございましょう?」
まさぐられている乳首を押しだすように胸を近づけた。

「お生まれは、どちらかな? 上方育ちの女性(iにょしょう)とも、さりとて江戸生まれともおもえない---」
「しらないのです」
「冗談で訊いたのではありませぬ」
「冗談で応えたのではありません。ほんとうにわからないないのです」
「ほう?」
「五つか六つのときに、尾張・鳴海の宿はずれで、捨て子されたのです」

が、乳房を銕三郎になぶらせながら、太い息づかいをもらしもらしのあいだに語ったところによると、それは、父との旅の途中であったという。
覚えているのは、父は2本差しで、袴をはいていたことと、夜、旅籠の湯舟にいっしょにつかると、

  今は吾は 死なむよわが夫(せ) 恋すれば
       一夜(ひとよ)一日(ひとひ)も 安けくも無し
      
つぶやくように言い、おを抱きしめてくれたことぐらいであると。

拾って育ててくれたのは、浜松の城下で小間物屋をひらいていた権十郎・おだい夫妻であった。
義理の母親・おだいはお豊が17歳のときに病歿した。
権十郎も2年前に歿した。

「お湯を浴びますか?」
「拙には、和歌の素養はないが---」
「和歌より、実(じつ)でございます」

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2009.07.27

〔千歳(せんざい)〕のお豊(8)

「お(りょう)なら、どうしたろう?」
銕三郎(てつさぶろう 27歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)は、天井におの姿を描きながら、おの気持ちになって思案をつづけている。

ともすれば、睦みあったときの姿が浮かんでしまう。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』改 イメージ)

(いかぬ。そのことではない)

「御所役人に閒者(かんじゃ 密偵)を入れるのは、早すぎましょう? 気づかれては元も子もありません」
の声がそう言った。
「そうだな」
「そのことは、いっとう後でいいのです。それより、納入側の商人を探りましょう」

「どうすれば、商人が分かる?」
「それこそ、〔狐火(きつねび)〕のお頭(かしら)の商人顔をお使いなさいませ。商人仲間の付き合いを利用するのです」

(かたじけない。父上がご着任になるまでに、御所出入りの商舗を調べあげておこう)

いささか安堵したか、暁を告げる鶏声を耳にした銕三郎は、眠りにおちた。
そこで見た夢でも、お竜と睦んでいた。

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(国芳『葉名伊嘉多』 イメージ)

しかも、寝言では、
「供養だぞ、お---」
いい気なものである。
若いから、仕方がない---ともいえる。
(許せ、いまは仏の、お------これは、ちゅうすけの詫び)

目覚めたのは、夕方近くであった。
初冬の夕暮れは、七ッ半(午後5時)前である。

女中が、結び文をわたしてくれた。
「さきほど、どこやらの小女はんがとどけてきやはりました。名ァはいわはらへんどした」

不審におもいつつほどくと、

 をみなへし 佐紀(さき)沢のへ辺(へ)の 真葛ヶ原 
        いつかも繰りて 我が衣(ころも)がに着む

「なんだ---これは」
銕三郎は、和歌にうとい。

なんどか読みかえしているうちに、〔真葛ヶ原〕の鬼婆ァ---と悟った。
(〔千歳(せんざい)〕とかいったな。お(とよ 24歳)め。味なことを---)

眠気をはらうと自分にいい訳した銕三郎の足は、白川ぞいを南に、真葛ヶ原にむいていた。

〔千歳〕は、板戸が半分しまっていたが、灯はともっていた。
「よろしいかな」
銕三郎の顔をみたおが、
「やはり、来てくださいました」
そのくせ、寄ってはこず、じっと銕三郎を瞔(みつめ)ている。

「どうかしたかな。拙が〔真葛ヶ原〕の狐に見えますかな?」
「うしろを見せて、尻尾をたしかめさせてくださいな」
銕三郎がうしろを向き、尻をつきだすと、
その尻を袴(はかま)の上から手のひらでなぜ、
「たしかに、銕三郎さまです。どうぞ、お掛けくださいな」

飯台につく前に、銕三郎も左手でおの肩をつかみ、右掌(たなごころ)を顔の前でいくどか振り、
「このおんな、たしかに、真葛ヶ原の婆ァ---ではない」

笑いがおさまったところで、問いかけた。
「拙が〔津国屋〕へ宿をとっていることが、どうしてわかったのかな?」
「せんに、おっしゃいました」
「そうだったかな?」
「ええ、おっしゃいましたとも。で、昨日もお待ちしていましたのに、お出かけくださらなかったので、出すぎたことを---とおもいましたが---」

悪い気はしなかった。
懐から、おからの文を出し、
「これかな?」
「お分かりになりました?」
「なにが---?」
「いつかも繰りて、我が衣(ころも)がに着(き)む---」
「とんと---」

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「『万葉』でございます」
「ふむ」
「樹皮を剥いて、糸につくり、織って、まとう」
「拙を、か?」
が嫣然(えんぜん)と微笑み、
「おささを用意してきます」
立って、奥へ消えた。


【参照】2009年7月20日~[千歳(せんざい)のお豊] () () () () () () () () (10) (11

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2009.07.26

〔千歳(せんざい)〕のお豊(7)

夢の話をお(とよ 24歳)に聞かせたくて、茶店〔千歳(せんざい)〕へ、いくど、足が向きかけたことか。
そのたびに、
(待て。お(りょう 33歳)が先だ)
の帰洛を待ち、2日目は、京都見物についやした。
二条城の近くにある、東町奉行所も西町奉行所も、門の前を素通りした。

_130_2寒気がきびしいので、遠出はできない。
石清水八幡宮や嵐山、大原村などへは行かない。
いまだと、『池波正太郎が歩いた京都』(淡交社 2002.7.27)なんて便利な手引き書もあり、適当なところを選んで歩けるのだが。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)はまず、仙洞院の東端の荒神口へ行ってみた。
〔荒神屋〕という太物(木綿類)屋をさがした。

河原町通りから東へ入って賀茂川へ出る手前にあった。

参照】2007年7月14日~〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) () (10
2009年12月28日[与詩(よし)を迎5に] (
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12
200年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (4http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/01/post-55dd-1.html

のぞくと、大年増のおんなが刺し子をしているだけで、とうぜんのことだが、助太郎(すけたろう 50すぎ)の姿はない。
思いきって入り、
助太郎さんはおいでですか?」
店のおんなは、ぽかんとして、応えない。
再度、問うと、おんなは、
「あんた。ちょってきとぅくれやすか」

奥から、中年の、人のよさそうな男がでてきた。
「なんぞ、ご用で---?」
助太郎というお人はおられますか?」
「そのお方なら、いィはらしまへん。この店の前の持ち主はんどしたが、うちに売らはったんどす」
「いま、どこに---?」
「しってぇしまへん。お金払うた時がご縁の切れ目どしたんどす」

銕三郎はあきらめて、北野天神社へむかった。

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(北野天満宮 『都名所図会』)

鬼平犯科帳』を読んでいたら、天神のうらの料亭『〔紙庵(しあん)〕で一息いれたかもしれないが、銕三郎にはそのような土地勘はない。
帰りに本能寺へ参詣し、信長公をしのんだだけであった。

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(本能寺 『都名所図会』)

翌日は、本願寺や東寺などに参詣して〔津国屋〕へ戻ってみると、旅支度をした〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が、上がりかまちに腰かけて待っていた。
長谷川さま。えらいことになりました」

帳場で番頭が聞き耳をたてている。
とりあえず、部屋へ連れた。
「おが死にました」
「なにッ! どうして?」
「舟が旋風(つむじかぜ)にまきこまれ、琵琶湖に投げだされたのです」

は、彦根である大店を嘗(な)めていた。
もちろん、お(かつ 31歳)が引きこみに入っている。
狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 52歳 初代)から、銕三郎さんが上洛してき、頼りにしているとの早飛脚の伝言を受けとると、おは、とるものもとりあえず、夕暮れなのに小舟を仕立てて大津へ向かった。
大津の舟着きが視界にはいったところで旋風にまかれて湖水に投げだされ、冬の厚着がたっぷりと水をふくんだ。
その着物に躰の自由をしばられ、溺死したのであった。

「お頭は、大津へ急がれました。源七も、このことを長谷川さまにお告(つ)げしたら、ただちに大津へ走ります。お頭からの、長谷川さまへの申し状ですが、大津へは決しておいでになりませぬように。おの溺死の顔をお目になさらないのが、せめてもの仏への手向(たむ)けと---」

涙をぬぐった源七は、すぐにわらじの紐をしめなおして出ていった。

_100のこされた銕三郎は、東をむいて手をあわせ、
「お
お前のことがいとおしかった。
一生、忘れぬ。
今夜は、お前の言葉のかずかず、しぐさのあれこれ、髪や脇の下の匂い、乳首の皺の数、腰のホクロ、あの襞(ひだ)のぬめりぐあいまで思い出しながら、ひとりで、通夜をするぞ」

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) () (3) (4) (5)  (6) (7) (8)
2008年11月1日~[甲陽軍鑑] () () (
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍] (
2009年1月24日[掛川城下で] (
2009年1月26日[ちゅうすけのひとり言] (30
2009年5月21日~[真浦(もうら)〕の伝兵衛] ( (

出仕前の若い男の人生の半分に、おんながかかわっているのは、いたし方がなかろう。
そうでない青春なんて、干からびた目刺しのようなものだ。
見逃してやってこそ、先達の情けというもの。


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2009.07.25

〔千歳(せんざい)〕のお豊(6)

その夜。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、奇妙な夢をみた。

冬枯れの野原を歩いていると、どこからともなく、しわがれ声がする。
「旅の若いお武家さま、そこなお武家」

立ちどまると、枯れ木の枝に両足をかけてぶらさがっている老婆が、月明かりにぼんんやりとみえた。

「ご用かな?」
「お(りょう 33歳)の母・飛佐(ひさ 51歳)ですだ」
白髪が逆さiに垂れ、葉のない柳の小枝のように風に揺れている。
いかにも武田方の軒猿(忍びの者)の末裔らしい。
「おお、おどのの母ごは、甲州路の大月にお住まいではなかったか?」

参照】2008年10月5日[納戸町の老叔母・於紀乃] (

「それが、相方のむすめのことで、おられなくなっただよ」
「それはお気の毒。して、拙にご用は?」
「そのことよな。おにまことの男の味をおぼえさせたのは、お武家さまじゃろが---だで、おは軒猿(のきざる)として、遣いものにならなくなったぞい」

たしかに、銕三郎と抱きあってときのおは、おんなになりきってきた。
銕三郎の男を、すすんで迎えいれる。
そのことに躰の芯から歓びを感得し、喜悦してきている。
むさぼりさえする。

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(国貞 月光の舟上 イメージ)

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根舟
2009年1月1日[明和6年(1769)の銕三郎] () () (
2009年1月24日[掛川城下で] (
2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛] () (

「おどのは、軒猿よりも軍者(ぐんしゃ)が似合っておる」
「うんにゃ。血筋は、軒猿だで---いひっ、ひひひ」

飛佐は、躰をひとゆすりすると、その反動で銕三郎に飛びかかってきた。
51歳の老婆とはおもえない身の軽さであった。

飛佐の指がのどに達する寸前に、銕三郎は膝をかがめ、横に飛んだ。
くるりと宙返りしてた立った老婆は、
「お前の男のものが、役立たないようにしてくれるわ」
言うなり、蹴ってきた。
身をひねって倒れながら太刀の柄(つか)で、のびきった足を払った。

悲鳴を発した飛佐の姿が消えた---
---と同時にお(とよ 24歳)が現れた。

「真葛ヶ原の鬼婆ァですぞ。よくぞ、刀を抜きかずしてお防ぎになりました。ご褒美に、わたしを抱かしてあげます。さあ」
ぱらりと着物をおとすと、すっ裸であった。
しばらく、銕三郎を瞶(みつめ)ていたが、ふくよかに微笑むと、着物を枯れ草にひろげ、それに横たわり、両膝をひらいた。
股の茂みが、夜風によそいだ。

とつぜん----、
「ふむ。大人への兆しの、股間の芝生も、なかなかに生えそろってきましたな。しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女のほうが、風情はまさるな。男の子のは、勝手気ままな生えぶりだからの」
芝・新銭座の表御番医の井上立泉の声が聞こえてきた。
14歳のとき、お芙佐(ふさ 25歳=当時)に初めて男にしてもらったその股間を、しらべられたときに言われたものである。

