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2009年8月の記事

2009.08.31

化粧(けわい)指南師のお勝(8)

「つい先刻、戻りついたばっかりなんですよ。急のさしさわり事でも---?」
出てきたお(かつ 31歳)は、言葉のわりには、あっけらかんとした顔をしていた。

「夕餉(ゆうげ)は---?」
問いかけた銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、急に声が甘えて、
「まだ。昼も抜いたんですよ。歩けないほどぺこぺこ---」
「よし。この近くで、食べさせてくれるところを探そう。松造。先に、どこぞで、食べて帰れ」
小粒を一つ、つかませた。

松造を見送ってから、1丁(109m)北の浄土宗西山深草派の総本山・誓願寺の境内にある料理茶屋〔五分五厘(ごぶごりん)屋〕へあがった。

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(誓願寺境内の料理茶屋〔五分五厘屋 『商人買物独案内』)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で、この〔五分五厘屋〕の茶汲女をしていたお豊(40がらみ)を見初めて通いつめ、女房にしたのが絵具商〔柏屋〕の主人・四郎助である。p107 新装版p113 ここへ偶然にあがった銕三郎とおが夕餉をとったのも、因縁といえようか。

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(誓願寺 『都名所図会』)

酒と膳を並べた女中を、呼ぶまで---と遠ざけ、おの盃に注いでやり、たがいに口へ運んでから、
「おに謝らなければならない」
坐りなおすと、両拳をついて、
「拙の身勝手で、おにとんでもないことを押しつけてしまったこと、反省しておる」
「あら、何事でしょう?」
声をひそめて、
「化粧(:けわい)指南師となって、禁裏役人に近づくことだ」
ほほえみながらおが、
「それを、なぜ、(てつ)さまがお謝りになるのですか? 私が好んでお請(う)けした生業(なりわい)ごとです」
「そういわれると、余計につらい。ほかに手だてはあったやにもおもう。軍者(ぐんしゃ 軍師)のお(りょう 享年33歳)どのであったら、別の案を練ったろう」

が坐りなおした。
(てつ)さま。私の前で、おお姉(,ねえ)さんの名は2度と出さないという約束でした」
「すまぬ」
「いまの化粧指南師の手職を、たのしみながらやってます。だから、昼餉(ひるげ)を抜いてでもこなしているのです。どうか、お気になさらないで、果報をお待ちになっていてください」
「ありがたい」

2人は重荷がおりたように、差しつ差されつ、料理に手をつけはじめ、おは、盛り合わせの百合根を、甲斐の香りがすると、銕三郎の皿にまで、箸をのばした。

勘定書を持ってきた女中に、おがさりげなく小粒を一つにぎらせて、
「近くに休ませてくれるところはあったかしら?」
「3丁ほど東へ行かはったら、高瀬川のへんに、ぎょうさん、おます」

高瀬川ぞいの出会茶屋で湯をいっしょに浴び、寝酒を酌みかわしながら、おは化粧指南師としての実入りのことを、笑みをまぜながら話した。

指南料の60文は〔延吉屋〕と折半、ほかに〔紅屋〕の紅を売りつけると6分4分で4分がおの手に、さらに〔中西〕の〔安三湯〕は3分7分で7分がふところへ。

「薬九層倍とはよくいったものですねえ」
「〔小町紅〕や〔延吉屋〕の白粉だって、似たようなものだろう」
「ほんと」

2人は笑い、
さま。髪結(ゆ)いの亭主におさまりになりませんか。私の1日の揚がりを、いくらだとおおもいです?」
「さあ---」
「2分(8万円)ちょっと」
「なに? それでは、今夜のここの払いは、指南師どの持ちにしてもらおう」
「3日でも5夜でも、どうぞ。なんなら、先刻の〔五分五厘屋〕の分も持ちましょうか?」
「は、はははは」
「ふ、ふふふ」

「そういえば今日、私と同じ齢ごろの客に、立役(たちやく)にまちがいないとおもえるのがいました」
「わかるのか?」
「だって、紅をはいている手にさわってくるんですもの」
「禁裏のおんなか?」
「そうではなかったから、邪険に払いのけてやりました」
払いのけたふりをしてみせたおの手が、銕三郎の太腿へのびた。


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2009.08.30

化粧(けわい)指南師のお勝(7)

_100「おや、おそろいで---」
銕三郎
(てつさぶろう 27歳)と粽(ちまき)司舗〔川端道喜(かわばた どうき)〕の10代目(60がらみ)がいっしょに入っていくと、〔千歳(せんざい)の女主人・お(とよ 24歳)が、つぶらな瞳をさらに開いて迎えた。(歌麿『歌撰恋之部』[夜毎に逢う恋」からお豊のイメージ)


長谷川はんの奥方が、あと数日でご上洛や。そないなったら、しばらく、おはんの顔も拝めんようになるいうて、嘆いてはったよって、お連れしましたんや」
「それは、それは、ありがとうございます。でも、(てつ)さまがお見えにならなくなったら、うちの店も、さみしゅうなります」
「さみしゅうなるのンは、店やのうて、おはんやろ---」
「きついことを---」
「図星やったらしな」
「ほ、ほほほ」

道喜どの。おからかいになってはこまります」
銕三郎は、下僕の松造(まつぞう 21歳)の手前、狼狽した。
松造は、店の隅の席で10代目とおのやりとりから、だいたいのことを察したようであった。
まあ、わざわざ口止めしておかなくても、久栄(ひさえ 20歳)の耳へは入れまいが---。

「そや、おはんにたしかめたかったンは、いつやったか、地下(じげ)官人はんをお連れしたときに話にでた、おんな男の命婦(みょうぶ 女官)がいましたなあ」
「はい。そんなことがございました」
「なんていう呼び名どした?」
「えーと、越後さんとか、能登さんとか---」
「そや。越中というんで、ぴったりやと、大笑いになってもうたんや」
「でも、命婦の女官さま方は、国名で呼ばれるしきたりですから、その女官さんが、たまたま立役だったので、まわりが越中さんというあだ名をおつけになったとか---」
「ほんまの国名は、なんやった?」
「因幡とか---なんでも、あっちのほうだったような---」

ちゅうすけ注】命婦は、禁裏の堂上(どうしょう)公家の父が叙されている、なんとかの守の「なんとか」の国名を呼び名にしていた。、

「そや、伯耆やなかったかいな?」
「はい。ですが、その越中さんがどうかしましたのですか?」
長谷川はんのお知り合いのおなご衆で、立役(たちやく)を亡(の)うして困ってはるお人がおいでらしゅうて、な」
は、瞳の一瞬の光をたくみに隠し、
さまは、お顔がおひろいから---」
いつもとかわらない、ふんわりした口調であった。

10代目とおの会話を聞きながら、お(かつ 31歳)の秘事があからさまに話しあわれることに、銕三郎は後悔しはじめていた。
(これは、おの人柄を人前に投げだしたと同じではないか。ことは、お上の金がすこしばかりくすねられているにすぎない)

(〔化粧(けわい)読みうり〕も2板で板行をやめるべきだ。:〔延吉屋〕の化粧指南師も適当な理由をつけて辞めさせよう)
そう思ったとき、10代目が、
「わてはこれから祇園でおまんま食べて帰りますけど、長谷川はんもつきおうてくれはりますか?」
銕三郎は、とっさに断った。
「いえ。きょうのところは---。いろいろ、ありがとうございました。お礼はいずれ---」
「そや。忘れるところやった。〔化粧読みうり〕とやらゆう景物紙、お披露目(広告)枠があまるようやったら、いつでもお声をかけてくれはってよろしゅうおます」
「あれは、もう、板行しませぬ」
「さよか。では---」
道喜は、飄々と出ていった。

さま。奥方が上洛なさるというのは、まことですか?」
「まことです」
「だったら、今宵はお泊りください」
松造がいる」
松造さん。よろしいでしょ?」
松造銕三郎の顔をうかがう。
首をふり、
松造。もう一軒、寄らねばならぬところがある」
「わかりやした」

うらみごとをつぶやくおをそのままに、2人は〔千歳」をあとにした。
「蛸薬師通りの家に帰っているはずの、おどのを呼びだしてくれ」

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(右から円福寺、蛸薬師、二つおいて虎薬師。左から三つめ和泉式部 『都名所図会』)


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2009.08.29

化粧(けわい)指南師のお勝(6)

浦部どの。松造に、ここから〔川端道喜(かわばた どうき)〕の店への道順を手ほどきしてやってください」

参照】2009年7月30日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (11
2009年7月31日[川端道喜]
2009年8月8日[〔左阿弥(さあや)の円造〕] (

うどん屋を出ると、浦部源六郎(げんろくろう 50歳)与力が、指さして示した堀川通りの次の大通り---烏丸(からすま)通りを北へまっすぐに御所まで行き、
「そのあたりで新在家門(しんざいけもん 通称・蛤門)を尋ね、行きついたら、〔道喜〕という店をお聞きなされ」

御所の外堀南角---茶店の前で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、下僕の松造(まつぞう 21歳)に、
「{道喜〕の10代目ご当主に、ここでお返事をお待ちしてているが、すぐにお伺いがかなうか、問うてきてくれ」

「よろし」との返答であったので、〔川端道喜〕の店へむかった。
ものの2丁(200m)であった。

「〔千歳(せんざい)〕のお(とよ 24歳)どのから、お会いいただけるとの言伝(ことづ)てを承り、再度の参上におよびました」
「その節は失礼しましたよってに---」
「禁裏のことは、禁句と存じておりますが、いささか、そのまわりのことを---」
「ほう---?」
「お公家衆の面(おも)だちは長めと聞いております。女官衆や奥方、姫ぎみ衆はいかがでしょう?」
「けったいなことをお訊きにならはりますねんな。ほら、公卿面(くぎょうづら)ゆうて、はんなりと長いお顔が多おます」
「おなご衆もでございますか?」
「種が長かったら、でけた実のほうかて、種に似ますわな」
10代目(60がらみ)が、もともと細い眸(め)をより細めて上品に笑ったので、つられて銕三郎も笑う。

それで、一気にうちとけた。

10代目が、知りたがっている理由(わけ)を問うたので、〔化粧(けわい)読みうり〕と、〔延吉屋〕の化粧指南師・おのところへ、公家町からおなご衆のくる気配がないので、的はずれの絵解きをしているようにおもう---という言葉に、10代目は、じっと銕三郎を見据え、
「なして、公家町からの客がいりますのンや?」
「おの、おんな男の立役(たちやく)に不幸がありまして---」
「まるで、こしらえたようなお話どすな」
「いえ。つくり話ではありませぬ」
「そうどっしゃろ。長谷川はんがこしらえ話をもちこまはるとはおもうてまへん」
銕三郎は、恐れ入って、顔があげられなかった。

長い顔を美しく見せる化粧の[読みうり]ができたら、50枚ほど、〔千歳〕に預けておくことで了解がついた。
「ほな、これから、いっしょに、〔千歳〕のおはんの顔を見に行きまひょか」

10代目は、店の者に駕篭を呼ぶようにいいつけた。
長谷川はんも、駕篭に---?」
「いえ、歩きのほうが性(しょう)にあっております」
「ほな、そないしなはれ。そや、おはんいうおなご衆(しゅ)もお誘いしはったらどないです?」
(おとおの鉢合わせは、まずい)

銕三郎の思惑を見透かしたように、10代目は、いたずらっぽく笑った。
「冗談どす。そない、困ったようなお顔をせんと---」

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2009.08.28

化粧(けわい)指南師のお勝(5)

〔化粧(けわい)読みうり〕が配布された翌日のことである。

「お(かつ 31歳)指南師からの言付(ことづ)けです」
連絡(つなぎ)役の松造(まつぞう 21歳)が白粉問屋〔延吉屋〕から戻ってきた。

「うむ。なんと---」
「丸顔の娘(こ)ばかり、朝からのべつ幕なしで、昼飯を摂ることもできねえって、愚痴ってやした」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は声をひそめた。
「公家(くげ)町からの客のことは---?」
松造も、とつぜん、武家の下僕の言葉づかいで返した。
「さようなことは、お口から洩れませぬでした」

「大儀(たいぎ)であった。おにこっそりとしゃべらせる役は、でなければつとまらぬ」
「さいでやすか。えへっ---」
松造は、まんざらでもない顔つきになった。

浦部どのを訪ねる。先刻、小者が伝えてきた。供をしてくれ」
浦部源六郎(げんろくろう 50歳)は、西町奉行所の目付方の与力である。
この与力だけが、新しく着任する町奉行・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)に先がけて、銕三郎が上洛していることをしっている。
だが、その目的がなんであるかは、打ち明けられていない。

というのも、打ち明けられないのである。
京の東・西の町奉行所の与力・同心は、世襲のごとくに代々、その職席にある。
公家方に縁者とか知り合いがあって、公儀の上層部が策している秘密が洩れないともかぎらないから、銕三郎としても、打ち明けるわけにはいかないのである。
父・宣雄からも、旅立ちまえに、厳に申し渡されている。

銕三郎の任務を、おぼろげながらしっているのは、松造とおだけである。

だから、浦部与力には、「初瀬(はつせ)」名義で押小路のしもた屋を借りていると打ち明けてあった。

参照】2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (
2008年4月26日[〔耳より〕の紋次] (1

西町奉行所は、二条城の西南側(現・中京区西ノ京北聖(ほくせい)町 :現在の西京中学のあたり)にあった。

参照】2009年8月13日[与力・浦部源六郎] (

近くのうどん屋へ入り、松造を奉行所へやった。
松造とともにあらわれた浦部与力は、この寒さにもかかわらず、うっすらと額に汗をかいている。
そういう体質らしい。

羽織袴をきちんと着た風格ある浦部をみた店のおやじがあわてて、お茶を用意し、心配そうな表情をかくして引っ込んだ。

「〔津国屋〕気付けの定飛脚便が、まわってきまして---」
浦部与力が差し出した手紙のあて名は、たしから〔津国屋] 気付---初瀬銕どのとなっており、追手書きのように、当人不在ノ節ハ、西町奉行所気付---浦部与力殿、となったいた。

開いてみると、上洛を機に、途中、駿州・田中城にごあいさつに立ち寄り、ついでのことに小川村の信光寺、林臾院に香華したので、おんな連れの旅がさらに遅れ、京へ入るのは11月10日すぎになろう---とあった。

参照】2007年4月6日---信香寺---[寛政重修l諸家譜] (
2006年5月23日---林叟禅寺---[長谷川正以の養父]


到着の遅れのことは、奉行所にも報じてあったらしく、浦部与力が、
「掛川からお出しになっておられます。10日すぎにご入洛ということだと、7日後でございますな」
太田播磨守 正房 まさふさ 59歳 400石)さまが、お発ちになりますのは---?」
「引継ぎと申しても形式的なものです。おそろいでのごあいさつまわりは、所司代どのと武家伝奏(てんそう)どのですみましょうから、3日もあれば---」
「その間は、〔津国屋〕かな?」
「とんでもございませぬ。太田摂津さまは、ご家族を先発なされいおり、ほんの少しの方々とともに、二条城に仮住まいなされますから、新ご奉行は、お役屋敷のほうへは、その日からお入りになれます」
(ということは、拙も役宅住まいであろうから、お(かつ)が押小路のしもた屋へ移り住むのは、7日後だな)

「拙は、その日、役屋敷へ移っていればよろしいのかな」
「はい。そのように手配しておきます」

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2009.08.27

化粧(けわい)指南師のお勝(4)

暦日の順だと、ここらに、父・平蔵宣雄(のぶお 55歳)とともに、久(ひさえ 20歳)が京都に到着したことを述べなければならない。

しかし、せっかく、〔化粧読みうり〕板行の話をつづけたので、〔左阿弥(さあや)〕の家で談合ができてから10日後の顛末を、くりあげて記しておこう。

左阿弥〕の角兵衛(かく[べえ 40がらみ)が、お披露目枠(広告欄)の代金8両から、扱い手数料2両(32万円)をさし引き、6両(96万円)の現金を銕三郎(てつさぶろう 27歳)に手渡したこと、そこから2回分の画料---1両(16万円)が町絵師・北川冬斎(とうさい 40歳前後)に支払われたことまでは、報じておいた。

手もとに残った5両(80万円)を銕三郎はどうしたろう?

板木彫師が1両3分(28万円)と出した見積もりに、
「つぎもお頼みすることもあるから---」
2両(32万円)渡し、あとで角兵衛にたしなめられた。
「職人を堕落させたら、あきまへん。見積もりには、酒手も抜け目のう、いれてますさかい」

それで、刷師には、いわれてたとおりに、2,000枚分3分(12万円)、紙屋へも1分1朱(5万円)支払った。
彫師、刷師を手配してくれた便利屋への礼金が2朱(2万円)。

それでも、半分近い2両3分1朱(45万円)が残った。

「2代目どの、祇園あたりで、祝いの宴をやりますか?」
「なに、いうてはります。〔化粧読みうり〕を出すのンが目あてとちゃいますやろ。おはんが禁裏の勤士の家へ出入りするのンが狙いやったンやおへンか」
角兵衛にさとされ、銕三郎はすなおに謝った。

角兵衛は、つづいて言った。
「2.000枚は多いみたいに見えます。せやけど、京には齢ごろのおんながごまんといてます。2.000枚は、5日と保ちまへんやろ。お父上の入洛を待たんと、つづいて2板をつくらな、間にあいまへん」

たしかに、そうだった。
〔左阿弥〕が元締として取り仕切っている祇園社と清水寺の境内周辺のあてはまる仮店だけでも20店ではきかない。小町紅の〔紅屋〕が200枚はほしいと要求していた。

北川冬斎は、「鼻の低きを高う見せる伝」と題した美人を描いてきた。
描かれていたのは、北野の〔衣笠(きぬがさ)屋の新造・友弥(ともや)である。
「島原かて北野かて、だいぶの妓(こ)が、これを苦にしてまンね。これはあたりま---」

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角兵衛は、しばらく考えていたが、つぶやいた。
「ま、ええやろ」

お披露目枠は、例によって6枠が〔紅屋〕と〔延吉屋〕、残りを1枠ずつ、御池通り御幸町西入ルのお歯黒司の〔安藤緑竹堂〕と、二条東洞院西士入ル〔堺屋〕安兵衛方の「けいすいの薬」が分けた。

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「この前の〔安三湯〕といい、こんどの〔けいすいの薬〕といい、妙なブツを招じ入れましたな」
銕三郎が、苦笑しながら言った。

角兵衛の説明は、〔紅屋〕や〔延吉屋〕のように御所ご用達の老舗で、客の出入りが多いところは、この景物紙(チラシ)で来た客との区別がつきにくい。しかし、〔中西伊勢〕の〔安三湯〕やこんどの〔堺屋〕の〔けいすいの薬〕のように、これまでお披露目(宣伝)をしたことのないブツだと、ただちにお披露目の故(せい)と分かる。
まわりの店や同業の店に、その噂はすぐにひろまる。
つぎのお披露目枠は、たちまち奪いあいになる---ということであった。

〔延吉屋〕の化粧指南師のおのいそがしさは、〔化粧読みうり〕が祇園社と清水寺の仮店で売られた日から始まった。

〔左阿弥〕に角兵衛を訪ねてき、つぎのお披露目枠は「ぜひ、当店に---」と泣きこむ店主があとを絶たなかった。
もっとも、銕三郎がうなったのは、そのことでなく、2板目の[鼻の低きを高く---]のとき、角兵衛が銭箱を傘下の仮店へくばり、客が3文を投げこんで、〔化粧読みうり〕を自分でとっていくようにした配慮であった。
たしかに、店側が「これを」と売りつけたら、どのおんな客も柳眉をさかだてたろう。


ちゅうすけ注】このころ、島原はさびれ気味で、あらたに公許がおりた、足場のいい祇園と北野に客が集まっていた。もちろん、ほとんどの店は島原の出店であった。
そのことを、町絵師・北川冬斎は、敏感に察知していたのである。

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2009.08.26

化粧(けわい)指南師のお勝(3)

朝、お勝(かつ 31歳)を、お(きち 36歳)が息子・又太郎(またたろう 14歳)たちと暮らしている蛸薬師通りの家に送り、押小路へ戻ってみると、松造(まつぞう 21歳)が待ち構えてい、〔左阿弥(さあみ)の角兵衛(かくべえ 40がらみ)の伝言をつたえた。

参照】2009年8月3日[お竜の葬儀] (

「およろしければ、四ッ(午前10時)に来ていただきとうおます、ってえ懇望でした」
お互いに、外泊のことには触れない。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、華光寺(けこうじ)裏の町絵師・北川冬斎(とうさい 40男)にも、〔化粧読みうり〕の挿絵のことで、〔左阿弥〕へくるように伝えさせた。

「〔化粧読みうり〕は、景物紙(フリー・ペーパー)というお考えどしたが、うちの息のかかった屋台店に配らせるとしたら、まるっきり只ばたらきというのも芸のないことで、せめて、1枚あたり3文(120円)はみてやりとうおますねん」

銕三郎は、暗算をした。
1枚3文として、2000枚で6000文(1両2分 24万円)。
その気配を察した角兵衛が、
「あの---板元の長谷川はんから出していただくのンではなしに、店側が客からもらういう形のつもりどすねん」
「それで、よろしいのですか?」
「売り子の利ィになることでおますよって、粗末にはあつかわんでっしゃろ」
角兵衛が笑った。
(なるほど。単なる景物紙(チラシ)だと、つい、捨ててしまったりもしよう。さすがに元締の2代目だ、人の気を読んでいる)

角兵衛は、お披露目(広告)枠を買いたがっている商舗があと5,6店あるが、この〔景物読みうり〕をもう2,3回出すつもりはないか、と、銕三郎の存念を確かめてきた。
冬斎が期待顔で銕三郎を見つめる。
彼とすると、妓女に恩を売るせっかくの機会を、1回きりで終わらせたくないのであろう。

「父が、なんと申しますか---」
銕三郎の配慮にうなずいた角兵衛は、もし、銕三郎の側に不都合があるなら、代人を紹介してもいいと言った。
「代人---?」

「祇園社の鳥居内の二軒茶屋〔藤屋]はんあたりは、話を持ちこんだら、大喜びで請けはる、おもいます」
角兵衛のつづき説の理由には 一理あった。
お披露目枠の大口の買い主の〔紅屋〕も、いちど版木を彫ったら、2度、3度とつかわないともったたいないと言っているとも。、
「わかりました。父が入洛しましたら、さっそくに願ってみます」

一段落したところで、冬斎がふところから銕三郎案の[顔の形に似合う髪の結いよう]をだした。

・丸顔の人は、髻(わげ)を小さめに結うほうがさまになります。鬢(びん)の生えさがりはみじかめに。
・小顔(こがお)の人は、髪を大きめに結い、鬢(びん)の生えさがりを長めに。
・首筋が短めの人は、髪を高く結ったほうが見栄えがします。
・反対に、首筋の長い人は、ぼんのくぼの生え際を長めの2本足につくりましょう。
・顔の長めの人は、髻(わげ)をひらたくつくると美しさがまします。

「これをいちどきに載せるのもよろしゅおすけど、一度の板では丸顔なら丸顔のおなごはんだけにしぼって、髪型、化粧法などをまとめたらどないでおます?」
「そのほうが、総花よりも真実味がこもりまんな」
角兵衛は2板紙、3板紙がきまったかように、賛成した。

冬斎はさらにふところから、祇園の〔水口(みなくち)屋〕の花籬(はなまがき)という妓(こ)を描いた似顔絵をだし、
「この新造(しんぞう)は、丸顔が可愛いいうて評判をとってますねん。どないでおます?」
冬斎は、色絵よりも線描きのほうが親しみがあるし、彫り・刷り賃ともに安く、仕上がりも早いとすすめた。

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

(衆智は、集めてみるものだ)
銕三郎は、つくづく、感じいった。

お茶が新しいのに溶(い)れかえられると、角兵衛が重い布づづみを銕三郎の前におき、
「お披露目枠の扱い手数料を引かせてもろた、残りの6両(96万円)どす。お改めになって---」
確かめた上で゛、1両(16万円)を、
「冬斎先生。2板分の画料です。お納めください」

喜ぶ冬斎に、角兵衛がからかい口調で、
「祇園では、冬斎はんが、新造の花籬を〔:化粧読みうり〕の似顔絵にえらびはった、つぎに美人に選ばれるのンはだれやろ---いうて、えらい騒ぎになっておます。つぎの候補はだれとだれどす?」
「つぎは、北野からえらびまひょ」
「根性悪なことを---」
それで、笑いになった。


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2009.08.25

:化粧(けわい)指南師のお勝(2)

「これは、仕事がらみのことだから、変なふうにとらないで教えてほしい。お(りょう 享年33歳)との秘め事のことだが---」

脱ぎかけた手をとめ、うらめしげに睨(にら)みつけお(かつ 31歳、
「いやですよ、(てつ)さまとこうなったからには、お姉(ねえ)さんのことは忘れようとしているのに---」
「すまぬ。しかし、仕事がらみなのだ。」

銕三郎(てつさぶろ 27歳)は、横にはいってきたおの、湯上りのほてりがまだ消えない乳房に触れ、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)の名を告げた。

参照】2009年7月26日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

は、すぐにおもいだした。
「掛川城下へ出張りになったのは、その〔荒神〕の助太郎という盗人(つとめにん)のお盗(つとめ)の探索でした」

参照】2009年1月23日[銕三郎、掛川城下で] (

そうはいったものの、もう、さしこんできたおの足をそのままにさせておき、
助太郎は、立役(たちやく)の賀茂(かも 30すぎ)に子どもをうませた」
「その子が死んだと、お姉さんが、さまに話しましたでしょ?」
「うむ。聞いた」

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

の指が、銕三郎のものを握る。
「話しが、まだ終っていない」
「だって---」
秘部の湿りへみちびき、
「こんなに、待ちこがれてる」

「おと、おどのの、そもそもの、なれそめときのことを話してみてくれ」
「そもそもも、なにも---お姉さんを、あたしが誘ったんです」
「誘ったとは?」

山の果樹園小屋でひと休みしていたとき、おはおの手をにぎり、ずっとあこがれていた、好きでたまらないと告げ、唇を求めた。
抱き返してきて、
「私も、まえまえから可愛くおもっていた。ほかの男にはわたしたくない」
手をいれて、乳房をやさしくもんでくれた。
が、腰がしびれたと打ちあけると、裾がまくられ、指でさぐられているうちに、お勝は失神しそうになった。
が15歳、おは17歳であった。
「ごく自然に、そうなってしまったんです」

それから、2人は人目をしのんでは、山の小屋で睦みあい、1年後に、噂に追われて村を捨てた。

「2人が好きあっうようになった経緯(ゆくたて)は、わかった。おがどのようにおを悦ばせたか、おはどのようにしておを満足させたのか、知りたい」
さまが想像なさっているような具(もの)を遣ったりはしていません」

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(栄里『婦美の清書』 『:芸術新潮』2003年1月号より)

「誠がかよいあい やさしさがあれば、指が肌やあそこに触れあうだけで、躰中が芯まで悦び、燃えるのです。でも、さまがお入りになると、いままでの2倍も3倍も燃えます」
「そんなに、たやすく変わるものか?」
「心のもちようです」

賀茂助太郎を容(う)けいれたのも、助太郎に誠があったということか?」
「そうでなければ、何年もつづくわけがありません。もう、待ちきれない」

ちゅうすけ注】賀茂助太郎のことで訊いたのが、これが『鬼平犯科帳』巻23[誘拐]で、おまさの救出に役立つとは、のちの平蔵宣以(のぶため)は、このときは思いもしなかった。

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2009.08.24

化粧(けわい)指南師のお勝

松造(まつぞう)。〔延吉屋〕が大戸を下ろす前に行き、化粧(けわい)指南師のお(かつ 31歳)どのに、この結び文をわたしてくれ。そのあと、〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 40がらみ)2代目に、こっちの文をわたし、返事を聞いてきてくれ。いいか、間違えるなよ。重いほうが角兵衛どのあてだぞ」
「わかりやした」

21歳の松造は、おあての結び文をうけとるとき、にやりと笑みをこぼしたようだが、顔を下にむけて隠した。
そんな松造思惑など、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は先刻、見抜いている。
だから、〔左阿弥〕の角兵衛あての手紙には、南鐐二朱銀(2万円)を2枚しのばせ、角兵衛からの形で、
「今夜は、どっかで羽をのばし、若はんを好きにしておあげなはれ」
と言ってもらうように仕組んだのである。

