明和6年(1769)の銕三郎(2)
「火種がどこかにあるはずですが---」
火鉢をつついたが見つからなかったか、お竜(りょう 30歳)は掘炬燵から火種を七輪へ移し、消し壷からおき炭をのせ、炭箱から備長を器用に組んで、薬缶をかけた。
手提げからだした紙片を、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前にひろげる。
30人の先手組頭の、明和6年(1769)現在の年齢、家碌、在任年数が書きこまれていた。
【ちゅうすけ注】組頭は、西丸の4人を加えると総勢で34人だが、西丸はこんどのことにはかかわりがない。
「どうやってこれを?」
銕三郎が問いかけると、ついと肩を寄せ、
「銕さまは、竜が軍者(ぐんしゃ)だってことをお忘れでございますか?」
「忘れてはいないが、あまりにみごとな手際(てぎわ)ゆえ---」
「須原屋(版元)の武鑑(ぶかん)は、だれでも求められます」
「それはそうだが、居屋敷は、武鑑には載っていない」
「裏の手はいくらもございます」
「うーむ」
本多采女紀品(のりただ 56歳 2000石)の後を引き継いだ石尾七兵衛氏紀(うじのり)の名もきちんとあげてある。
明和6年(1769)初春現在の、弓組の組頭から、まず---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
弓組
1番手(小石川七軒町)
松平源五郎乗通(のりみち) 75歳 300俵 17年め
2番手(神田元誠願寺)
奥田山城守忠祇(ただまさ) 61歳 300俵 7年め
3番手(芝愛宕下三斉小路)
堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 60歳 1500石 10年め
4番手(下谷御徒町)
(菅沼主膳正虎常 とらつね) 55歳 700石 4年め
5番手(木挽町築地門跡後)
能勢助十郎頼寿(よりひさ) 68歳 300俵 3年め
6番手(市ヶ谷加賀屋敷)
遠山源兵衛景俊(かげとし) 62歳 400石 7年め
7番手(一番町新道)
長谷川太郎兵衛正直(まさなお>)60歳1470石 9年め
8番手(南本所三ッ目通)
長谷川平蔵宣雄(のぶお) 51歳 400石 5年め
9番手(田安二合半坂下)
橋本河内守忠正(ただまさ) 59歳 500俵 3年め
10番手(市ヶ谷清泰院殿上地)
石原惣左衛門広通(ひろみち) 77歳 475石 4年め
明和6年(1769)初春現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
1番手(小川町火消屋敷通り)
寺嶋又四郎猶包(なおかね) 81歳 300俵 12年め
2番手(南本所菊川町)
松田彦兵衛貞居(さだすえ) 62歳 1150石 3年め
3番手(小石川門内)
井出助次郎正興(まさおき) 71歳 300俵 10年め
4番手(赤坂築地中ノ町)
長山百助直幡(なおはた) 58歳 1350石 5年め
5番手(一番町堀端)
永井内膳尚尹(なおただ) 72歳 500石 9年め
6番手(四谷刈豆店)
鈴木市左衛門之房(ゆきふさ) 74歳 450石 16年め
7番手(本郷弓町)
諏訪左源太頼珍((よりよし) 63歳 2000石 6年め
8番手(本所南割下水)
有馬一馬純意(すみもと) 71歳 1000石 10年め
9番手(麻布竜土下)
遠藤源五郎尚住(なおずみ) 53歳 1000石 4年め
10番手(駿河台下)
石野藤七郎唯義(ただよし) 61歳 500俵 2年め
11番手(下谷池端七軒町)
浅井小右衛門元武(もとたけ) 60歳 540石 5年め
12番手(石原片町)
徳山小左衛門貞明 54歳 500石 3年め
13番手(小石川白山鶴ヶ声久保裏通)>(さだあきら)
曲渕隼人景忠(かげただ) 64歳 400石 10年め
14番手(高田牧野備後守上地)
荒井十大夫高国(たかくに) 61歳 250俵 4年め
15番手(愛宕下神保小路)
仁賀保兵庫誠之(のぶざね) 58歳 1200石 3年め
16番手(牛込山伏町)
石尾七兵衛氏紀(うじのり) 60歳 2200石 2年め
17番手(小川町裏猿楽町)
松前主馬一広(かずひろ) 47歳 1500石 17年め
18番手(裏六番町方眼坂)
市岡左衛門正軌(まさのり) 76歳 500石 14年め
19番手(本所林町4丁目)
仙石監物政啓(まさひろ) 76歳 2700石 17年め
20番手(四谷伝馬町3丁目裏通)
福王忠左衛門信近(のぶちか) 77歳 200石 16年め
【ちゅうすけのおすすめ】諱(いみな)のオレンジ色の[ひらな]をクリックで「寛政譜」があらわれる。
「銕三郎さま。お父上を陥(おと)しいれようと、徒(かち)目付に依頼した疑いの筆頭の諏訪(左源太頼珍)さまですが、去年の夏ごろから、咳こみがはげしくなって、勤仕もままならないご様子にございます。引きこみに入れております者の言い分では、弓組への昇格をたくらむこともおぼつかない容態のようで---」
「ふーむ。諏訪どのの線もきえたとなると---徒押(かちおし)が動いているというのは---」
「そのことでございます。推察いたしましたが、幻(まぼろし)のような---」
「佐野与八郎(政親 まさちか 38歳 西丸・目付)兄上どのが嘘(いつわり)を申されるはずはないのだが---」
「どなたかが、銕さまの身辺をきれいになされようと---」
「父上が? まさか---」
「いまの、このありさまも、まさかにあたりませんか?」
「お竜どのとのことまで? 父上はご存じないとおもうが---」
「じっさいにはご存じでなくても、大橋さまとのご婚儀のさしさわりになることを、すべて断ちきるお考えだったのではございませんか?」
銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の座敷女中・お仲(なか 35歳)の不自然な消え方におもいあたった。
「ありうる」
「でございましよう? つまりは、徒押などはまぼろしなのでございます。だれも、わたしたちの後ろを尾行(つ)けてはいなかったのです」
沸いた湯で、お竜が茶を淹(い)れた。
「お茶より、邪気ばらいに、酒(ささ)になさいますか?」
「うん」
薬缶にちろりが入れられた。
「大橋のお嬢さまとのご婚儀、おめでとうございます」
「祝ってくれますか?」
「あたりまえでございます。しかし、そのことと、このことは別---」
「なに?」
お竜の右手がそろりと銕三郎の胸へはいり、左腕が首にまわった。
銕三郎は、またも、父・平蔵宣雄の深慮遠謀を教えられた。
教訓は、「おのれが言うよりも、他の人間の口から出た言葉のほうを、人は信じやすい」であった。
新河岸川の葦の中での屋根船のときのように、お竜は、揚げ帽子をつけたままで銕三郎をいざなった。(歌麿『歌まくら』部分 お竜のイメージ)
武家の奥方になっている気分にひたれるらしい。
もっとも、船の中でより、安定した姿態がとれた。
が、高まりはじめると、揚げ帽子はおろか、着物まではいでいた。
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