参照】2007年8月9日[銕三郎、脱皮] (

まともに銕三郎にむけられた、おに化けた真葛ヶ原の鬼婆ァのそれは、齢相応にしなびて黒ずんだ割れ目の周囲に、申しわけのように残っているのは半分以上が白毛で、それもからみあっていた。

銕三郎は、おもわず笑って、目がさめた。

雨戸が、東山おろしに、がたがたと音を立てていた。
(明日、〔千歳〕のおにこの夢のことを話してきかせたら、どうするだろう。いや、4日後に会うおにしたやったほうがいいか)


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2009.07.24

〔千歳(せんざい)〕のお豊(5)

白川ぞいに北へとって、旅籠〔津国屋〕へ戻ると番頭が、江戸からの公用早飛脚でとどいた文をわたしてくれた。
「うちらにも、いただきましたよって、つけのことどしたら、ご懸念におよびィしまへんよって---」

_100中庭に面した部屋で披(ひら)くと、父・宣雄(のぶお 54歳)の書簡の表紙から、久栄(ひさえ 20歳)の結び文がころげおちた。
(あいかわらず、父上は久栄には甘い)(清長 久栄のイメージ)

父の書状には、山科代官・小堀数馬邦直(くになお 44歳 600石)へは、勘定奉行(3000石高)・石谷(いしがや)備後守(清昌 きよまさ 58歳)からでは代官所の者たちに大仰すぎるゆえ、この7月に勘定吟味役(500石高・役料300石)に昇進なされた松本十郎兵衛秀持(ひでもち 43歳 100俵5口)どのの名で、銕三郎が密命をもって上洛したことを伝えてある。

したがって、御所の諸品購入の帳票などの調べは、小堀代官どのへ内々、じきじきに申し入れすること。くれぐれもまわりの衆へ密務を気どられないように。
なお、存じているであろうが、松本吟味役どのは、つい先ごろまで、そちらの東町奉行(1500石)高)・酒井丹波守忠高 ただたか 61歳 1000俵)どのと、仙洞御所のご造営を監督なさっておられたから、小堀代官どのとも親しくされていたはずだから、(てつ)を石谷ご奉行の代理として遇してくださるはずである。
なお、松本吟味役どのは、田沼老職も高く買っておられる能才である。
---と、いかにも宣雄らしい、細かい毛筆字で、配慮をつくしたものであった。

仙洞御所という文字で、その東にあったという、荒神口の〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)の細いからだと日焼けした顔を思いだした。
(そうだ、あすは荒神口へ行ってみよう。なにか得ることがあるかもしれない)

【参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川へ] () () () () 

久栄からの麗筆は、淋しくて夜もなかなか寝つけないので、隣家の於千華(ちか 37才)から絵草紙を拝借したところ、それが春本ばかりで、よけいに躰がほてって、ねむれなくなり、困っている。
これを癒すには、銕(てつ)さまに抱かれるほかに手だてはないから、いまにも、鳥になって飛んで行くきたい---とあった。

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(国貞『百夜町仮宅貨通』 イメージ)

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(北斎『させもが露』 イメージ)

(そりゃあ、そんなものばかり寝屋で眺めていた、おんなだって、躰がほてろうよ)

驚いたことに、頭にうかんだのは、久栄のほてった躰ではなく、〔千歳(せんざい)〕のおんな主人(あるじ)・お(とよ 24歳)の紺色の着物の下で、きびきびと動いている姿態であった。
(どうかしているぞ。返事でも書けば、おのことは消えるであろう)

銕三郎は、帳場へ硯(すずり)箱と書箋を借りに立った。
番頭が棚から書箋をとりだすとき、絵草紙が2,3帖落ちた。
久栄が読んでいるものをたしかめるため、
「その草紙も、ついでにひと晩、拝借できるかな」
番頭は、薄笑いをしながら、
「いま評判の冊子でおます」

部屋で披いてみると、塾に悪童連がひそかにもちこで回覧していたもの、そして、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕のお(なか 34歳=当時)が中居頭・お(えい 36歳=当時)から借りたといって、宿直の夜、睦みの手本にした絵柄と大差なかった。

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(北斎『ついの雛形』)

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(北斎『縁結出雲杉』)

参照】【参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)  (8)
2008年11月29日[〔橘屋〕忠兵衛] 
お仲が〔橘屋〕へ雇われた経緯 [〔梅川〕の仲居・お松] (4) (6) (7) (8)


とはいえ、頭がほてったことは、まちがいなくほてった。
そのうちに、絵の中で恍惚としているおんなの顔が、久栄になり、お(りょう 33歳)に換わり、〔千歳〕のおに変じはじめたので、本をとじた。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍] (
2009年1月24日[掛川城下で] (
2009年1月26日[ちゅうすけのひとり言] (30
2009年5月21日~゜[真浦(もうら)〕の伝兵衛] () (

けっきょくこの夜は、久栄への文を書かずにしまった。

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(小堀数馬邦直・個人譜)


2009年7月10日~〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () () () () () () () (10) (11

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2009.07.23

〔千歳(せんざい)〕のお豊(4)

なにか、気のきいたことを言いたいと、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、あせればあせるほど、言葉がもつれる。
こういう体験は、はじめてであった。
(とよ 24,5歳)は、盃を唇にあてがったまま、動きをとめ、眸(ひとみ)を斜(はす)ぎみに、銕三郎の言葉を待っている。
艶っぽい姿態に、銕三郎はよけいにあせった。

その緊張に耐えきれず、わざと店の中に視線をめぐらせ、おろかな言葉を発してしまった。
「よいお舗(みせ)ですな。どれほどのあいだ、やっておられるのです?」
男とおんなの会話としては、おかしい。

_120_2艶がなさすぎると、おが咽(むせ)た。
口中で酒をころがしたまま、言葉を待っていたのである。
飯台に投げるようにおいた盃には、酒ははいっていなかった。
袂(たもと)から、あわててだした手巾で、咳を覆う。
(歌麿 お豊のイメージ)

さらに手巾で目元の涙をぬぐい、
「わたしの代になって、もうじき、1年になります」
さりげなく飯台においた手巾には、唇の形に移った紅が、銕三郎には、おの秘所にもみえた。

股間が、不謹慎な反応しはじめる。
(そういえば、東海道をのぼる14日があいだ、おんなを絶っていたからな)

「舗の名は、〔ちとせ〕の読むのかな?」
(千歳飴(ちとせあめ)ではあるまいし---)
こんどは笑いを抑えて、
「いいえ。〔せんざい〕です。生年は百に満たないのに、常に千歳(せんざい)の憂いを懐(いだ)く---と歌った古詩からとりました」

「生年は百に満たず---といわれるが、お見うけしたところ、20歳(はたち)を出たか出ないかのようだが---」
「むすめに化けて、お武家さまをたぶらかす、真葛ヶ原(まくずがはら)に棲(す)む鬼婆ァかもしれませんよ?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻3[艶婦の毒]p99 新装版p104 には、〔千歳〕の床の下の穴は、真葛ヶ原の榎の大木の根方まで通じていたとある。

ものの本にいう。

八坂というは、北は真葛ヶ原、南は清水坂までの惣名なり。その中に八ッの坂あり。祇園坂、長楽寺坂、下川原坂、法観寺坂、霊山坂、山ノ井坂、清水坂、三年坂などなり。

「その鬼婆ァは、幾つのむすめに化けたかのう?」
「24歳の若年増。20歳やそこらでは、出事(でごと 交戯)の手くだが、まだ熟(う)れておりませんでしょう」
(きわどいことをいう。久栄(ひさえ)は20歳だが---、25歳の若後家だったお芙佐(ふさ)とどうちがうものか、自慢の手くだを味わってみたいものだ)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)〕 () (

(お芙佐と睦んだのは、こっちが14歳であったから、味わうどころか、緊張のしっぱなしであったな。人妻・阿記(22歳)とのときは、味わうよりも目の前の別れのほうがつらかった)
2008年1月2日~[与詩(よし)を迎に] (13) (14

銕三郎が謎を解こうと、とつおいつしていると、おは、
「霙(みぞれ)もどうやら、あがったようです。どん、板戸を戸袋へ納めて---」

ちゅうすけ注】〔男鬼おおに)〕の駒右衛門というのが、老爺ィの名である。

中がたちまち、明るくなった。
がさっと立った。
背丈は、5尺6寸(168cm)の銕三郎とそれほどちがわなかった。

「お鳥目はお近いうちのお越しのおりに---楽しゅうございました」
背中がぽんと叩かれ、追いだされていた。


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2009.07.22

〔千歳(せんざい)〕のお豊(3)

(りょう 33歳)が間にあうまで、息子の又太郎またたろう 14歳)に都の名所のあちことを案内させましょう---と〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 52歳)がすすめるのを、
「いや。べつに考えていることもありますゆえ---」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、2年前に会った子がどう育ったか、たしかめてみたい気もしたが、丁重に辞退した。

参照】2009年2月13日~[寺嶋村の寓家] () () () (

べつの考えなどなかったが、京の町を気ままに歩いてみたかったのである。

〔風炉(ふろ)屋〕を辞去したのは、四ッ半(午前11時)をまわっていたろうか。
冬の京都特有の鉛の塊を連ねたような雲が、いまにも霰(あられ)か雪をちよつかせそうな冬空であった。

四条橋を東へわたり、そのまま祇園の社(やしろ 今の八坂神社)の西楼門に向かって歩いた。
道の両側は祇園町だが、昼間なので紅灯のおもかげはないが、参詣人相手の店は開いている。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん )が修行したという、このあたり一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の円造(えんぞう)にも、<重右衛門から飛脚便がとどいているはずだから、いちど、あいさつをしておかないとなるまい---考えなから、境内に入っていた。

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(祇園社 『都名所図会』)

参照】2009年6月30日[般若(はんにゃ)〕の捨吉] (

(こんどの仕事のめどがたちますように)
祈念し、知恩院へぬける鳥居をくぐったところで、案の定、霙が落ちてきた。
その先の目にはいった茶店へ飛びこむ。

24,5歳の紫がかったものを着たおんな主人(あるじ)が、手ぬぐいをさしだし、
「羽織をおぬぎになって、着物をおふきなさいませ」
京言葉ではなかった。

池波さんの文章を借りると、

その茶店〔千歳(せんざい)〕の女主人で、背丈のすっきりと高い、しなやかな肢体のうごきに、京の女にも江戸の女にもない爽(さわ)やかな躍動感があって、接待に出た彼女を見たとたんに、平蔵(まだ銕三郎)の胸はさわいだ。

「かたじけない。家をさがしていて、迷ったもので---」
「どなたの家をおさがしでしたの?」
「〔左阿弥〕の円造どの」
「うそ、ばっかり」
「うそで、はありません」
「お武家さまには似合いません。お茶でおよろしいのでしょうか、それとも、お酒(ささ)?」

銕三郎は、つい、
「酒を、冷やで---」
胸のさわぎが言わせた。

「きつう、降ってきました」
女主人は、爺やに、表戸を半分立てるように命じた。
「はねっ返りのしぶきがはいってきますから---」

「お武家さまは江戸の---?」
「わかりますか?」
「お言葉と、小粋な物腰で---」
「きのう、着いたばかりです」

板戸が立てられると、店の中が夕暮れのように薄暗くなった。
その中で、紫色の人形のようにおんなが動く。

「おとよ)と申します。私もいただきます」
冷やを満たした片口を飯台におき、銕三郎の斜め左---飯台の短い縁(ふち)の側に腰をすえた。
「銕三郎です。銕(てつ)は金偏に夷(えびす)と書きます。つまり、お金に縁遠い男ということ」
「あら、夷は弓をもった人と書きますから、弓組のお頭におなりになるお人---」
「なに? おどのは、拙をご存じかな?」
「あら、何かいいましたか?」
「弓組と---」
「それが(てつ)さまと、なにか、かかわりがあるのですか?」
「いや---」
(この若年増、おのように学がある)


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2009.07.21

〔千歳(せんざい)〕のお豊(2)

(しず 24歳)が茶、火桶は女中に持たせて運んできた。
ふだんは人けのない仏間は、冷えこみがつよい。

「〔狐火きつねび)〕〕のお頭(おかしら)。つぎのお子は、まだですか?」
火桶に手をかざした銕三郎(てつさぶろう 27歳)の問いかけに、おが真顔で勇五郎(ゆうごろう 52歳)をうかがった。