銕三郎主従が借家している押小路の路地裏のしもた屋から、四条上ルの白粉舗〔延吉屋〕までは堺町通りをまっすぐに南へ7丁(800m)もない。

_100小半刻(30分)をちょっとすぎたころに、おが堺町通りへあらわれた。

「お、こっちだ」
物陰で、銕三郎が待っていた。

「あら。松造どんは〔左阿弥〕の元締めのところへ行くって言ってたから戻ってくる間に---と、あせったんですよ」
は戻らないが、あの家ではまずい。高瀬川ぞいとか四条から二条までのあいだに料理もだす出合茶屋があるだろう」
「私はかまわないけど、(てつ)さまは---」
「押小路の家は、見張られているようだ」
「誰にですか?」
「たぶん、町奉行所---」
「なぜ?」
「父上の差し金だろう」

四条大橋を東へわたって左へすぐのところに〔俵駒〕と軒行灯(あんじん)を点(とも)した、それらしい店の、離れに案内された。

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(料理屋〔俵駒〕東川端四条 『商人買物独案内』)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻3[艶婦の毒]で、おたか木村忠吾(ちゅうご)に2度目の密会場所として指定をした料亭〔俵駒〕は、高瀬川ぞいだから、池波さんは、銕三郎とおが入った〔俵駒〕の名を借りたのであろう。

が、屏風の向こうに敷いて2つにおられている布団にちらちらと視線をなげるのを、銕三郎は見て見ぬふりで、ふところからを書き物を取りだし、示した。

[顔の形に似合う髪の結いよう]
・丸顔の人は、髻(わげ)を小さめに結うほうがさまになります。鬢(びん)の生えさがりはみじかめに。

ちゅうすけ注】髻(わげ)は頭頂で束ねたもとどりのあまりの毛。江戸では髷(まげ)と呼んだ。

・小顔(こがお)の人は、髪を大きめに結い、鬢(びん)の生えさがりを長めに。
・首筋が短めの人は、髪を高く結ったほうが見栄えがします。
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・反対に、首筋の長い人は、ぼんのくぼの生え際を長めの2本足につくりましょう。
・顔の長めの人は、髻(わげ)をひらたくつくると美しさがまします。
・額上(ひたい)が短い人は、前髪を立てるかんじにするときまります。
・額上の長い人は、前髪をまえにかたむけ気味にすると女前があがります。

ちゅうすけ注】江戸後期にでた左山半七丸『都風俗化粧伝』(東洋文庫)を参考にさせていただいた。

さま。これでは、髪結いの---」
「紅白粉の使い方は、おの仕事だから、書いてしまっては、化粧指南師の手さばきと口上のうま味が薄くなる」
「〔延吉屋〕に髪結い部屋もつくるということですか?」
「察しがいいな」

銕三郎は、江戸の髪結い・お(しな 24歳)のことを思い出していた。
は、〔小浪〕の客だったが、〔衣板(きぬた)〕一家で、同郷の〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち)とできしまった。

参照】2009年6月23日[銀波楼〕の今助] (
2009月6月29日~[〔般若(はんにゃ)〕の捨吉] () (

なんだか、遠い昔のできことのような気がした。

「それで、〔化粧読みうり〕は、いつ刷りあがるのですか?」
の問いかけに、われに返った。

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2009.08.23

〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛 (2)

「まず、しょっぱな、四条通り麩屋町東入ルの大店(おおだな)・〔紅屋〕平兵衛方へへえっていって、旦那にお目にかかりてえ、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目が、お店(たな)のお得になる話をもってめえいりやした---と、こうでさあ」
からす山〕の松造(まつぞう 21歳)の口上は長ったらしいから、かいつまんで記す。

〔紅屋〕は、〔左阿弥〕の縄ばり内にあったらしく、角兵衛の顔を見た番頭は、すぐに奥座敷へ招じた。
江戸でご身分のあるさるお方が、京洛で只の〔読みうり〕(フリーペーパー)を板行するにあたり、そのお披露目枠の権利を、この〔左阿弥〕の円造におまかせになった。
〔読みうり〕の内容は、「おんなだから、綺麗になれる」方便(ほうべん)を指南するもので、刷り数は、とりあえず2000j枚、くばるのは、〔左阿弥〕が取り仕切っている祇園社と清水寺さんの縄ばり内でだしている仮店が、齢ごろのおんな客に手渡す。

「で、お披露目枠だが、8枠しかねえんで、ご近所のよしみで真っ先に〔紅屋〕さんへ話をもってきた。8枠全部をさしあげてえが、それではこちらさんの引き札になってしまい、真実味がうすくなる。どうだろう、半分の4枠でこらえてもらえねえだろうか---こうでさあ」

銕三郎(てつさぶろう 27歳)が笑いながら、
「で、〔紅屋〕は承知したのか?」
「へえ。大喜びで、それで4両なら、申しわけねえってね。即金でわたしやした」
「さすがに、角兵衛どのだ。ところで、あとの4枠は---?」

「お姐(ねえ)さんが化粧(けわい)指南師をしてる〔延吉屋〕半兵衛の店が、のこりの4枠を---と、せっついたが、角兵衛2代目が、そいつぁ、いけねえ、2枠きりに---と断ってしめえました」
「残りの2枠は---?」

綾小路通り富小路東入ルの薬種(くすりだね)問屋〔中西伊勢大椽〕方が産前・産後の〔安三湯〕と、二条麩屋町角の伽羅油の〔山城屋〕源兵衛方にきまった。

松造角兵衛どののやり口で、覚えたことは?」
「2代目は、嘘やつくりごとを一つもいいやせんでした。ただ、いい方が並みのお披露目やとちがっていて、先方がいかにも得するような話しぶりでやした」
「そうだ。嘘を申しては、信用がなくなる。角兵衛さんは、この土地(ところ)で信用を失っては、元締をやっていけない」

ただ、銕三郎は、別の感想をもっていた。
(真っ先に、大店の〔紅屋〕を押さえたところが、なんとも憎い。おんなかかわりの店で、お披露目で、わずか1両で 〔紅屋〕と並ぶことができるとなれば、おんの字であろう)


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2009.08.22

〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛

「〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 40歳がらみ)どのについて、お披露目(ひろめ)商いのコツを学んでみよ。あれは、空気に値段をつけるような、珍にして妙な取引きだ」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、下僕の松造(まつぞう 21歳)にすすめた。

「空気に値段をつける---?」
「たとえだ。品物の売買をするのではない。風聞を売り買いするのだ」
松造は、わかったような、そうでもないような顔をしたが、ともかく、祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥〕の2代目に、見習いという形でついた。

参照】200988~[〔左阿弥(さあみ)〕の円造] () (


四条河原町上ルに大きな店を構えている禁裏ご用達の白粉舗〔延吉屋〕半兵衛方に、化粧(けわい)指南師としてもぐりこんだお(かつ 31歳)を売りだすために、銕三郎が考えだしたのが、景物紙(フリー・ペーパー)・〔化粧読みうり〕の板行である。

着想のもととなったのは、両国広小路で〔読みうり〕の事件物の記事を書いている〔耳より〕の紋次(もんじ 29歳)が、記事下にお披露目(広告)を載せて商舗から金をあつめていたのに、驚嘆したことによる。

参照】2008年8月12日[〔菊川〕の仲居・お松} (11)

全体がお披露目文の引き札(ちらし)というのはあった。
しかし、料金をとって配る〔読みうり〕に商店の広告を入れたのは、紋次の創案であった。

銕三郎は、その広告枠をうんと多くして配布は景物(無料)とし、事件文の代えて化粧上手になる指南文をおに語らせようというわけ。

じつは、そのおから、お(りょう 享年33歳)の荷を整理していたら、32余両の金がでてき、まさかのときには、うち20両(320万円)は(てつ)さまへと、遺言のように書きのこしてあったと、わたされた。

その金を〔読みうり〕の板行のために遣うことにしたのである。
しかし、先行きのこともあり、今後の京でのつきあいをかんがえて、利を〔左阿弥〕一家へおとすように、お披露目枠を8ヶつくり、1枠1両(16万円)とし、うち、扱い手数料を2割5分(1分---4万円)を角兵衛へ払うことにした。

江戸で、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 40歳)が町駕篭屋の権利を買って営業をはじめたとき、プリ・ペイドともいえる駕篭切手の販売元請け権利を1割5分とした。

参照】2009年4月16日〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業 (

こんどもそうしようかと、最初はかんがえたが、お披露目枠のばあいは、枠をうめきる義務も〔左阿弥〕に背負わせているし、臨時的な試みなので、1割5分では低すぎようと、2割5分とした。

「いやあ、驚きやした」
その日、一日、〔左阿弥〕の角兵衛について商舗まわりをするはずの松造が半日で戻ってきた。
「どうした? 腹ぐあいでもおかしくなったのか?」
「そうじゃあ、ねえんで。お披露目枠のほとんどが売れちまったんでさぁ---」
「なに? 半日でか? で、どことどこが買った?」


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2009.08.21

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 6)

『よしの冊子』(寛政3年(1791)4月21日つづき)より

一、盗賊が入ったときの、隣家などと申しあわせのお書付が出たのち、ところどころですこしずつ思っていることを打ちあわせたよし。
旦那は火事羽織、家来は法被か白木綿の鉢巻、あるいは白木綿のたすきがけなど。
向こう三軒両隣などの申し合わせもあり、または駿河台胸突坂のあたりでは向こう七軒両隣,うしろ三軒と申し合わせ大騒ぎのよし。

(小姓組)番頭:大久保豊前守忠温 ただあつ 40歳 5000石 屋敷:四谷御門外)方へ押し込みが入ったのは本当の話のよし。
馬場に抜き身をさげた5人がいたよし。足軽小頭が梯子で押さえたとのこと。それで足軽小頭が立身加増されたよし。

一、長谷川(平蔵 46歳)は、なんと申しても、このごろの利け者のよし。もっとも、いたって大衒者ではあるけれど、それをお取り用いあるのは、宰相ご賢慮の上だろうと噂されている。
ことに町方では一統相服し、本所へんではこの後は本所の町奉行になられそうな、いや、なってほしい、慈悲深い方じゃと歓んでいるらしい。

  【ちゅうすけ注】
  長谷川家の屋敷は『鬼平犯科帳』では目白台だが、史実は南本所の菊川。
  奉行とは本所奉行のことか。

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(都営・新宿線[菊川駅出入口A1の標識 画面・左下)

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(長谷川平蔵邸宅跡・表示板)

盗賊の召し捕り違いがあったら、たとえ3,4日も牢内におれば、それだけ家職もできず妻子も養いかねるだろうから、3、4日牢内にいた分の手当てを出牢のときに遣ってもいるとか。

  【ちゅうすけ注】
  火盗改メの役宅は、 『鬼平犯科帳』では清水門外(そと)だが、史実は組頭の屋敷がそのまま役宅。したがって長谷川組の場合は本所・菊川。1,236坪。
  平蔵宣以の孫の代に、遠山金四郎が下屋敷として買った。

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(同所・丸山歯科医院が掲出している標識)。

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遠山左衛門尉(金四郎)景元の下屋敷に買われた長谷川邸)

松平(久松)左金吾(定寅 さだとら 50歳 2000石)は、誤認逮捕であっても打ったり拷問にかけたりして責めるので、町方では左金吾様はいやだ、同じ縛られるなら長谷川様にしたい、左金吾様はひどいばかりだ、平蔵様は叱ることもしないし、打ちたたきもなされないと、どこでも評判がよろしい。
  【ちゅうすけ注:】
  『よしの冊子』によると、長谷川平蔵は拷問などしなくても、すらすら自白させていると自慢げに話している。
  テレビの『鬼平犯科帳』に拷問シーンが多いのは、視聴率かせぎのためかも。

一、先日、盗賊流行の節にお書付が出たとき、清水家でもお触が出、他所へ出たら本供で出るようにのとお書付が出た。ご近習ららいなら侍でもあろうが、それより以上は本供というところが、中間一人の外はない、馬鹿な書付だ。ああ事を取り違えるから世上がゆかぬといっているよし。

一、盗賊がはびこっている当節、武士方へ押し込んできたときには打ち捨ててよろしいとの最初の書付が回っているが、「うち すて」は討ち捨ての字であるべきところ、打ち捨てと書いたのは学者ぞろいの集まりにもあるまじきこととの噂。
2度目の書付に銘々の働きの様子をもご覧なされおかれるべき厚い申し合わせ―――右ご覧のところを、お聞きおかれるべきにもとのあいだ出るところもあるよし。
これはご覧ではあるまいお聞きであろう。
とてもご覧はできないことだと沙汰している者もいるようだ。
なにか少しのことを見出だして誹謗したがっているよし。


『よしの冊子』(寛政3年(1791)4月21日つづき)より

一、森山源五郎孝盛 たかもり 54歳 )はこれまた幸せ、ほかにお目付になりそうな人もなかったかと沙汰されているよし。御徒頭では、植田十郎兵衛が世話を焼き精勤しているところを、森山に先をこされたので、大いに不平に思っているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  長谷川平蔵の政敵。寛政3年5月11日、目付。300石と廩米
  100俵。
  冷泉家の門人ということで、松平定信に目をかけられて、伊豆・
  相模・安房など江戸湾の視察に随行。
  長谷川平蔵が死の床にあるとき火盗改メ代行に就き、その死とと
  もに本役。
  エッセイ集『蛋(あま)の焼藻(たくも)』で、前任の平蔵の仕事
  ぶりを口をきわめて非難。
  森山源五郎の家譜

  植田十郎兵衛は、横田十郎兵衛延松(ながとし)の誤記。46
  歳、200石廩米100俵。
  徒(かちの)6番手の組頭。森山孝盛に2年遅れて、寛政5年に
  西丸目付。


一、非番の御先手に召し捕られたがいまだに吟味中の者の中の4人は、よく盗賊に出た模様。
夜盗などを召し捕った与力同心の名前を書きだすようにと、御先手頭へも仰せ出されたよし。
中山下野守(直彰 なおあきら 弓の8番手の組頭 76歳 500石)組の横井三郎右衛門の手の者から一人、うまく盗賊を召し捕ったよし。三郎右衛門はかつてから召し捕りものの巧者として高名の者のよし。
御先手へ銀子を下されたのは、いままでに例がないので、一統がありがたがっているよし。

一、長谷川平蔵の倅(辰蔵)を御見分の節、武芸の分はみなお断りをして、素読講釈のみ御見分を受けたいと申し出があったので、先日、若年寄方の御宅で見分されたよし。

一、長谷川(平蔵)がづく銭(鉄銭、ババ銭)を鋳つぶしたついでに銅銭も鋳つぶしたとの噂があり、このこと、平岩次郎兵衛が何ほどか知っているらしいが、勘定奉行が取り上げるほどのことでもないと、むなしく控えいるとのこと。
  【ちゅうすけ注:】
  平岩次郎兵衛親豊(ちかとよ 廩米100俵。御勘定。54歳)。

一、米価が上がったので、それにつれて諸物価もにわかになんとなく上がり、鳥目(貨幣価値)はすこし下値になったもよう。
両替屋一統へ、文銭10貫文(文銭1万枚。1万文。2両前後)ずつ差し出すように長谷川(平蔵)が申しつけたところ、文銭を手持ちしていない者は、耳白(みみじろ(注:正徳4年(1741)、亀戸で鋳造された寛永通宝。外輪が広いのでみみひろが訛ったと)を出した者もあったよし。
これで、銭相場がまたまた高値に戻ったと。
だいたい銭の値段は落ち着いたのに、物価を引き上げるのは不届である、と沙汰しているよし。

一、米屋一統へ、(100文で)1升2合より高く売ってはならないと、長谷川(平蔵)が申し渡したよし。
かつまた、舂米屋一統へは、貸し臼一つにつき御払(下げ)米3俵ずつ渡すから、代金持参で浅草の御米蔵へ出頭するようにと長谷川平蔵が申し渡したが、現金払いの上に、わずか10俵や15俵の米に車賃をかけ、さらに1升2合で売ったのでは引きあわない、と米屋どもが従わなかった。
そこでこの節、武士町人とも、あまりに下をいじりすぎると、長谷川のことをよくはいっていないみたい。


『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より

一、(久松)松平左兵衛佐康盛 やすもり 32歳 6000石 中奥小姓)殿の元締何某は、4年前に娘を片づけようと、上の用向きと偽り、呉服屋などから反物をおびただしく取り寄せ、かつまた娘方へ道具をやろうして、家内の道具を残らず運び出し、鍋釜とへっついだけを残し、夫婦と娘ともども逃げ去ったよし。
右の元締は先日、本町あたりに料理茶房を拵え、娘で入るを取るもくろみだったが、悪事がばれ、左兵衛殿もお知りになり、(久松)松平左金吾定寅 さだとら 先手・鉄砲組頭 加役 50歳 2000石)へ内々通じて、召し捕ったよし。およそ1万5,6000両も借金があったよし。
もっとも、この者たちは左金吾左兵衛殿へ引き渡したよしの沙汰。
  【ちゅうすけ注:】
  家斉の晩年に西丸側衆をつとめた伊勢守康盛。同属・久松松平
  のよしみでもあり康盛は20歳近くも年少でもあり、左金吾のこと
  だから、気を利かせたつもりの処置であろうか。

一、経済講釈、経済学など何年稽古、師匠はだれそれなどと書き出すように、中川勘三郎忠英 ただてる 1000石 目付 のち長崎奉行)、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付 300石と廩米100俵)が掛りで仰せだされたよし。
これも清助(?)が進言したことであろう。経学、経済とどうわかるものだ。
清助はとかく要らぬことを進言する、との評判のよし。

一、町奉行には長谷川平蔵(宣以 のぶため 火盗改メ本役 46歳 400石)、しかし、人足寄場はこれまで通りに担当、とのもっぱらの噂。
一方では、松本兵庫頭が町奉行に登用されるらしい、との噂もあるよし。
先日、本多(弾正少弼正籌 まさかず 陸奥・泉藩主 老中格 53歳 2万石)侯へ差し上げた書上げに、御老中方の思し召しにあい適い、こんど町奉行を仰せつけられるとあるよし。
  【ちゅうすけ注:】
  本多忠籌について、定信は、「経済は泉侯、政治は自分」と頼り
  にしていた。
  また、長谷川平蔵が火盗改メの助役をみごとにこなした時、わざ
  わざ呼んでその労をねぎらったとも『よしの冊子』に記されている。
  人足寄場に月3回心学の講師として、中沢道二(どうに)を紹介し
  たのもこの人と。

しかし、お咎めをこうむった前歴があるので、いかがなものかと申し上げる者もいたところ、(松平)越中(定信)様のご意向は、以前に遣ったことがあるが、松本も山師同様で人柄がよくないが、才子なので遣い方次第であろうということなので、これは町奉行は間違いなし、と噂されているよし。初鹿野(河内守信興 のぷおき 北町奉行 47歳 1200石)は卒中風との風評があるが、全体は御役筋に不首尾があるゆえに切腹もの、ともっぱらの噂。
  【ちゅうすけ注:】
  松本兵庫頭といえば、田沼時代に勘定奉行に抜擢された秀持
  (ひでもち 田沼失脚に連動して500石から半知)。逼塞は許
  されたが、その後、在職中の越後米購入にからんで再び逼塞。
  天明8年(1788)に解けているが、まさか町奉行候補とは。

一、町奉行に長谷川平蔵、との沙汰はなかった。中川勘三郎か根岸肥前守(鎮衛 やすもり 勘定奉行 55歳 300石)だろう、との風評がある。もっとも根岸は(勘定奉行の)公事(くじ)方も勤めているので適任かもしれないが、中川はまだ町奉行という器量ではなかろう。そのうえ超選(順序を飛びこえて官位がすすむ)にもなることでもあり、かつこのごろは目付のお役目もいろいろ掛りが多くなっていて手が抜けない時だけに、御下命はあるまい、と。
  【ちゅうすけ注:】
  中川勘三郎忠英(ただてる) 1000石。目付。徒(かち)の頭だ
  ったときに浪人・吉田平十郎宇垣貞右衛門の弟のように偽っ
  て前嶋寅之丞の養子にとりもったことを咎められて、出仕をとめ
  られる。
  【蛇足】
  逢坂 剛さんの時代小説[重蔵始末](講談社文庫)シリーズの
  近藤重蔵---そう、蝦夷・サハリン探検をしたあの重蔵
  仕えたのが、この中川勘三郎忠英

一、松平左金吾殿は、なにかというと「越中(老中:松平定信)へそういいましょう」「越中がこういいました」と、諸事に越中様を鼻にかけるので、仲間衆もそうかと思い、恐れをなし、無理なことでも「はいはい」と返事しているよし。万事、むずかしくいうので、西下(定信)の目明しだともいわれているよしの沙汰。

一、小田切土佐守(直年 なおとし 49歳 2930石。長崎奉行から町奉行。この寛政3年に49歳)を召され、来る16日着のよし。柴田七左衛門(康哉 やすかな 2000石 駿府定番から奈良奉行)も召され、こちらは19日着のよし。小田切は町奉行、柴田は奈良奉行。遠国も折々は勤めるとよい。
(町奉行には)目付からばかり任命されるときまっていてはよくない。小田切も、長崎奉行から抜擢……ぐらいのことはありそうだ、といっていたよし。

一、町奉行は目付を勤めていない者はなれない。だから長谷川平蔵の目は絶対にないだろう、との噂が流れている。
ところがこのたび小田切(土佐守直年)が拝命し、目付の経験のない町奉行が誕生した。
いやいや、以前にも山田肥後守利延 としのぶ。2500石。作事奉行から寛延3年(49歳)~宝暦3年(53歳)の3年半町奉行)のように目付を経ないで町奉行になった先例もある、などと不自由なことがいわれているが、その任にふさわしい人材がいたら、どこからでも登用したらいいではないか、との声がもっぱらだ。
大坂へは長谷川平蔵が行きそうなものだ、あれもせめて大坂へでも行かなければ、腰が抜けようと噂されている。
総体にお役人は平蔵を憎んでいる様子。


『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より

一、長谷川平蔵宣以 のぶため 46歳 400石 先手・弓の2番手組頭 火盗改め方)は転役もできず、いかほど出精してもなんの沙汰もないので大いに嘆息し、もうおれが力は抜け果てた、しかし越中殿(老中首座・松平定信)のお言葉が涙がこぼれるほど恭けないから、そればかりを力に頑張るしかほかに目当てはない、これではもう、酒ばかりをくらって死ぬだろうと、大いに嘆息して同役などへ話しているらしい。

  【ちゅうすけ注】
  長谷川家の家禄はずっと400石---知行地は、下総国武射郡
  寺崎(現・千葉県山武市寺崎)に220石、同国山辺郡片貝(現・
  千葉県山武郡九十九里町片貝)に180石で、計400石だが、先
  手組頭は1500石格なので、それにたりない足(たし)高1100
  石が支給される(格1500石-家禄400石)。
  足(たし)高がもらえる役職につくことを出世という。
  さらに、火盗改メの組頭には、役料40人扶持を支給される。
  (1人扶持は1日玄米5合)。

一、長谷川平蔵は奇妙な人で、盗賊を召し捕るのは神技といえる。
田沼家の浪人と称して本所で剣術師匠をしながら近隣の貧家に米銭などをほどこしてもいて、賢人と崇められている男を長谷川平蔵が召し捕った。
その節、堺町(芝居町)の役者たちも博奕をしていて、いっしょに捕まった。で、右の浪人は盗賊の首領であったよし。

また旧冬の出火の節、立派な法衣の和尚とりっばな立派ななりの侍が立ち話をしているところを、平蔵が馬上から指図して捕らえたら、案の定、大盗人であったよし。

  【ちゅうすけ注:】
  このエピソードは、父・平蔵宣雄(のぶお)が先手・弓の8番手組
  頭で火盗改メ方の長官をしていた明和9年(1772)に、江戸の半
  分近くを焼いた行人坂大火の放火犯を逮捕した事例を、換骨奪
  胎して平蔵宣以の手柄にした形跡がある。
  父・宣雄の史実では、18歳ほどの若くて素足のかかをヒビ割れ
  をさせている坊主が、ふさわしからぬ高位の僧衣をまとっている
  ので「怪しい」と逮捕してみたら、行人坂の大円寺(現・目黒区
  下目黒1-8-5)の納屋に放火、その騒ぎのどさくさに同寺の住
  職の僧衣などを盗んだものと。  

また火事のあと、家根や火事場へ参って普請の相談をしているところを長谷川が召し捕ったよし。これも大盗だったらしい。
このように奇妙な捕り物がつづくので、町方ではあれほどのお人に褒美がでずご加増もないのはおかしい、あまりといえばあまりなことだ、公儀もよくない、なんぞご褒美がありそうなものだ、もっともご転役では跡をやるものがあるまい、長くいまのお役にとどまっていてほしいものだ、と口々に噂している。
お役人のほうでは、とかく長谷川を憎んで、あれこれいっているよし。いずれ長谷川は一奇物だとの噂がもっぱらだ。

一、火事場見廻りの太田運八郎資同 すけあつ 3000石)は利運(自己主張が強い)の者のよし。
このたび、定火消が郭の外防に出たについて、見廻り出会い相談の節、筆頭の堀孫十郎(不明)と運八郎が口論におよび、孫十郎が悪口を口にしたので、運八郎は切って捨てると脇差を抜いた。座中から大勢が取りかかって運八郎をなだめ、孫十郎を脇へ引かせたとのこと。その後、孫十郎は主張を引き下げたよし。運八郎は引き下がらず、「おれは引かぬ」と自説の優勢さをいいつのっているよし。もっとも論争の利は運八郎のほうにあるやにいわれているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  この仁はのちに、長谷川平蔵の冬場の助役(すけやく)として火
  盗改メに任じられたとき、平蔵に教え乞うたら、「そっちはそっち
  でおやりなさい。こっちはこっちでやるから」と言われたと、上層部
  へ泣き言訴えた。
  このことについてかつて、 『夕刊フジ』の連載コラムに[部下を
  信頼する]
と題した私見を記した。


榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。

武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。

長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1920)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。

江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎資統(すけのり)」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。

中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。

太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
父・資同(30歳)が平蔵(47歳)の助役に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。

記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎平蔵がいじめているみたに思える。
が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。

その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西の丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。

目付は1000石高、先手組頭は1500石高の役職手当。
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付を出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。

その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600ヶ月)のあいだに火盗改メに104ヶ月も従事しており、平蔵の組の144ヶ月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。
組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり、誉めあげ、信頼されていると感じさせることだ。

「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。


一、石川島は長谷川平蔵の担当で直かに計画しているよし。
江戸払いや江戸お構い者でも置くとのこと。石川大隅守正勲(まさよし 4000石 38歳)の家作も長谷川平蔵が買うだろう。鮫ヶ橋で家が売りにでたとき、ほかの者が20両(320万円)前後の値をつけたあとにやってきた長谷川平蔵は、2分(8万円)上積みして買ってしまった。古家までを買いあるいて何にするのだと噂されているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  人足寄場の宿舎として解体して運び、プレハプ工法式に早期に
  組み立てた。
  官僚には珍しく機転・応用のきく柔軟な頭脳の持ち主。

一、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付)は先日中、引き込んでおり、ようやく出勤したところ、その節、供を減らす書付が出ていたときなので、供を大幅に減らし、歩いて桜田見附を通ると、下座見が拍子木を2つ打ったので、ふだん目付は膝直しばかりで、拍子木は1つ打つのだが、歩行のときは2つ打つことになっているとのこと。
それで見附番の番頭が刀を手に提げて縁側まで出てきたが、どっちへお辞儀をしていいかわからないので、すごすごと上へ引き返したと。
それからこの番頭がお辞儀をしなかったことを咎めたところ、番頭がいうには、目付はただいま馬でお通りになった。たとえ駕籠でもお供のぐあいでどなたか分かるのだが、きょうは徒士でお歩きになった、もともと面躰を存じあげていないし、もちろん下座見も存じてはいない。その上、供を減らすようにとの書付が出ていることも不案内で知らなかったので、お辞儀をしなかったことはけっしてこっちの不調法とはきめつけられないといいはり、一向に謝ろうとしない。それで源五郎の負けで、またまた引き込んでしまったよしの沙汰。

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2009.08.20

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 5)

『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む つづき)

一、河野勘右衛門通秀 みちよし1000石 西城留守居 この年、52歳)、本所の大島重四郎(『寛政譜』に記載されていない)へも乱入したが、2ヶ所とも秘しているよし。

萩寺(龍眼寺 江東区3丁目34)へも押し込んだらしい。

601
(萩寺=竜眼寺 『江戸名所図会』より)

本所に住む玄意という医者が、患家からの依頼があったので疑うこともしないで出向いたところ、御竹蔵(現在の国技館あたり)に大勢待っていて、丸裸に追剥ぎされたとか。

一、神田のうなぎ屋へ乱入、妻と娘をさんざん犯して疵つけたよし。

一、市ヶ谷田町へ入って銭を盗み、その上、赤ん坊を抱いているのを見て、「子をおろせ」という。「おろすと泣く」とわびると、そのまま帰って行ったよし。

同所の男伊達のところへ1人で抜き身をもって入ってきたのに、頭が「おれのところと知らずに入ったのか」といい、組の者たちが、泥棒を剥いで酒代にしよう、と気勢をあげたら、詫びごとをいって逃げたよし。

