銕三郎、三たびの駿府(11)
「河原筆頭与力さま。宿をお替えいただけませぬか?」
江戸の火盗改メ・長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)と同心・有田祐介(29歳)が引きあげるのを、駿府町奉行所の前で見送った銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)に頼んだ。
「本陣・〔小倉〕平左衛門で、なにか不調法でも---?」
「そのようなことは、なに一つございません。食事よし、風呂は湯加減よし、番頭・女中もそつなし---。下世話な肌合が恋しくなりましただけで---」
「わかり申した。矢野、もそっと西寄りの旅籠を、夕刻までに手配するように---」
河原筆頭が、横の矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心に言いつけた。
(駿府の旅籠通りの伝馬町 赤○=〔小倉〕 西寄りの旅籠は(5)
矢野同心は、掛川藩の重役から返書が来しだい、銕三郎と東海道をのぼることになっている。
昨日、駿府町奉行・中坊左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)の名で、掛川藩の城代・太田外記資隣(もとちか 62歳)へ急便で、一昨年の師走に城下でおきた小間物屋の盗難について、聞き取りの同心ほかを伺わせたいから、諸事よろしく、との公式な書状を送った。
駿府と掛川は約12里(48km)だから、公用の早飛脚だと半日もしないでとどく。
藩主・太田備後守資愛(すけよし 31歳 5万石)は、在府中である。
城代・外記資隣は藩主の親戚にあたる。
【ちゅうすけ注】太田一族で幕臣となった資武の末・運八郎資同(すけあつ)は、平蔵宣以(のぶため)が火盗改メの任についていた寛政4年(1792)8月、先手・鉄砲の11番手---平蔵の弓の2番手に次いで火盗改メの経験の多い組の組頭に着任(30歳 3000石)。翌月火盗改メ・助役(すけやく)を拝命し、平蔵に「いろいろご教授を」と頼み、「そっちの組子に聞いたら」と言われ、大むくれして若年寄に平蔵の非を訴えた。詳細は[よしの冊子(ぞうし)]↓
その息・運八郎資統(すけのぶ)は、松平太郎『江戸時代制度の研究』に、平蔵、中山勘解由とともに3名火盗改メにあげられているが、その業績は未詳。
2007年10月5日[よしの冊子(ぞうし)] (33)
2006年10月16日~[現代語訳『江戸時代制度の研究・火盗改メの項] (1) (2) (3)
矢野同心は、銕三郎を詮議部屋へ導いて、言われていた呉服町の〔五条屋〕の下女・お杉ばばについて、調べた結果を告げた。
お杉は、駿河国庵原郡(いはらこおり)押切原村小作農家の生まれ。14歳のときに、奉公にあがっていた大久保某(幕臣大身 6000石 とくに名を秘す)の3男に性的暴行をうけ、知行主のはからいで、仙洞御所付となった大久保一郎右衛門忠義(ただよし 50歳=当時 1200石)に預けられて京へのぼって役宅の下女として6年間働いた。
そのときに、上方風の荒神松を見おぼえたと。
「仙洞御所といえば、荒神社に近いですからね」
銕三郎は、なに気なしに口にした。
「補任(ぶにん)をたしかめたところ、大久保忠義どのは、享保8年(1723)にたしかに仙洞御所付として赴任されておりました」
「享保8年といえば、46年も前のことですな」
(〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)は、まだ、5,6歳の子どもだ)
大久保忠義の帰任とともにお杉は駿河へ戻り、忠義から城代へお杉の身柄が預けられ、口をきく者があって〔五条屋〕の飯炊きとして雇われ、今日(こんにち)いたっているとも。
亭主と名のつくほどの者はおらず、そのあたりは適当にこなしていたらしいが、悪いうわさはなかった。
明けて61歳だから、いまは男よりもと、寝酒に親しんでいるらしい。
「なるほど。疑う余地はなさそうですな」
銕三郎はつっこまない。
「新しい宿がきまりましたら、きちんと封をして、本陣・〔小倉〕の帳場へ預けておいてください。ちょっとした用たしがすんだら、伝馬町へ荷をとりに帰りますから。今夜、その新しい宿で夕餉(ゆうげ)をごいっしょいたしましょう」
そう言いおいて、銕三郎は町奉行所を辞去した。
〔五条屋〕の近くの蕎麦屋で、店の小女に番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)への伝言を持たせて、待つ。
やってきた吉蔵に、賊が切りあけた落とし桟の切り口をふさいだ大工の名前と住まいを聞いた。
「七軒町の棟梁・大善こと、善兵衛(ぜんべえ 50歳)のところの為吉(ためきち 21歳)って若い者(の)でした」
と応えると、棟梁への紹介状を書かせ、七軒町への道順を教わる。
七軒町は、2丁とない近間であった。
銕三郎が大善を訪ねると、3丁先の本通りの太物〔和泉屋〕の隠居所の建て増しに行っていると、女房が西を指さした。
〔和泉屋〕で善兵衛に紹介状を見せて、為吉を庭の片隅へ呼んで訊いた。
「切りあけられた板戸の、表側のそこのあたりに、印のようなものはついていなかったかな」
「そう言われますと、あれがそうかな」
「なにか?」
「落とし桟から3寸(10cm)ほど右手に、木炭でつけたようなかすかな汚れがありました」
銕三郎は、為吉と棟梁に口止めし、そこを去った。
(店の中に手引きした者がいるのか、それとも、賊の一味の誰かが下見をしてつけた印か?)
【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (12) (13)
(京都御所・仙洞付となった大久保一郎右衛門忠義の個人譜)
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