「さきの子は惜しいことをしました。あれから2年になるのに、いっかな、兆しがないのですよ」
勇五郎

参照】2009年5月1日[お竜(りょう)からの文] () (

「ほしい、ほしいとおもっているときには、できないって言います。でも、旦那さまが、いつも、今夜つくれ、おんなの子がほしい---っていいながらお励みになるもので---」
も、閨房(ねや)での睦ごとを、すらりと口にした。
勇五郎が、あわてて、
「これ。長谷川さまの前で、はしたない」

「おどのは、まだお若いから、今夜にも、おできになりますよ」

ちゅうすけ補】『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]は、寛政3年(1791)夏の事件だから、明和9年(1772)初冬からいうと、19年後のこと。
聖典[狐火]に、おの忘れがたみとして登場するお(ひさ)は、16,7歳というから、誕生したのはおが26か27歳のときの子である。
銕三郎が訪来したこのときには、まだ腹に宿っていない。
初代・勇五郎が病死したのは、好篇[狐火]の4年前というから、天明7年(1787)---銕三郎改め・平蔵宣以(のぶため)42歳、秋に火盗改メ・助役(すけやく)を拝命した年であった。
は、そのずっと前の30歳、おが4歳の時にみまかっている。

受けておが、
銕三郎さまのところは、はや、お2人目が---?」
「おんなの子です。生まれて7ヶ月になります」
「おうらやましい」

瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)があわてたように座敷へ入ってき、遅参の詫びごともそこそこに、
「で、長谷川さま、ご上洛のご用向きは?」
「そのことだが、わしもまだお聞きしておらぬのだ。ただ、お(りょう)の知恵を借りたいと頼まれただけなのだ」

参照】2009年1月28日[{蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつさねび)〕 (

銕三郎は、
「いや、打ちあけられれば打ちあけて、お頭や〔瀬戸川〕どのの知恵もお借りしたいところですが、拙が京にきていることも、町奉行所にも内密にしなければならないのです。
ご推察ください。
また、今日のことにもお目をおつぶりいただきたいのです」
「で、おは、どちらへお伺いさせればよろしいので---?」
源七が、心配げに訊く。

銕三郎は、三条大橋の東、白川橋詰の旅籠〔津国屋〕の名を告げた。
「4日後には、必ず゛---」
勇五郎が請けあった。

はばかりを---という銕三郎の案内に立ったおが、聞こえないところまでくると、袖をひき、ささやいた。
(てつ)さま。おをお抱きになりましたそうですね?」
「む?」
「おごまかしにならないで。お(かつ 31歳)から訊いています」

「おは知らないはずだが---」
「ほら、白状なさった。ほ、ほほほ。おが妬(や)いています。お気をおつけになって。あたしも、ちょっぴり妬いていますのよ」
「こんどは、それどころではないのです」
「おなごの執念は、怖(こお)うございますよ」

参照】2208年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (
2009年1月23日~[掛川城下で] () (
2009年6月7日[火盗改メ・中野将監清方] (


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2009.07.20

〔千歳(せんざい)〕のお豊

京都の初冬は、底冷(び)えで夜明けがはじまる。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、くしゃみを一つはなって、床からでた。
京師での第1日目である。

きのうの夕刻、三条・白川橋ぎわの旅籠〔津国屋〕長吉方へ入った。

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(旅籠〔津国屋〕 『都買物独案内』)

ちゅうすけ注】池波さんも愛用していた『都買物独案内』では、〔津国屋〕為吉となっている。
池波さんは、江戸時代に実在していた店の、町名か店主名の一字を変えるときと変えないときがあったが、その決定基準の推測には、まだ手をつけていない。同好の士をつのって、いつかリサーチをやりいたいことの一つ。

朝食をすますと、さっそくに三条大橋を西へわたり、河原町通りの角でちょっと思案したが、おもいきって南へ向かった。

Photo
(三条大橋 『都名所図会』 塗り絵師:黒崎朔子 学習院生涯学習センター〔鬼平クラス〕 )

道みち、開けている舗(みせ)々で、この通りすじで、源七げんしち)どんという50代半ばで、駿州なまりのある番頭がいる骨董屋---と訊きながらきて、左が米屋町というところで、
「それやったら、2軒先の〔風炉(ふろ)屋〕はんでおます」
小間物屋の丁稚が教えてくれた。

高級骨董の〔風炉屋}は、河原町通り米屋町東入ルにあった。
表構えは間口2間半(4.6m)ほどだが、奥行きは京の家らしく、20間(36m)はゆうにあろうかという深さ。
狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 初代 52歳)が表の顔としてやっている店である。

骨董屋は、店を閉めるのが通りの舗々よりおそいらしく、ちょうど丁稚が大戸を開けているところであった。
(おれとしたことが。早朝から骨董などを求めにくる客はいないのが道理だ)
苦笑しながら、丁稚に、
源七どのはおられるかな」
首をふって、
「まだ、おいでてやおへん」
勇五郎どのは?」
また、首をふった。
銕三郎は、思い切って、
「お(しず)どのは?」
「小(ちい)ご寮はーんに、お侍はんのお客どすー」
奥へ向かって、大きな声で呼んだ。

勇五郎とそのむすめのような年齢のお(24歳)が現れた。
「おや、長谷川さまではございませんか。お、奥の仏間へお通ししなさい」

ちいご寮はんと呼ばれるだけあって、肉(ししおき)置きもみっちりつき、銕三郎と肌をあわせた18歳のころのむすめすむめした趣きは、躰の線からほとんど消えている。

参照】2008年8月2日~[お静というおんな] () ()  (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/06/post_aaec.html) () () (

半間(90cm)幅で奥庭までつづいている三和土(たたき)の通路を、幅ひろくなった尻をぽこぽことゆすりながら先導するお静の変わりように、おんなもややを産むと、やはり腰がすわるとおもいながら観ている。
の腰の微妙なゆれを観ても、自分の股間が熱くならないのが不思議であった。
(それだけ、おれが成人したということか)

感慨にふけるまでもなく、2人目を産んだ久栄(ひさえ 20歳)の太くなった腰部(でんぶ)を、床の中でまさぐり愛(め)でて、江戸を発ってきたばかりである。
それも、久栄を安心させるために、義務感のようにまさぐったのであった。

「お頭のここでの商い名を訊いていなかったもので---」
勇五郎が商店の主らしく、膝をそろえて座につくと、銕三郎が言った。
「店舗(みせ)名は、宗泉(そうせん)ということになっております」
「こげ茶の短筒(たんづつ)頭巾(ずきん)でもおかぶりになれば、まさに茶の宗匠ですな」
「ふ、ふふふ。まさかに、盗人(つとめにん)とはおもう者はおりません」

「ところで、このたびのお上りは?」
「まもなく、父がこちらの西町奉行に着任します」
「それそれは。おめでとうございます。行人坂の付火の小悪僧を捕縛なさったとか、こちらでも評判でございました」
「江戸が半分近くも焼けた大火でしたから---」
「そうだそうですな。当分、お膝元での盗(つと)めは手びかえようと、お(りょう 33歳)とも話しあっておりました」
勇五郎は、さらりとおの名を口にのせた。

「そのおどののお知恵をお借りしたく、父よりさきに上ってきたのです、おどのは、いま、京に?」
「いいえ。しかし、長谷川さまのご用向きのお手伝いということであれば、4日ほどで呼びもどせます」
銕三郎は、さげた頭をあげ、勇五郎の目をしかと見つめた。
勇五郎の目は、かすかに笑っていた。
その目は、
(盗賊の探索ではございませんな)
と問いかけている。
銕三郎はうなずいた。

参照】2008年11月25日[屋根船
2009年1月2日[明和6年(1769)の銕三郎] () () (
2009年5月21日~[真浦(もうら)〕の伝兵衛] () () () (


) () () () () () () () (10) (11

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2009.07.19

高杉銀平師が心のこり

高杉道場内の北側の隅で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が声をひそめて語っている。
左馬さん、道斎先生のお診立てはどうなのだ?」
「それが、はっきりとはおっしゃらないのだ」
「左馬さんの訊き方が手ぬるいとはおもえないし---」
「先生の病室でははばかれるから、道斎先生の家まで行き、何を食べさせれは精がつくかとせがんだのだが、首をふられるばかりであった」

高杉銀平(ぎんぺい 66歳)師も、銕三郎左馬之助井関録之助(ろくのすけ 24歳)へそれぞれ皆伝を授けたから、剣師としては、もう、思い残すことはないと言いつづけてきた。
「人は生まれ落ちたときから死に向かって歩いている。人はとりあえず50年も生きれば、与えられ生命はまっとうしたとおもわねがならぬ。しかるに、わしは、さらに16年も生かしてもらっている。わが身にはすぎたことよ。いつ、どうかなっても頓着するでないぞ」

「もしものときに、お知らせする高杉先生のご縁の方々のお名は?」
「お訊きしても、その必要はない。中川の土手の端にでも穴を掘って埋めてくれればそれでいい。墓など無用である---とおっしゃっているのだ」

左馬さん。拙は4,5日のうちにも、父に代わって京へ先発しなければならぬ風向きなのだ。先生のことは、くれぐれもろしく頼む。もしもし、金が入用なら、父が離府していたら、用人の松浦与助 よすけ 先代 56歳)に遠慮なく言いつけてくれ。父からもようく言い聞かせておいていただくから---」
「こころ強い。まあ、ほどほどのことなら、臼井のわが里(臼井 現・千葉県佐倉市臼井)の方でもなんとかしてくれるとはおもうが---」

「それより、そなた、精の吐きだしはどうしておるのだ?」
率直に訊く。
独り身の青年の悩みの半分はこれである。

「懐(ふところ)しだいだ。あまっている時は、入江町の鐘楼下の娼家〔浦安屋〕で放出(ほうでん)しておる、それがどうかしたか?」
「〔橘屋〕のお(ゆき 27歳)どのとは---?」
「ちかごろ、とんと顔をあわしていない。かの人とだと、音羽の出会茶屋のかかりがたいへんなのだ」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]では、銕三郎は、青年時代を入江町の鐘搗堂(時ノ鐘)のまん前の家ですごしたことになっているが、そこにあった長谷川家(同じく400石)は、京都系統の家。鐘搗堂の下には3軒の私娼家があったと史料に記されている。

Photo
(入江町と池波さんが想定した長谷川邸と、邸前の時ノ鐘屋敷 近江屋板)

参照】2008年10月22日~[〔橘屋〕のお雪〕 () () () () () (

青年がとおりすぎなければすまされない道しるべだった。
とすれば、いちど嫁いだ躰ではあるし、あとへのかかわりがなしに楽しめた相手であったのであろう。

高杉先生は、まさかのときの道場を、左馬さんに任せるとはおっしゃらないか?」
(てつ)さんが旗本の嫡男でなければ---とは、おっしゃったことがある」
「おれが駄目なことはお分かりのはずだが---」
「剣は、腕よりも人品だとおもっておいでなのだ」
「無欲ということでは、左馬さんのほうが、おれなんかより数段上だ」
「人品と無欲はちがう」
「そうかな」

「それはそうと、京へ先発するのは、なぜだ?」
「それが、おれにも、よくはわからぬのだ」
「お上には、隠しごとが多すぎるな」
「まったく」
さんがそう言っては、実もふたもない」
「はっ、ははは」
「う、ふふふ」
「しっ---」

「おんなのことで相談ごとがあったら、町駕篭屋の〔箱根屋〕の権七(こんしち 40歳)どのか、今戸の〔銀波楼〕の小浪(こなみ 33歳)どのに頼むといい」
「分かった」
小浪どのなら、いい遊び友だちを世話してくれよう」

(これで、左馬さんへの手くばりは、なんとかすんだ。おんなのこととなると、手近にしか目がいかない仁だから---)
銕三郎は、自分のことは棚にあげて、そう断じた。いい気なものである。

岸井左馬之助のヰタ・セクスリアス
参照】2008年10月22日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)


銕三郎のヰタ・セクスリアス
2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]
2008年1月2日~[与詩(よし)を迎に] (13) (14) (41
2008年6月2日~[お静というおんな] (
2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍] (

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2009.07.18

井関録之助が困った(2)