巣鴨あたりへ入った泥棒の一人を縛ってみたところ、近所の旗本の次男坊だったので、あきれてしまい、突き出すわけにもいかず、わざと縄をゆるめて逃がしたと。

市ヶ谷(田町2丁目裏通り)の小林伊織正智 まさとも 500石 大番 この年、33歳)という小普請へ盗みに入って衣類などかなり盗んだよし。これは事実の話。

一、板橋で長谷川組善奴という者と、大松五郎という大盗賊を召し捕ったよし。

  【ちゅうすけ注】
  善奴についての詳細は不明。
  100大松は、松平定信『宇下人言』(岩波文庫)にも記載がある。
  「そのうちに大松五郎といふを長谷川何が
  し
とらへぬ。このもの一人して一夜に二三
  ヶ所ほどづつ入て盗みぬ。
  一二ヶ月の間に五十何ヶ所と入りて、或は
  人をころし、町はおびやかしてとりゑし也。
  (重き刑にあへり)。
  このもの一人にてありけれども、風声鶴唳
  にも驚ききしは、実に義気のおとろへしけ
  れば、かくてはなげかわしとて、さまざま評論ありて義気発すべき
  御手だては、とりはからひ在りし也」

本所の妙見の寺(墨田区本所4丁目6 元・能勢家下屋敷内)へも押し入ったよし。

_350
(本所・北辰妙見堂)

駿河台の太田姫稲荷(千代田区神田駿河台1丁目2)の近くで追いおとし(路上で強奪)が出たとのこと。

大屋:甚左衛門方へ入ったというのは間違いで、彼の地所を借りている木村玄妓という医者のところへ押し込みに入ったが、件の医者が起きていて誰何したので、逃げ去ったよし。

小日向あたりの小普請組頭:多田善八郎頼右 500石。この年、32歳)方へも、先日、表の塀をやぶって入ろうとしたところ、中間が機転がきく者で、鎗持ちの力で塀越しに突いたところ盗人に傷を負わすことができ、賊は逃走したよし。

鉄砲洲へんとも八丁堀あたりともいうが、まあ、どっちにしても白河様(老中・松平越中守定信)のお屋敷の近くに医者ていの者がいた。この医者ていの者ははなはだあやしい男で、深夜に何用があるのか往来しているよし。この春、この医者の家へ下女として住みこんだ者が、その様子を見て安心できず、親の病気をいいわけにして暇をとったよし。この医者は盗賊の頭ではないかと噂されている。

一、麹町1丁目の芸者・よねが追剥ぎにあい、その上、一丁ヶ原でおかされたよし。このころ病気で本復もできまいといわれている。


『よしの冊子』(寛政3年(1791)と見込む つづき)より

一、芝の牛小屋(東海道筋・牛町の牛舎)で、左金吾殿が盗賊を召し捕られたよし。しかし7、8人が抜き身でいたので、左金吾殿もはじめは大てこずり されたよし。

088
(高輪牛町 『江戸名所図会』)

280
(広重 高輪うしまち 『江戸名所百景』)

一、下谷の三味線堀で、長谷川組吉岡左市という与力が、どぶへほおりこまれたよし。

  【ちゅうすけ注】
  長谷川組(先手・弓の2番手)の与力の姓がこれで判明したの
  で、目白台にある3組の各戸割りになって姓名が記されてい
  る組屋敷の最右端のブロックがそれと判明。

355
(目白台の弓の3組の組屋敷。赤○ブロックが長谷川組)

麹町8丁目の日雇取りが番町で襲われたとき、下帯だけはゆるしてくれ、といったが、それも聞いてはくれず、古い下帯と取り替えられたよし。ところがその下帯に3分(約15万円)結びつけてあったので日雇取りは大悦び。さっそくに木綿屋の吉水屋で袷をあつらえたよし。はぎ取られた品は全部あわせても3分には達しなかったもよう。

穴八幡の先の閻魔堂のある寺へ、押し込みが入って金子を取られたよし。「寺社奉行から参った」といって開門させたよし。

一、番頭の大久保備前守(不明)の屋敷へも4、5日前に大勢入り、おびただしく盗まれたよし。これは屋敷内の家来には分かりかね、門の出入りを止めているよし。

日夜、小盗人はところどころに働いているが、町方などでは、そういう小さな事件は訴え出ても盗まれた品は出てきっこないから、そのまま泣き寝入りをしているよし。そういう小さな事件はいたるところで起きているよし。

浅草観音のご開帳の朝参り、籠り、また夜参りなど、これまでにないほど警戒が厳重とのこと。当節は舟遊山もされなくなった。下賤の売女や辻の売女などの姿もまったく見かけず、難儀至極のよし。
町々は日が暮れると人通りもなくなってさびしく、四ツ(午後10時)には拍子木と鉄棒の音だけが聞こえるのみのよし。

昨14日、市岡丹後守房仲 ふさなか 1000石 先手鉄砲組頭 この年、54歳)の屋敷へ押し込み、大騒ぎになったよし。

一、先手の非番組が巡回して、先日、一夜に39人召し捕り、六ッ(午前6時)ごろに宅へ帰ってきたところ、自分の屋敷の門前で中間を一人召し捕らえて顔を見たら当家の家来だったので、同心が「許しますか?」と聞いたところ、「自分のところの家来であっても出てはいけない時に出たのだから召し捕れ」と、縄をかけて加役へ引き渡したよし。で、しめて40人の召し捕りとなった。

一、同じご仁が夜中に若い男を召し捕ったところ、自分の息子であった。遊所へでも行く途中だったのだろう、が、時が悪いと、縛り、これまた加役へ引き渡したよし。
どうもあまりにできすぎた話だ、しかし、安藤又兵衛正長 まさなが 331俵 先手鉄砲頭。この年、64歳。同年、罪を得て小普請入り)ならやりそうなことだと噂されている。

一、長谷川のところの中間が廻りから帰り、暮れ方に湯へ行き、帰りがけに近所で売女を買い、五ツ半(午後9時)に戻ってきたところを先手が召し捕って吟味したところ、長谷川の中間と分かった。
しきりに詫びるが、「長谷川の家来ならば勤めがら不埒である、と縄をかけ、ただちに長谷川へ引き渡したよし。長谷川でもただちに門前払いにして本金(すでに渡してある給金)を返還させたよし。

一、赤坂で盗賊6人を召し捕ったところ、3人は赤坂御門の下番、3人は駕籠かきだったよし。
盗賊者を駕籠へ入れ、提灯を点し、□□台へ持ち回るところを召し捕ったのだと。葬礼用の棺の中へ盗品を入れ、上下あみ笠などで盗賊どもも葬礼用の出で立ちで供について歩いていたよし。これは先年、前田半右衛門玄昌 はるまさ 1900石 この年、61歳 先手・弓の2番手組頭として長谷川平蔵の前任者)が火盗方をしたときに途中で見咎めて召し捕ったことがあった。今回もまた似たようなことがあったと。

一 沼間(ぬま)頼母隆峯たかみね  800石 西城御徒 この年、59歳)隊下の河野権之助は剣術もよほどにできたが、このほど組頭と頼母へ暇を願い出たので、組頭がなにゆえと困惑、沼間は「吟味するとことのほかむずかしいことになりそうだから暇を願い出させました。
どうしても、ということであれば調べますが……」といったので、組頭も早々に承知して謹慎させておいたよし。この者、ふだん親しく出入りしている小普請の宅へ先夜泥棒に入り、風呂敷包み、三味線などを盗み、その三味線を故買屋へ売り払ったが、被害者がその三味線を見つけて故買屋を責め、権之助から買ったことを聞き出し、中へ悪党を入れて権之助を詰問、白状させた。こういう次第だから、ほかへも夜盗に入ってもいよう。組頭はそのことを一向に知らずにいたところ、頼母は承知していたらしくて、はやばやと暇を願い出させたよし。

  【ちゅうすけ注】
  この事件の後日談が『寛政譜』に記されている。
  隠密のこの報告書によって水野為永が辞職した河野権之助
  監視をつけたらしく、つぎの犯行で重刑に処された。
  沼間頼母については、権之助が組下にあったときすでによから
  ぬ行状をかさねていたことを知っていながら病気退職をすすめた
  のは不届きであると同年11月20日に小普請におとされ、出仕
  を2ヶ月間とめられた。

一、 長谷川の管理する無宿島から逃げた無宿人は10人や20人ではない、もっと多いはず。
このところの盗難事件は逃げた無宿人の所業に相違ないと噂されている。

  【ちゅうすけ注】
  無責任なリポートである。
  長谷川平蔵は、参考にした深川・茂森町の無宿人養育所の失敗
  例にかんがみて、逃亡者は死刑、ときびしい規則を決定めて、逃
  亡を防いでいる。


『よしの冊子』(寛政3年 1782年と見込む つづき)より

一、外濠外での押し込みはしばしばあったが、外濠内の武家屋敷への押し込みはまずなかったのに、このごろ始まったのははなはだ遺憾なこと。
家の者男女10名ほどのところへ10余人も抜き身で乱入されては防ぎようもない。
その上、目の前で婦女を犯すのだからたまったものではない。
嫁入り前の娘を持っている者は夜な夜な心配し、婦女はぶるぶる震えて、お上の無策を恨んでいるとのこと。
その噂はぱっと広まったよし。
元昌へはたびたび盗賊が入っているらしい。

  【ちゅうすけ注】
  『よしの冊子』の盗難で武家方のリポートが多いのは、町奉行
  所の御用聞きなどのそれではなく、老中首座・松平定信の腹心
  ・水野為長が手配している、もともと、幕臣を探索するのが仕事
  の徒(かち)目付や小人目付とその下働きも者たちの報告のせ
  いといえる。
  
一、強盗は富家のみを狙って入るものと世間で思っていたのに、このごろは貧家へも見境なく乱入しているので、わが家は貧乏だからといって安心してはいられない、といい交わされている。

一、盗賊を切り捨てたり召し捕らえた者へはご褒美をくださると仰せ出されてはいるので、召し捕る者もないではないが、現状では、押し込みを防ぐだけで精一杯、切り捨てとか召し捕りまでは思いもよらないと、もっぱらの噂。
2、3日前、上野の山下原へ70~80人寄合い、いずれも大小を差して徒党を組んでいた。
そのあたりの町家では、妻子をみな外へ避難させたらしい。

赤城若宮町の芸者2人が、加賀屋敷ヶ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)で犯されたそうな。

一、昨夜、赤坂檜の木坂下の町家まきやへ、押し込みが入ったよし。大勢で声をたて、拍子木を打ったので逃げ去ったと。

一、先日、京極備前守高久(若年寄 峰山藩主 63歳 1万1000余石)殿より、この節、御徒方の勤務ぶりがよろしいとお褒めをいただいたばかりなのに、前記のように御徒の内から盗賊が出たのだから、御徒方でも困ったものだと笑っているよし。
もっとも、御徒1組30人のうちには、いずれの組にも腕を撫して、どうでも盗賊を切るか捕らえるかしないとなるまいといっている者も3、4人ずつはいるようだ。

一、一昨年(寛政元年 1789)、神田鍋町と蝋燭町のあたり、6、7人ずつ連れだった盗賊が横行したよし。
もっとも大勢で拍子木、割り竹などで囃したために、人家には入らなかったものの、その盗賊どもを捕らえるまでにはいたらなかったよし。
ただ騒いで向こうの町へ行かせただけだったよし。いずれの町でも乱入されないように用心をしているよし。

一、神田で白昼、3、4人乱入したよし。
そのほかも生薬屋で番頭の計略で3人召し捕ったよし。
いずれ少々は実説もあるとのこと。
官人はとかく忌み嫌ってよきようにいっているよし。
お触れ後がお触れ前よりもかえって強い、と下ではいっているそうだが、官人はお触れ後は薄くなったと、とかく世直しをいっているよしのさた。

  【ちゅうすけ注】
  こう、盗賊がはびこっては、火盗改メも席が暖まる暇もなかろうと
  いうものだが、武家方が襲われた時も、管轄は長谷川組なのだ
  ろうか。
  それとも、武家方は、若年寄支配の目付なんかの管轄なんだろ
  うか。 


よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日)より

一 佐野豊前守(政親 まさちか 60歳 1100石 先手・鉄砲の16番手組頭)が加役を命じられた節(寛政2年11月)、岡っ引きで神田の勘太という者を召し捕らえたよし。
この勘太は年来岡っ引きをし、金子を儲け、米屋株を拵え、自分は裏へ引っ込んで御門番所、見附々々の中間などを口入れしていたところ、その中間のなかの1人が(2月ごろに)豊前守に召し捕られ、勘太が偽の名主や大屋を拵え、豊前方へ訴訟へ行くところ、偽の名主や大屋のことが露見して入牢してしまった。
ところがこの節、勘太が免され、ところどころさし口(密告)するので、見附々々の中間どもが大勢召し捕られたとのうわさ。

  【ちゅうすけ注】
   『夕刊フジ』の連載コラムに、佐野豊前守の深慮遠謀ぶりを
  谷川平蔵
が買っているさまを2度、[ともに尊敬しあい][美
  質だけを見る]
として登場させた。
  上記の順番に再録。


「いや、長谷川どのはわれらがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましいかぎり」
火盗改メの冬場の助役(すけやく)に任じられた先手鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守(1100石)が、平蔵のところへあいさつにきた、寛政2年(1790)10月ののことだ。

この仁(じん)人は51歳で大坂町奉行に就いたほどで出来ぶつのうわさが高い。
助役発令の際にも、
「このごろの先手組頭で加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野おいてほかにいない」
と殿中で噂されていた。

そんな豊前守政親の真意をはかりかねたかのように、平蔵は、
「なんの、なんの」
とことばを濁した。

「お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思っていても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大阪の町奉行を病いをえて辞し、3年間療養にしていてハタと悟りましてな。
人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
「遊蕩が資すると---?」
「いかにも。人にもよりましょうが---」

旗本として出仕前の若いころの遊蕩の価値を、15歳も年長の先達に認められたのだから平蔵も悪い気はしない。両人の親交はこうしてはじまった。

なにかにつけて「長谷川どのは先任者…」を豊前守は口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。平も「豊前どのこそ人生の先輩」と立てた。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。

菊川(墨田区)の長谷川邸へ招いたり、永田馬場南横寺町の豊前守の屋敷へ招かれたりして情報を教えあい、盃をかわした。年齢差を超えての交際となった。

早くに父を失った佐野豊前守は、祖父から家督した11歳以来、家名の重みがずっとその肩にあった。相手の長所だけを見ることを課した自律の半生ともいえた。
だから平蔵のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量の持ち主を友にできたことに感謝した。平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

たとえば助役になると、与力や同心たちが捕物のときに着るそろいの羽織に、組頭を示す模様をつけ、町々へふれさせるのが従来のしきたりだが、豊前守は、
「助役の模様なんかは知られないほうがなにかと都合がよろしい」
と秘した。
なるほど助役の任期は火事の多い晩秋から晩春へかけての半年ばかりだから、識別模様が徹底するころにはお役ご免になっているケースのほうが多かった。

が、平蔵の受けとめ方は違った。世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
さらに豊前守は、大阪町奉行の前歴を生かしているかのように、組の与力同心をてきぱきと指揮して捕らえた者の裁きをすすめ、幕府の最高裁ともいえる評定所へ伺うことはなかった。

  【ちゅうすけ注】
  この項、2007年9月19日『よしの冊子(ぞうし)』(18)
  2007年8月5日[佐野豊前守政親]を参照
             ------------------------------

『夕刊フジ』のコラムに登場させた幕臣で、長谷川平蔵に次いで愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。


経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先達、15歳年長なのに助役(すけやく)という立場を忘れず謙虚に教えを乞う姿勢をとった。 
欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが…」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵と豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず、互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。
 
豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。
長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は、
「豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」
とりあわない。
所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。
 
佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった旬日とたたないうちに、佐野組は勘太を放免した。

(うちの長官も焼きがまわったか)
組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けて見付見付もぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)だった。

「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」
と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知(おきとも)に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして浅草・徳本寺(東本願寺塔頭)墓前は紫煙がたえなかったという(殺人者をたたえるとは!)。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門<のことをほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者---それを継いでいたのを反田沼さま派にたくみに利用され……」


よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日つづき)より

一、20日の夜、山本伊予守茂孫 もちざね 41歳 1000石 先手・弓の1番手 堀帯刀の後任組頭)が同心を従えて組屋敷の外通りの加賀屋敷ッ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)あたりを半夜ばかりそこここと歩きいろいろ狙ってはみたものの、怪しい者は一人も見かけなかったと。
で、夜が明けたので同心たちを組屋敷(牛込山伏町)へ引きあげさせたところ、残りの同心たちの耳へ、昨夜は大いに騒いだ、地借の内へ2軒泥棒が入った、1軒は門をこじあけ、1軒は門を蹴放したという話が入った。
頭ならびに同心は右のごとく油断なく見廻っていたのに、いつの間に入ったのか、いたずら連中の仕業ではないかと沙汰しているよし。これはどちらも実説のよし。
  _80

  【ちゅうすけ注】
  山本伊予守の拝領屋敷は一橋外小川町末。
  家紋は左三巴。
  『鬼平犯科帳』文庫巻8[流星]で、若年寄・
  極備前守高久
が、四谷坂町の長谷川組の組屋
  敷の警備を山本伊予組に命じるが、坂町近辺に
  はいくつもの先手組の組屋敷がある。山本組のは牛込山伏町。
  そんなところの組が、わざわざ出かけて行くこともあるまいに。

一、町々の自身番所は昼夜起きており、炉へ大薬罐を3つほどかけ、湯をたぎらせ、茶を一つの薬罐にきらさず、またまた御先手が廻ってきて次の薬罐の茶をあけてしまったよし。
またまた一つ湯を沸かし茶を入れたころに御先手がまたまた廻ってきて弁当などにその茶を薬罐一ツ分あけてしまうほどに夜中にたびたび自身番へ立ち寄り、弁当をつかっていても、むこうに影が見えたら駈け出すよし。
御先手はいずれも目を鷹のようにして出精している模様。

一、御先手の組々が自身番へ立ち寄り、ずいぶんと念を入れよ、と言葉をかけて廻っているのは、定式のよし。
両番(小姓番組と書院番組)の棒ふり(若手)は、いろいろ下手に念をいう中には、夏だけれど火の元を大事にしろ、などと申しつける者もいるので、火の元に夏冬の差別があるものか、ほんとうに無駄なことをいっていると、町方では笑っているよし。

すこし富んだ小人目付宅へ2人が押し込みに入って、金子そのほか衣類など残らず取り去ったよし。
そのあと下女がいうのを聞いたところでは、きょうの泥棒は前に私が勤めていたところの旦那で、巣鴨あたりのお旗本です、しかも親子連れでした。しっかりご詮議なさったらじきに判明しましょう。前の主人ではありますが、泥棒になってしまってはもう見限ります。いまのご主人のほうが大切でもありますし。

沼間(ぬま)頼母隆峯 たかみね 59歳 800石)組の御徒を召し捕ったところ、言上ぶりもいたって悪く、三味線などは借りたものだといって、大いにうろたえた口ぶりだとか。

  【ちゅうすけ注】
  隊下の者の不祥事が発覚し、この年12月に免職。小普請入り。

22日、麹町の毘沙門の縁日につき、暮れ前からその近辺に御先手2組が忍んでいたところ、1組はなんのこともなかったが、もう1組の同心どもは元気にまかせて、めったやたらに捕らえ、すこしでもいかがわしい者は打ちたたいたよし。
  【ちゅうすけ注】
  いまの半蔵門からの新宿通(麹町4丁目)から右折、旧日本テレ
  ビへの下り坂を善国寺坂というが、ここに毘沙門天があった。
  その後、神楽坂上へ移転。

_360_2
(麹町9丁目 現:新宿通 四谷駅の東寄り 近江屋板)

麹町9丁目で夜中、深い竹の子笠をかぶったのが2人やってきたので、御先手組の同心どもが捕らえて笠をひったくって顔を改めたところ、長谷川平蔵だったよし。
平蔵は「これはこれは御大儀々々々。こうでなくてはならない。しっかり廻らっしゃい」とはげまして立ち去ったし。

御先手の跡を隠密の小人目付がつけていて、この状況を見聞したよし。

  【ちゅうすけ注】
  _100この経緯をリポートした『よしの冊子』は、松平
  定信家(桑名藩)で昭和まで門外不出扱いだ
  ったはず。
  ところが明治20年代の『朝野新聞』の連載
  コラムにこのエピソードがそっくり載っている。
  リークしたのは情報操作の大切さを心得てい
  た平蔵ではあるまいかと推察しているのだ
  が。
  *『朝野新聞』のコラムを収録した『江戸
  町方の制度』
(新人物往来社 1968.4.15)


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2009.08.19

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 4)

『よしの冊子』(寛政2年(1781)12月1日)より

一. 番町の新番頭:横地太郎兵衛政武 まさたけ 廩米 400俵。この年、42歳)方へ入った賊も坊主だったとか。
太郎兵衛の組の者が止めようとしたところ、懐剣を出して手に切りつけてきたので、放したすきに逃げてしまったよし。
小普請組頭:蜂屋左兵衛可護 よしもり  300俵 この年、48歳)方の縁の下に伏せていたのも坊主で、中間が見つけて捕らえようとしたところ、これまた懐剣で手を切られ、そのすきに塀を乗り越えて逃げたよし。

ちゅうすけ注】
蜂屋左兵衛可護銕三郎と初目見がいっしょの仁。

永井某方へ入ったのも坊主だったよし。
雉子橋:高橋大兵衛方に同居している弟の所へ入ったのも坊主だったと。稲葉小僧同様の坊主姿だと噂のよし。右の4軒、雉子橋をのぞくと3軒は番町。
この坊主姿の盗人、番町あたりをあちこち襲っている模様で、4年前(天明6年)の米屋騒動のときのような成り行きで騒ぎが大きくなっているそうな。

一. 安藤又兵衛正長 まさなが 廩米 331俵)は、気性がはなはだむづかしい男のよし。いったいに公事をさばくことが好きなので、公事方勘定奉行の役所へ出、さばいてみたいとつねづね願い出ているそうな。
さて、このたび養子の御番入りを願い金子 200疋を堀田摂津守正敦 まさあつ 若年寄)の用人へ贈ったよし。
この金子はただちに用人から返され、その受取書を用人から堀田摂津守へご覧に入れたところ、堀摂侯は登城の節ご持参になって、ご同席方やご老中へもご覧に入れたので、早速に小普請入りを命じられたが、だいたい又兵衛には旧悪もある模様。

  【ちゅうすけ注】
  若年寄・堀田摂津守正敦(近江・堅田藩 主 1万石 この年、32
  歳)実は、松平陸奥守宗村が8男。母は坂氏。老中首座:松平
  定信の盟友。

嫡孫をぶって失明させたとか。養子も3人目とやらで、養子が患ったときも食物や薬も一切与えなかったとか。先年、和田八郎(現在は小笠原仁右衛門の手代)が又兵衛方へ勤めたとき、養子が気分が悪いといっているときにも、湯水も与えないので、八郎が目を盗んで看病したとか。
召使いの使い方もひどいもので、病気で引き込んでいても湯水も与えず、暇をとると給金を本金どおりに立て替えさせ、もし本金がとどこうると、荷物を押さえて渡さないとのこと。
女の古いつづらが 24,5個も二階に重ねて置いてあるそうな。だから世間では安藤又兵衛とはいわないで、本金又兵衛と呼んでいる。奉公人も一向に居つかず、用人もいないまま。
当番のたびに用人を雇っている始末。このたび小普請入りを申しつけられたので、組員一統が悦んでいるとか。

一 安藤又兵衛にお尋ねの節、(久松松平左金吾(定寅 さだとら)殿、安部平吉信富 のぶとみ 鉄砲の7番手組頭  1,000石 61歳)の両人が尋ねて行くと、又兵衛がいうことには、前々、拙者方へ軽い身分の御家人が来て、これがいうには、摂津守の用人の岡田百助は賄賂を取るのが好きだから、なるべく多く贈られるのがよろしかろう、と勧められたが、ただいままで贈りものなどしたことがない。
摂津守殿のご対客の時間に、拙者が参上したところ、百助が出迎えて手厚く世話していた。
ところがこのあいだは拙者に見向きもしないしものもいわなかったとかと御家人へ報告したところ、「それご覧なさい、それだから贈物をしないと」と勧められたので、 200疋贈ったのだ、と左金吾平吉へ話したとのこと。
なお両人が詰問したところ、その御家人もこのごろは来ない、などといって取りつく島もない始末で、あきれかえったよし。
又兵衛ははじめ 200疋贈ったが、返されてきたので 500疋にするかと考えたと。 2
00疋を返されたので又兵衛は大いに立腹し、こっちも御役を勤めているのに届けものを返してよこすとは不届き千万。理由をしたためた手紙を遣ったので、用人もぜひなく主人へ見せたのだろう。
京極殿(備前守高久 若年寄 丹後・峰山藩主この年、62歳 1万1000余石)が又兵衛へ、摂津守の用人どもにかぎって贈物をしたのか、またはほかの同役どもの用人へも贈ったのか、つつみ隠さずにいってみよ、後日になって判明してはためになるまいと聞かれたので、他へは決してやっていないと答えたよし。

  【ちゅうすけ注】
  堀田摂津守正睦は、松平定信の盟友で信頼も篤い。その用人が
  賄賂(わいろ)好きとの噂があるところがなんともおかしい。

一. 先だって、代田橋で駕籠から又兵衛が降ろされたのは、六尺(駕籠かき)への弁当代をやっておらず、駕籠かきたちが申しあわせて降ろしたよし。それゆえ駕籠かきどもは入牢し、この月の2日、牢死したもよう。
その思いばかりでもただではすみそうもないとの噂だ。
安藤又兵衛の倅は三度目の養子で、芸術も人物もいたってよろしく、選にもあたり申すべきほどの様子のところ、又兵衛の大ばかのためにあのとおりの結果になったので、養子は嘆息し途方に暮れたよし。
25日の夜、安藤又兵衛の倅は井戸へ身を投げて死んだよし。
又兵衛が小普請入りを命じられた日から、お前のためにおれはこうなってしまったとたびたびいい聞かされたので、倅の身としては気の毒で辛抱たまらず投身自殺したもよう。
本金又兵衛と呼ばれる男は本所に一人、浅草にも一人いるが、この三又兵衛のうちの一人がしくじったので、今後は二又兵衛となると噂されているよし。
又兵衛の倅は、竹中惣蔵のところへ弓の稽古へ通っていたところへ自宅から人がきて、父の又兵衛があすお城へ召されたといったので、父の立身か自分の番入りかと帰ったところ、小普請入りとのことで、倅も大きく気落ちしたよし。
倅は武芸がいたってよく出来、腕前は御番衆や小普請の中にもくらべられる者もいないほどとのこと。安又の倅が井戸へ入ったのは、養母を殺したことを申しわけなく思ったからだ、ともいわれている。
井戸へ入ったので地上ではたいへんにうろたえ、さげた釣瓶につかまれ、引きあげるからといったが、縄が切れて釣瓶が頭を直撃したので即死したらしい。又兵衛が謹慎の処分中なので小普請組頭はくやみに行くこともできず、世話役を遣って検分したとか。
倅の里方でも、又兵衛のふだんのやり方に不満があり、かねてから養子縁組を解消して取り返したいと考えていたが、御番入りの話もちらほらしていたので我慢していたものの、又兵衛が小普請入りを命じられたのでその謹慎が明け次第に取り返すつもりであったという。それで里方ではこんどの事件で又兵衛の責任を追及するつもりらしい。又兵衛も謹慎ですめばいいが、どうもそうではなさそうな雲行きとの噂がささやかれている。
  【ちゅうすけ注】
  井戸へ入った養子:満吉正武は27歳。里方:内藤主税信就
  ( 1,000石 小姓組の家筋)の4男(ただし兄2人は早逝)。

一. 当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日つづき)より

長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の扱いが暖かく行きとどいていて上手のよし。
役向きで質屋などへ申し渡すときにも、こっちなどもまえまえ質に曲げたことがたびたびあったが、質屋にはなんとも合点がいかない。
腰のものを例にとると、こしらえの値ばかりふみ、太刀の生命である刀身についてはいっこうに評価しない、などと冗談混じりに痛いところをつくので、質屋も笑い出す始末。
吟味も相談するような調子ですすめるので、町奉行と違い、ものも言いよく、恐れずに申し出られると行き届く様子。町奉行はとかく大げさになり、刑罰も重く言い渡されるので、盗賊をつかまえてもめったには渡さない様子。

  【ちゅうすけ注】
  この『よしの冊子』のもとである隠密たちのリポートは、松平定信
  の家に厳秘に付されて伝えられてきた。
  「老中職になった者以外は覗くこと厳禁」といった意味のことが、
  定信の手で書かれていたという。
  それが、世に現れたのは、桑名藩の老職・田内親輔月堂)が、
  ひそかに抄本をつくって『よしの冊子』と命名し、同藩の篤学
  の士・駒井忠兵衛乗邨に託して、副本を作らしめた。
  乗邨は自分の写本叢書『鶯宿雑記』中に収録した。
  これが昭和7年になって森銑三氏が『本道楽』に4回にわたって
  分載、初めての陽の目を見た。
  が、その中には、長谷川平蔵についての記載はない。
  とすると、長谷川平蔵が若い自分に「大どら」であったということ
  を、池波さんはどうして知ったのか。
  収録した中央公論社『随筆百花苑』刊行は、第8巻(1980.12)
  第9巻(1981,01)。
  『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]の『オール讀物』発
  表は1968年新年号。

  『夕刊フジ』の連載コラムに「よしの冊子」この質屋の話をふくらませて[老人力の活用]とした。


「かねがね、機会をみてお手前がたに教えてもらいたいと考えていたことがござってな。いや、はや、はずかしながら、身どもが大どら(放蕩)だった若き日には、お手前がたの店へたびたびお世話になったものだ」

江戸には2000軒と定められている質屋の、当番の世話役---月行事(がちぎょうじ)の20人ほどを、三ッ目(墨田区南部)の自邸へ呼んだときにも、長谷川平蔵はいつものくだけた口調ではじめた。
「厳父の目をかすめて持ちこんだ伝来の腰のものを、お手前がたは刀装…こしらえばかり値ぶみして、刀剣の生命である刀身はいっかな評価しないのは、どういった次第からかな」

「申しあげます」と切りだしたのは南鍋町2丁目裏(中央区銀座6丁目)の〔近江屋質店〕の当主。この業種に特有の青白い顔をしている。

「お武家さまが腰のものを質入れなされたら…」と解説した。刀剣は柄(つか)の先端の縁頭の細工と材質、目貫(めぬき)の形、柄糸(つかいと)の色、、鍔(つば)元の止め金のはばきと中央の切羽(せっぱ)の材質、鞘(さや)と下緒(さげを)の色模様を書きひかえるが、刀身は寸法のみで銘は見ないきまりになっているのだ、と。

「武士の魂もお手前がたにかかっては算盤の玉のひとつでしかないということか」
平蔵の皮肉を冗談につつんだいいようを、代表たちは笑声でうけとめた。

「ところで足労させたは、刀剣を質入れするためではない。賊どもの跳梁(ちょうりょう)は承知のとおりだ。奴らが頼りにしているのが故買屋とお手前がた…」

で、その齢でもないのに隠居している仁は、火盗改メにしばらく手を---いや、脚を貸してほしい。20人ばかりでいい、なに、公儀のご用といっても、組の同心と連れだって質商をまわり、不審な入質品の有無を聞いてまわるだけだ。

「のう、〔近江屋〕。その方のおやじどのも隠居の身と聞く。お天道(てんとう)さまの陽の下を歩けば、これまでの日陰での半生も日焼けで帳消しになるだろうよ」

隠居した〔近江屋〕彦兵衛が盗品をひそかに買い入れていたことを皮肉ってもいる。

平蔵はこうもいった。
「武士の身上が胆力なら、質屋のそれは眼力であろう。ご隠居どのたちは長年、その眼力を鍛えぬいている。それを借りたい」

一同に異論はないばかりか平蔵の柔らかな人あしらいぶりが、あっという間に江戸中の質商へ伝わり、緻密な情報網となった。

また、眼力を認めているといわれた隠居たちは、もうひと花咲かせる気になり、すすんで日焼けした。

当節は、今日の市場の売れ筋をPOSで吸いあげているが、1か月先、半年先の、まだ顕在化していないマーケットの動向は、第一線で販売に従事している生身の目と勘でなければとらえられまい。平蔵の狙いもそれだった。


  【ちゅうすけ注】
  本文に、「盗賊をつかまえても(町奉行所には)めったには渡さな
  い様子」とあるのは、町方の者が捕まえても、町奉行所に連行す
  るのではなく、役宅としても使っている長谷川邸へ連れてくる---
  という意味。


『よしの冊子(寛政2年(1790)12月1日つづき)より

一、当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。
もっとも旗本の屋敷にはただ入り、町方へは「上意」などといって入りこむらしい。
山の手あたり、下谷あたり、青山あたりなどへも入っているとか。
これはぜひ越中(老中首座・松平定信)様のお耳にいれたいものだ。
田沼意次おきつぐ)の治下でさえ丸の内では追い落しはなかったのに、ご政道、ご政道といっているがなにがご政道なものか。
長谷川(平蔵)のこのごろはそんな犯罪には目もくれず、諸物価引き下げにばかりかかっていて、いったい、本職はどうなっているのだといいたい。
こんなに諸方が物騒では、長谷川組だけでは間に合いそうもないといわれている。
小川町雉子橋外の蓮光院さまのご用人:高橋大兵衛方へ入ったのは禅僧だったよし。

一、当節、盗賊が横行し、町方はいうに及ばず、武家へも4、5人ずつ一団となって抜き身で乱入してくるので、追い込みに入られた武家方としては体面上「入られた」とは口にだしがたく、秘密にしているよし。
最近では「侵入してきた盗賊は斬り捨ててよろしい」という書付が出ているよし。
しかし、1000石以上で家来の数も揃っていれば盗賊団に対応もできようが、そういう屋敷は襲わない。
小身だが暮らし向きはけっこうやっている家が狙われ、抜き身の4、5人にも乱入されると、家中には足弱(老弱)の者もいようし、わずか2,3人では防ぐすべもない。
で、斬り捨て、といわれてもそうはいかず、なかなかに迷惑しているよし。
かつまた、旗本は隣家との申しわせもうまくできておらず、たとえ隣家へ盗賊が乱入していることがわかっても、しらんぷりをされてしまって応援にかけつけてきてはくれないので、小身の家では防ぐ手当てもできないようだ。
もっとも、番町あたり、小川町あたり、駿河台あたりも盗賊が横行しており、番町では大坊主があちこちへ乱入し、此奴を捕らえようとして怪我をして取り逃がした家もあるそうな。
駿河台では人の長屋を借りている者のところへ乱入して反せんを奪いとったよし。右の坊主は長袖を着ているので、なんともおそろおそろしく、震えているばかりとか。
万事取締りといわれても、丸の内がこんな有様ではどうしようもない。上の方々は町方の盗難はご存じでも、武家も乱入されていることはお耳に入っていないかして、一向に手配されないのはそれこそ手ぬかりというもの。それと同時に御不仁なことだと噂されているとよし。もっとも、町方には白昼乱入されている家もあるやに聞く。せめて御先手十組に命じて夜廻りを厳重になさって下さるといいのだが。
しかも、その盗賊の多くは御家人ときている、などとの声もあるほどだ。
当節、小身者は、はなはだ不安心なことだ、といいあっているよし。

一、本所あたりでもあちこちやられているので、夜が明けたらまず、「ゆうべは無難でよかったね」との悦びの挨拶を交わしているよし。本町あたりでは11人ずつ一団となって抜き身をもって夜中横行しているよし。
下谷あたりでは、与力、代官、浪人、儒者などの所へも4、5日前に押し入ったよし。
赤坂では10人ほどが番太郎をつかまえ「お前が夜まわりをしているのは、火の用心のためか盗人用心か」と聞き、怖くなった番太郎は「火の用心のためです」と答えると、「泥棒のためといったら、ひねり殺すところだったぞ」と、許してくれたよし。
御廓内へ押し込みを乱入させないようにできないのでは越中(老中首・松平定信)様もいたって不徳だ、と大いに嘆息喧言しているよしのさた。
千駄ヶ谷の寂光寺へ入った五、六人の押し込みは、残らず奪い取っていったよし。
寺側は、わざと寝込んでいるふりをして取らせたあと、押し込みを尾行していったところ、四谷新屋敷の旗本の屋敷へ入って行ったよし。
翌日、使僧を遣り「昨夜、持って行った諸道具衣類、難儀しているのでをお返しいただきたい」といわせたところ、旗本側は「一向に知らないこと」と追い返した。
ふたたび使僧を遣し、「このお屋敷であることは、昨夜、ご門へ印をつけておいたので間違え用がないこと。今日、お返しいただければ一切なかったことにしてこのお家の名前も出さない。もし、知らないというならば、公儀へ訴え出るまで」と挨拶させたよし。
その後の経緯はわからない。

  【ちゅうすけ注】
  寂光院の盗難事件を『夕刊フジ』の連載コラムに[ただ、立っていよ]のタイトルで発表してみた。


長谷川平蔵は信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。
幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、遊女の松で有名な天台宗の寂光院もそうだ。

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(寂光院 『江戸名所図会』部分。中央;遊女の松)

遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もとは霞の松とよばれていた。改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名が遊女。

白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性から、カンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光寝院を訪ねた平蔵へ住職がいった。

「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎さまにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯稲葉丹後守(10万2000石)が諸方へ手をおまわしになった」
奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の要職が待っている。

「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲鳴に、助けに駆けつける者はおらんだのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者にはさからわず、人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめることです」

平蔵のこの忠告が役に立った。
旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5、6人の賊が侵入してきたのだ。住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、後をつけて四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。

翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しねがいたい」
「一向に知らぬこと…」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であることにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことはなかったことにしてお屋敷の名もだしません。が、知らないといいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さまへ、いまここで訴えるまでのこと」

老中首座・松平定信によるの借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。

旗本の監督は若年寄と目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には「ただ、立っているだけでよろしい」との策をさずけて同行させた。実話だ。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日 つづき)より

一、四谷大番町に悪党が1人いた。
赤坂・薬研坂(港区赤坂5丁目と7丁目の間の坂)上の与力も悪党で、このたび捕らえられた赤坂見附の足軽と同類のよし。
天野山城守康幸 やすゆき 1000石廩米300俵 小普請組支配ののち寄合 この年、69歳)の孫(仙橘か熊之丞、あるいは末吉)、新庄能登守(直宥…なおずみ 700石 作事奉行を経て一橋家老 この年、すでにいない)の倅(直清? なおきよ 小姓組。前年に31歳で致仕)の評判もよろしくない。これは一橋の家老を勤めたあとのよし。
本所の多田薬師の別当は諸道具から畳まで残らず舟2艘に積み、盗んで行かれたよし。この2艘は両国にもやっているが、1艘の船主は竪川通りの者らしいが、もう1艘の持ち主は一向にわからないよし。

一、佐橋長門守佳如 よしゆき 1000石 日光奉行 この年、51歳)の屋敷へも入り、妻女をしばり、そのほか家来も残らずしばり、諸道具一切を奪い取ったよし。表長屋まわりにもそれぞれに抜き身を持たせ、長屋を囲って中からは1人も出てこられないように見張り、帰りがけには大門を開いて高張り提灯で引きあげて行ったよし。

一、青山六道辻の同心の家へ入った押し込みは3人だったよし。同心は宿直で留守だったので、家にいたのは妻と下女だけ。
この2人を犯した上、あったものすべてを奪って行ったと。梶川庄左衛門秀澄 ひですみ 400俵。御先手弓組頭)の組子のよし。

一、伝通院前の大工のところへ入った賊は、妻ばかり犯して道具は何も盗らず、「蝋燭はあるか」と聞き、「ない」と答えると、「そんならよい。また来る」といって帰っていったよし。

一、水道町の両替屋へ入った賊は、ただ鳥目20貫(4両弱=80万円)ださせ、「それ以上は要らない」といって帰って行ったよし。
本所で老夫婦だけの貧しい家へ入った賊は、何も盗んでいくものがなかった上に、金子1分(約5万円)を置いて行ったよし。
麻布・日ヶ窪の女医師の家へ入った賊は、大勢で妻(嫁?)を犯して引上げて行ったよし。

  【ちゅうすけ注】
  葵小僧のような悪党は、けつこういたわけで、これでは、長谷川
  組だけでは手がまわりかねた。
  レイプを受けた家で、届けていない被害者も多かろう。
  先手組で番についていない組が夜回りを命じられたのも当然。


『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む)

一 神楽坂の橋本元昌(『寛政譜』に収録されていない)方へは5、6人の盗賊が入ったらしいが、元昌はそうはいっていない様子。

飯田町の黐(もちの)木坂の代官:稲垣藤四郎(豊強 とよかつ 250俵。この年、49歳)、小川町の金岩左京(『寛政譜』に収録されていない)方へも押し入ったところ、家内で騒ぎ立てたら、桑原伊予守(盛員 もりかず 505石5口。長崎奉行から作事奉行。この年、71歳)方の屋根伝いに4人逃げたよし。
同所、津田某へも入ったよし。
同所、赤井弥十郎(直盈…みつ。500石。小姓組。この年、42歳)へも入ったよし。

下谷御徒町の松浦市左衛門(信安 のぶやす 1300石。西城の納戸組。この年、36歳)などの屋敷がある一町には、御徒が14、5五軒も軒をつらねているが、たいていの屋敷がやられているよし。
当節はみなみな不寝の番をしているよし。

4、5日前、水戸様の表門通り(水道橋通 現・白山し通)で白昼、女の懐へ手を入れて懐中物を盗み、さらに裸にしようとしたが、女が大声で泣きわめいたので、水戸様の辻番が聞きつけてこの盗賊を召し捕り、柱へ縛つりけたよし。白昼にとんだことだといいあっている。

加賀っ原(昌平橋北詰)では、暮れごろに小間物屋が追剥ぎにあったよし。
御書付が出た夜、白銀町で3人が押し込んできたが、家人があまりに多かったので逃げたと。
その夜、人形町では押し込んだ3人が捕らえられたよし。

一、本多中務殿屋敷の向かいの松平主殿頭(忠恕…ただひろ 天草2万3200石。この年、65歳)の屋敷で、窓から手を入れて衣類を盗んでいる様子なので、中からその手をつかまえ、早く外へ出て捕らえろと声を立てたら、泥棒は自分の手を切って逃げ去ったとのこと。

ある屋敷では表から門の錠をこじあけたので、中からその手をつかまえて門を開けてみたら首がなかったよし。これは2、3人でやってきた盗賊のうち、1人がそのように捕まったので仲間が首を切って立ち去ったのだろうとうわさされている。

一、無宿島の人足の100人ほどを、長谷川平蔵宣以 のぶため)が更生じゅうぶんとみて、金子1分(約5万円)ずつ遣わし、「もはやその方たちはまともな人間になったのだから、これから先は自分で稼げ」と放したところ、どいつもこいつも元の盗賊へ立ちかえり、この節、あちこちに押し込んでいるのだと。

  【ちゅうすけ注】
  この聞き込みおかしい。この時期、石川島の人足寄場に収容さ
  れているのは、いわゆる人別帳に載っていない無宿者であって、
  犯罪予備軍ではあって、犯罪者ではない。
  とうぜん、盗みなどのはっきりした犯罪歴があれば、これは伝馬
  町送りのはず。
  石川島の人足寄場に恵犯罪者も収容されるようになったのは、
  長谷川平蔵が寄場取扱を免ぜられて、後任責任者に村田鉄太
  郎昌敷(まさのぶ)が寄場奉行になつて以後である。
  このリポートによっても、『よしの冊子』に全面的な信頼を寄せるこ
  との危険性がうかがえよう。 

一、町々へ、盗人は打ち殺せとの書付が出ているので、町人どももすこしは力を得て、このごろは町方もすこしは威勢がよくなっている様子。
先日などはなかなか恐れ入って盗賊に一本を取られたよし。
この節も4、5人で抜き身をもって町を歩き、
「おれたちは抜き身をさげているが、泥棒ではない。用心にこうしているのだ。なに、縛りたければ縛れ。こうだぞ」と刀を振りまわしたので、道をあけ通したと。
しかしながら、叩き殺せとのお触れが出たから、少々心強くなったと町人たちは悦んでいる様子。

一、長崎も江戸のように町々へ押し入りがあり、あちこち物騒。
長崎奉行(永井伊織直廉? なおかど 1000石 使番から長崎奉行 この年、53歳 『寛政譜』では寛政4年閏2月6日没と)も叩き殺されたとか。
井上図書正賢 まさよし ならば 1500石 小姓組番士から進物掛 この年、33歳 長崎からの帰路に没)はその検分に行くのだ、などと沙汰されているよし。

  【ちゅうすけ注】
  井上図書の長崎行きは寛政3年4月---ということは、このリポー
  トは同年2月か3月のものか。

一、この節、世間一般に物騒な話のみで、このご時節にどうしたことだか、これはどうやら御防方がありそうなものだ。打ち捨てとのお触れが出ても、どうすればそれが実行できるのだ。請け合ってこっちが勝つとはいいきれまい。
やり損じたときは大馬鹿扱いだ。それだったら黙っているがいい。
そのような馬鹿者にかかずらわって傷でも受けたらそれこそ不忠というもの。
2~3000石もの屋敷へは入らない。
小身で金のありそうなところへ入る。

または勤番留守、あるいは当番の留守を見込んで入るのだから、切り捨てることもできない、不人情な仰せ出だ。

米屋騒ぎでさえ10組の手先組を動員して静かになったではないか。米屋騒ぎは狙われたのが米屋ばかりだったのに10人の先手組頭に出動を命じたではないか。
こんどの騒ぎは世間全般、一度に起きているのだから、左金吾殿一人ではどうやっても手がまわるはずがない。
どうもこれではご時節がら、余りにも不釣合、お上の御不徳というもの。困ったものだともっぱらの噂。

  【ちゅうすけ注】
  先手の長谷川組をはじめ10組が騒擾鎮圧に出動したのは、
  天明7年(1786)5月23日からのこと。
  松平左金吾定寅が火盗改メに再任されたのは、寛政3年4月
  7日から。発令の理由は葵小僧の蠢動によると推定。葵小僧は
  長谷川組がを捕らえたので、翌年5月11日に解任。
  

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2009.08.18

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 3)

『よしの冊子』(寛政元年(1789)9月9日 つづき)

一. 加役に仰せつけられるはずの(松平)左金吾定寅 さだとら)が湯治へ行ってしまわれた。
加役になる人が湯治へ行ったからには、湯治から帰ってくるまでは発令にはなるまい、と先手仲間が噂しているよし。
左金吾は一体に大気象の人のよし。湯治にも、願いが聞き届けられるまで家人にも打ちあけず、認可されたその日、許可がおりた、さあ出発だといわれたので、家人は肝をつぶされたよし。
左金吾が申されるには、とにかく泥棒が多く出るのはよくない、ことに重い科人が出るのは公儀の外聞が悪いからなるたけ出ないほうがいいと。
長谷川(平蔵宣以 のぷ゛ため)のほうは、悪い者がいるから捕らえるのだ、悪い者を捕らえないでは、世間が静かにならないといっているよし。
どちらも負けずぎらいの仁だからちょうどよいといわれているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  松平(久松)左金吾定寅が、火盗改メ・本役となった長谷川平蔵
  を監視するつもりで加役(火盗改メ・助役)になるために、2000
  石なのにわざわざ1500石格の先手組頭に格下げ任命されたの
  は天明8年(1788)9月28日、加役発令は同年10年6日(長谷
  川平蔵の本役発令は10月2日)。
・・左金吾は火事の多い冬場のための助役だから、翌年春4月21
  日には免じられている。
  で、その秋にも、平蔵と張り合うために周囲は、助役を志願すると
  見ていたのであろう。

一. 左金吾はいろいろ嫌われているとのよし。ご老中(首座・松平定信)の親類ゆえ、仲間内では恐れられているよし。かえってよくないともいわれている様子。

  【ちゅうすけ注】
  松平左金吾は老中首座・松平定信と同じ久松松平の家柄。
  久松松平家康の異父兄弟で、最も重い松平系。

左金吾は禄高(2000石)も高いので暮らし向きもらくで、組下への手当などもいたってよろしいよし。
ほかの先手組の頭は、組下への手当が思うように行きとどかないから、左金吾一人がよろしくやるのは困るといいあっているよし。

一. 左金吾どのの評判はよろしいとも、悪いともいわれているよし。左金吾が申されるには、去年加役を勤め、今年も勤めるので、今年は馴れているので一工夫する、と。

  【ちゅうすけ注】
  松平左金吾は、長谷川平蔵の火盗改メを監視するためであろう
  か、寛政3年(1791)10月7日、再度助役を買ってでている。
  平蔵左金吾の心理戦、宣伝戦は小説になるほどの葛藤であっ
  た。

左金吾どのは無理なことはいわない。その代わり、たとえ古参であっても理屈に合わないことをいったときには合点しないで反対を唱えると。
左金吾は、お膝元が騒々しいのはよくないから、追い散らかしてお膝元さえ静かになればよい、とこのあいだまでにやっと七、八人ほどしか召し捕っていないよし。

一. 番町辺の旗本が知行地へ金を取り立てに家来をやったところ、その家来が帰り道に出会った旅人がいうには、
「私たちが親しくしている宿へお泊まりになりませんか」
というのでその宿へ泊まったが、旅人はいずれも盗賊で、夜中に取り立ての金子を残らず奪い取って逃げたよし。家来は仕方がないので宿の亭主を伴って江戸へ戻った。
で、旗本から支配へも届け、その泥棒を捕らえてほしいと願いでた。そのところへ、長谷川平蔵組の与力がやってきて、泥棒はすでに召し取っているという。
長谷川は捕り事は奇妙と思えるほどにうまいといわれているよし。


ちゅうすけ補】この一件を推理して、『夕刊フジ』のコラムに[在方にも情報網]と題したもこんなストーリーを発表してみた。 


火付盗賊改メとしての長谷川平蔵の、じつにきめ細かな配慮をしのばせる逸話が伝わっている。
平蔵が火盗改メ・本役の長官となって丸一年目あたりというから、寛政元年(1789)晩秋のことだ。
中堅旗本の屋敷がつらなっていた番町。
そこの某家が知行地の下総・武射郡(千葉県北部)へ金の取り立てに家臣をやった。

帰路、千葉宿の茶店で隣あった親子とも見える2人連れが誘った。
「幕張宿には手前どもが親しくしている旅籠がございます。宿賃をいくらか引いてくれると思いますが……」
その旅籠へ泊まり、晩飯では2人連れが酒をおごった。
一日中の歩きづかれと酔いで熟睡中に、2人連れは取り立て金をのこらず盗んで逃げてしまった。

家臣は仕方なく、証人として旅籠の亭主を伴って江戸へ戻り、主人にことの次第を報告して陳謝。主人は顛末を組支配へ届け、犯人追捕を願い出た。

すると、早々と長谷川組の与力が番町の某家へやってきて、いったものだ。
「ご家来衆をたぶらかした犯人とおぼしき者どもをすでに捕らえているので、当のご家来衆に面どおしをしていただきたい」
で、家臣が火盗改メの役宅でもある菊川(墨田区)の長谷川邸へ出向くと、まさしく例の2人連れだった。

このことを伝えたものの本は、
長谷川は奇妙と思えるほど捕物がうまいといわれているよし」
と付記。

たしかに、盗難届けが出る前に犯人を捕らえてしまっているのだから神業のようにも思える。
が、じつはこれには仕かけがあった。

平蔵は火盗改メに就任するとともに、江戸近郊の村々の庄屋や宿場々々の村役人たちへ、盗難があったり不審な者がいたら長谷川組まできっと報告をよこすようにとの触れをまわしていたのだ。
例の2人組の別の犯行はだいぶ前からいくつかの旅籠から届けがきていた。
そこで人相書をたずさえた組の同心が千葉街道へ出張っていたところへ、2人組がのこのことあらわれてご用!となった。
村の庄屋や宿場の村役人が平蔵からの触れを真正直に受け取ったのにもわけがある。
平蔵以前の火盗改メの同心の中には、在方(村)で捕らえた盗賊を、村一番の分限者をえらんでその庭でわざと手荒く拷問。その悲鳴におそれをなした分限者は少なくない金子を同心へ贈ってよそへ移ってもらった。
平蔵は組の者をつよくいましめ、村で捕らえた盗賊はすぐさま江戸へ連れてくるように指示し、それがきちんと守られていたから、在方も長谷川組への協力だけは惜しまなかったのだ。
平蔵にしてみれば、組の与力10人、同心30人では江戸の警備・探索で手いっぱい、在方は村々の情報ルートを活用するしかなかったのだが。 


一. 長谷川平蔵組の同心が、召し捕った盗賊をあやまって逃がしたよし。重罪の盗賊なので、取り逃がした盗賊が30日以内に再逮捕できなかったら、その同心は辞職ものだとと噂されていた。ところが20日ほどたって、
「手前はこのあいだ逃げた重罪の者だが、やがては町奉行所の者の手にかかるやもしれない、どうせ捕まるならお慈悲深い平蔵様の手にかかったほうが、と思って自首した次第、逃げるときには縛られていたので、その縄をなくさないように大切に扱い、こうして持って参りました」
と、役宅へ現れたよし。
平蔵が他の人へ、「この泥棒には重い刑罰をいいわたさなければならないが、自首してきたところはうい奴じゃ。だから、こういう者のお仕置の仕方にはほとほと困る」と頭をかきかき洩らしたよし。

  【ちゅうすけ注】
  _100この話をヒントに池波=鬼平流に換骨脱胎したのが、文庫第21巻
  に収録[男の隠れ家]の結末部分。
  「男の……」は昭和57年(1982)3月号の
  『オール讀物』に発表されたが、この話の載
  った『よしの册子』を収録した『随筆百花苑 
  第8巻』
 (中央公論社)が出たのは約1年
  前の、昭和55年(1980)11月20日だった。


『よしの冊子』(寛政元年(1789)11月22日より) 

一. 長谷川平蔵だと早く済んで出費もあまりかからない、と町々で悦んでいる様子。
先ごろ、捕りものがあり、吟味したところ、行跡がよろしくないので親から勘当を受けているとか。
しかも格別お仕置をいい渡すほどのものでもないので、親を呼び出し、勘当を許し、説教してきかせるように申しつけ、科人のほうも呼び出して、きびしく叱り、この後は孝行するように申しわたしておしまいにしたので、親子ともありがたがり、思ったよりも軽く、かつ早いお捌きでありがたい、と評判のよし。

  【ちゅうすけ注】
  火盗改メの長官(おかしら)も一種の裁判(公事 くじ)権を持って
  いる。
  もちろん、逮捕後は、公事を専門としている町奉行所にまかせる
  ことのほうが多かったが、長谷川平蔵はこのんで裁決をしたがっ
  たフシがある。
  長引く公事でもの要りがかさみ、被告・原告とも迷惑がっていた
  ことは、佐藤雅美さん『恵比寿屋喜兵衛手控え』(講談社文庫)
  などにしばしば書かれている。

一. 去年中より旧冬この春へかけてたびたび火事があったが、左金吾殿が去年のご加役のとき以来、気がよったから火事があるとのことだった。
左金吾どのも一徹の気性で立身はなるまいと思われていたのが、このごろは気を取りなおして、立身でもするか、という気分になられたみたい。左金吾どの気が直ったから、世間の火事ざたでそうぞうしいとの様子。

一. 町方では、長谷川平蔵はいままでにない加役(火盗改メ)だと悦び、とにかく慈悲深い方だ、といっているそうな。
長谷川平蔵が組の者へ申しつけたのは、十手は腰の物と同じと心得て、みだりに抜くことのないようにと。
これから先、十手で人を殺めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける、と申し渡したので、よくよく手にあまった時でなければ十手を抜かなくなった、と町々で悦んでいるそうな。
召し捕った者を自身番所へ預けるときにも、半紙へ割判を捺し、送り状を認めることにしているので、間違いも少なく、手短でよいと口々に噂しているとのこと。
  【ちゅうすけ注:】
  テレビ『鬼平犯科帳』のラストで、与力・同心たちが縦横に十手を
  振り回すのは、史実の平蔵の信条に反しているが、まあ、テレビ
  はあれがあるために爽快感がかもしだされているともいえる。 