「〔万(よろずや)屋〕どの。井関録之助(ろくのすけ 23歳)の用心棒料ですがな---」
長谷川さまのお言葉ですが、こんどの大火で、商いが細りましてな。諸事節約をいたしませんと---」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)の言葉をさえぎった茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 51歳)は、あぶらぎった顔に、初冬の寒さなのに、額に汗をうかべている。
日本橋・浮世小路の上方うなぎの〔大坂屋〕の2階である。

「しかし、鶴吉(つるきち 11歳)の手習い・そろばんの束脩(そくしゅう 月謝)でケチるわけにはいかぬでしょう」
「それは、仰せられるまでもなく---」
井関は、鶴吉の手習いをみてやっておるのです。鶴吉がご新造の子であれば---」
「〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)元締がお亡くなりになってからというもの、急に重石がとれたように、あれが強気になりましてな」
「やはり、ご新造の差し金でしたか---二代目・今助は、拙や井関の親友です」
「え?」
「ご新造にそうおっしゃってくださってもけっこうです。ご新造の行状は、今助元締につつぬけ---と。今助がご新造をゆすりにきても、井関も拙も仲に立ちいりませぬとな」
「ふむ」

「それから、〔万屋〕どの。いつだったか、盗賊に持たせて返す200両(3200万円)を用意しておると申された。それだけの金があれば、井関や寮のたつき(生計)の金子は5,6年は払えましょう」

ちょうすけ注】池波さんは、『鬼平犯科帳』の最終巻近くでは、1両を気前よく20万円に換算していたが、研究者の分野では、当今16万円前後が妥当としている。
参照】2006年10月21日[1両の換算率

参照】2009年5月31日[銕三郎、先祖がえり] (

井関さんは、盗賊ともお親しいとでも---?」
「ご主人。そんなことは申してはおりませぬ。拙の父は、盗族改メのお頭ですぞ」
「失言いたしました」

「ただ、井関は、四ッ目通りの〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕という店と親しい」
「なんですって?」
「〔盗人酒屋} 」
「盗賊が出入りしているので ございますか?」
「それはしらぬ。ただ、盗賊改メの与力・同心衆が飲みには行っている」
「分かりました。しばらく、200両をとりくずすことにいたします」
「お分かりいただいて、拙も安堵いたしました。ご新造どのにもよしなにお伝えくだされ。では安心して、うなぎを賞味させていだく」

「ところで、長谷川さま。井関さんは、乳母のお(もと 36歳)といい仲とか---」
「それが、〔万屋〕の商いの差しさわりにでも---?」

【参照】2008年8月26日[若き日の井関録之助] () (

「いえ---」
「〔万屋〕さんがおどのに気がおあり---?」
「めっそうもありません。それほど、不自由はしておりません」

「そうそう。ご老職の田沼(意次 おきつく 54歳)さまに頼みたいことでも生じたら、いつにても取り次ぐ」
「いや、その節は、お世話になりました」
「お仲間に、いい顔になられたのでは---?」
「お蔭さまで---」
「大商人は、顔が大切ですぞ」
「恐れいりました」

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2009.07.17

井関録之助が困った

長谷川先輩。親父は、本気のようなのです」
井関録之助(ろくのすけ 23歳)が、言うと、
(ろく)さん。お父上の不始末より、〔万屋〕からのお手当てが減らされることのほうが先でしょう?」
脇から、お(もと 36歳)が口をはさんだ。

東本所・小梅村の大法寺の隣りの〔万屋〕の寮である。
高杉道場での稽古がすむと、父親のことで相談があると、録之助銕三郎(てつさぶろう 27歳)をいざなった。
茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 51歳)が女中のみわ(19歳=当時)に産ませた鶴吉(つるきち 11歳)が乳母・おとひっそりと暮らしているこの寮に、用心棒という資格で住みつき、13も齢上のおとたちまちできて、5年になる。

参照】2008年8月24日[若き日の井関録之助] (

「わかった。〔万屋〕の手当てからから話そう」
〔万屋〕は、これまで、鶴吉の用心棒寮として月1両2分(24万円)をとどけてきていた。

ちょうすけ注】池波さんは、『鬼平犯科帳』の最終巻近くでは、1両を気前よく20万円に換算していたが、研究者分野では、当今16万円前後が妥当としている。
参照】2006年10月21日[1両の換算率

しかし、この晩春の行人坂の大火で、得意先の3分の1ほどが消失したので、商売もそれだけ目減りしたので、半額にしてほしい、と言ってきたというのである。

もちろん、寮の生活費も3分の2に縮めるようにと、おもいわれている。
商売の目減りを口実に、〔万屋〕の家つき女房・お(さい 47歳)の強談判であろう。

大火のあと、諸色の値段があがっているので、じつは増額を申し出ようとおもっていた矢先の始末であった---おも訴えた。
(訴える先が違う)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)はおもったが、黙っていた。

「鬼はばあ、殺してやる」
鶴吉が叫んだとき、銕三郎はほおってはおけないと意を決した。
鶴吉は、そろそろ、母親がおに毒殺されたことをに気がまわりかねない年齢になってきてい。

「掛けあってみるが、さんの手当ての半減は、いたし方がないかも知れない」
長谷川先輩。〔木賊(とくさ)〕〕の2代目元締・今助からも、振り棒師範の中休みを言われたのです」
「〔銀波楼〕も全焼したし、浅草寺境内の床店の多くも焼けたし、ここしばらくは、棒降りでもあるまいからな」
(目黒・行人坂の大火の影響は、さんにまで及んできたか)
銕三郎は、火事の怖さをあらためて実感した。

「それで、さんの父上のほうは、なんだ」
「新吉原が全焼して、廓(なか)があちこちに分散していることは、長谷川先輩もご存じでしょう。この先の小梅瓦町にも、どぶぞいにあった〔壬生屋〕というのが仮屋を建てて客を呼んでいるのですが、そこの妓(こ)に、親父がはまってしまい、金の無心に来はじめたのですよ」
「お父上は、何歳におなりかな?」
「精力の枯れどきの48歳です」
「たそがれ刻(どき)の雨はやまないと言うからなあ」
「そんな---」

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2009.07.16

小川町の石谷備後守邸(2)

「それでは、それがしは、これにて---」
京都所司代の公用人・矢作(やはぎ)喜兵衛(きへえ 38歳)が告げると、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳 800石)は、
「さようですか。ご用のおもむきは、しかと、田沼侯へお伝えすると、所司代さまへお伝えくだされ。で、京へのお戻りは?」
「明後日です」
「つつがいお旅を---」
「ありがとうございます」
手を打って控えの者を呼んで矢作を案内させておいて、

長谷川どの。お引きあわせしておきたい仁がおります」
「はい」

控えの者が戻ってくると、
中井うじを、これへ」
命じた。

別の部屋で待っていた60歳ほどの、腰がまがりかけている、ふっくらとした、羽織姿の老人がみちびかれてき、部屋へは入らず、廊下に坐った。
中井うじ。そこでは話が遠すぎる。こちらへ」
清昌がうながしても、動こうとはしない」
「こちらへ、と申しておる」
声を荒だてるように言われ、はじめて、膝すすみで入ってきた。

長谷川どの。西丸のご膳所頭の中井富右衛門うじです。有徳院殿吉宗)さまが紀州からお連れになりました」
富右衛門は、蟹の甲羅のように平べったい顔を畳にすりつけて、挨拶した。

有徳院殿についてきたといえば、石谷清昌の父・権左衛門清全(きよのり 享年82歳)もそうだし、田沼意次の父・喜左衛門意行(もとゆき 享年47歳)もそうであった。

中井うじ。長谷川どのへのお願いの筋を、自ら申されよ」
清昌のすすめで、喜右衛門は、徒組の甥に、ご所不正の探索を申しつけてほしいと頼んだ。

喜右衛門が、西丸・目付の佐野与八郎政親(まつちか 41歳 1100石)に願ったところ、近く、京都西町奉行として発令される長谷川どのに、じかに頼むようにすすめられたという。
石谷備後守のところの用人の中井専右衛門が同族なので、口をきいてもらったら、きょう、お引きあわせしようと言われたと、恐るおそる述べた。

「あい、分かり申したが、まだ、辞令を受けたわけではないので、正式に用務を命じられたら、上へお願いしてみるが、ご所お役人衆の不正のこと、甥ごへはどのようにして伝わり申したのかな」
「甥が申しますに、すでに徒目付衆、小人目付衆のうちから何人かが京師へ潜行しておられるので、気が気でないと申しております」

宣雄は、石谷奉行へ目で、
(内密の探索が、もう洩れているようでは、困りましたな)
伝えると、奉行も、さもこころもとなさそうな表情になった。

「お上からご所へお渡ししている諸掛かりのことゆえ、洩れてはこまるのじゃがな---」
形だけでも、中井富右衛門に釘をさすようにつぶやいた。

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2009.07.15

小川町の石谷備後守邸

銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、東本所・四ノ橋橋界隈の〔盗賊酒屋〕で、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)と他愛もないむだ話をやりとりしていたころ---というのは、明和9年9月中旬(旧暦)であるが---。 

長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 火盗改メ・組頭)は、雉子橋通小川町(きじばしどおり・おがわまち)にある勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳)の屋敷に呼ばれていた。
石谷清昌とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 相良藩主 3万石)が側用人時代に、木挽町の中屋敷で幾度か会ったことがあった。
宣雄は、能吏としての石谷清昌に一目おいている。
清昌は、田沼意次とは別の意味で、宣雄の独創の才能と清潔さを買っていた。

参照】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (
2007年12月12日~[平蔵の五分(ごぶ)目盛り紙] () () (
2009年5月7日[相良城の曲輪内堀の石垣] (

「こちらは、所司代・土井大炊頭(おおいのかみ)侯の公用人をおつとめの矢作(やはぎ)どのです」
ひかえの者を遠ざけてから、清昌が先客を紹介した。

土井大炊頭利里(としさと 51歳)といえば、下総・古河(こが)藩主(7万石)で将来の老中候補である。
御所の修理がなった仙洞院について幕閣への報告に、代理として、こころ利いた矢作喜兵衛(38歳)を下らせたのである。
矢作は、小柄だか引きしまった躰をしており、なにより、目が澄んでいて、頭の回転がはやそうにみえた。

「これから申しあげることは、所司代の役人衆も存じおりませぬ。大炊頭侯とこちらの矢作どの、それに田沼侯だけが胸を痛めておられることゆえ、ゆめゆめ、ほかへお漏らしにならぬよう。長谷川どのには、近々、京の西町奉行職が発令になりましょう。ついては、このこと、含みおかれて、ご着任までに、なんぞ、方策をおたておきいただければと---」
石谷勘定奉行のひそやかなもの言いに、矢作喜兵衛も声をださないで大きくうなずいた。

この10年ばかり、御所の経費が目立ってふくれているのだという。
御所の経費は、山科の代官所が検閲し、割りあててある金額を超えたばあいは、幕府からの貸付金の名目で補っているが、その金高が、黙視できないまでにふくれあがってきていた。
これには、御所の役人の不正がからんでいる疑いもある。
ただ、禁裏のことゆえ、下手に表沙汰にするわけにはいかない。

長谷川どの。京へ赴任されたら、秘密のうちにお調べ願えまいか」
さすがに、怜悧といわれた石谷勘定奉行である。
平蔵宣雄なら、あるいは、探索の糸口をつかむやもしれないと、厳秘の事項を話したのであろう。

宣雄は、勘定奉行からの、まるで雲をつかむような依頼に、ただただ、頭をさげて請けるしかなかった。
まあ、まだ正式に京都町奉行を下命されたわけでもない。
また、禁裏のことは東町奉行の所管であるから、西町奉行の噂が洩れている自分が解決しなければならない事項でもあるまいと、半分、気軽に考えていた。

その宣雄のこころのうちを察したように、石谷勘定奉行は、
「この任は、長谷川どのへ、と仰せられたのは、木挽町の君です」
「はっ---」
とたんに、宣雄は、胃がきりきりと傷むのをおぼえた。

「京の町奉行所の与力・同心は、代々、土地(ところ)育ちの者たちゆえ、禁裏の役人や町方商人と縁故やなじみができていることもあろうゆえ、このこと、洩らしてはならぬと、木挽町が申しておられます」
「では、手の者は?」
銕三郎どのがおられよう。それに、江戸から、徒(かち)目付、小人目付を選んで上京させるもよろしかろう」
宣雄は、思わず大きく息を吐いた。
石谷はそれを見ると、初めて眉根をゆるめ、笑顔をもらした。


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2009.07.14

彦十、名古屋へ出稼ぎ

「おや、彦十どの。お久しぶり〕
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が声をかけると、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)は、齢甲斐もなく首をすくめて、
(てっ)つぁんよう。、遠国(おんごく)盗(づと)めに出むくんで、しばらく会えなくなりやす」
「ほう、どちらへ?」
「尾張は名古屋でやす」

板場(はんば)から顔をだした〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)が、
「名古屋といえば、〔鳴海(なるみ)〕のお頭?」
「こんどは、そうではねえんで。〔万場まんば)〕のお頭の助っ人でやす」

ちゅうすけ注】初代・〔鳴海〕の繁蔵(しげぞう 45歳前後=当時)は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[盗賊婚礼]に、また〔万場〕の八兵衛(はちべえ 40歳前後=同)は文庫巻10[むかしなじみ]に、どちらも尾張の盗賊の首領としてでている。

火盗改メ・本役のお頭の息・銕三郎がいても、2人とも遠慮なんかしないで、盗賊の〔通り名、呼び名ともいう〕を口にしている。
それだけ、銕三郎が裏の世界に通じたがっている。
また、香具師の元締や盗賊の首領、盗人(つとめにん)、土地の顔役にも信頼されるようになっている銕三郎である。
げんに、目黒・行人坂の放火犯の逮捕も、銕三郎つながりで挙(あ)がっている。

彦十どの。それじゃあ、しばらく、会えないかもしれない」
「あっしも、名古屋の盗めが終わったら、大坂の〔生駒いこま)〕の仙右衛門(せんえもん 40歳すぎ=同)お頭のところを手伝ってきやす」
「そういう長旅だと、お(たみ 24歳)どのもお連れかな?」
「とんでもねえ」

は、彦十がひょんなことから手をつけた、内藤新宿の豆腐屋の出もどりむすめで、この2年ばかり、本所の中ノ郷・横川町のあばら家でいっしょに暮らしていた。

「おさんが、留守を守ることをよく承知しましたな」
銕三郎もじつは、父・宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に転じそうだが、生まれて6ヶ月にもならない長女・於初(はつ)を連れての京のぼりは無理ということで、久栄(ひさえ 20歳)に、しばらく江戸に居残り、来春にでも来るように言ったところ、すねられて困っているのである。
久栄の言い分は、(てつ)さまがお奉行になったわけでもないのだから、銕さまも来春まで居残るべきであると。
たしかに、京都町奉行の任期は、たいてい6,7年だから、嫡男が半年遅れで合体しても、どうということはないのである。

「いえ。おは、大枚5両(約80万円)をつけて、千住2丁目の煮売り屋をしている甚五郎に引きとってもれえやした」

ちょうすけ注】池波さんは、『鬼平犯科帳』の最終巻近くでは、1両を気前よく20万円に換算していたが、研究者分野では、当今16万円前後が妥当としている。
【参照】2006年10月21日[1両の換算率

「おいおい、彦十どの。それはむごすぎませぬか」
「なあに、あっしみてえな浮き草稼業の男にくっついているよか、おとしても、安定した暮らしができるってえもんで---」
「まあ、夫婦(めおと)仲のことには、他人が口をはさんではならないが---」
どのにとっては、おんなよりも雄鹿の、なんとか言ったな---あっちのほうが頼りになるんであろう)
銕三郎は、それきり、おのことには触れなかったし、
「拙は、父上について、京へ行くことになるかも---」とも言いそびれてしまった。

このあと、銕三郎---いや、この時は火盗改メ・助役(すけやく)の鬼平だが---が彦十に再会するのは、16年後の天明8年(1788)1月、彦十53歳、鬼平43歳、本所・横川べりで。
そう、文庫巻1[本所・桜屋敷]の中であった。
この時に彦十は、香具師あがりということになっている。

彦十はともかく、〔盗人酒屋〕の忠助である。顔色がすぐれない。
さん。躰がどこ悪いのではないですか? そこの田中稲荷西隣りの了庵先生に診てもらったら?」
「診立ててもらいやした。肝の臓がよくねえってことで、酒をとめられやした」

_360
(四ッ目の〔盗人酒屋〕の南に田中稲荷(赤地))

【参照】了庵医師 2008年4月30日[〔盗人酒屋〕の忠助 () (


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2009.07.13

池田又四郎(またしろう)

このあたりで、聖典の文庫16[霜夜]の主役、池田又四郎に触れておかないわけにはいかない。

もちろん、ほかにも、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、京都西町奉行として赴任する父・宣雄(のぶお 54歳)にしたがって京へのぼる前に消息を記しておかなければならない仁には、高杉銀平(ぎんぺい 66歳)師、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)、井関録之助(ろくのすけ 23歳)、〔たづがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)とそのむすめ・おまさ(16歳)、そして〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50歳すぎ)とむすめ・おなつ 2歳)などがいる。
これらの仁は、銕三郎が京から帰ってくるあいだに、身辺が激変しているからである。

にもかかわらず、まず、池田又四郎を選んだのは、池波さんが描いた銕三郎とのかかわり方では、史実とあわないからである。
そこに、ちゅうすけの苦衷がにじむ。

鬼平犯科帳』に描かれている又四郎は、銕三郎の4、5歳下で、200石の幕臣・池田邦之助の弟。
本所・亀沢町の家から高杉道場へ通ってきていた。
〔すっきりとした細身〕の躰つきながら剣の筋はよく、左馬之助でさえ、3本に1本はとられることがあるほどであった。
言葉にときどきどもるくせがあることから、京橋の大根河岸にあるうさぎ汁を名代にしている〔万七〕のふすまごしの声に、平蔵とっさに、又四郎だと察しをつけた。
20数年ぶりにもかかわらずである。

そう、この又四郎は、20数年前に、銕三郎たちの前から、突然、姿を消した。
もし、『寛政重修l諸家譜』に兄・邦之助が収録されていたら、又四郎の項は、

ゆえなく逐電し、行く方知れず

と記述されていよう。

霜夜]は、養子にきてもらって家名を継がせるという銕三郎の申し出を又四郎が断ったためとされている。
もちろん、その裏には、銕三郎が義母を殺害するたくらみを見ぬき、そうはさせないために身を隠さざるを得なかった、とあかされている。

さらに、池波さんは、又四郎銕三郎に恋情をいだいていたことも書きくわえている。
つまり、男おんなになって愛されることをのぞんでいたというのである。

おもしろい設定ではある。
ただ、銕三郎に、稚児を好む性癖がなかったために、又三郎は失意したのである。

しかし、史実は、すでに幾度も明かしてきたように、義母の波津子は、銕三郎が5歳のときに病死していたばかりか、病身で、宣雄の妻ととどけられても、病床から立つことができず、妻としての、義母としてのつとめは一切していないとみる。
宣雄の奥向きの世話は、銕三郎の実母・(たえ)が、長谷川家にいてとり仕切っていたのである。
の実家は、知行地の一つ---上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の村長(むらおさ)であったと推測されている。

そういう次第だと、銕三郎又四郎を養子にするために、養母・波津子を殺すのをおもいとどまらせるために、又四郎が逐電するというのは、筋がとおらない。

とすると、彼の家出は、やはり、銕三郎への思慕がつうじなかったためとしたほうが、辻褄があう。
とはいえ、又四郎がどのように誘いをかけ、銕三郎がどう拒絶したか、ちゅうすけには想像もつかない。
いや、まったくだらしがない。
ここで、艶っぽい場面が描ければ、ひょっとしたかもしれないのだが。

文庫巻11[男色一本饂飩]で、大男の算者指南・竹内武兵衛木村忠吾の唇を吸う描写---、

侍の、大きな顔がぐっと迫ってきたとおもったら、矢庭(やにわ)に忠吾の唇へ侍のそれが吸いついてきた。あっという間もなく、まるで鯰(なまず)のは切身(きりみ)のような侍の舌がぬるりと忠吾の口中へさしこのまれ---

ぞっとする。
又四郎は、もっと美しく銕三郎をいざなったはずだが---。

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2009.07.12

佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)は、西丸・目付になって満5年近くになる。
目付という職掌がら、口が重い。

その政親は、弟あつかいをしている銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に取り立てられる風評が、すでに西丸の上層部でもひそかに流れていると漏らしたばかりか、この京都行きには、幕閣から内々の密命がこめられるらしいことを、暗に告げた。

帰宅した銕三郎は、まわりに人の気配がないことをたしかめ、宣雄に話すと、
「番方(ばんかた 武官系)できたわしに、役方(やくかた 行政官系)がつとまるとはおもえぬ」
宣雄は否定はしないで、勤務がきびしいことを匂わせた。

「それはそうでしょうが、番方から役方にまわられた衆は少なくありませぬ。げんに、京都西町ご奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)さまも、わが家とおなじ両番の家筋です」
宣雄は、言っても仕方がないとおもったのであろう、太田正房は、実は分家・支家一門の多い水野の家系の五左衛門忠意(ただもと 享年35 500石)の次男で、太田家に養子に入り、そこのおんなを妻したことまでは、教えなかった。
女系のことをいうと、嫁・久栄(ひさえ 20歳)にも、奥どうように遇してきている銕三郎の母・(たえ 47歳)にも、余計なおもわくを与えることもばかったこと。

銕三郎は、そうした父の思慮にまではおもいがいたらない。
なおも、京師東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000俵)も両番の家筋だから、父上が任命されても不思議はないと言いはる。
よほどにうれしかったのであろう。
ついでに口をすべらせた。
佐野の兄上は、老・若(老中・若年寄)方から、特別任務が密命されようとも---」

(てつ)。口が軽すぎるぞ。与八郎どのは、伊達に目付をなされてはおらぬ。そのような極秘の大事をお漏らしになるとはおもえぬ」
「あ。父上はご存じなのですね?」
「しらぬ。か、京の極秘のことといえば、だいたいのところは推測がつく」
「わかりました。詮索はいたしませぬ」
「もし、わしが京の町奉行に引き上げられたとしても、おそらく、に、手つだわせるわけにはいかない密事であろう。忘れよ」
「はい」
「そのこと、2度とふたたび、口にだしてはならぬ。久栄に話すことも禁じる」
「断じて---」

「話はかわるが、仮に、仮にだ、わしが京へ赴任することになったとして、久栄はどうするな?」
宣雄は、生後3ヶ月初女孫・於初(はつ)をかかえての道中を案じているのである。

「首がすわるまで、同道は無理かとおもいます」
「かわいそうだが、来春まで、留守番をしてもらうことになろうな」
「拙はお供をします」
「あたりまえだ」
これで、銕三郎は、父・宣雄の京都町奉行は、風説ではないことを確信した。

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(京都西町奉行の前任・太田三郎兵衛正房の[個人譜])

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2009.07.11

佐野与八郎政親

佐野どのの長屋門ができあがったそうな。名代として、午後にでもお祝いをとどけてもらいたい」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、父・宣雄(のぶお 54歳)に言いつかった。
(そういえば、佐野の兄上にも、4年ほどご無沙汰していたな)

参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親} () () (
2007年9月28日[『よしの冊子(ぞうし]) (27
2008年11月10日[宣雄の同僚・先手組頭] () () () () (

銕三郎は忘れている。
たしかに4年前、佐野政親から、銕三郎は、先手・鉄砲の組頭の誰かに、父・宣雄の役職である先手・弓の8番手の席が狙われていると教えられた。

_100その探索の行きがかりで、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)と躰をあわせてしまった。(歌麿 お竜のイージ)
銕三郎は、おんなおとこ(女男)だったおの中へ入った初めての男となった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

につながる思い出が強烈だったせいか、銕三郎は、去年の春、茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんうえもん 51歳)の頼みをきいて、農家が茶を喫することを禁じた古いお触書(ふれがき)を廃する手くだを伝授した行きかがかりで、田沼意次(おきつぐ 53歳=当時)の用人・三浦庄司と会った。

その1年前---明和7年(1770)だが、おとともに相良へ行き、ほとんど完成していた曲輪内堀の石垣を見、そのことを木挽町の中屋敷で意次に報告したときに、いつものように佐野与八郎も同席していた。