一. 長谷川平蔵)は頭も切れ、与力同心も先年から勤めてきている者どもで、いずれも名高い士が多く、功績のほどもこの上ない者たちとのこと。
しかもこのごろは町でゆすりなどもいささかもせず、まことに潔白のよし。
かつては同心の内には、四谷や新宿の女郎を揚げづめにして与力もおよばぬ勢いの者もいたらしい。
しかも行きには四谷の自身番へ立ち寄り、女郎へのみやげを貰い、また帰りには自身番にて内へのみやげを貰って帰ったとか。
与力にも、吉原で女郎の手を引きながら十手で人を打ったものもあったよし。
右のようなあぶれものは当節はなくなり、ひしとかたまり、召し捕りに出精しているもよう。
左金吾どのの組には手違いもこれあり、同心の中には暇を出された者いたとか。

一. 捕まった巾着切り(掏摸)どもはみんな(水替人夫として)佐渡ヶ島へ送られるので、なるたけ捕まらないように心がけた。
もし捕まりそうになったら、没義道(もぎどう)であれなんであれ、かまわずに引き切って逃げることにしているよし。そんなことだから、このごろは掏摸が手荒くなって長谷川組の与力や同心がこぼしているよし。

  【ちゅうすけ注】
  佐渡ヶ島の金山坑道の排水の水汲人夫に送られると、10人に5
  人は半年以内に病死するといわれていた。
  それほど仕事が苛酷だったらしい。

一. 手先組の与力たちが、鉄砲の稽古のために与力仲間でいくらかずっ分担金を出しあって、射撃上手の浪人たちを師匠格として雇うことにしたら、とは左金吾どのの発案だが、それではこれまでは鉄砲撃ちはどうしていたのだ、これまでの訓練は無駄骨だったのかとか、浪人者たちよりも御家人の中に師匠になれる射撃上手者がいくらだっているはずだとか、いろいろ議論が出、けっきょく、浪人案は中止になったよし。
そんなことで、江目純平斎藤庄兵衛などへ弟子入りする者が出ている模様。先手の柴田三右衛門(勝彭 かつよし 65歳 500石 先手・鉄砲の6番手組頭)よりも斎藤庄兵衛を頼りにしていて、与力同心がみなみな弟子になった模様。
庄兵衛は極貧で、蔵宿(札差し)棄捐も大分あって、年賦にしてもらっていたところ、家督して以来初めて20両という金を御切米(注・春に4分の1、夏4分の1、秋2分の1に区切って渡されるから切米という)の売却代金として受けとったと悦び、その上に柴田の組弟子になれたので、暮れには柴田から銀(南鐐2朱銀? 2分=5万円前後)2枚、組から10枚(2両2分=50万円見当)も来るだろうと楽しみにしていたところ、柴田からは塩引き1尺、組からは鴨1番が来たきりなので当てが大外れ。さても武芸は金にならないものだが、そうはいっても師匠は出精して教えなければならない、まあ、そんなものかと笑っていたそうな。

一. 先手の松波平右衛門正英 まさひで 68歳  700石鉄砲の13番手組頭)組では、左金吾どのが紹介した浪人者を師匠にして稽古しているよし。
乗馬の訓練も始めたところ、組の中には地借りもいて不承知なので、同心の地面を借りて馬場をこしらえたよし。

一. 先手の中山下野守(直彰 なおあきら 500石 弓の8組頭)は、同心に芝を射させたので1人につき7両ずつかかったので、これでは続かないと止め、百射に切りかえたよし。百射だと2分ずつですむ模様。どちらにせよ、このごろは先手頭もこんな調子でいろいろと物入りが多く、与力同心も出費が重なっているらしい。

一. 長谷川平蔵掛りの養育地(人足寄場)が六万坪に出来たので、諸組から同心を11人雇ったとか。平蔵はなにかと工夫をしているらしいとの噂。

一. 石川島の養育地(人足寄場)については、長谷川の努力は大いに有りがたいことだ、行きだおれなどもいなくなった武家屋敷でも町でも悦んでいるよし。
このことについて、平蔵は与力同心の人員が不足なので、与力1人、同心11人を増員したとのこと。与力は中山下野守(直彰 500石 弓組頭)組の中山為之丞という者。
もっとも与力が5人の下野守の組は大いに迷惑と感じて平蔵の要請を一度は断ったらしいが、為之丞はできる人物なので、平蔵にたってと望まれ、よんどころなく移籍させたらしい。
もっとも為之丞は火盗改方の与力としてもできる与力らしい。

  【ちゅうすけ注】
  中山組の組屋敷は四谷本村町。長谷川組の与力として引きぬか
  れて中山為之丞は、ここから人足寄場へ通勤したのであろう。
_360

一. 長谷川平蔵組へ移籍した中山下野守直彰 500石 弓組頭)組の与力・中山為之丞は、大島流の鎗を得意としているよし。大島流では為之丞ほどの遣い手はいないといっているよし。
先だって加役を勤めたときに中間を捕らえて手を斬られた男のよし。
為之丞はいたって人のかわゆがる(人望がある)男のよし。
中山下野守組の与力の定員は5人なので平蔵の要請を断ったが、強引に引き抜いてしまったらしい。
  【ちゅうすけ注】
  中山組が火盗改メの任についた記録はない。


よしの冊子(寛政2年(1790)3月21日より) 

一. 松平左金吾どのが同役方のところへ参られた節、これは老中・(松平)定信侯の手製のものだといって鰹の塩辛を差し出されたよし。
定信侯のご領地の白河には海はない。(定信の越中守にかけて)越後でなら鰹が漁(と)れることもあるかもしれないが……。
ご老中が塩辛なんぞをおつくりになるはずがないことは見えすいているではないか。
左金吾どのとしては、ひけらかしたいのだろう。
ありようは、どこかの藩からのご老中への献上品のお裾わけを貰い、それを自家製塩辛ということにしたのだろう、ともっぱらの噂。

一. 佃島の無宿人の人足寄場のことはいろいろと話題にのぼっているが、どうせ長つづきはすまい、まあ、発案者で運営責任者の長谷川平蔵が担当している期間だけのことだろう、との声が多い。
無宿人どもも、なーに、きついことはない、長谷川のところへ6年の年季奉公へ行ったとおもえばいいのだと申してるよし。

一. 長谷川は島奉行というのに任命されたよし。

  【ちゅうすけ注】
  平蔵が貰った辞令は、先手組頭として火盗改メをつづけながら、
  人足寄場の〔取扱〕を命じるというもので、この隠密の報告書がい
  うような〔島奉行〕ではなかった。
  が、世間では〔奉行〕と俗称していたのかもしれない。 
  平蔵の後任の村田鉄太郎昌敷(まさのぶ)は〔寄場奉行〕として
  発令された。
  まあ、奉行といっても上は〔寺社奉行〕から下は〔羽田奉行〕あた
  りまでピン・キリだから、平蔵村田の〔寄場奉行〕に立腹するま
  でもないはずだが、平蔵は内心、不愉快だったらしい。 
  『夕刊フジ』の連載コラムの、平蔵をけしかけた[怒れ、平蔵]


「そうか、平蔵は本気で怒っていたんだ」
『御仕置例類集』に収録されている火盗改メ長官・長谷川平蔵の伺い件数を見ていて考えなおした。
『御仕置例類集』は、火盗改メや各地の町奉行、代官や甲府勤番などが量刑に自信がないとき、幕府の最高裁判所である評定所へ裁可をあおいだ伺いと、それらへの回答の集大成だ。
最高裁判官の構成は寺社奉行と勘定奉行、町奉行。大目付や出張してきた地方の町奉行が臨席することもある。
平蔵は、足かけ8年におよぶ任期中の116の事件に関与した300人の処置について伺っている。
平蔵側が「この量刑にしたいが---」と伺った案の30数件に対して、評定所が1ランク重い裁決をくだしているので、当初「平蔵はやっぱり慈悲深い」と感銘を受けた。
しかし、寛政4年(1793)年から伺い数が急増。
同6年にいたっては74通という異常さ。これだけ大量の伺いをあげた火盗改メは空前絶後だ。
そこで平蔵の思惑を推量して、ハタと思いあたった。
寛政4年6月、平蔵は丹精こめて創設し運営を軌道にのせた人足寄場取扱を解任されている。
後任は家禄400石の長谷川家より数ランクも下、御目見もかなわなかった御家人の村田鉄太郎昌敷だった。
正式の職制となった寄場奉行として、職務手当も200俵20人扶持さえつけられた。
つまり幕府---というより人足寄場の創設を命じた老中首座・松平定信は、平蔵が血を吐くおもいまでして成功させた事業を、御家人なみの仕事と見くだしたことになる。
これで立腹しなかった男じゃない。
怒れ! 平蔵
が、平蔵は中央政府役人、老中へなまに怒りをぶつけるわけにはいかない。
そこで、裁判権を持っている火盗改メにもかかわらず、小博奕やねずみばたらきのような小さな盗みの量刑を、わざわざ評定所へうかがい、事務を輻輳させることで鬱憤をはらした。
いや、そうとしか判断できない。寛政5年には評定所側の裁定よりも重い刑を13通も上申している。
見込まれる裁定よりも1ランク軽い刑を上申することの多かった平蔵が急に、だ。
評定所における量刑は、与力たちが過去の判例を参照して案をつくり、三奉行の決裁を受ける。だから火盗改メからの量刑案が1ランク軽めだったり2ランク重めだったりでふらふらしていると、与力たちはそれだけ余計な神経を使って判例を検証しなければならなくなるわけ。
いや、あなたの部下からのEメールやあげてくる稟議書に、文法上の間違いや誤字脱字が突然多くなったら、その部下はあなたか会社に不満を抱いた、と疑ってみたら。
え? 彼が起草する文章の誤字脱字はいつものこと、もともと文章力がないのだと? それなら結構。


与力の佐藤某も以後は島掛りに命じられ、10人扶持の役料(原米、1日5升。1升= 100文とすると2朱=2万5000円。年に912万5000円)が決まったらしい。
そうなったら(牢獄奉行の)石出帯刀がおもしろくなかろうとの噂されている。毎日佃島を見廻る与力同心はそっちで飯などを炊いてもらい(もっとも米は持参)、ほかにも弁当などを持参するわけだが、出費がふえて困ると愚痴っているよし。
無宿島はとてもじゃないが続くまい、とこの節は長谷川平蔵の評判が悪いそうな。
(初年度の、米500俵、金500両の)お手当金ではの不足で、平蔵はいろいろと工面しているようだが、それぐらいのことではなかなか続くまいといわれている模様。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)7月24日より) 

一. 筒持(持筒頭 もちづつがしら)の堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 前職は火盗改メで、長谷川平蔵の前任者)は、組から差し出した願い書なども上へ取り次がず、とにかく世話をやくのが嫌いらしい。
組にも家柄のいい与力などもいることはいるが、3、4年前から与力たちが頭へ願いを出しても帯刀が上へ進達しないので、与力たちは恨らんでいるらしい。

一. 森山源五郎孝盛 たかもり)が大番筋から徒頭を仰せつかったのは、まことに厚恩、ことに莫大な足高(たしだか 役料と禄高との差額)も入るくせに、自分では先手頭を望んでいたらしく、徒頭では不足とのこと。
「人は足ることを知らざるを苦しむ」と昔からいわれているのは、なるほどもっとものことと笑われているよし。
  【ちゅうすけ注】
  森山源五郎孝盛は長谷川平蔵のライヴァル視というか、老中首
  座・松平定信平蔵の悪口を吹き込んだ気配が濃厚である。
  というのも、森山は冷泉家の門人で、短歌が詠めたために、学問
  好きの松平定信が引き立てたのだ。
『鬼平犯科帳』では、平蔵の後ろ盾は丹後・峰山の藩主・京極
  備前守高久
(たかひさ 1万1000余石)となっているが、森山
  源五郎
の書きのこしたエッセーでは、平蔵の死後、火盗改メの
  地位を手に入れた森山平蔵備前守が評し、「森山は王道、
  平蔵
のやり方は覇道」といわれたと自賛している。
  記録を調べてみると、火盗改メとしての森山の実績は、はるかに
  平蔵
に劣っているのだが。
  ちなみに寛政2年、平蔵45歳、森山53歳、京極備前守62歳。

_360_2

_360_3

一. 勘定奉行と吟味役が集まった席で、長谷川平蔵から提出されている(人足寄場の臨時出費の)議案が審議され、一同不承知との所存であったが(勘定奉行の)柳生主膳正久通。600石)が「越中殿が、平蔵も出精している、とおっしゃっているから、幾分かは認めてやろうか」といったので、列座の者もなるほどと合点したが、(佐久間)甚八茂之 しげゆき 廩米100俵。寛政2年3月から勘定吟味役にのぼる)一人だけが承知しない。
「自分はご老中から、よく吟味するようにと仰せられて今の役職に取り立てられているので、自分が納得できないことを無理に承知とはいえない。もしみなさんが自分に賛成してくだされないならば、自分一存でも上申書を上程する」といったそうな。
そういう甚八のいい分はもっともだが、しかし甚八もご老中:定信の信頼がいたって厚いから、恐れることなく自説をいえたのだ。そうでなくては、あれだけの理屈を列座の中で主張することはできまい、と噂されているよし。

  【ちゅうすけ注】
  勘定吟味役は、勘定奉行を補佐し、所内の諸役人や代官を監督
  統制する。4~6名。布衣。500石高。役料300俵。勘定から登
  用される。老中支配。  
  長谷川平蔵も、悪い吟味役の在任中に人足寄場に関係してしま
  ったものだ。
  追加予算がつけられなければ、無宿人を収容している人足寄場
  の経営は失敗しかねない。
  失敗すれば、創設の経緯からいって、世間は、定信内閣の失政
  というところへまでは、甚八の考えがまわらない。頭が硬く、なに
  がなんでも予算緊縮の一点張り!

一. 柳生(主膳正久通)が長く勘定奉行の座にいることを、(佐久間)甚八(茂之)はかねてから不承知に思っていたよし。
ほかの者たちは、柳生はご老中・定信に受けがよいからと遠慮しているが、甚八は、「自分もご老中から御贔屓をいただいているゆえ、柳生に遠慮ばかりしてはいられない」といっているよし。甚八は人をそしるような男ではないが、といって君子というわけでもない。このごろは人からあれこれ悪くいわれている様子だ。もっとも役人衆は、定信の周辺では甚八の悪口はいわず、逆に褒めているとのこと。
  【ちゅうすけ注】
  柳生主膳正は町奉行を経て、天明8年(1788)9月から勘定奉
  行を勤めている。46歳。600石。3000石高。柳生家から柳生
  姓を許された家柄。
  佐久間甚八、この時63歳。普請役、禁裏御入用取調役などを経
  て、安永8(1779)年に勘定(46歳)、寛政2年3月から勘定吟味
  役。

  【ちゅうすけメモ】
  _120 『江戸幕府勘定所史料--会計便覧』
     (吉川弘文館 1988.2.25)より
  勘定所職制
   勘定奉行 勝手方・公事方 4~5名
    吟味役  5~6名
      吟味方改役  10名前後
         同出役   2名前後
         同改役並 10名前後
         同並出役  4名前後
         同改役並格並出役 1名
       吟味方下役  15名前後(見習いを含む)
       御殿詰組頭   2名前後
       御殿詰改方   5名前後
       島々産物掛   2名前後
       御林炭掛     1名前後
       御日記方     3名前後
       書上方      9名前後
       手形方      3名前後
       分限帳掛     2名前後
       御金掛      2名前後
       講武場掛     4名前後
       御備場掛     12名前後
       御台場掛     2名前後
      御勝手組頭     3名前後
       御勝手方改方  4名前後
       積り方掛     7名前後
       渡り方       4名前後
       臨時方      6名前後
       御断方      6名前後
       月帳掛      4名前後
       長崎掛      2名前後
       皆済掛      2名前後
       御普請掛     6名前後
       御貸付掛     4名前後
        同御普請役 15名前後
        浅草御蔵掛  2名前後
        御繰合掛    2名前後
        書物類取調  4名前後
        金座掛     4名前後
        銀座掛     3名前後
        新潟表江戸取扱2名前後
        御材木蔵立会  1名
        猿屋町会所掛 2名前後 
        御武器掛    2名前後
        古銅吹所掛   2名前後
      伺方・帳面方組頭 3名前後
        同改方      6名前後
        手形番      4名前後
        中之間     10名前後
        帳面繰方     5名前後
        御鷹野方     2名前後
        運上方      5名前後
        諸入用証文調  4名前後
        国役掛      5名前後
        小普請金集掛  3名前後
        酒造掛      4名前後
         同出役     1名
        植物掛      3名前後
         同出役     3名前後
        吟味物掛     3名前後
         同出役     5名前後
        道中方     16名前後
        帳面改方     5名前後
        帳面方      7名前後
        御取締掛     1名
        村監勤方帳掛  2名前後
        同郷帳掛     2名前後
        同奥書帳掛   2名前後
        五街道宿々御取締掛 4名前後
      御取箇組頭     3名前後
        差出方      8名前後
        新田方      7名前後
        廻米方     15名前後
        御普請方     7名前後
        町会所掛     5名前後
        米価掛      2名前後
        千両橋掛     2名前後
         同出役     2名前後
        知行割     11名前後
        関東分間絵図掛 
         御取箇方出  5名前後
      評定所組頭     1名
        同出役      5名
           (以下略) 


『よしの冊子』(寛政2年(1790)3月21日)より 

一. 水戸治保 はるもり 40歳)様が上野(寛永寺)へ御参詣になったときの供侍のうち、合羽箱持ちどもが博奕を始めたところを平蔵組の同心が召し捕ったよし。
平蔵がちょうど廻ってきてことの次第を聞き、さっそくに水戸へ掛けあったところ、ご三家方の身内の者には手を下さないという規則だが、博奕の現行犯だから組の者も逮捕したのだろう。
しかし、この者どもは町日雇いと見える者で、その口入れ屋へ渡す所存。口入れ屋へ不届きの赴きをいい渡したあとで、お引き渡しになるのがよろしかろう。軽い者たちゆえ、いま召し捕って、ご行列から外し、口入れへ渡しましょう、と引き立てた。
翌日、水戸侯の上屋敷(水道橋)へ出向き、「昨日は組の同心がご行列の人数のうちを、お許しも得ないで召し捕り、はなはだ恐縮しております。もし、なにかのご沙汰がおありなら、よろしくお頼み申します」と挨拶したので、水戸側は大いに感服し、「なるほど、この節に火盗改メに任命されたほど人ゆえ、丁寧な取り計らいだ」と褒めちぎっているよし。

一. 松平(久松)左金吾 (定寅 さだとら 47歳 先手・鉄砲の8番手組頭 2000石)が同役に話すときには、なにかにつけて「越中、越中」で、同役たちへも、「役向きのことでいいたいことがあったら越中へ内々に伝えよう」と、いちいちご老中:定信侯を笠に着られるので、同役たちは恐れるとともに困ってもいるよし。
他組では当番を助けに行ってもその組の与力が、「横柄(おうへい)じゃ」と叱られるので与力たちも悦んではいないよし。
先日、ご老中方がお上りになったとき、与力どもが薄縁の上へつま立っているのは見苦しく失礼でもあると申しきかせるがいい、といったので、同役が、「これは先規をとくと読み返した上のことだから」と抗弁し、与力たちも、「出てきた、先規を改めた書付には、ご三家の方のほかは土下座はしなくていい規定になっている。そんなことも弁えないで、ご老中:定信侯を笠に着てあれこれ口をきかれるのは、あまり知恵のある人ではないな」と噂しているよし。

一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石。鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役)への役の仰せつけは、ごもっともなこととみんな評判にしているよし。
このごろ、先手(の組頭)のうちで、加役を仰せつけられるような人材は、さしづめ佐野だけ、と噂していたよし。ご選定は大当り、とあちこちでいっている模様。
 参考:佐野豊前守政親
一. 佐野豊前守長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役(火盗改メ・助役)の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守貴強? 1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。

一. 長谷川平蔵は、無宿島(寄場)ではこのごろ至極困り果てているよし。
無宿人どもがなかなか思いどおりに手にのってくれないので、最初の見込みどおりにはいかない模様。
それは分かりきったことだ。上の方でもあの案をお取りあげになったのは軽率であったと噂されている。
土を運ばせても、おれたちは公儀の人足さまだといって百姓をいじめているよし。
紙を漉かせても思うようにできず、内々、江戸の町人の素人に頼んで漉かせているよし。

一. 寄場人足が竹橋内の空き地へきて、勘定所が出した反古紙を切って寄場へ持ち帰ったよし。
同心が一人、監督をしていたよし。
反古を切っているときにそばで聞いていると、いろいろ小言をいい、人足たちのいうには、どんなことをしてもせいぜい首が落ちるだけのことだ。首が落ちるのをこわがっていてはどうしょうもない、などと大きな口をたたいて傍若無人の振るまいだったよし。
なるほど、あれでは長谷川も手にあまろう、が、まあ、ああした者どもだろうともいわれているよし。
監督の同心も困ったいたよし。寄場に行っている平蔵組の同心は、いずれも遠方からなので塩味噌まで持参して2、3日も泊まっているよし。4日に一度、5日に一度家へ帰り、また翌朝には詰めているので、用事がいっこうにはかどらず、難儀している。その上、役料は火盗改メ分だけで、余分には出ないので、火盗改メ分としての2人扶持だけでは島通いは続けられない、と愚痴をこぼしているよし。
2、3日も泊まると、島で銭を多く遣ってしまうといっているよし。

一. 先手勤め方、その他の組与力同心の勤め方のあれこれの規定をつくろうと、松平左金吾安部平吉信富 のぶとみ 鉄砲K7番手組頭  1,000石 61歳)が、筆頭:浅井小右衛門(元武 もちたけ  540石 81歳 56歳から組頭で25年間、鉄砲の11番手組頭)、次老:村上内記正儀 まさのり  1,550石 74歳 59歳から組頭で15年間、鉄砲の14番手組頭)、三老:松(杉)浦長門守(勝興 かつおき 620石 70歳 55歳から15年間、鉄砲の3番手組頭)へ話を持ちかけたが、いずれも老衰で、相談相手になってはくれず、貴殿たちでどうにでもいいように頼む、というだけだったよし。
先手が担当している御門は総じて出入が多く、持ち物も勝手にもあいなるようだ。
御先手から御鎗持へ転役になっても出入り場の役にはつくわけだ。
倉橋三左衛門久雄 ひさたけ 1,000石 この年の8月に御筒持へ転任)が御持になったけれど出入場は、担当しているよし。
この際、土方宇源太勝芳 かつよし 1,560余石 47歳 鉄砲の10番手組頭)を御鎗奉行にして、右の出入り場を持ちながら勤めたいとところどころ拵えているよし(意味不明。土方勝芳が翌寛政3年5月に転役したのは普請奉行)。
宇源太はまだ50そこそこの男らしい。あの若い男が御鎗へ行くのはつまりは出入り場を持って行きたいというばかりで御鎗を願うのだそうな。
御先手なども人物さえよければ筆頭から順に抜けさせていくのが公儀としても本意であろうに、下のほうから栄転してはみんな気受けが悪くって人びとのおさまりもわるいことだと、左金吾が腹を立てて、人に話しているよし。先記の三老はいずれも老衰で相談をかけても埒があかないから、このごろは安部平吉あたりがおもに世話をやいているよし。
このたび御番入りの順でいくと、村上松(杉)浦安部中山(下野守直彰。 500石。75歳)、酒依(清左衛門信道。 900石。73歳)ということになるが、安部ばかりが抜きんでているのはどういうことかといわれているよし。70歳以上ということではあるけれども、70歳以上ならば御番入りこれあるべき者を、と評判しているとのこと。
  【ちゅうすけ注】
  *浅井元武は、この年の12月に卒。
  *村上正儀は、この年11月に卒。
  *杉浦勝興は、6年後の寛政8年2月に卒。
  筆頭、次老、三老……は、34人いた先手組頭の長老格の面々
  で、同役たちの取締りと意見の取りまとめ役のはずが、この時代
  には老齢化がすすんでおり、耄碌3役ともいえた。
  それでも、先手組頭は番方(武官。制服組)の終着駅といえる地
  位だから、しがみついていて容易に辞めない。

一. 御先手の一色源二郎直次 なおつぐ  1,000石 弓の4番手組頭)の倅(作十郎直美 34歳)は、馬術が巧みで、上覧にもまかり出、その上お好みで両度上覧も仰いでいるとのこと。
しかも源二郎は今年72歳になるので、先日、御番入りした節、これは辞めそうなものだ噂されていたが、倅への沙汰はなかったよし。
小倉忠左衛門(正員 まさかず 1,200石 75歳 弓の7番手組頭)は365日引き込んでいるところ、このたび倅(永次郎正方 28歳)が御番入りしたが、その倅はようやく12歳(先記のように年齢に誤記がある)で、先日のご吟味のときも両度とも急病を理由にお断りを願ったそうな。
このたび御番入りした挨拶のために御頭の家へ行けば泣きだすので、お頭も、早々にしてお帰りなさいといい、お礼参りも同役の世話でやっとのことで勤めたらしい。
なるほど、ご吟味にも出さないわけだ。あれではご吟味に出ると御番入りはさせてもらえない。だからご吟味のたびに急病ということにしたのだ。
これは京極(備前守高久 若年寄。丹後・峰山藩藩主 1万1,000余石 『鬼平犯科帳』では、鬼平の後見役)がよくない。ご時節でも得手勝手をすると、京極のことを悪くいっているそうな。

一. 長谷川平蔵が口をきいた奉公人を雇った場合は、給金は1両2分(約30万円とも、15万円とも)とあちこちへいって様子。
ただし給金は奉公人へは渡さないで、長谷川方へ預け、3月の季がわりに、長谷川から利息を添えて渡してやるとのこと。
長谷川が雇い主たちへいうことには、使いなどに出すときは金子を1両より多く持たせないことだ、もし持ち逃げしても1両以下だから長谷川が補填すると。しかしこれは大部屋などではいいが、中間の2、3人も使うところでは嫌なものだ。そうはすまいといいあっているよし。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日)より 

一. 銭相場が引きつづき急騰しているのはどういうわけか、豊島屋へ銭を売るなと仰せつけられたので、引き上げても、銭を買い上げになっても、いろいろと噂しているよし。
米は安く、銭が高いので、武家は一向に引き合わないと小言がでている。
しかし諸物価を引き下げのためにいろんな策が講じられているが、以前と同じことで物価は少しも下がらないのは、まず銭を高くしておいて、その上で物価を引き下げる計画なんだろう、とのもっぱらの声。

  【ちゅうすけ注】
  1両= 4,000文に定められていた銅銭との交換レートが、実勢で
  1両= 6,200文前後と、銭の値打ちはさがっていた。
  それが、銭がじわじわと高値(5,300文近く)になってき、逆に、
  米価は下がり気味だったから、米で給料をもらっていた武家はた
  まったものではない。

一. 銭が高値になったのは、長谷川平蔵の処置だとの噂もでている。
無宿島(注:人足寄場)で10万両ほど銭を買い上げたせいで銭が高値になったのだと。
いずれは諸物価を引きさ下げるための処置なんだろうが、物価は急には下がるまい、物価が下がったところで武家にとっては朝三暮四じゃといっているよし。
諸物価を下値にとのお触れが出ているので、酒、油、豆腐類などの金本位で値づけされている物は引き下がっているよし。
銭で値づけされているものはいまのところ下がってはいない。
この節、銭が高値になっているので、両替や質屋、呉服屋などは大いに利を得、毎日過分の利を得ているので、どうでもよいものはよい、どっちにしても利をとりにくいやつだと噂している模様。
諸物価がおいおいに下がりさえすれば、銭が高値でもいいとの評判も聞かれるよし。
町方でもこのたびの仰せ渡されはごもっとも、至極ありがいことじゃ、是非下げねばならぬ、と、互いに心掛け、銀匁のものは銀匁を安くし、煎餅などは品を大きくするとか厚くするとかするらしい。
ただし野菜や魚類、また日雇い代などは一向に下がらない気配。なにとぞ奉公人の給金も昔のように安くなればよいのだが、と噂しているよし。
  【ちゅうすけ注】
  銭のレートを上げるため……というより、人足寄場経営も2年目に
  入り、初年度に 500両つけてくれた運営費を、幕府は 300両に減
  らした。
  これではやっていけないので、長谷川平蔵は諸物価安定との理
  由をつけて幕府から 3,000両借り出して銭を買い、月番の
  北町奉行の初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1,200石
  47歳 武田系)同席のもとに呼びつけた両替商たちに「銭の値を
  あげよ」と命じた。
  1両= 6,200文前後だったレートは1両= 5,300文前後まで銭が
  上がった。
  平蔵はただちに買い置いた銭を売り払い、差益を400両ばかり取
  得、寄場の運営資金の足しにするとともに、元金 3,000両を幕府
  の金蔵へ返済した。
  この行為を、「武士たる者がゼニに手を染めた」と保守派幕臣た
  ちが非難した。
  その代表が、寄場への予算をケチった老中首座・松平定信で、
  自伝『宇下人言』に「長谷川なにがしは姦物」と記した。
  『よしの冊子』全編を通じて、「姦物」と書かれているのは、賄賂
  (わいろ)を激しく得ている人物である。
  平蔵にこの言葉が冠されたのは、この銭相場でえた利得を私(わ
  たくし)したとの判断によるようである。
  事実は、人足寄場の経費の補填に使ったのだから、「姦物」よば
  わりは不当・不見識といわなければなるまい。