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

参照】2009年6月1日[銕三郎、先祖返り] (

松造(まつぞう 21歳)に角樽をもたせて、永田馬場南横寺町の佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の屋敷へ溜池にそって坂をのぼる。

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(永田町馬場近くの緑丸=佐野家)

あたりの大名屋敷は、さかんに建築の仕上がりがすすんでいる。
そんななか、佐野の屋敷は、長屋門を焼いただけで母屋は奇跡的に火をかぶらなかった。

1000石級の長屋門ともなると、門扉の板も乳房鉄(ちぶさがね)をあしらった堅固なものであった。

ちゅうすけ注】乳房鉄とは、女性の乳房と乳頭の形をした釘頭隠しの金具。

政親が下城したころをみはからっての訪問なので、書院へ通された。
父からの口上を述べると、政親は笑って、
「そう、気ばられずともよい。こたびの、付火人(つけびびと)の逮捕には、銕三郎どのの交誼がずいぶんと役だったそうですな」
「あ、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のことまで、お耳に達しておりましたか」
「組頭どのが申されておりました。銕三郎どのの顔は、慮外なほどひろがっておるとな」
「恐れいります。怪我の功名です」

「ところで、柳営では、組頭どののこたびのお手柄で、遠国奉行へ栄転なさるげな噂が、ささやかれておることをご存じかな?」
「いいえ。父からはなにも---」
「京都あたりと、漏れきいております」
「京---」
「西町ご奉行あたり---」

「しかし、佐野の兄上。わが長谷川家は両番(書院番士と小姓組番士)の家柄ではありますが、祖父・宣尹(のぶただ 享年35歳)までは、だれひとり、役付までのぼった者はおりませぬ。父が小十人頭はおろか、先手の組頭まであがっただけで望外なこと---」
「これ。銕三郎どの。お父上の才腕を、低く見つもってはなりませぬ」
「しかし---」
「上つ方々は、もっと買っておられるのですぞ。それに---」
「それに---?」
「禁裏の役人たちの---」
「京のご所のお役人たちの---?」
「いや。これは、口をすべらすわけにはいかぬことでありました」

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2009.07.10

7月の[鬼平クラス]リポート

2009年7月5日の静岡SBS学苑の[鬼平クラス]のテキストは、文庫巻10[むかしなじみ

SBS学苑の主体は、静岡新聞社と静岡放送である。
鬼平クラス]は5年ほど前に開講し、月1で、ふつうは第1日曜の午後1時から1時間半ゆっくりとレクチャー、それからビデオを鑑賞。
年に2回ほど、ウォーキングと称して、東京やそのほかの鬼平ゆかりの地、県内の地をめぐる。
なにしろ、長谷川家の祖で、史料がのこっているのは、焼津市の小川(こがわ)や藤枝市の田中城なのである。

さて、[むかしなじみ]は、1973年の『オール讀物』8月号に掲載された、〔相模さがみ)〕の彦十爺(とっ)つぁんが主役のものがたり。

彦十爺(とっ)つぁんといえば、われわれはとっさに、江戸屋猫八師匠の、あの飄々とした人物を連想する。
しかし、猫八師匠の彦十役は、吉右衛門丈=鬼平からで、原作が書かれていた1973年---幸四郎丈=鬼平がおわって2年後--池波さんが承知していたテレビの彦十役は、河村憲一郎さんであった。

つぎの丹波哲郎さん=鬼平のときの彦十役は、岡田映一さん。
萬屋錦之介さん=鬼平のときが、植木 等さんとのちに西村 晃さん。

いっぽう、彦十が登場した篇を書きだしてみると、

1-2 本所・桜屋敷 p65 新装版p69
1-8 むかしの女 p277 新装版p93
2-6 お雪の乳房 p255  新装版p266
3-1 麻布ねずみ坂 p20 新装版p21
4-6 おみね徳次郎 p227 新装版p238
4-8 夜鷹殺し p278 新装版p292

---と、[夜鷹殺し]で、平蔵に対して初めて、一人前の口をたたく。

「近ごろ、こんなに腹が立つことたあ、ごぜえやせんよ。ねえ、旦那。夜鷹も将軍さまも---」
白髪(しらが)まじりのあたまを振りたてていいかけるのへ、平蔵すかさず、
「同じ人間だからな」
「さすがに銕つぁんの旦那だ」

つぁんではなく、その下にまだ「旦那」がくっついていた。

5-1 深川千鳥橋 p23 新装版p24
5-2 乞食坊主 p71 新装版p74
5-3 女賊 p99 新装版p104
5-4 おしゃべり源八 p143 新装版p150

と、ところを得た魚のように、のべつ、出番をあたえられている。

どうしていこうなったか?
大本は、幸四郎丈=鬼平のテレビ化の実現をすすめた、プロデューサー・故・市川久夫さんの助言だとおもう。
市川さんに、あるとき、
「テレビのシリーズには、柱となるヒロインが必要と、おっしゃって、おまさを登場させたのは、あなたでしよう?」
と問いかけ、
「ご名察のとおり」
と答えられた。

その伝でいくと、テレビのシリーズ化には、狂言まわしのコメディ・リリーフが、木村忠吾ひとりではもたない---とも提言されたのではなかろうか。
で、急遽、彦十爺っあんの狂言まわし化がはかられた。

さらに、

4-1 霧の七郎で、辰蔵
5-2 乞食坊主で、井関録之助http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/08/post_3904.html
5-6 山吹屋お勝で、三沢仙右衛門
6-5 大川の隠居で、船頭の友五郎
7-6 寒月六間堀で、茶店〔笹や〕のお熊(くま)、
10-3 追跡で、辰蔵の遊び友人・阿部弥太郎
11-3 で、〔帯川おびかわ)〕の源助
18-1 俄か雨 細川峰太郎

また、テレビでは、料理通という設定で、同心・村松忠之進(この仁は、1-2 本所・桜屋敷に、与力として名があがっている p80 新装版p85)

その中でも、彦十は、鬼平銕三郎時代のつなぎ役として、おまさ、おとともに、重い地保をたもちながら、おかしみをかもしだしているのである。

テレビでの[むかしなじみ]は、幸四郎丈のときと、錦之助さん、吉右衛門丈の3回制作されているが、奇妙なのは、前者の脚本家は野上龍雄さん、錦之介さんと吉右衛門丈の撮影は野波静雄さんの脚本ですすめられている。

クラスでは、吉右衛門丈のビデオをかけたが、幸四郎丈の物語の組み立てと、彦十の性格づくりも見てみたいものである。


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2009.07.09

ちゅうすけのひとり言(35)

当ブログのタイトルは、[『鬼平犯科帳』のWho's Who]である。
仮に訳すと[『鬼平犯科帳の紳士録』]であうろか。

盗賊に「『紳士録』はおかしい」---ということなら、[『鬼平犯科帳』銘々伝]なら、納得していただけよう。

いや、ありていは、[長谷川平蔵をめぐる銘々伝]と呼んだほうが、より正確かもしれない。
もっとも、この場合、「平蔵」は、平蔵宣雄(のぶお)、銕三郎(てつさぶろう)平蔵宣以(のぶため)、辰蔵(たつぞう)平蔵宣義(のぶのり)の3人に「かかわりのある」---と、いうことになるのだが。

うち、宣雄宣以に共通して大きくかかわるのは、火盗改メであろう。

そこで、ブログのタイトルの[Who's Who]にふさわしく、中間報告ということで、これまで『寛政重修l諸家譜』から『個人譜』引いた、火盗改メの逆順リストに、リンクを張って、アクセサーの便宜をはかっておこう。

明和9年(1972)~同年10月3日 助役
 中山主馬信将のぶまさ

明和8年(1971)7月29日~同9年2月22日卒 本役
 中野監物清方きよかた

明和7年(1770)11月24日~同8年5月3日 助役
 永井采女直該なおかた


明和7年(1770)10月21日~同8年11月21日 助役 病免
 平岡与右衛門正敬ただよし

明和7年(1770)7月22日~同8年5月3日 増役 再任
 浅井小右衛門元武もとたけ


明和7年(1770)6月27日~同8年7月29日 本役
 石野藤七郎唯義ただよし


明和6年(1769)9月25日~同7年4月24日 助役
 菅沼主膳正虎常とらつね


明和6年(1769)6月13日~同7年6月27日 本役
 松田彦兵衛貞居さだすえ


明和5年(1768)10月4日~同6年3月29日 助役
 仁賀保兵庫誠善しげよし) 


明和4年(1967)10月23日~同6年10月13日 本役
 長山百助直幡なおはた


明和4年(1767)9月22日~同5年6月2日 助役
 荒井十太夫高国たかくに


明和3年(1766)9Z月8日~同4年4月10日 助役
 遠藤源五郎常住つねずみ


明和3年(1766)3月15日~同4年6月25日 本役
 細井金右衛門正利まさとし


明和2年(1765)9月8日~同3年6月18日 助役
 長谷川太郎兵衛正直まさなお) 


明和1年(1764)9月7日~同2年5月24日 本役
 笹本靱負忠省ただみ


宝暦13年(1763)11月26日~明和1年4月6日 助役
 笹本靱負忠省ただみ


明和13年(1763)10月3日~明和1年5月3日 助役
 長谷川太郎兵衛正直まさなお) 


宝暦13年(1763)2月267日~同年5月14日 助役
 笹本靱負忠省ただみ


宝暦12年(1762)2月27日~同13年5月14日 助役
 本多采女紀品(のりただ)

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(本多采女紀品の[個人譜])


宝暦12年(1762)9月10日~明和2年4月1日 本役
 本多讃岐守昌忠まさただ
 

【参照】松平太郎『江戸時代制度の研究 現代語訳 火附盗賊改

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2009.07.08

もう一人の付火犯

目黒・行人坂の付火(つけび)の犯人を挙(あげ)たということで、火盗改メの頭(かしら)としての長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)の声価は、江戸城内で一挙に高まった。
とくに、災禍にあい、屋敷を焼かれた幕臣たちは、宣雄をみかけるとわざわざ寄ってき、あいさつを投げかけた。
長谷川どの。胸のつかえがとれた感じですぞ。よくぞ、火刑にもちこんでくだされた」

その成果にかくれて、宣雄が評定所へ伺ったもう一つの付火犯にたいする減刑のことは、ほとんど語られることがなかった。

焼失した幕府の建物---虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門につづいて、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄と記しておいた(2009年7月2日 [目黒・行人坂の大火と長谷川組] () )

このうち、牢獄とあるのは、ふつうは小伝馬町の獄舎、あるいは囹圄(れいぎょ)といわれているところである。

火難がおよびそうなときには、獄舎に収容している者たちを解きはなち、一定の期間内に戻ってきた入牢者には、罰一等を減刑することになっていた。

宣雄の先役・中野監物清方(きよかた 50歳)組が捉え、小伝馬町の牢で処刑をまっていた放火犯・武州賀美郡(かみのこおり 現・埼玉県熊谷市)無宿の儀八こと清覚(せいかく)は、明和9年2月29日の大火のおり、解き放たれたが、鎮火後、期限内に帰牢した。

しかし、掛かりの中野清方はすでに病死によって解任され、長谷川宣雄が本役を命じられていたので、評定所へも長谷川宣雄名義で伺われたのである。
それが、『御仕置例類集』に収録されている。

参照】2009年6月15日[宣雄、火盗改メ拝命] (

:現代文に直して転紀してみよう。

火附盗賊改
 長谷川平蔵伺

一、附火いたした者で、牢屋類焼のとき、立ち帰った件について評議

          武州賀美郡無宿
               儀八こと
                  清 覚
右の者は、寺の垣を乗りこえて侵入し、木仏、打敷、多葉粉を盗みとり、または寺で傘をも盗んだ上、武州豊島郡前野村(現・板橋区前野村)・百姓文次郎居宅の前に積まれていた稲に附火したことは、重々ふとどき至極なので、町中引き廻し、5ヶ所に罪状を記した捨札を立て、火罪を申しつける旨、せんだって、中野監物からお仕置きのことを伺っておりました。ところが牢屋が焼失のとき、放(はな)ちましたが、とどこうりなく立ち帰ってきたことを、長谷川平蔵からご報告ずみであります。

この儀、盗みをするべく火をつけたのですから、監物の伺いのとおり、引き廻しのうえ火罪に相当しますが、牢屋類焼のために放ちやりのあと、ちゃんと立ち帰ってきた者は、刑を一等軽くするとのお定(さだ)めにしたがい、死罪は遠島・重追放ですが、火罪の一等軽くは遠島に準じ、無期懲役を申しつけたく、お伺いいたします。
 
 6月
 評議のとおり決。

大円寺の放火犯・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の火あぶりの刑が執行された翌日の、6月22日---。
宣雄銕三郎(てつさぶろう 27歳)を伴い、四谷の香華の寺・戒行寺を訪れ、真秀の鎮魂のための読経を、日選(にっせん)師に乞うた。
陽が照りつけている外では、蝉しぐれが、本堂での読経に和している。

ちゅうすけ補】火盗改メのときに、死罪・火罪にした者たちの供養をしてやる習慣を、銕三郎はこのとき、父・宣雄から学んだ。

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2009.07.07

目黒・行人坂の大火と長谷川組(6)

長五郎真秀(しんしゅう 18歳)は、ずるがしこく、しぶとかった。
昨日の自供と、今日の告白が食いくちがっている点を指摘されると、
銕三郎さまに話す」
と、しらをきる。

そのたびに、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が対面した。
「どうしたのだ? 正直に白状する約束ではなかったのか?」
「お役人は、おれがのっぴきならねえ悪(わる)のように、誘いこむだ」
「お前は、のっびきならない悪だ」
「んだども、江戸を焼きつくすほどの悪ではねうだど」
「だから、お前が、極楽へ行けるようにここの住持どのも、火付改メのお頭も導いておられる」
銕三郎さまは、どうだべ」
「拙は半々だな」
「半々?}
{いまのままでは、右足は極楽、左足は地獄」
「なしてだ?」
「お前が、正直でないからだ」

で、正直に自白すると約束をかわすのだが、すぐにまた、ごねた。
一日でも火刑を先にのばすための方便をつくしているとしかおもえない。

銕三郎は、18歳かそこらにも手におえない悪党がいることを悟った。
真秀は、934町が家を失い、14,700人が焼死したことに対して、まったく反省とか同情の念をみせなかったのである。
どこかが狂っているとしかおもえなかった。

父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)は、彼が放火から、捕まるまでの行状を、ことこまかに記録し、火刑が妥当との量刑を上申した。

それを待ちかねていたように、老中首座・松平右近将監武元(たけちか 63歳 上野・館林藩主 6万石)は、町中引き廻しの上、小塚原の刑場で火あぶりの刑をいいつけた。
処刑は、6月21日であったという。

宣雄が放火犯を追っていた最中の3月4日に、火盗改メ・本役の中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の死がみとめられた。
私見だが、じつは、中野清方は、大火の直前に卒していたのではなかろうか。
火事騒ぎのごたごたで、先手・弓の4番手の退職願いの届けと認可が4日まで遅れたとみる。
大火の7日前の2月22日に卒したとしている資料もある。

徳川実紀』の安永元年(---じつは改元前の、まだ明和9年)3月6日の項に、

先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。中山主馬信将をもこれにくわえらる。

つまり、宣雄は助役(すけやく)から本役(ほんやく)へよこすべりし、中山信将(のぶまさ 42歳 2100石)が宣雄のあとの助役にうめたということである。、

中山信将の家祖は、水戸家の家老・中山備前守信吉(のぶよし)の二男・吉勝で、信将は四代目、前年、先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に任じられていた。
屋敷は、小川町裏猿楽町。
組屋敷は、市ヶ谷五段坂。
与力5名、同心30人。

泥棒がはびこる火災後の重責である。

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(中山主馬信将個人譜)


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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2009.07.06

目黒・行人坂の大火と長谷川組(5)

「父上。所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の捕縛をお伏せになりましたこと、まこと至極のご処置と、感服つかまつりました」
夕餉(ゆうげ)のあと、茶を喫しながら銕三郎(てつさぶろう 27歳)が言うと、
(てつ)。そちは、焼失させられた町方の衆の恨みによる私刑のことを言うておるのであろう?」
「はい」

「そのような浅慮では、火盗改メは勤まらぬぞ」
「は?」
細井金右衛門正利 まさとし 60歳=明和4年 200俵)どののことを覚えておるか?」
「あっ!」

細井正利は、下掲の【参照】に『寛政譜』をかかげているとおり、明和2年(1765)58歳に先手・弓の5番手の組頭となり、翌3年6月18日から火盗改メの増役(ましやく)を命じられた。
増役とは、臨時に増員された加役(かやく)で、事件が多く、本役(ほんやく)と助役(すけやく)の2組では手がまわりかねるときに発令される。

参照】2008年6月11日[明和3年(1767)の銕三郎] (

細井が役を免じられたのは明和4年(1767)6月20日だが、前年の閏9月16日に、捕らえていた放火犯を獄にくだすべく言上したのはいいが、それが与力まかせの誤認逮捕で冤罪であることがわかり、職務怠慢・職責粗略のうえに誤審を糊塗しようとしたとみなされ、職をうばわれ、小普請におとされ、逼塞を命じられた。

「放火犯の確定はむずかしい。よほどに証拠がためをしてかからないと、評定所でひっくりかえることがあるのだ」
「たしかに。長五郎が放火したところを、大円寺では誰もじかには見ておりませぬ」
「脇の証拠ばかりよ」

そういうことで、平蔵宣雄の取調べは詳細をきわめた。

南本所・三ッ目通り長谷川邸の仮牢から、縄付きの長五郎を目立たないように裏門から横川に待たせある、ぐるりに障子をたてまわした屋根舟にのせ、数人の同心と小者が警備にあたりながら、横川から大川、江戸湾を南行して品川浦へ。
そこから目黒川を遡行、行人坂下の石橋・太鼓橋で下船してからも長五郎には深編笠をかぶせて大円寺の焼け跡へ連行した。

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(目黒・行人坂下の目黒川に架かる石の太鼓橋
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺の行人坂に面したところは目隠しの板塀が建てめぐらされ、通りからは証拠調べのぐあいが見とおせないように手くばりされていた。

長五郎は、ほんのボヤをおこして、その騒ぎのすきに金銭を盗んでにげるつもりだったようだが、烈風のために火勢が強められ、おもわぬ大火になってしまったと、悪びれることなく、放火の仔細を白状する。
しかし、宣雄は、それでは満足せず、さらに細かくつめていった。

放火現場の取調べは、3日おきに4日もおこなわれた。
(てつ)。なぜ、日をおくかわかるか? 口供の細部にくいちがいでるのを待っているのだ。そこを衝(つ)けば、真実がこぼれでる」

宣雄の遺漏のない検証は、幕府高官が讃嘆するところであった。


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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2009.07.05

目黒・行人坂の大火と長谷川組(4)

「火つけ犯人らしい所化(しょけ 修行僧)を捕えたことは、一言も洩らしてはならぬ」
火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)が、組下の者はもとより、大手柄の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締、火元の大円寺の住持をはじめ、一同に厳命した。

「洩らした者は、ご公儀に対する反逆の噂を広めた科(かど)で、遠島ではすまさない」
こう言ったときの宣雄の目はつりあがっていた。

もちろん、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、父・宣雄の危惧は痛いほど通じていた。
家を焼かれた者たちが、放火犯が捕縛されていると知れば、徒党を組んで私刑をくわえに押しよせる。
火盗改メの長谷川組の与力5人、同心30名では、とても防ぎきれない。

それでも大事をとった宣雄は、〔愛宕下〕の伸蔵に言いつけ、浜松町の町会所の町(ちょう)役人や書役(しょやく)を監視させるとともに、あの僧は調べた結果、かかわりないとわかったので放免したという噂を、ひそひそとながさせた。
その一方で、銕三郎の下僕の松造(まつぞう 21歳)の頭を丸め、長五郎が着ていた高位の僧衣を着せ、網代笠(あじろがさ)をかぶらせて、別の町を4,5日徘徊させるという念のいれようであった。

ことの経緯は、この明和9年(1772)の1月から3万石に加増されて正式老中に昇格していた田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳)には、こっそりと報告してあった。
意次は、配慮を忘れなかった。
「月番若年寄・加納遠江守久堅(ひさかた 62歳 伊勢・八田藩主 1万石)侯からあがるようになされよ」

幕閣たちは、それどころではなかった。
1000家を越す幕臣の家が焼失したのである。
町方の商家や職人の困窮もなみではなかったが、幕臣のそれは、幕府の威厳にかかわることだから、金蔵を空にしてでも再建資金を貸しあたえないわけにはいかなかった。

風俗画報 臨時増刊 江戸の華 中編』(明治32年1月25日)にによると、このときの幕臣の拝借金は次のように定められた。

1000石以上  50両(800万円)
900~800石 45両(720万円)
700石     40両(640万円)
600~500石 30両(480万円)
400~300石 20両(320万円)
250石     17両(272万円)
200~100石 15両(240万円)
100~80俵   7両(112万円)
 70~50俵   5両( 80万円)
 40~30俵   3両( 48万円)
 20~15俵   2両( 32万円)
   14俵以下 1両( 16万円)
返済は10年年賦

木材や大工手間賃は高騰していたろうから、これしきの拝借金でどの程度の家が建てられたかは記されていない。
火災にあわなかった親類縁者から借財したとしても、災害前の生活水準ができるようになるまで何年かかったろう。

幸いに、長谷川家は本家・支家とも火災にあわなったからいいとして、銕三郎の嫁女・久栄(ひさえ 20歳)の実家は、たしか、このあと30年ほど和泉橋通りの屋敷にとどまったが、けっきょく、大塚へ移転している。
移転の詳細は、いまのところ、未詳。いずれ、暇ができたら、『東京史稿』でもあらためてみるつもりである。


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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2009.07.04

目黒・行人坂の大火と長谷川組(3)

「不審な若造を捉えて、浜松町の町会所に監禁しています。もしやして、こんどの大火にかかわりがある者かもしれません」
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締の息・伸太郎(しんたろう 21歳)の言い分に、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の胸は高なったが胆力でじっと抑えつけ、すぐさま、平蔵宣雄(のぶお 54歳)の部屋へ告げた。
宣雄は、与力部屋につめていた次席の内山左内(さない 47歳)を呼び、事情を訊くように命じた。

伸太郎によると、延焼をまぬがれた浜松町の家々の前に立ち、悪魔除けの読経をしてまわっている僧がいた。
火がこの家までとどかなかったのは、深い仏恩のゆえと、布施をせがむ。
身にまとっているのが高位の僧衣にもかかわらず、足は汚れており、かかとがひびわれていたので、
「怪しい」
不審とのつげ口があり、〔愛宕下〕一家の若い衆が、饅頭形の網代笠(あじろがさ)を脱がせてみると、まだ20歳にもならないのに、すさんだ顔相の男であった。
とてものことに、高僧の人品ではない。
法名を「新習(しんしゅう)」と名のったが、実名ではない気配でもある。

「お出張りの上、お改めをいただきたく---」

仔細を告げられた宣雄は、すぐさま、与力の一人に騎馬で目黒の安養院能仁寺に仮寓している火元・大円寺の僧を呼びにやった。
伴ってくる先は、いうまでもなく、芝・浜松町の町会所であるが、なるたけ隠密に---と念をおした。

浜松町へは、宣雄自らが、内山次席与力と同心2名、それに銕三郎をつれて出張ったが、近くで分かれて、それぞれ間をおいて入った。

長五郎真秀(しんしゅう)は、はじめは放火を否認していたが、
「まもなく、大円寺の住持どのがお着きになる。さすれば、当日のそこもとの行状、さらにはその法衣のことまであきらかになるわ」
訊問をわざとやめた。
放置された長五郎は、不安を嵩じらせはじめた。

その様子を見きわめた銕三郎が、そっと寄り、
「お主(ぬし)、熊谷宿の生まれと言っているが、石原村の出だな」
ぎょとした長五郎に、
「石原村生まれの女賊(おんなぞく)で、お(てい)をしっておるか? そうさな、齢のころは、いまは35,6の大年増だが---。そうだ、初鹿野はじかの)〕一味では、お松(まつ)と呼ばれていた---」

参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] () (10) (11

長五郎の目に懐疑の色が走った。
「お主の身元は、もう、割れているのだよ。火事のすぐあと、大円寺の者から聞いて、忍(おし)藩(10万石)の町奉行所へ同心どのが調べに行っておるのだ」