一. このあいだ、初鹿野(北町奉行)のお役宅で、初鹿野と長谷川平蔵の両人が列座して、江戸中の名主と大屋を呼んで、このたび銭相場が高値になったので、諸物価は値下がりするだろう。

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いかように銭が下値になっても、(1両=) 5,200文より下値にはなるまいから、不安がらないで右の心得で諸物価を引き下げるように申し渡したとのこと。
初鹿野は名門の出(注:武田系の依田(よだ)から初鹿野へ養子)、長谷川は御先手から町奉行役所へ出て町人へ申し渡したのはいい度胸だと噂されている様子。
いずれ町々の町役人一同は長谷川を町奉行にと願っているとのこと。
いたって慈悲心のある方と悦んでいるよし。
柳生(主膳正久通 ひさみち 46歳 600石 勘定奉行は3000石高)が大目付になると、長谷川柳生のあと勘定奉行になるだろうとのうわさ。
一説に、長谷川の職はいままでどおりで、むしろご加増があり、掛り役を仰せつけられるとの噂もある。
  【ちゅうすけ注】
  加増も勘定奉行もなかった。

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一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石 鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役))は長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。
町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
  【ちゅうすけ注】
  火盗改メの組下は、火事などの出動の時に揃いの羽織を着る。
  その袖に組頭ごとにそれぞれの柄をつる。
  佐野豊前守は、冬場だけの助役だから、無駄遣いと判断。

佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守(貴強? たかます  1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。

  【ちゅうすけ注】
  佐野政親は、天明元年(1781) 5月26日から足かけ7年間、大
  坂町奉行。病免して寄合。回復後、先手組頭。
参考:佐野豊前守政親

一. 長谷川平蔵は、 3,000両ほどずつ銭を買ったらしい。
この節、銭値が日々に上下しているので、両替屋どもの中にはこの機に乗じて大きく利を得ている者もいるよし。坂部十郎右衛門(広高 ひろたか 廩米 300俵。目付、のち町奉行)も、 3,000両のうち 100ほど買っておき、配下の者へ触れをまわして希望者へは買ったときの安相場での買値で分けたという噂がもっぱらだ。

一. 佐野豊前守(政親)は、10月から3月までの御加役中に 400両借金ができてしまったよし。
加役(火盗改メの冬場の助役)でさえこうだから、長谷川は長い本役づとめをしているのだから、さぞ物入りであろう。
長谷川は慈悲もほどこし、先だって新刀(注:神道、新稲、新藤とも)小僧を召しとったときには、「新刀小僧ともいわれるほどのお前が、そんななりで入牢しては格好がつくまい」と3両だして衣服をこしらえて牢へやったそうな。これはほんの一例にすぎず、とにかくなにやかやと物入りが多く、よくまあ続くことよ、あれではさぞや借金が増えることだろう、と噂されているよし。
  【ちゅうすけ注】
  新刀小僧は配下 700人ともいい、関東一円から信州、奥州にか
  けて盗みをはたらいていた大盗賊の首領。
  3両だして新刀にふさわしい衣服を与えたエピソードは、
  2007年9月8日『よしの冊子(ぞうし)』(7)を参照
 

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2009.08.17

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 2)

隠密として働いたのは、目付(1000石格)の下についている、お目見(みえ)以下の身分の、徒(かち)目付や小人(こびと)目付たちとその配下の者たちだから、どうしても視線が低くなるのは否めない。この点で、長谷川平蔵と同時代の記録という貴重性が、若干、薄れるのも仕方がない。

よしの冊子(寛政元年2月12日より) 

一. 去年の暮れ、(松平(久松))左金吾定寅 さだとら 2000石)が下総常陸あたりの御下知御用を仰せつけられ、与力3人が在方(勘定奉行支配地)へ出張したよし。
左金吾組(先手 鉄砲の8番手)は与力5騎なので、3人も遠国へ出てしまうと、残った2人の与力でどうして仕事をこなせるかと話しているよし。
かつまた、右の仕事は本役へお命じになるのが筋なのに、どうして加役(火盗改メ・助役)の左金吾へ命じられた根拠はなんだろうと噂しているよし。

一. 左金吾はますます評判がよく、よほど気根のよい人で、宵廻りは暮れ時から四ツ(十時)ごろに帰り、夜廻りは八ツ(午前2時)から明け六ツ(6時)時まで廻り、たいてい歩きのよし。
昼は登城の前にも吟味があり、退出後も吟味をし、暮れからは巡回に出るよし。
昼夜ともよくつづくことだと感心されているよし。

一. 松平左金吾どのは(松平)越中守(定信 さだのぶ 老中首座)様よりのご内意で、岡っ引きを使っていないよし。
格別よろしきよし。
岡っ引きを使わなくても盗賊はけっこう知れるもののよし。在方でも村役人にしっかりと掛け合えば、岡っ引きは用なしのよし。
江戸でもこの節、芝あたりなどで「金鍔」とかいう博徒の岡っ引きがわがままな振る舞いをしているよし。

一. 神田の岡っ引きが、盗賊どもを密告して召し捕らせたよし。盗賊の内、敲き放しの者が意趣をふくみ、この岡っ引きを須田町で切り殺して逃げたよし。

一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵の前任者)が(火盗改メの)本役についていたとき、組の同心が按摩と口論になり、かつまた同心が麹町で六尺に打たれ、誤証文を差し出した一件、期間も過ぎたので、帯刀は右の誤証文のことを伺ったところ、その義にはおよずと、お下げ札で下がり、帯刀は大悦びのよし。組与力なども悦んでいるよし。

一. 松平左金吾は、先ごろまではいたって評判がよろしかったが、あまりに厳しすぎるのと、むずかしすぎるので、このごろはかえって評判を落としているよし。西下(老中:松平定信)も大分不首尾になったそうだといわれているそうな。
 
  【ちゅうすけ注:】
  左金吾が本役・平蔵の冬場の助役として火盗改メに任じられて
  から半年も経っていないのに、もうメッキがはげはじめている。

一. 長谷川平蔵)は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも 平蔵 は気取り、気功者で、よく人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などを申しつけてふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。
どうもこの節は長谷川のほうが評判がよろしく、このあいだも左金吾の与力がどうしたことか十手を盗まれたことがあり、そのことを左金吾へ届けたところ、もってのほかの立腹で、これはお支配方へ申し上げずばなるまいと平蔵へ相談したところ、せせら笑って、そのようなことがどうして申し上げられるものか、思ってもごらんなさい、大切な公儀の道具でさえ、番をしていても盗まれるではないか、人が殺傷されたというのなら大ごとだが、盗まれたぐらいのことは仕方がない。また多勢に無勢なら取られることもあろう、そんなことをどうして届けることができるものか、といったので、お支配方へ届けるのはやめにしたよし。

  【ちゅうすけ注:】
  公式主義の左金吾、融通無碍(ゆうずうむげ)の平蔵

一. 先年、平蔵が権門へ取り入りしはじめたのは、
「私儀、布衣(ほい)に仰せつけられなければ、父の廟所へ参詣することは相いならぬとの亡父の遺言がありますので、只今まで亡父の寺へ参詣もできずにおります。なにとぞ布衣に仰せつけられますようお願い申します」
と嘆いたので、それは不便なことだ、と権家にても沙汰なさったよし。権門への嘆きはじめは右の次第であったそうな。とにかく利口の人だと噂されているらしい。
  【ちゅうすけ注:】先手組頭には布衣(ほい)の受爵資格があるのを、こ
  のリポートの隠密は知らない。それほどレベルが低いことの証
  拠。こういうのを馬脚をあらわすという。
  2007年6月8日[布衣(ほい)の格式

一. 長谷川平蔵組の同心:鈴木某は、四谷新宿で顔を売っている遊び人で、先年の加役の時分は新宿で威勢よく、賄賂をおびただしく取り、大いに遊んでいたが、去年、長谷川が本役についてからは、規律がきびしくなり、一銭も賄賂をとることを禁じられたので、鈴木某は近頃は手も足も出ず、これではたまらぬと歎息の様子。このごろは本役加役とも賄賂はすこしもとり兼ねるそうな。


この鈴木同心と、京極備前守の一族・甲斐守高有の屋敷とそこに巣食っていた盗賊(史実)、それに麹町6丁目の呉服太物店〔いわき〕の盗難をアレンジ、『夕刊フジ』の連載コラムに[過去は問わない]と題して寄稿。

「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。

平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。

庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。

Photo
(緑○=京極甲斐守屋敷。赤○=呉服木綿店〔いわき〕)

ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「ようやった、鈴木。ついでだからも一と働きしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔いわき屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」

_360
(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子の入ったばかりだった。

平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。

さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。
が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。
一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。

そのやり方も、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱にできたものを。
それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」

帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。

【つぶやき:】
史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心や盗賊など、人物・店名はすべて実名。

よしの冊子(寛政元年2月12日より) 

一. 去年の暮れ、(松平(久松))左金吾(定寅 さだとら 2000石)が下総常陸あたりの御下知御用を仰せつけられ、与力3人が在方(勘定奉行支配地)へ出張したよし。
左金吾組(先手 鉄砲の8番手)は与力5騎なので、3人も遠国へ出てしまうと、残った2人の与力でどうして仕事をこなせるかと話しているよし。
かつまた、右の仕事は本役へお命じになるのが筋なのに、どうして加役(火盗改メ・助役)の左金吾へ命じられた根拠はなんだろうと噂しているよし。

一. 左金吾はますます評判がよく、よほど気根のよい人で、宵廻りは暮れ時から四ツ(十時)ごろに帰り、夜廻りは八ツ(午前2時)から明け六ツ(6時)時まで廻り、たいてい歩きのよし。
昼は登城の前にも吟味があり、退出後も吟味をし、暮れからは巡回に出るよし。
昼夜ともよくつづくことだと感心されているよし。

一. 松平左金吾どのは(松平)越中守(定信 さだのぶ 老中首座)様よりのご内意で、岡っ引きを使っていないよし。
格別よろしきよし。
岡っ引きを使わなくても盗賊はけっこう知れるもののよし。在方でも村役人にしっかりと掛け合えば、岡っ引きは用なしのよし。
江戸でもこの節、芝あたりなどで「金鍔」とかいう博徒の岡っ引きがわがままな振る舞いをしているよし。

一. 神田の岡っ引きが、盗賊どもを密告して召し捕らせたよし。盗賊の内、敲き放しの者が意趣をふくみ、この岡っ引きを須田町で切り殺して逃げたよし。

一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵の前任者)が(火盗改メの)本役についていたとき、組の同心が按摩と口論になり、かつまた同心が麹町で六尺に打たれ、誤証文を差し出した一件、期間も過ぎたので、帯刀は右の誤証文のことを伺ったところ、その義にはおよずと、お下げ札で下がり、帯刀は大悦びのよし。組与力なども悦んでいるよし。

一. 松平左金吾は、先ごろまではいたって評判がよろしかったが、あまりに厳しすぎるのと、むずかしすぎるので、このごろはかえって評判を落としているよし。西下(老中:松平定信)も大分不首尾になったそうだといわれているそうな。
 
  【ちゅうすけ注:】
  左金吾が本役・平蔵の冬場の助役として火盗改メに任じられて
  から半年も経っていないのに、もうメッキがはげはじめている。

一. 長谷川(平蔵)は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも 平蔵 は気取り、気功者で、よく人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などを申しつけてふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。
どうもこの節は長谷川のほうが評判がよろしく、このあいだも左金吾の与力がどうしたことか十手を盗まれたことがあり、そのことを左金吾へ届けたところ、もってのほかの立腹で、これはお支配方へ申し上げずばなるまいと平蔵へ相談したところ、せせら笑って、そのようなことがどうして申し上げられるものか、思ってもごらんなさい、大切な公儀の道具でさえ、番をしていても盗まれるではないか、人が殺傷されたというのなら大ごとだが、盗まれたぐらいのことは仕方がない。また多勢に無勢なら取られることもあろう、そんなことをどうして届けることができるものか、といったので、お支配方へ届けるのはやめにしたよし。

  【ちゅうすけ注:】
  公式主義の左金吾、融通無碍(ゆうずうむげ)の平蔵

一. 先年、平蔵が権門へ取り入りしはじめたのは、
「私儀、布衣(ほい)に仰せつけられなければ、父の廟所へ参詣することは相いならぬとの亡父の遺言がありますので、只今まで亡父の寺へ参詣もできずにおります。なにとぞ布衣に仰せつけられますようお願い申します」
と嘆いたので、それは不便なことだ、と権家にても沙汰なさったよし。権門への嘆きはじめは右の次第であったそうな。とにかく利口の人だと噂されているらしい。

  【ちゅうすけ注:】先手組頭には布衣(ほい)の受爵資格があるのを、こ
  のリポートの隠密は知らない。それほどレベルが低いことの証
  拠。こういうのを馬脚をあらわすという。
  2007年6月8日[布衣(ほい)の格式

一. 長谷川平蔵組の同心:鈴木某は、四谷新宿で顔を売っている遊び人で、先年の加役の時分は新宿で威勢よく、賄賂をおびただしく取り、大いに遊んでいたが、去年、長谷川が本役についてからは、規律がきびしくなり、一銭も賄賂をとることを禁じられたので、鈴木某は近頃は手も足も出ず、これではたまらぬと歎息の様子。このごろは本役加役とも賄賂はすこしもとり兼ねるそうな。


この鈴木同心と、京極備前守の一族・甲斐守高有の屋敷とそこに巣食っていた盗賊(史実)、それに麹町6丁目の呉服太物店〔いわき〕の盗難をアレンジ、『夕刊フジ』の連載コラムに[過去は問わない]と題して寄稿。

「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。

平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。

庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。

Photo
(緑○=京極甲斐守屋敷。赤○=呉服木綿店〔いわき〕)

ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「ようやった、鈴木。ついでだからも一と働きしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔いわき屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」

_360
(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子の入ったばかりだった。

平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。

さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。
が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。
一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。

そのやり方も、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱にできたものを。
それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」

帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。

【つぶやき:】
史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心や盗賊など、人物・店名はすべて実名。


『よしの冊子(ぞうし)をまともに説明しておこう。

_100 『よしの冊子』は、一橋治済(はるさだ)や水戸侯などの暗躍で田沼政権が倒れたあと、門閥派プリンスの松平定信が老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が四方八方へ隠密を放って情報を集めたその記録。
文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子(ぞうし)」と一般に呼ばれている。
もっとも、最初のうち、隠密たちは反田沼派のところへ行って、定信が喜びそうな噂話を集めたフシがある。
記録は門外不出とされていたのに、ひょんなことから洩れたが、幕府や各藩の上層部についての記述は桑名藩(定信の藩は白河からもともとの桑名藩へ復帰)の家老の手で、意識的に抹消された気配がある。
当初は定信と縁つづきの松平左金吾をもちあげ、だが、長谷川平蔵をくそみそに書いていたのが、のちに評価が正当になっていくのがおかしい。

よしの冊子(寛政元年5月12日より) 

一. (長谷川)平蔵は加役で功を立て、とにかく町奉行になるつもりのよし。人物はよろしくはないが、才略はある様子。

一. 松平左金吾がこのあいだ四ツ(午前10時)のお召しで登城したところ、加役中、出精し、かつ与力同心も骨折って勤めていることが上聞に達しご満足に思し召しているとの、お言葉のご褒美をくださったよし。
これまでの加役にはなかったこと。これは畢竟、愛宕下のご縁のせいだろう。
左金吾どのはいろいろとむずかしくいい出し、町々ではそこそこ困っていた。
この仁の加役が終わって悦んでいるとは、みんな口ではいわないが。

一. 長谷川平蔵はいたって精勤。
町々は大悦びのよし。
いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。
なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。
町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。
町奉行もとかく平蔵へ問い合わせているていたらくとか。 (出所:町奉行所の与力か同心か) 。

  【ちゅうすけ注:】
  このときの町奉行は、

  ……初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき) 45歳 
  1200石
  武田系名門の依田家から養子。この2年後に、平蔵の銭相場の
  片棒をかついだことを苦に病んだか、病死。

  ……山村信濃守良旺(たかあきら) 61歳 500石
  屋敷:赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)
  在任中に病死した宣雄の後任として京都西町奉行に着任。
  残された平蔵の面倒をなにくれとなく見てくれて以来の親平蔵
  派。京都町奉行時代、禁裏役人の不正の探索の秘密命令を受け
  ていた。
  4か月後に大目付へ栄転。後任は池田筑後守長恵(ながし
  げ)。平蔵のライヴァルのひとり。

  【参考山村信濃守良旺

『夕刊フジ』の連載コラムに書いた長谷川平蔵[銭相場の真相]---。


火盗改メの長官・長谷川平蔵は、盗賊・博徒の逮捕に顕著な実績をあげていた。
しかるに役人仲間からよくいわれなかった要因の一つが、銭(ぜに)相場に手をだしたこと。
為政者としての武士にあるまじき行為というわけだ。平蔵には彼なりのいい分があったのだが……。

天明の飢饉で、江戸に無宿人がふえた。無宿人=人別帳にのっていない、いわゆる無籍者だ。
 
無宿人は、追放刑をくらった者、たたきや入墨刑の仕置をすませた軽犯罪者、離農者や勘当された無実の者…に大別された。

天明期に急増したのは、食えないために田畑を捨てて江戸へ流入した連中だ。
いまのホームレス同様、繁華地の橋のたもとや川岸に仮小屋がけしていた。

彼らを収容する施設の建設と運営というホームレス対策が、松平定信政権の急務の一つとなっていた。
火盗改メの対象は主に無宿人――長官・平蔵は人足寄場の創設と運営の実行責任者たるべく名乗りをあげざるをえなかった。

だが、非人だまりへ送りこむべき連中相手の仕事だから、格式をもった家柄の幕臣としては貧乏クジを引く羽目になったといえる。
にもかかわらず、彼は工夫と勤勉と慈悲心で人足寄場を成功させた。
平蔵の犯罪者観として伝わっているのは、罪を犯した10人のうち5人は更生できる……だった。ましてやまだ犯罪へ走っていない無実の無宿人のこと、手に職をつけさせれば立ちなおる。

定信内閣は、隅田川河口の石川島に築かれた人足寄場の初年度の運営費として米500俵と金500両を与えた。預けた無宿人の食い扶持料としてこれまで非人だまりへ渡していた額より少なかったらしい。

2年目には予算は40パーセント減、300両ぽっちに減らされされた。やっていけない。平蔵は、1両が6200文にまで下落中の銭の相場を操作することにした。
盗賊の侵入を未然に防いでやって親しくなった大商人からの借り知恵だった。

幕府から人足寄場名義で元手の3000両を借りだして銭を買う。
その上で、1町内に1店以上あった両替商たちを北町奉行所へ呼びつけ、町奉行の初鹿野河内守信興同席のもとで「銭の相場を上げるように」と申し渡した。

銭はたちまち5300文へはねあがった。平蔵は、買いおいた3000両分の銭を両替商たにに引きとらせて400両なにがしの利益をえ、全額人足寄場の運営費の不足分にあてた。

まさにこれこそ、才覚というものだ(いまなら、インサイダー取引にあたるかも)。が、世には人まねばかりで才覚なんかだせない輩のほうが圧倒的に多い。彼らの妬みから生じる非難は大波のように才覚のある仁を襲う。

「銭相場へ手を染めるなど、士農工商と最下級の商人の中でも下の下の商人のすること。日ごろ無宿人などに接していると志があれほどまでに落ちるものか」
 非難は公式主義に拠っている。
 老中首座・松平定信側の隠密が書いた文書は、この銭相場に「山師」なる評言をあて、これが定信の平蔵評となった。予算削減のことは棚上げして、だ。いやはや。唖然だ。

よしの冊子(寛政元年6月3日より) 

一. 長谷川平蔵、もっぱら高慢いたし、おれは書物も読めず、何も知らぬ男だが、町奉行と加役のこと、生得承知している、今の町奉行は何の役にも立たぬ、町奉行はああしたものではない。
いかような悪党があっても、町奉行やまたほかの加役を勤めた者は、その悪党を独りのほかはつかまえぬが、おれは根から葉から吟味をしだす。
だからといってぶったり叩いたりして責めはしない。自然と白状させる仕方がある。町奉行のように石を抱かせたり、いろんな拷問にかけて白状させることはせぬ、と自慢しているよし。 (出所:町奉行所の与力か同心か)

  【ちゅうすけ注:】
  「拷問はしない」というのは平蔵の主義ではあり、尋問も、まるで
  相談事をしているようだという記録もあるが、いっぽう、長谷川組
  に捕まった蕨市(埼玉県)のある男が拷問されているのを見聞し
  たという逸話ものこっている。

一. 松平左金吾がいうに、平蔵はやたらと火付や盗賊を捕らえ、彼らをお仕置するのを大いに自慢しているが、あれは当座の功績というものだ。
火付や盗賊が出ないようにするのが本のことだ。
たとえば巾着を切ったり、小さな盗みをしているあいだに早く捕らえれば、世の中もおだやかだし、盗賊も軽い罪ですむ、これが本当のご政道というものだ。
長谷川(平蔵)のように大泥棒ばかり捕らえるのは、政治の本末を取りちがえている。
大泥棒にならないうちに捕らえるのすがほんとうなのだと、高慢な理屈を吐いているよし。


よしの冊子(寛政元年6月13日より) 

一. 博奕ばかりご禁制で、岡場所遊女などをそのままに放置しておいては、博奕の吟味が行きとどくまい。
いずれ、初めは遊び場へ足を入れ、あげく、博奕場へも出入りするようになる。博奕は末、遊所は本なのだから、本からとめるようにしたいものだと噂されているよし。
(老中首座・松平定信の理想主義にかぶれた従兄にあたる松平左金吾あたりの言葉か?)

一. 田舎は博奕は止んだが、江戸では小身のご家人などがいまだにやっているよし。
少禄の家は蔵宿(札差し)にもかなりの借金をしてるいから、お切米(春四分の一、夏四分の一、秋半分)が出ても、金を一分(米一斗分)にも替えることができなくて、ただ割符を持ち帰るだけ、博奕でもしなければ金ぐりがつくまいともっぱらの噂。

一. 小石川に住んでいる座頭の悪党が、先日市ヶ谷で召し捕られたときのこと。長谷川平蔵の役宅へ引だされた座頭が、与力に会いたいという。
で、与力が何気なく側へ寄ったら、しがみつかれ、狂ったように肩やほうぼうへ食いつかれた。同心があわてて十手で座頭を打ちうえて引き離したよし。
仲間もなく、自分だけがお仕置になるのは心のこりで噛みついたという。
この座頭が働いたかずかずの悪事の一、二の例をあげると、離縁したいと思っている人妻を預かってただちに女郎として売り払ってしまうとか、麹町四丁目の無尽茶屋で日がけ無尽があったとき、店の前であばれるので若い者がとりおさえ、日がけ無尽に来たのなら二階へあがれというと、日蔭無尽は法度のはず、とゆすりをかけたりするよし。
座頭は女房連れで浅草馬道の蕎麦屋で蕎麦をとったが、その前に女房のほうが銭箱へそっと代金を入れておく、で、蕎麦やの亭主が蕎麦代を請求したら、銭はすでに払ってある、銭箱にこよりをつけて印をしたのがそうだという。銭箱を改めると、なるほどこよりのついた銭がある、そこで目が見えないのをいいことに、とかなんとか因縁をつけて三分(一両は四分)もゆすりとったとか。女房も悪で、夫婦していろんな悪事をやっていたらしい。


よしの冊子(寛政元年8月24日より)

一. 松平左金吾(定寅 さだとら 久松松平の一族 長谷川平蔵の政敵の一人)が湯治願を、安藤対馬守信成。若年寄)へ差し出した翌日、早速に認可された。
蓮池御門の当番(先手組の平時の職務の一つ)にあたっていたが、このごろは湯治場が繁盛して湯女なども多く働いており、放蕩者も入りこんでいる模様なので、病気治療ということにして巡察を、上から内々にいいつかったのであろうか。
先手頭の湯治願などは前例がない。だいたい左金吾には痔疾の持病があるが、湯治に行くほどの重症でもないから、きっと何かわけありだろうと。
  【ちゅうすけ注:】
  先手組の通常の任務は、江戸城内の五つの門の警備である。
  蓮池門もその一つ。

一. 四谷あたりに先手同心の屋敷の一部を借りていた紀州家中の安藤長三とやら申す武士は放蕩者で、何日も家を明けて不在のことがしょっちゅうだ。
あるときなど、仲間どもが訪ねても居ないので出奔届をした。
その後、四谷坂町長谷川平蔵の手の者に召し捕られたとき、紀州家中の者なので仲間か縁者のところへ連れていってほしいと頼んだが、縁者は見つからず、仲間は出奔届を出しており無宿人になってしまっていた。
長三がいうには、出奔届のことはまったく知らなかった。留守しているうちに無宿人になってしまい大難儀していると。
聞いた長谷川は、それは困ったことだ、といったそうな。
  【ちゅうすけ注:】
   四谷坂町というと『鬼平犯科帳』の愛読者は、長谷川組の組屋
  敷---を連想するが、史実は異なる。
  たしかに、四谷坂町に、先手組組屋敷はあったことはあった。
  が、筒(鉄砲)組の4番手---組頭・市岡丹後守房仲 ふさなか
   1,000石 着任・寛政元年 当時49歳)のもの。

_360
(青○=下からの坂を含め一帯が四谷坂町。
緑○=筒の4番手・市岡組組屋敷。近江屋板) 

  長谷川組(弓の2番手)の組屋敷は、目白台。いまの目白台図
  書館の前あたり一帯。
  池波さんは、『武鑑』の先手組頭のリストの長谷川平蔵のところ
  の、△印の下に目白台とあるのを屋敷と読んだらしい。△印は
  組屋敷の符号。

_360_2
(赤○を中心としたブロック内が弓の2番手=長谷川組組屋敷。
新目白坂をのぼりきった三角地帯りの北側 近江屋板)

  ついでなので。目白台には3組の弓組組屋敷があった。
  下の最右手(東端ブロック)が長谷川組。
355

・・・先手組屋敷は切絵図では、ふつう[御先手組]と一括して示
  されているのに、どうしたわけか、目白台と四谷の左門町だ
  けが戸割リに氏名が書かれている。そのために、そこを見逃
  す人が多い。

一. 松平左金吾どの、箱根の湯治から帰られたよし。このたび箱根の山を見られて絵を描かれた様子で、いわれるには、「このごろ、栄川)が名人との評判が高いが、どうしてどうして、俺の絵には及ぶまい。正真正銘の山を見ることができたので山の山たるを知って描いた、おれほどに描ける者はおるまい」と自慢。
和歌のこと、天文のことまでも、それはそれは高慢のよし。


『よしの冊子』(寛政元年9月9日より) 

一. 長谷川平蔵宣以 のぶため 44歳 400石)は町奉行を望んでいたところ、池田筑後守長恵 ながしげ 45歳 900石)になられてがっかりしているよし。
まあ一般的にいって平蔵の評判はほどよくはない模様。
このあいだも湯島で泥棒を一人召し捕って自身番へ預け、いってきかせたには、明日までに自分の屋敷へ連れてこい。
もし今夜火事でもあって混雑したならば、逃がしてもそのほうどもを咎めはせぬ。
またただちに捕らえると見えをきり、その泥棒に手拭いは持っているかと聞き、供の者へ申しつけて近所で手拭いを一本買ってこさせ、[あした日中、手拭いもかぶずにおれがところへ引かれて来るもせつなかろうからこれをやる」と渡したよし。
長谷川平蔵は仁政を安売りをすると噂されているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  池田筑後守は、京都町奉行から栄転。京都在任中に、たまたま
  禁裏の火災があり、その処理のために上京した老中首座・松平
  定信
への応対も幸いしたらしい。家柄も、因州・池田家の一門。
  一門は多いほうで、家ごとにまとめた下のシートは8葉。
  長恵の家は末尾に近い。

_360

_360_2

一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(?)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。

  【ちゅうすけ注:】
  父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
  10月17日53歳のとき。
  本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
  日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
  本役を発令。
  幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
  焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
  があったからだ。
  その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
  たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
  行へ栄転した。
  『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
  宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳から
  28歳で、立派に助手がつとまった。

これまでなアーカイブした[よしの冊子](1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)

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2009.08.16

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 1)