忍藩の藩主は、阿部豊後守正允(まさたか 57歳)で、政庁は忍(現・行田市)にあった。
中仙道の要衝---熊谷宿は忍藩の領内で、西に約1里(4km)の宿場を、町奉行が月に2回巡回しており、長五郎の10代前半の所業(放火歴)も忍の町奉行所に記録されていた。

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(栄泉 熊谷宿 八丁堤の景)

石原村は、次の深谷宿とのあいだの集落である。

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(栄泉 深谷之駅 芸者達が宿へ呼ばれた景)

「お主が石原村の実家から勘当され、無宿になったことも、調べがついている。無駄なあらがいはやめて、すんなり応えたほうが、火盗改メのお頭がいい感じをお持ちになり、お慈悲もいただけようというものだ」
「そんなつもりじゃなかっただに、江戸の半分が燃えてしまっただ」
「そうだろう。だれだって、江戸の半分も焼きはらおうなどの大それたことはかんがえぬ」
「騒ぎに、寺から金目のものを盗むつもりだっただ」
「ま、そのように、お頭へ、まっすぐに申しのべるがよい。拙が力になってやる」
「あなたさまは?」
銕三郎という者だ」


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () ( () () (

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2009.07.03

目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)

久栄(ひさえ 20歳)は、臨月であった。
「父上をお助けしなければならぬ」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、火元の目黒・行人坂の大円寺の納所の者たちから聞き取りをするので、泊り込みで出張るための着替えなどを整えている久栄に言った。

「ご案じくださいますな。2人目は軽いと聞いております。だって、昨夜まで、(てつ)さまが通り道をひろげておいてくださったのですもの、するっと生まれましょう。また、離れには母もおり、母屋には姑(しゅうとめ)どのもお控えでございます」
「用は、2日ほどですもう。それまでの、しんぼうだ」
「お帰りになったら、まだ残している、臨月の睦み、第4の手を---」
久栄か、意味深長な笑顔をつくって、口をさしだした。
隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 65歳 1500石)は山田奉行に転じていたが、奥方の於千華(ちか 37歳)は付随しないで留守邸にのこり、無聊を久栄への色事話でまぎらせていた。

聞きとり組は、組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)と次席与力・内山左内(さない 47歳)、同心3名に小者5名、下僕2名に飯炊き、銕三郎と供・松造(まつぞう 21歳)であった。
宿泊所は、天台宗・泰叡山滝泉寺(現・目黒区下目黒3丁目)---と書くより、目黒不動堂としたほうがわかりがはやかろう。
同寺の塔頭の一つがあてられた。

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(目黒不動堂 滝泉寺 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺へは、10丁(1km)ばかり先の目黒川に架かる石の太鼓橋をわたり、行人坂を半分のぼればすむ。

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(夕日丘・行人坂 坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像
同上)

もっとも、寺が焼失してしまっているので、住職たちは、石橋の手前の同宗の、寝釈迦像で有名な安養院能仁寺の離れに避難してきている。
雨がふらなければ、そこから焼け跡の現場までやってきて、訊問をうけた。

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(寝釈迦・安養院能仁寺 同じ上)

宣雄の訊問は、現場でも詳細をきわめた。
とくに、住職にうらみをいだいている者、懲罰を行った者の追究はくわしく訊きとられた。

その結果、大円寺の所化(しょけ)だった、武州・熊谷無宿の破門僧の長五郎(ちょうごろう 18歳)が、容疑者第1号としてあがってきた。

銕三郎は、父・宣雄が、寺の僧職の者や使用人などをやさしく問い、手がかりめいたものが語られると、思いだすまで細部を補いながら慎重に訊いてゆく手練から、多くを学んだ。

長五郎の人相書がつくられ、写しも何枚も描かれて、町廻りの同心たちはしっかり覚えた。

ちゅうすけ注】人相書は、ふつう、親・主殺し、放火犯しかつくらない。

しかし、長五郎は、どこに潜ったか、それらしい報告はあがってこなかった。
人びとは、避難生活と焼け跡の片づけに、それどころではなかった。
放火犯人は、ご公儀の仕事ともおもっていた。

そこへ、芝の香具師の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)の息・伸太郎(しんたろう 21歳)が、銕三郎を訪ねてきた。
大火から丸20日目であった。

怪しい若者が芝のあたりを徘徊していたというのである。


参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () (

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2009.07.02

目黒・行人坂の大火と長谷川組

「ゆうべの、空を飛んだ光ものはなんだ?」
「品川浦から亀有のほうへ流れるように走った」
明和9年2月29日の早朝から、南西の烈風が吹きまくるなか、井戸端での話題は、昨夜の不可思議な現象にあつまった。
その光りものは坤(ひつじさる 南々西)から、艮(うしとら 北東)へ江戸の夜空を横ぎっていった。
「なにかの前兆でなければいいが---」
「今朝の、このお天道(てんとう)さまの翳(かげり 黄砂?)とも、かかわりがあるのだろうか?」

この年の2月29日は、現行の4月1日にあたる。
暗いうちからの烈風は、土ぼこりを舞いあがらせて天をおおい、太陽をさえぎり、五ッ(午前8時)だというのに、江戸の町はうすぐらかった。

町人たちの予想はあたり、大不祥事が江戸の町を襲ったのである。

目黒・行人坂の大火がそれである。

火元は、行人坂の中腹の天台宗・大円寺(現・目黒区下目黒1丁目)であった。
正午前後に出火し、おりからの強風に炎が狂ったように走った。
その惨禍は、白金の町々から麻布一円、三田新網町辺、狸穴(まみあな)、飯倉市兵衛町なだれ、霊南坂、西久保、桜田、霞ヶ関、虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門を焼き落とした。
火炎はさらに、日本橋通り3、4丁目西側、元四日町、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄、を軒なみ、
内外神田、神田明神社、聖堂、湯島天神とその周辺一帯、上野広小路、下谷、御徒町、入谷、金杉、三ノ輪、小塚原、吉原、千住となめた。

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(江戸の火事 『風俗画報』明治32年1月25日号より)

ものの本によると、焼失したのは、934町、大名屋敷169、橋170、寺院382、死者14,700人余、行方不明4,
600人余。幕臣の家屋の全焼も1000戸を軽くこしたろう。 

のち、江戸の3大火の一つに数えられた。

もちろん、本所、深川へは飛び火しなかったから、長谷川邸は焼けなかったが、出水には被害をこうむった。
長谷川組---先手・弓の8番手の組屋敷には、火炎はとどいていない。

長谷川一門の本家で表一番町新道の太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)も類焼をまぬがれている。
納戸町の大身・久三郎正脩(まさひろ 4070石 小普請支配)もおなじく助かった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)かかわりでは、若奥・久栄(ひさえ 20歳)の実家が全焼したので、とりあえず、銕三郎たちの離れをあけて、仮普請ができるまで提供した。

火元の大円寺は、火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川組の持分の区域にある。
鎮火とともに、長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の出火原因の探索がはじまった。

幕府の期待が長谷川組にそそがれたのは、持ち分のためでも、屋敷が被災しなかったためばかりではなかった。
本役・中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の神田門外の役宅が焼失してしまい、臨時役宅は清水門外の幕府用地に仮設されたが、病臥中の清方をはじめ一家は、奥方の里---平岡弥平次正孝(まさのり 26歳 400俵)の四谷新宿屋敷大名小路に仮寓しており、用務は筆頭与力・村越増次郎(jますじろう 51歳)が執りしきっていたからでもある。
目白台の同組屋敷は焼けていない。

ちゅすけ注】銕三郎かかわりでいうと、深川・本所は延焼しなかったのであるから、とうぜん、高杉道場、岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が寄宿している春慶寺、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 40歳)の駕篭屋〔箱根屋〕も、本所の弁財天裏の〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)の裏長屋も、二ノ橋北詰の〔五鉄〕、弥勒寺門前のお(くま 49歳)の茶店〔笹や〕、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕も無事であった。
そうそう、御厩(うまや)河岸・三好町のお(のぶ 31歳)の茶店〔小浪〕も、2筋西まで炎がきたのに、奇跡的に焼けなかった。

今助(いますけ 25歳)・小浪(こなみ 32歳)の〔銀波楼〕は焼けおちた。
浅田剛二郎(ごうじろう 34歳)が用心棒をしていた質商〔鳩屋〕は、東本願寺・浅草寺(本堂は残った)の塔頭などと運命をともにした。
ただし、〔鳩屋〕の質もの蔵は火炎に耐えた。
般若(〔はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 24歳)の家も、髪結い・お(しな 23歳)も焼けた。おは、とりあえず、故郷の秩父の小鹿野(こがの)村へ帰って、江戸の町の再興を待つことにした。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところも、芝の北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締のところもまぬがれたので、お救い屋の整理に組子たちを動員して、このときとばかりと奉行所や町役人の手助けにはげんでいた。

長谷川組の探索の結果、大円寺の出火は、ふだんは火のない物置き所への放火が原因らしいと推定され、放火犯人の割りだしがはじまった。

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2009.07.01

〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締

長谷川の若さま。ご尊父は、火盗の助役(すけやく)をお勤めでございましたな」
土地(ところ)一帯の香具師の若元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)が、母親・おくらゆずりの巨躰にちょこんと乗っている顔をかたむけて訊いた。

「さようです」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が応える。
「それならば、芝は、お助役のお持ち場。お引きあわせいたしたい仁がおります」
「元締のご推挙の仁とあれば、よろこんで---」
「では、近ぢか---」

重右衛門が推したのは、芝の飯倉神明宮や増上寺、愛宕山下などの一円を取りしきっている{愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 41歳)元締であった。

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(飯倉神明宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】火盗改メの本役・助役の巡邏区分は、2008年2月28日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (

香具師の元締だから、闇の実情につうじている。
盗賊や博徒という裏で生きている輩が相手の火盗改メとしては、香具師の元締と知りあっておくことは、裏街道の地図の持ち主とこころ易くなったのにひとしい。

芝・増上寺の表門---通称・大門前で落ちあい、重右衛門に案内されて行くと、伸蔵は、北新網町の小じんまりとしたしもた屋に住んでいた。

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(赤○=北新網町 池波さん゜愛用の切絵図:近江屋板)

虚飾をはぶいた質素なその構えからして、人柄をしのばせたが、家の前にちゃんと水がうってあるのに、銕三郎は好感をもった。
もっとも、
(血なまぐさい出入りごとも取りしきる香具師の元締が、きれいごとだけですまされまいが---)
疑問もおぼえなかったというと、嘘になる。

裏庭が見渡せる部屋へ通された。
伸蔵は、庭での五蓋松(ごがいのまつ)の手入れをやめ、細身の躰を蛙が跳びでもしたように身軽に縁側へ跳びあがると、そこにぴたりと座り、
「お初にお目もじつかまつります。伸蔵と申します」
丁寧に仁義をきった。
銕三郎も、あわてて座布団をはずす。
「長谷川銕三郎です。いまだ、部屋住みの若造です。お見しりおきを---」

音羽〕の重右衛門が、
「そこからでは話が遠すぎます。こちらで、ご両人とも、おくつろぎを---」

「あの鉢の五蓋松は、樹齢150年といわれており、手前の4倍近い長寿です。老父をいたわるよりも手あつく、孫の代まで生きていてもらうように、照ったといえば日陰に寄せ、降ってきたらきたで軒下へ移して、護っております」
ふところの深さを感じさせる、ゆったりと愛情をこめた口ぶりに、銕三郎は、さらに印象を深めた。

「孫の代まで---と言われましたが、ご子息は?」
銕三郎に、伸蔵が、手を打って用意の膳を催促するとともに、
伸太郎をここへ---」

商人が好んで着るような濃紺地に細縞をきっちりとまとった、20歳前後らしい青年が、部屋の隅で正座し、客たちに向かって一礼してから
「父ご。なにかご用で---?」
「おう。いい機会(おり)だ。〔音羽〕の元締の隣りにおいでなのが、長谷川の若さまだ。こんご、なにかとお教えをいただくように、ごあいさつをしなされ」

伸太郎でございます。お噂は、かねがね承っておりました。どうぞ、ご配下の衆同様にこき使ってくださいますよう---」
なかなかにできすぎたあいさつふりであった。
銕三郎も、
「部屋住みの銕三郎です。このあたり、父の巡視の供をすることもあります。ご助力ください」
「いつにても、お声のままに---」

銕三郎の頼みは、3ヶ月もたたないうちに実現した。


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