最近、【検索フレーズ・ランキング】で、[よしの冊子]が頻繁にあらわれる。
鬼平ファンの便宜のために、かつて36回ほどに分載した[現代語訳]を、6日間ほどにまとめて、検索の用に資することにした。
長谷川平蔵と同時期の史料なので、鬼平ファンには興味深いともう。


_100老中首座・松平定信(さだのぶ)が、仕置(政治向き}の結果と世情を知るために求めたせいもあるが、数多くの隠密からリポートがあがってきた。活字本2冊になった『よしの冊子(ぞうし)』(中央公論社)は、1万件近くを収録している。
火盗改メ長谷川平蔵宣以(のぶため)にまつわるものは、うち、200件前後。
もっとも、定信は当初は熱心に読んだらしいが、後半になると、ほとんど目を通していないのでは---と推理できる。というのは、当初に書かれた平蔵像を、その後、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)(岩波文庫)などでは、まったく、修正していないからである。
当初、反・田沼の印象を強めるために、隠密たちは親・田沼意次(おきつぐ)色の濃い人物たちを、故意にゆがめてリポートしているように見えるが、定信は、その時に刷りこまれたままの目で平蔵を見ているとしか思えない。

その火盗改メ長谷川平蔵に関連するものを現代文に置き換えて。

よしの冊子(天明7年11月4日より)
一. 堀 帯刀も、いまの火方盗賊改メよりも上の役に仰せつけられそうなものだ、との噂をしているよし。長谷川平蔵のようなものをどうして加役(助役)に仰せつけられたのかと、疑っているよし。姦物のよし。

_360
(駿河台あたり 赤○=裏猿楽町の堀家 1400坪前後 近江屋板)
  
  【ちゅうすけ注:】
  堀 帯刀秀隆 このとき50歳。1500石…小説に 500石とあるの
  は、池波さんの創作。
  屋敷は裏猿楽町(千代田区猿楽町 2-5 1400坪余)
  天明元  8月20日  先手鉄砲16組組頭
    〃  10月13日  火盗改メ(助役)
  〃 2年  4月24日   〃   解任
  〃 5年11月15日   弓7組へ組替え
  〃 〃           火盗改メ(本役)
  〃 6年11月17日   弓1組へ組替え
  〃 8年 9月28日   持筒組頭

一. 堀 帯刀組の与力の中には、御頭に感服していなくて出勤してこない者もいるらしい。帯刀は大拍子者(その時のははずみでよくも悪くもなる者)ではあるけれど、家来の中に姦物がいて、帯刀の知らないことも行われている模様。

_360_2
(緑○=先手・弓の1番手組屋敷 牛込山伏町)

よしの冊子(天明8年2月17日より)
一. 先手の火方盗賊改メの堀 帯刀は、いままでに組替えを3度しているよし。
組替えの理由はというと、火盗改メというのは外聞もよく、また町へ出向くときには威勢もいいし、とりわけ最近のように米価が高値傾向にあるので、帯刀へ80両や100両遣っても、わずかのあいだに元がとれるというので、われ先に堀 帯刀へ賄賂を遣ったせいとか。2度目の組替えは80両を届けて帯刀の組になったよし。ところが次の組はほかから手をまわして100両を贈って帯刀組へおさまったとか。
本役で3度の組替えはこれまで前例がない。だいたい、帯刀は金繰りに困っており、組替えをタネに金銀を少しずつ取りつづけているらしい。
で、堀 帯刀の評判は悪く、そろそろ解任すべき時期だとの噂。
  
  【ちゅうすけ注:】火盗改メの組頭の役料は40人扶持
   …1日あたり玄米2斗。
  1升100文として搗き減りを見込むと1分2朱100文。
  (1両=20万円だと1日8万)。
  与力の役扶持は20人扶持…1日あたり玄米1斗。3朱と50文。
  (換算すると4万。月に120万円=6両弱)
  同心の役扶持は3口…1日に玄米1升5合。
  月に1斗4升(搗き減りを見て換算:月額7万円)。  
  組替えに80両を贈ったとして
  与力1人あたり5両(100万円)
  10人で計50両、同心1両(20万円)ずつ、30人で計30両、
  合計80両拠出したとしても、すぐに元はとれる。
  (役扶持は松平太郎著『江戸時代制度の研究』。
  米価は『生業物価事典』

一. 先手・火方改の堀 帯刀組与力:大森宗右衛門は、先年お役を勤めたときもほかからまったく賄賂を取らず、町々でもふるまいを一切受けなかったよし。

Photo
(緑○=与力・大森宗右衛門宅 先手2ヶ組与力20騎の宅が集まる御納戸町。○赤=長谷川平蔵の次男が養子に入った一族の大身旗本・長谷川久三郎の屋敷 4000余石)

そのほかの与力はお役を勤めて家計を立て直したが、宗右衛門は逆に借金をしたほどだとか。
この役は下に通り者(博打打ち)を使っていないと成績があがらないよし。
宗右衛門が下谷あたりで通り者を呼び
「その方たちなら悪者のことは熟知していよう、いま、どんなのがいるか」
と尋ねたところ、
「承りましたが、ここではなんですから、まずは茶屋へお立ち寄りください」
料理茶屋へ与力同心をあげ、あれこれ料理を注文するので、宗右衛門が、
「自分はいま腹は空いていないが、注文してしまったのではしょうがない。
この料理の代金はいかほどかな」
「とんでもございません。手前どものおごりございます」
「冗談いうな。こちらで払う」
「ほかのお役人さまはどなたもお受けくださいますよ。
ぜひ、箸をおつけさすって……」
「もってのほかのこと」と宗右衛門は立腹、
「役人の身でその方たちから接待を受けるなどは、
とんでもないことだ。
その方がここでごまかしをするなら、まず、その方からお縄を打たねばならぬ」 
その通り者を縛り、料理の代金を自分で支払ったとか。
もっともこれは田沼時代のお役中のこと。

さて、堀 帯刀組が金銀を取って組替えすることが知れわたったので、いろんな組が手をまわしたらしい。
こんど帯刀組になろうとしたのは、右の大森宗右衛門が所属する組で、与力たちが申しあわせたのは、「組替えのためには帯刀へ賄賂を遣わなければならないが、宗右衛門はどうせ承知すまいから、彼に声をかけないことにしよう」
と、与力同心で金を拠出して100両余をつくった。
で、めでたく組替えがなり、宗右衛門へ割当金を請求したところ、宗右衛門は立腹して一文も出さなかったため、彼の分をみんなで分担してすませたよし。
火方盗賊改メのお役中、与力には10人扶持ずつが下されるので、宗右衛門が組下の同心へきつく申しわたしたのは、
「仕事で出費が必要なら、自分への10人扶持を差し出すから、町々で賄賂を受けとらないうに」
その代わり、悪人を容赦なく縛り、総体に厳しいとのこと。

  【ちゅうすけ注:】
  『冊子』のいうとおり、火方盗賊改メのお役中の与力の役扶持が
  10人扶持なら、月額は60万円=3両弱。
  ただし、精米が1升100文として試算。1升150文が時価なら
  3割増。1升5合100文なら3割減。
  蔵宿の手数料は計算外。

一. 堀 帯刀は、寒中もゼゲン縞の綿入れに小倉の羽織を着てブルブルふるえながら炬燵に入っているほどの極貧なのに、用人は女を囲っているほど身代持ち。
帯刀は単に気のいいばかりで私欲もないのに評判が悪いのは気の毒だ、と同情されている。


(天明8年(1788)2月17日より)
一、加役の長谷川平蔵は勤務ぶりがよろしいので褒美下されたけれど、本役の堀帯刀へなんの沙汰もなにかったのは、その勤務ぶりがよくなかったからだ、ともいえそうなよしのさた。

一. 長谷川平蔵は姦物なりとの噂があるよし。
しかし時節柄をよくのみこんで、諸事に出費かかからないように計らっているので、町方はことのほか悦んでいるらしい。
去年も雪の降る夜、品川辺で賊一人を召し捕ったところ、自身番所へ預ければ、町内の出費も増えようから、その晩のうちに自分の屋敷へ連れてくるように申しつけたそうな。
そこで長谷川の屋敷へ連れて行ったところ、夜更けだったけれども、さっそくに門を開けて、白洲みたいなところへ通されると、向こうの障子の内にアンドンが見え、ただちに障子の内から同心がまかり出てきて囚人を受けとり、送ってきた者へ休息していくようにと申したそうな。
3畳ほどの屋根つきの休息所で茶や煙草をふるまわれて帰ったよし。
そんなわけで町方は悦んでいるらしい。

(天明8年(1788)4月10日より)
一、長谷川平蔵は加役を解かれたよし。先達て召し捕りものの実態を本弾(本多弾正少弼忠籌(ただかず)…側用人、若年寄、老中(格))へ申しあげたので、首尾よく本役に任命されるかと期待していたらしいが、加役は予定どおり解任だったと。

ちゅうすけ注】このとき、平蔵が任じたのは、火事の多い冬場の火盗改メ・助役(すけやく)で、本役は堀秀隆。隠密はそういうこともわきまえないほど知識不足。要するに質が低い。

よしの冊子(天明8年--1788--8月30日より)
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでしげ 1500石)がいうには、奈良奉行の任期が明けるので、繰上げで自分が任命されると世間ではいっているが、おれには高齢の母親がいるので、遠国奉行にでも発令されたら母が喜ぶまい。この母のためにもどうぞ遠国奉行はご勘弁願いたいものじゃと申しているよし。
 参考:2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
     2006年4月17日[堀 帯刀の任期
     2006年4月19日[堀 帯刀の家系と職歴
     2006年4月16日[堀 帯刀秀隆]             

一. ただいままで、京都町奉行の用人は年に100両(約1,600万円)ほど、取次は年に40両(640万円)ぐらい賄賂がきたものらしい。ところが去年、池田筑後守長恵 ながしげ 700石 平蔵宣以の1歳年長)のところへ住み込んでいる取次が江戸へ寄越した手紙には、
「去年からたったの3両(60万円)にしかならぬ。
悦んで住んでいる甲斐がない」とあったよし。

一. 堀 帯刀のこれまでの勤め方はいいとはいえず、組の取締りがよくなかったことを知っている者は、
「あれでもよい幸せだ。四ツ(午前10時)のお召しでよかろう」
と噂しているよし。
中川勘三郎忠英 ただてる 1000石。目付)の様子を知っている者はお目付へ仰せつけられてもよろしい人物といっているよし。事情を知らない者は、
「とんだことだ、小普請組頭からお目付とは」
といっているよし。

一. (火盗改メの)本役は、山本伊予守茂孫 もちざね 38歳 1000石 小姓頭取から翌9月に堀 帯刀の後任で先手弓の一番手組頭)か松平左金吾定寅(さだとら 久松松平の一族 2000石)か、松平庄右衛門親遂 ちかつぐ 61歳 930石。天明6年から翌7年まで弓組頭)の3人のうちだろう、と申しているよし。

一. 加役(火盗改メの助役)の長谷川平蔵は出精して勤めているよし。高慢することが好きで、なににつけてもおれがおれがというらしい。こんども、この春の加役でのおれの勤めぶりがよかったから本役を仰せつけられたのだ、と自慢しているよし。

一. 堀 帯刀は先手の同役の中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪い。にもかかわらず御役をそのままつづけていられるのは、まず、ありがたいことと思わねば。解任されても仕方がないのに、との評判が立っているよし。

一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人びとがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよし。

一. 左金吾の屋敷は広くて 8,000坪ほどもあるよし。植木好き庭好きのよし。普請も立派で1,2万石の大名もかなわぬほどと。

  【ちゅうすけ注:】
  8,000坪はオーヴァーで、史実では2,500余坪ほどだったらしい。
  現在の港区元麻布3丁目。中国大使館の敷地と麻布消防署が
  その跡地。

_360
(松平左金吾屋敷 麻布 約8000坪 現在は中国大使館など)

一. 松平左金吾は、ご老中・定信様とご縁がつながっている(同じ久松松平)方だが、とうからあのくらいには成られて当然の人だ、先手では不足なくらいだと申して、ご老中とのご縁で任命されたとは、だれもいっていないようだ。当然の人事だと申しているよし。
 
  【ちゅうすけ注:】
  松平左金吾定寅は、天明8年9月28日に、先手鉄砲組
  頭を拝命。
  左金吾定寅はいわゆる久松松平の一族。
  松平定信はご三卿の一つ---田安家から久松松平一門で
  ある白河藩へ養子に出された。
  家禄2000石の左金吾が職格1500石の先手組頭へ任命さ
  れたのは、火盗改メの助役となって長谷川平蔵を監視する
  ためとしか解釈のしようがない。
  それほど、定信は、平蔵を嫌っていた気配が濃厚だ。長谷
  川平蔵が同年10月2日に火盗改メの本役に発令されると、
  左金吾も追っかけるように10月6日に助役に任じられた。

一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。
左金吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。
議論で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口もいいかえせることではない。
まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれでいい納めだろう。なんとしてもかなうはずはない。
長谷川平蔵左金吾どのへ伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。
(出所:松平左金吾の近辺か)

一. 与力同心が急に雨に降られて、傘下駄の無心をしても貸さないようにと町々へ触れが出された。ただし、代価を出すなら売ってやるようにとも。同心どもへの手当は当方でまかなっているから、貸すようなことを決してしないようにと。

よしの冊子(天明8年10月16日より)

一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにいい争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。(出所:松平左金吾の近辺か)

参考:2006年5月12日[松平左金吾定寅の家系]
     2006年5月14日[松左金吾のその後]

よしの冊子(日付なし)
一. (松平(久松))左金吾定寅 さだとら 2000石)の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこなければならない。
これはあまりに外聞が悪い。
で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。
そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。手当てをお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあげになったと評判上々のよし。

_360
(左金吾組、筒の8番手の組屋敷。麻布龕前坊谷)

  【ちゅうすけ注:】
  松平左金吾屋敷…麻布桜田下町(現:港区元麻布3丁目)

  先手鉄砲・8番手
  組屋敷……………麻布・龕前坊谷(がぜんぼうただに)
             (現:港区麻布台1丁目)
              左金吾屋敷まで、徒歩20分。 

  松平左金吾の墓は、品川の東海寺に現存する。

一. 上州の百姓が1人、博奕場で殺されたので、堀 帯刀組の与力同心が出向いて吟味をしたとき、上州の岡っ引きの栄次がいうには、近郊の金持ちの弥右衛門が加害者だといい、金子20両を取って弥右衛門をゆるし、さらに身代のいい百姓5、6人も加害者だといって金子を取り込んだよし。栄次はその後、召し捕られて江戸表へ送られ、入牢したよし。
栄次の江戸宿の藤田屋がある日、掛りの羽田藤右衛門へ金千疋に鮮鯛一折を持参し、藤右衛門の留守に置いて帰ったよし。
そのあくる日、羽田が藤田屋を根岸(鎮衛 やすもり 勘定奉行公事方)の宅へ呼びだし、
 「その方が岡っ引き栄次の金子と鮮鯛を私宅へ持参したのはもってのほかのことだ。入牢申しつける」
と、きめつけたよし。藤田屋がいうに、
「それは人違いでございます。私は昨日はお宅へ参上してはおりません」
羽田藤右衛門が叱った。
「その方に間違いないはず」
そのとき呼びにきた者がいて藤右衛門は中座したが、ふたたび着座し、
「来なかったというなら仕方がない。それではその方へ頼みがある。栄次からの賄賂をことづかった者へ、その方は栄次の宿主なのだから、この目録と肴を返してくれるように。さて、このたびは見逃すが、以後、こんなことがあったらその方に入牢を申しつけるから、このこと江戸宿一同へよくよく伝えるように」
と、きびしくいって帰した。
栄次の手から根岸の用人2人にも300疋と1樽が贈られていたよし。
このことが根岸に知れたのできびしく叱られ、早々に目録を返し、樽はすでにいささか手をつけていたので内田屋で酒を買いたして返した。用人どもがいうに、自分たちが外出した留守に妻どもが受けとったことゆえ、今後は妻どもへもきつく申しつけておきます、と約束したよし。
栄次に金子をゆすられた百姓どもも根岸の宅へ呼びつけられ、きつく叱られてから帰村したもよう。栄次は死罪ときまったよし。

一. 松平左金吾が加役(火盗改メ・助役)中は役料を40人扶持ずつ下されているが、日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれているよし。
五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣いまでされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。

一. 本役の与力同心が田舎で出張った節、盗賊ていの者を召し捕り、金持ちの家の多い村方へ行き、盗賊を預ける。預かるのはたまらないと、金子を差しだして、
「ほかの村へどうぞ」
と頼む。昼どきでも身代のよい百姓家では庭で盗賊を拷問にかけ、きびしく責める。それを迷惑がって早く立ち去ってもらうようにと金子を差しだすそうな。
偽役人もいるとのこと。

一. 田舎は博奕がきびしく止まったようだが、江戸はまだ止んでいない模様。

一. 下総国香取郡で、盗賊を召し捕ったはいいが盗賊の妻の行き場がなくなったので、そっちで引きうけて善処しろといわれた村役人は難儀のてい。で、その方たちはこれまで村にいた盗賊を見逃していたのだから、その点を咎められるべきところだが、このたびは差し許す。
゜妻のほうは吟味しても盗みには関係がなさそうなので咎めなしだから、その方たちへ預けるから百姓へでも縁づけてやれと申されたよし。
反対できなくなった百姓どもは承知。その捌きを人びとはさすが根岸どのとほめているよし。

一. 左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役(火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だったよし。

  【ちゅうすけ注:】
  子どもっぽい見せたがり屋。この仁には、どうもそういう性癖があ
  る。ぼくが、寛政のドン・キホーテとあだ名しているゆえん。

一. 加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれまでは普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕らえることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは流儀が異なっている。
長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂されている。

  【ちゅうすけ注:】
  松平定信と親戚筋の左金吾の、このあたりの持ち上げようは、
  隠密の「よいしょ」である。
  間もなく、定信方の隠密の間でも、左金吾のメッキがはげる。
  そこがおかしい。

一. 松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向け、
「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行してくるように」
との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へこれほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよし。
先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかっていたよし。
いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたので、町内は大悦びのよし。

一. これまで加役に就任した当座は、張り切って捕物をしたものだが、ことしの加役はめったに捕物をしないので、かえって気味が悪いと悪党どもも用心しているよし。

一. 松平左金吾が御先手を仰せつけられたとき、師匠番は松平庄右衛門親遂 ちかつぐ。天明6年から翌7年弓組頭。930石)のよし。 
庄右衛門左金吾へ、
「早々のお礼廻りとして、御先手筆頭ならびに師匠番へはぜひお廻りになるように」
と教えたところ、
「いや、拙者はそうはしない。あなたはいまは引退なさっている。引退なさっている方のところはあとまわしでよい、現職の方々が優先だ、引退のお方はいちばん後にまわればよい」
といってのけたので、庄右衛門は、
「それはそれは……」
と絶句して引きさがったよし。

  【ちゅうすけ注:】
  庄右衛門能見(のみ)松平の支流。祖は世良田二郎三郎
  信光
の八男。
  この条で、退役した役職者が、新任者の師匠番という影の教導
  者となるシステムだったことがわかる。

一. 左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいうには、
「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」
と。
「それは公儀よりのきまりでござるか」
と聞き返す左金吾
「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」
「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書になっているのであれば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしいではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾ならば怪我がくない」
これには平蔵も、
「お勝手に」
というしかなかったよし。

一. 左金吾は先手組の同役の30人ほどの組頭の前でいうことに、
「拙者、このたび加役を仰せつかった。せんだっての加役の勤めぶりはよろしくなく、いろいろと了見違いもあったから、その方が改めるようにといいつかった」

  【ちゅうすけ注:】
  左金吾の前の火盗改メの助役(加役)は、長谷川平蔵だった。
  だからこれは本役の平蔵を公然と誹謗したことになる。

一. これまで、放火犯または盗賊を吟味するために逮捕しているのは、はなはだよろしくない。火附盗賊をしない前に逮捕してこそ加役の第一の心得といえる。将軍のお膝元に火附盗賊がいるなどということははなはだ悪いことだから、そのような者をいないように、その前から手をうっておくのが加役のご奉公というもの。まず、それについては江戸中の無宿がはなはだ悪者である、これを残らず召し捕り首を切ってしまえ、とまではいわないが、せめて(水替人夫として)佐渡送りにすべきだ。田沼以来、とりわけ無宿人がのさばり、丹後縞などを着ている者までいるというではないか。

  【ちゅうすけ注:】
  「無宿人を将軍の江戸から追っ払え」というのは、近隣藩の迷惑
  を考えない暴論。
  また、当時の佐渡金山の水替人夫の死亡率は極端に高くて、
  送られて半年もしないうちにたいてい病衰弱死したという。
  丹後縞…丹後国与謝地方から産した縞の着物。多くは紬(つむ
  ぎ)の高級品。

一. 左金吾は麻の上下の小紋、衣類の小紋など、みなおも高(沢潟 おもだかの葉を図案化したもの)の小紋のよし。目立つほどの大きな小紋のよし。これは拙者の替紋だといっているよし。

  【ちゅうすけ注:】  
  子どもっぽい目立ちたがり屋の左金吾の性格がよくあらわれて
  いる(情報の出所は、ひとりよがりの左金吾の放言に反発を感じ
  た、先手組の同僚の組頭あたりか)。

一. 左金吾は、自分の中に規矩(基準)をもっている人だから、加役(火盗改メ)が性に合っているようだ。加役を勤めるには申し分のない方だとくり返しくり返し褒める人もいるようだ。

  【ちゅうすけ注:】
  左金吾のひとりよがりな放談をもちあげるふりの先手組頭もい
  る。

一. いつのころか、当時、御徒頭だった遠山織部の下女が左金吾方へ使いに来て、その帰りにキツネがつき、いろんなことを口走りはじめた。
このことを聞いた左金吾はもってのほか立腹、
「うちへの使いの帰りにキツネがついたとあってはそのままにはできない」
と、家来を呼びだし、
「わが屋敷の鎮守のキツネがついたら、自分が一番鎗で稲荷も御幣も神鏡も宮も鳥居も突き砕いてやる。途中の稲荷のキツネがついたのなら、その下女に向かい、落ちるか落ちぬか問うて、落ちぬなら下女を鎗玉にあげてくれるから、その方たちは左右からその下女を突き殺せ。生き長らえたところでキツネつきでは役に立つまい。さあ、遠山伊織の屋敷へ参ろうぞ」
と、手鎗をさげ、家来を引きつれ、真っ黒になって行ったので、伊織方ではその下女が、
左金吾様がおいでになられ、奥へお通りではどうにもなりませぬ。落ちますから、左金吾様、どうぞ奥へいらっしゃらないで」
とおめき叫んだので、伊織左金吾を奥へ通そうとしなかった。
が、ことの次第を聞いた左金吾は、どうしても下女と対面するといって奥へ通って下女を責めたところ、
「落ちますから赤坂の榎坂(現:港区赤坂1-9~10 米国大使館脇の坂)までお送りください」
と懇請するので、駕籠に乗せ左金吾が脇をかためて行き、榎坂の上の大名屋敷にさしかかったところでキツネが一匹、その屋敷内へ走りこんだよし。
その後はキツネが落ちたので、左金吾殿はキツネまで落とされるたいしたお方だと評判のよし。

一. 松平左金吾どのは、去年(天明7年 1787年)の米騒動のときにも、門前の町家へ米などの食料を配られたよし。
そのとき、近所の屋敷にも打ちこわしの暴徒が来るとの噂が流れたので、家来へ命じ、毎夜々々、大小を抜きはなち、鎗の鞘をはずして門内へ控えさせ、もし、当屋敷へ入りこんだら、切り殺すか打ち殺せ、鉄砲以外なら何を武器にしてもいいから一人でも入ったら命じてあるとおりに処置するようにといってある、と殿中で話していたよし。

  【ちゅうすけ注:】
  米の値段が倍近くにあがったのは、米問屋が買い占め、売り惜し
  みをしているからだと、天明7年5月に、暴徒化した群衆が江戸
  府内の米屋や質屋などの商店を襲った。
  町奉行所は鎮圧できなかったので、長谷川組をはじめとする先手
  組10組に出動命令が下った。
  34組の中で選抜された10組は、いずれも組頭の年齢が65歳以
  下の組だった。
  先手組頭は高齢化がそれほどすすんでいた。
  リストのトップに長谷川組の名があがっているのは、弓組・鉄砲
  (つつ)組では弓組のほうが格が上、また、2組の弓組組頭では
  長谷川平蔵が先任者だったため(日本的な序列のつけ方)。
  データを読み違えて、発令された10組の総指揮を長谷川平蔵
  がとったように書いている人がいるのは、史料の読みが浅い。
  またこのときの動員人数を、1組の与力は10人、同心は30人だ
  から、かける10組で、与力の総数100人、同心300人と書いて
  いる人もいるが、捕物担当の与力・同心は組の中でも半分以
  下……ということを知らないための算術。

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_360_2

  【ちゅうすけ注:】
  お目見 明和2年(1765)     24歳
   継嗣の兄の死によリ、織部定寅が相続権が生じた。
  家督   明和8年(1771)     30歳
  火事場見回り 安永2年(773)  32歳
   1年半で免。よほど勤務が不良だったか。
  先手組頭・火盗改メ助役
   天明8年(1788)          47歳 
   15年ぶりの役職。

よしの冊子(天明8年(1788)11月6日より) 

一. (松平(久松))左金吾定寅 さだとら)が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人もいない。武術者もこれまたいない。
歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰卿のように詠むのがよろしい。そのほかの歌は歌ではない。
拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のように詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものではない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に立たない、といい放ったよし。
かつまた、絵描も天下に一人もいない。
いま栄川)などが上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっとつけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵ではない。
絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい放ったよし。
その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言しなかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

  【ちゅうすけ注:】
  山本伊予守(茂孫 もちざね。38歳。1,000石。
  堀 帯刀の後任の先手弓の1番手の組頭。長谷川平蔵は弓の
  2番手の組頭。
  寛政7年(1795)5月、長谷川平蔵が死ぬと、松平左金吾は弓
   の2番手の組頭へ組替えしてきて、組の平蔵色の一掃には
  げんだほど、平蔵流を嫌悪していた。

一. (左金吾は)すべて何芸でも、ほんとうにできる者は天下になしとつねづね申されているよし。

一. 左金吾は、明け七ツ(午前4時)から六ツ(午前6時)までのあいだを、おもに廻っておられるよし。

一. 左金吾は町方にたいへん悦ばれ、町奉行よりは評判がよろしいので、このあとは町奉行になられるであろうとの声が出ているよし。 (出所:左金吾を「よいしょ」する先手組頭あたりか)

一. 長谷川平蔵も負けずに懸命に勤めている様子。ただ心中が苦しくてなるまい。おれがおれがも出まい。おれが負けぬようにと、勤められるであらうと噂されている。 (出所:上記に同じ)

一. 左金吾のさしている大小は、縁頭は手向茶碗に樒(しきみ)の花、目貫に位牌、鍔はしゃれこうべ、栗形(鞘の下げ緒を通すための半円形のもの)が石塔、小柄は名号(仏の名。ふつうは阿弥陀仏)なりとのこと。

  【ちゅうすけ注:】
  なんと悪趣味!!

一. 長谷川(平蔵)は、山師、利口者、謀計者のよし。
この春の加役(火盗改メ・助役)中も、すわ、浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺にも自分の定紋入りの高張りを2張、さらに馬上提灯を4,5張も持たせた人を差し出す。
浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張っているが、3か所や4か所に長谷川の提灯が数多く掲げられているから、ここにも平蔵が来ている、あすこにも平蔵が出張っていたというように思って、町人どもはうまくだまされているらしい。
もっともその提灯が高張りして掲げられているところには与力か同心が出張っているのだから、とうぜん御頭もいるように見える。
だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組頭が提灯を30張こしらえるところを長谷川は50も60もこしらえているらしい。
はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危ないと陰でいう者もいないでもない。

一. 先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき、長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちのきになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしましょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速右の菓子を差しだしたよし。自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくって田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとのこと。
他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのごとく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。

これまでなアーカイブした[よしの冊子](1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)

  【ちゅうすけ注:】
  鈴木越後は、当時、江戸一番との評判の菓子舗。
  新しい役に就任したら、同役たちにこの店の菓子を振る舞わない
  と意地悪をされた。

Photo
(『江戸買物独案内』文政7年 1824刊より)

一. 長谷川(平蔵)も、町々へ、自分の配下の家来が飲食とか無心をしても決して応じることのないよう。断ってもさらに強要された場合は長谷川宅まで召し連れてくるように、との触れを廻したよし。

  【ちゅうすけ注:】
  『鬼平犯科帳』では清水門外が役宅だが、史実は、火盗改メ長
  官は自宅で執務するしきたり。
  与力同心の詰め所や白洲・留置場も自家の敷地内に設けた。 
  『鬼平犯科帳』ては、長谷川邸を目白台に置いた池波さんの
  意図は?
  目白台は先手弓の2番手(長谷川組)組屋敷で、史実の長谷川
  邸
は、平蔵が19歳のときから死ぬまで本所三ッ目……
  都営新宿線〔菊川〕駅の真上の1,238坪。

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(近江屋板・南本所竪川辺 赤○=遠山左衛門尉下屋敷。じつは平蔵の孫の代に遠山家に売却。
右手の緑○=入江町の鐘楼前の長谷川邸が小説で設定された、平蔵とは無縁の長谷川家。

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天保以後の切絵図はすべて買った遠山左衛門尉になっている。例の「遠山の金さん」である。

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(都営地下鉄・新宿線菊川駅上の長谷川家居宅跡銘板

長谷川平蔵住居跡
所在 墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。長谷川家は三方ケ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組(ごしょいんばんくみ)の家として続いてきました。天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)につきました。火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました
平成九年三月  墨田区教育委員会

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銘板のある菊川駅A3出口

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池波さんは「本所三ッ目」をたよりに、切絵図を探して、入江町に見つけたが、偶然同じ400石でも京都出自の長谷川家で、平蔵とは無縁。

一. 本役・加役とも、夜中に召し捕らえた者は自身番へ預けておき、明朝役宅へ連行してくるように申しつけるのが従来からのしきたりなので、大屋や五人組が寝ずの番をしており、囚人が夜中に自身番所で飲食をねだることもあり、それで町内の出費も少なくない。
さて、このたび左金吾が沙汰したのは、夜中に召し捕った者は何時でも役宅へ連行してきてよろしいとのことなので、町々は大悦びのよし。

一. 先日、堀 帯刀が召し出されたので、諸大夫の地位(従五位下)への申し渡しかと思って登城したところ、御(鎗)持だったので大落胆。

一. 堀 帯刀は、栄転先が御持だと、席順はすこし上がるが、役料は(御先手組頭と)同じなので、お役御免で無役でいるよりもかえって物入りで迷惑だといっている。
数年間(火盗改メを)勤めて極貧になったのに、役料が同じポストへ仰せつけられるとはむごすぎる、お役しくじりと同様の処置になったのはどういうわけかと愚痴っているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  堀 帯刀が先手組頭から栄転したのは〔持筒頭(もちつつがし
  ら〕。役料は先手組頭と同じ1500石だから収入増にはならない
  が、〔持弓頭〕とともに4組ずつしかないので大出世。
  先手組の組下は与力10人・同心30人がふつうだが、
  持筒組は与力10人・同心55人だから、部下の多い分持ち出し
  も増えると嘆いているのだ。
  もっとも、堀 帯刀の家禄は1500石で、先手組頭の時にも、役高
  と家禄の差をうめる足高(たしだか)はなく、持高(もちだか)勤めであった。
  *足高がつかないことを、持高勤めという。
  長谷川平蔵の家禄は 400石だから、先手組頭に抜擢されて
  1100石の足高が支給された。
  松平左金吾の家禄は2000石。したがって先手組頭に任命され
  るほうが異常。平蔵の監視役を買ってでた説の根拠である。

一. (先手弓第1組の与力で、組頭が堀帯刀から)、いまは山本伊予守に変っている大森惣右衛門は、人物もいたって堅いよし。
先達て堀 帯刀組に属していたときも、惣右衛門はいささかも賄賂を取らず、たまたま音物が贈られてきてもすぐに送り返していたよし。
帯刀の勤務ぶりの評判がよくなかったことはよく承知していて、帯刀の身分のことを案じていたので、持筒頭を拝命したのは幸せなことといっているよし。

_100老中首座・松平定信(さだのぶ)が、仕置(政治向き}の結果と世情を知るために求めたせいもあるが、数多くの隠密からリポートがあがってきた。活字本2冊になった『よしの冊子(ぞうし)』(中央公論社)は、1万件近くを収録している。
火盗改メ長谷川平蔵宣以(のぶため)にまつわるものは、うち、200件前後。
もっとも、定信は当初は熱心に読んだらしいが、後半になると、ほとんど目を通していないのでは---と推理できる。というのは、当初に書かれた平蔵像を、その後、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)(岩波文庫)などでは、まったく、修正していないからである。
当初、反・田沼の印象を強めるために、隠密たちは親・田沼意次(おきつぐ)色の濃い人物たちを、故意にゆがめてリポートしているように見えるが、定信は、その時に刷りこまれたままの目で平蔵を見ているとしか思えない。

よしの冊子(天明8年11月20日より)

一. 江戸中に菰かぶり(無宿人)が 350ほどいる。これを残らず召し捕れば、放火沙汰やそのほかの騒ぎも起きなくなるだろうと、その議論を本役加役であれこれしているよし。
しかしこれはウジ同様のようなもので、一旦はいなくなっても、また湧いて出てくるだろうといわれているよし。

一. 堀 帯刀秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵宣以の火盗改メ・本役の前任者)はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だけでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧のよし。
先手組頭時代の用人は悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。おしいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国(おんごく)奉行になれたものを、といわれているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  遠国奉行も役高は1500石だから、堀帯刀の場合は足高は出な
  いが、役得が入るとみているのだろう。
  『鬼平犯科帳』の最初のころの堀 帯刀は有能と書かれていた
  が、途中から無能あつかいに変わったのはこの『よしの册子』
  せい、とはじつはいえない。『よしの册子』が収録された『随
  筆百花苑第8巻』
(中央公論社)の刊行は昭和55年(1980)
  11月で、 『鬼平犯科帳』でいうと文庫巻21に収められている
  「瓶割り小僧」『オール讀物』9月号に発表されたあとであ
  る。

一. 堀 帯刀のいま用人がある人に話したところでは、帯刀は目付(安永 5年11月 1日~天明 1年 8月20日 1776~81 先手組頭の前の 6年間)時代に物要りが多くて家計が窮屈になった。

先手組頭を拝命して加役を数年勤めたが、これまた物要りの多いお役目で、そのころはほんとうに逼迫し難渋していました。
思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても二、三年はこの役をつづけたいものだと申しております。
せっかく任命されたのだから、どんなに貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤めると私どもへも話しております。
まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かったために、周囲での帯刀の評判をそこなっていました。
しかし、帯刀はそんな人物ではございません。
かつての用人をお払い箱にしたが、永々のお役中のときのこととか、こんどのお役についてのこととか、外々からいわれてくることがあったら、かつての用人へも問い合わせて善処するつもりでおります。
もっとも、かの用人を他へ住まわせると、一々呼んで事情を聞くことにもなるので、来春まではこれまでどおりに屋敷内にとどめておき、その後で暇を出します。
もちろん、引っ込ませておりますから、表へ出て応対することはありません、

といったよし。

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(『寛政重修諸家譜』より、堀 帯刀の個人譜)

Photo
(堀 帯刀夫妻の墓(文京区白山2-10 喜運寺) 5回娶っているので、葬られているのは5人目の室か。

一. 両番(書院番、小姓組)のうちに、ぼうふりと仇名されて、役立たずの者をこのぼうふりにしているよし。
これは棒をかついで江戸中を廻ってこい、といわれるからだそうな。
さて、その棒ふりの両番が、去年の冬、あちこちを廻っていたいたとき、怪しい者がいたので召し捕って自身番へ預けて吟味しているところへ、長谷川平蔵組の与力同心が廻ってきて、両番を偽役と見て、あれこれいい合いになったので、両番は大立腹し、殿中で長谷川平蔵にことの次第を話したところ、平蔵も立腹したよし。どう決着がつくことやら、なかなかややこしそうな雲行き。

一. この節、左金吾組の与力が田舎へ廻ったところ、うまく泥棒を召し捕ったので、そのまま宿送りに江戸へ送ったよし。これまでのように田舎の富家が賄賂を出すこともなくて、田舎では大悦のよし。

一. 江戸でも泥棒を召し捕ったら、早々に町奉行所へ連絡すれば、奉行所から受け取り人がやってくるようになっている。大いに簡易で諸掛りも少なくてすみ、みんな悦んでいる模様。
これは去年から右のとおりに上から仰せだされたところ、(町奉行の)柳生などが不才略なので下のほうまで徹底せず、先日(新番組頭の)松下権兵衛方へ入った盗人を召し捕り差しだしたのに、うまく機能しなかったよし。
この節は行きとどいていてよろしいとの噂。

  【ちゅうすけ注:】
  柳生主膳正久通 (ひさみち  600石)の北町奉行着任は天明
  7年(1787) 9月10日。職を得たのは、同年5月の府内の騒動の
  不始末で解任になった曲渕甲斐紙景漸(かげつく)まの後任・
  石河(いしこ)土佐守政武(まさたけ 64歳 廩米500俵)が3ヶ月
  後に没したため。同 8年 9月10日に勘定奉行上席へ栄転(1787
  ~88 44歳~45歳)。
  大和の柳生の門下として柳生姓を名乗ることを許された家柄で、
  久通は、将軍・家治の嫡男の家基の剣術相手をつとめたことも
  ある。
  家基は安永 8年(1779)に18歳で急死した。





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2009.08.15

与力・浦部源六郎(5)

「浦部さま。じつは今宵のお願いごとが、一つ、のこりました」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が姿勢を改めると、
「ほう。なんでございましょう」
浦部源六郎(げんろくろう 50歳がらみ)も形をあらためた。

「絵師の冬斎(とうさい)どのとお親しいとか---」
「ああ、戯(ざれ)絵師の北川冬斎なら、碁仇(がた)きのようなものです」

浦部与力の話によると、あまりに露骨な枕絵を描いて露店で売らせているので、奉行所へ呼んできつく叱ったことから縁ができたのだという。

「戯(ざれ)絵ですか?」
「いや、腕は西川祐信(すけのぶ)仕込みで、あることはあるのですが、なにしろ、おんな遊びがはげしくて、その金算段に困っての秘画描きなのです。で、冬斎にご用とは?」
「化粧絵をとおもいまして---」
「ああ、〔読みうり]の?」
「はい」
「そのような仕事でしたら、いつにてもお引きあわせいたします」
「では、明日にでも---」
「今宵、帰りに寄ってみましょう」


北川冬斎の住まいは、千本出水(せんぼんでみず)の華光(けこう)寺の裏長屋であった。

ちゅうすけ注】千本出水・七番町の華光寺は、翌安永2年(1773)に、平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀が挙げられた寺である。
冬斎がその裏に住んでいたのも、なにかの因縁であろう。

冬斎、おるか?」
布団からこっちを見た男が、あわてて起きあがってきた。
下帯ひとつの裸にちかい、狸づらの40男であった。

「こら、与力はん。なにごとでおじゃります?」
「なんや、その姿は。お客さまをお連れしてんのに---」

浦部同心は、銕三郎を引きあわせると、
「あとはよろしゅうに---」
さっさと帰ってしまった。

銕三郎が化粧(けわい)指南の〔読みうり〕の案を話すと、
「ただでも、描かせてもらいまひょ」
冬斎は、島原をはじめとする色街の人気美女をモデルにした似顔絵と聞いて、妓女たちがモデルになりたくて売りこみにくる---つまり、ただで遊べたうえにもてる---とふんだらしい。

いまでいうと、テレビに出たがるタレントみたいなものか。

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2009.08.14

与力・浦部源六郎(4)

「つかぬことをお伺いして、よろしいでしょうか?」
新しくきた銚子で浦部源六郎(げんろくろう 50がらみ)に酌をしてから、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が訊いた。
浦部も酌を返して、
「どのようなことでしょう?」

「東のご奉行の酒井丹波 たんばのかみ 忠高 ただたか 61歳 1000石)さまの世評といいますか、お人柄など---」
「こちらから、お尋ねしてよろしいでしょうか?」
「は--?」
酒井ご奉行は、京都においでになる前は、奈良のご奉行を4年ほどおやりになっておられます。その前の7年ほどは先手・鉄砲(つつ)のお頭をお勤めになり、その間に、火盗改メ・加役もなさっております。そのときのお勤めぶりはいかがでしたか?」

銕三郎は、言葉につまった。
酒井丹波守が助役(すけやく)とはいえ、火盗改メをやっていたことはしらなかった。

酒井さまが火盗改メをお勤めになりましたのは、いつごろのことでしょう?」
「宝暦11年(1761)の秋からと---」
(やはり、この与力はただものではない。この記憶力---)

(お芙佐(ふさ)に男にしてもらったのは、14歳であった)

参照】2007年11月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

「ご元服はおすみでしたな?」
「はい」
「お噂が、お耳にはいっておりませぬでしょうか?」
「助役だと、春には解任ですな。その秋からの助役の本多采女紀品 のりただ 49歳=当時 2000石)さまのお手伝いは、いささか---」

参照】2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)

「そちらさまが、名おうての盗賊逮捕の手だれとの{噂が都まで聞こえており、奉行所の者たちは、おおいに期待しております」
「世評ほど、あてにならないものはありませぬ」
ごまかしたが、
(うまく、逃げられた)
浦部が、おもった以上にしたたかな能吏であることが、父のためによかったともおもった。

浦部与力に代わって、酒井丹波守忠高の個人譜を掲げておく。

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(酒井丹波守忠高の個人譜)

いささかの説明を付すと、忠高は、17歳で養子にはいった。
若くして未亡人になった義母は、さっさと再縁を求めて家を去った。
相手は、細井伝次右衛門勝為(かつため 33歳=再縁時 1200石)だが、この仁、その後、再後妻、再々後妻を娶っており、酒井家からの後妻が病死なのか、離縁なのかは記録がない。
丹波ま守忠高の妻は、上記の妹であった。

人柄は、温厚で、自分から発言することはほとんどなく、衆議にしたがうことが多かったという。
そんなことから、御所役人の不正も見逃されたのかもしれない。
留守宅の向柳原・新(あたら)シ橋新道の屋敷が行人坂の大火で全焼したことも、よけいに無気力に輪をかけたか。

独断を記すと、西町奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)は、細かく気がまわるタイプで、挙措にそつがなく、上の受けも、公家(くげ)側の評判もよかった。

ちゅうすけ注】西町奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)の[個人譜] ←クリック

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2009.08.13

与力・浦部源六郎(3)

浦部さまのご担当は?」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、山女(やまめ)の焼き身を口にいれながら、訊いた。

長谷川/strong>さまは、江戸の町奉行所へは?」
「いえ、行ったことはございませぬ。訪ねたことがあるのは、駿府、掛川の町奉行所だけです」

参照】2008月15日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20
20091年1月15日~[銕三郎、三たび駿府へ] () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (

浦部与力は、基本的なことから解説をはじめた。
江戸は、南、北。京都は、東、西。

京都は、西が二条城の南(現・中京区西ノ京北誓町---中京中学のあたり。総坪数3,887余坪。 東は二条城の南(現・西ノ京職司町東側あたりに4,426余坪)

江戸は、両町奉行とも役高3000石格、京都は、両町奉行とも、役高1500石格。
江戸は、与力各25騎、同心各125人、京都は、与力各20騎、同心各50人。
ただし、時代によって多少の増減があった。
与力・同心は、いずれも一代かぎりの契約だが、じっさいには世襲とかわらなかった。

与力の俸給は200石。同心は30俵2人扶持が基本。
西奉行所の与力・同心の屋敷は、現・中京区西ノ京職司西側あたり。その南に東のそれがあった。

京都町奉行は、所司代に属し、職務は、五畿内・近江・丹波・播磨の幕府直轄領・寺社・京都町方・山城国村方などの支配が主務(平凡社『郷土歴史大辞典 京都市』による)。

三田村鳶魚『幕府スパイ政治』(中公文庫・鳶魚江戸文庫8に収録)は、京都町奉行の職掌を以下のように記している。

禁裏御所々々の警固、所司代の御下知を以て勤む、所司代参府の時ば、是に替って相勤る義、御役の第一也。
抑所司代の御役義は、禁裡守護におよび、西国三十三ヶ国の藩鎮則探題の重役也、

此下に随ふ御役なれば、西国一締りの義に携り、万端米穀の豊凶等の儀迄も心を及す儀、御役の第二也。

所司代御参府(江戸行きのこと)の節は、御朱印を預り奉り、且御教書も護持奉り、洛中事あらば、諸大名を招き集めて、禁裡を守護す、是御役の所詮にて、御治世においては、禁裡御所方御賄等の義、平日町奉行の司る所にて、御物入の増減迄委敷扱ふ、是御役の第三なり。

五畿内の寺社御朱印を指揮す、尤寺社奉行兼帯し、諸宮門跡たり共、皆町奉行の下知を聞く、是当任とする所にて、御役の第四也。

山城、大和、近江、丹波の四ヶ国は、京都町奉行の支配にて、公家領、諸大名領、寺社領たり共、大となく小となく、皆当任の取捌く所にて、第五の御役也。

摂家、宮方、清華の御方、堂上方共、都て御行跡其外何によらず、所司代の御目に止めらるる事なれば、町奉行も平日其品を聞合せ、所司代へ申す、尤諸願ひ万事は伝奏を以て所司代へ申す、所司代より町奉行へ調べ仰付けらる、町奉行其品を糺し尋ねて、其善悪を所司代へ告る故、摂家たりとも町奉行をかろしむること能はず、おのづから威勢は遠国諸奉行の上にたつて、高位高官の人も恐れをなすの御役なれば、常に其身を慎しみ、政務の正路を専らすること肝要にして、則三十三ヶ国の手本なる義、御役の所にて、上方御代官を支配する事、御役の第七なり。

例によって、出典は記されていない。
第六も、第七に包括した文章になっている。

「お尋ねいただいた、それがしの役ですが---」
浦部与力は、奉行所の役屋敷の中には、公事方、勘定方、目付方、欠所方、証文方などをそれぞれに分担しており、浦部は、目付方を担当していると言った。

「〔読みうり〕のご担当は?}
「島原・風聞方です。なにか?」
「じつは、知人が、化粧(けわい)の手引きの〔読みうり〕を板行したいと申しておりまして---」
「それがしから、その役方与力へ話しておきましょう」
「算段が煮つまって、お願いにあがりました節は、よろしくお願いします」

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2009.08.12

与力・浦部源六郎(2)

「わざのお招き、恐縮でございました」
西町奉行所与力・浦部源六郎(げんろろう 50歳前後)は、折り目正しくあいさつを交わした。
大柄ではないが、齢にはみえないしまった躰躯で、鬚が濃いたちらしく、この時刻(暮れ六ッ)には、もう、うっすらと青みがさしている。

「不案内なもので、かようなところで、申しわけございませぬ。ご容赦を」
場所は、北野天満宮の表大鳥居前の〔敦賀屋〕伊助である。

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(〔敦賀屋〕伊助 『商人買物独案内』)

相談をうけた〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の身分を考慮して、
「本来なれば、先方さまがご招待なさるのが筋です。しかし、ことがらがことがらだという長谷川さまのお気持ちもございましょう、質素なほうがよろこばれましょう」
選んでくれた。

参照】20097月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () (
2009年8月1日[お竜(りょう)の葬儀] (

菜飯と田楽、それと川魚料理の店で、昼は参詣客で混んでいるが、夜はそうでもない。
なにより、奉行所与力屋敷から小半刻(こはんとき 30分)もかからず、距離にして15丁(1600m)ほどということも選択のもととなった。

「5日前に、太田播磨正房 まさふさ 59歳 400石)さま、小普請(こぶしん)奉行方への任命状がとどきました。それとともに、長谷川備中さま、ご就任の通達も---」
父・平蔵宣雄のことを〔備中守〕と呼ばれ、わがことのように晴れがましく、また、面はゆく感じたが、わざと表情を変えず、
「で、摂津さまのご離京は?」
備中さまへの引きつぎがすみましてから---」
「なるほと」

配膳をはこびおわった仲居たちをさくがらせてから、銕三郎浦部与力に酌をし、
「拙の上洛は、父の指図ではなく、拙からの申し出によったものです。父は、若いときに京や奈良で遊んだそうです。なれば、拙も父の着任前に遊ばせてももらおうと---」
浦部は、そのいい訳を、なにくわぬ顔で聞きながしたあと、
「押小路のお家は、いつまでお使いでございますか?」
「発覚(バレ)でおりましたか。はっ、ははは」
「はっ、ははは」
浦部は、それ以上、追求しなかった。

「手前の息・彦太郎(ひこたろう)は春には20歳になりますのに、朴念仁でお遊びのご案内役には向きませぬ。お許しください」
「なんの、なんの。不案内のほうが、おもいかけない掘り出しものもあろうかというもので---うっ、ふふふ」
銕三郎は一瞬、〔千歳(せんざい)〕のお(とよ 24歳)のきびきびと動く姿態をおもいだしていた。
浦部与力は、そんな銕三郎の思惑を見すかしていたが、
「お愉しみの掘り出しものがありましたら、お洩らしいただきたいもので---ま、この齢ですから、おなごのことは縁なしごとですが---」
微笑とともにうなずいた。

が、眸(め)が笑っていないことに気がついた銕三郎は、
(もしかすると、琵琶湖でのお(りゅう 享年33歳)の事故、その葬儀に在京の盗賊の首領たちが香華したことも探知しているのかも---〔狐火(きつねび)〕への出入りもやめなければ---)

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(太田播磨守正房 個人譜)


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2009.08.11

与力・浦部源六郎

銕三郎(てつさぶろう 27歳)の目論見(もくろみ)をすべて聞き終えた元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60歳がらみ)が、
長谷川はん。うちらのほうからのお詫びと、お願いがおますねん。お聞きとどけのこと、よろしゅうに---」
「はて、なんですかな?」

「先に、お詫びのほうから---」
音羽(おとわ)〕の重右衛門からの書状で、なにかの役目をいだいて、一足先に銕三郎が上洛するという報らせがあったので、なにかと世話になっている西町奉行所・与力の浦部源六郎(げんろくろう 50歳がらみ)にその旨を洩らした。
浦部与力からは、銕三郎と連絡(つなぎ)がとれしだい、報せてほしいといわれている。

「お願いというのんは、浦部与力はんにおとないをいれていただきたい、いうことでおます」
「わかりました。いまの宿を、明日には引きはらい、堺町押小路の陋屋に移ります。さいわい、西町奉行所とも近いのでおとないをいれますが、浦部どののほかには、内緒にお願いできましょうか?」
「さようにお伝えしておきまひょ」
眸(め)と眸(め)をあわせ、うなずきあった。

ちゅうすけ注】浦部源六郎は、『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で、〔千歳(せんざい)〕で、女盗(にょとう)ともしらずにおと痴戯のかぎりをつくしていた銕三郎を、ほかの者には気づかれないように父・町奉行のもとへみちびいた与力である。

「それにしても、押小路あたりに、ようも、お家が見つかりましたなぁ」
円造は、さすがにそれ以上はふみこんではこなかった。
うっかりすると、〔狐火(きつねび)〕のことに触れなければならなくなるところで、あらためて、身辺のことを松造(まつぞう 20歳)に口どめしておく必要におもいいたった。
もちろん、松造に、高級骨董屋〔風炉(ふろ)屋〕の存在を教えるつもりはなかったが---。

「[読みうり]は、絵入りといわはりましたが、絵師のこころあたりでも---?」
「ありませぬ」
浦部はんに相談なさっとぅみやす。碁仇(がた)きに、なんとやらいう絵師---西川祐信はんのお弟子はんやったと聞いてますのやが---角兵衛、ほれ、、知恩院さんの境内で由助(よしすけ)が絵ェ売っとる---齢どすなあ、とっさのことに、人さまの名ァがでてきよらんのどすわ」
冬斎
「そやった」

円造は、浦部はんにお会いなったら、冬斎はんのこと、お聞きになってみたらよろし。[読みうり]を出すのかて、奉行所の許しが要るでしょうし---」

ごくかんたんな午餐(ごひる)を馳走された帰りの道筋にあたる、茶店〔千歳(せんざい)〕をのぞいてみた。
客はいなくて、おは手もちぶさたらしく、いそいそと飯台に招じた。

銕三郎は、懐紙に、

 おんなだから、綺麗になれる
 おんなだから、美しくなれる
 おんなだから、美しくなりたい
 「おんななら、綺麗といわれたい
 美人の、化粧の秘密

道みち、頭の中でひねくりましていた惹句(キャッチ・フレーズ)をさらさらと書き、
「おは、どれに惹(ひ)かれる?」
「なんです、これ?」
「化粧(けわい)指南師のお披露目の引き札(ちらし)の惹句だよ」
「化粧指南師などというお人がいるのですか?」
「江戸から上ってきた」
「わあ、教わりたい。もっと綺麗になりたい」

銕三郎は、
 
 おんなだから、もっときれいになれる

と、「もっと」を書きたした。

「なれる」のほうが、「なりたい」とか「いわれたい」より、と努力を要しないで済む感じがあり、容(う)けるとおもったのである。
銕三郎もすみにおけない---現代なら、そこそこのコピーライターに「なれる」センスを持っている。


ちゅうすけのつぶやき】
ほかに類のない長谷川平蔵もの---とのご評価をいだき、ページ・ヴューも600~1000アクセス/日に上がってきました。年内には累計50万アクセス超え、平蔵ものでは短期間でダントツになる予定です。心を引き締めています。

この上は、もっと多く未知の鬼平ファンの方がコメントをお書き込みくださると、ごいっしょに深めてゆけます。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2009.08.10

ちゅうすけのひとの言(36)

安永年間(1772~80)iに幕府によって摘発された京都・禁裏の地下官人(じげかんじん 下級公家)の汚職にかかわった話を調べている。

_110ことの次第は、三田村鳶魚『幕府のスパイ政治』(中公文庫・鳶魚江戸文庫8『敵討の話幕府のスパイ政治』に収録)に書かれている。
もっとも、出典は例によって明らかにされていないから、確認ができない。


同書によると、長谷川平蔵宣雄が明和9年(1782---11月16日に安永と改元)10月15日(旧暦)に京・西町奉行に発令されたものの、翌2年6月22日(公的命日)に病死(享年55歳)。

後任として着任した山村信濃守良旺(たかあきら 45歳 500石)が、目付(役高1000石)から一足とびに1500石格に昇格したのは、地下官人の不正をあばく密命を帯びていたからだと、鳶魚老はいう。

参照】2006年9月26日[町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら)]
2006年7月27日[今大岡とはやされたが
2007年8月30日[町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ

敏腕をもってなる勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳=安永元年 800石)もいたことであるし、田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 相良藩主 3万石)も正式老中となっていたのだから、幕府はその時、禁裏役人たちの不正にうすうす疑惑をもち、赴任する長谷川備中守宣雄に密命をさずけたのではないかと、ちゅうすけは読んだ。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (

しかし、宣雄の在任中にはさすがに、はっきりとした結果が得られなかったため、記録が残されなかったと推察したのである。
山村信濃守は、みごとに暴いたので、彼が経緯と手柄を独占ししてまったのではなかろうかとも。

鳶魚老の『幕府のスパイ政治』の[御所役人に働きかける女スパイ]の経緯は、徒(かち)目付・中井清太夫(せいたゆう 100俵)が姪を、地下官人・御取次衆の高屋遠江守康昆(こうこん)に帰嫁させて、みごとに汚職の証拠を入手したことになっている。

_130処女の姪の操をかけたストーリーだから、いずれ、女性作家が女性の見地からこの策略を小説にするだろうとおもっていたら、諸田玲子さんの『楠の実が塾すまで』(角川書店 2009.7.31)がでた。
さっそくに入手。

もしや---とおもったが、長谷川平蔵宣雄の名はでてこない。

幕府は堪忍袋の緒を切らしていた。西町奉行の病死を機に、御目付だった山村を新たな奉行に任じた。

この一行だけである。

ストーリーはさすがで、よく練られており、鳶魚老のデータもきちんと取りこまれている。
巻末の参考文献には、鳶魚老『江戸の実話』(政教社)もあげられていた。

さて、われらが銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平)である。
父・宣雄に先行して入洛し、女賊・お(かつ 31歳)を、御所ご用達の白粉舗〔延吉屋〕へ、化粧(けわい)指南師としてもぐりこませたまでのことは、すでに述べた。

_130_2そんな職業があったのかって?
都風俗化粧(けわい)』(東洋文庫 1982.10.8)はベストセラーをつづけたと、解説文にしるされている。
女性が美しく見せたいのは、いつの時代、どこの国でも変わりはなかろう。

たとえば、上掲本の目次のいくつかを書き写してみよう。

耳へ白粉をする伝
久しく白粉せざる顔に白粉を落ち付かす伝
黒き顔に白粉する伝、ならびにはきこみおしろいの伝
顔の形によりて化粧の仕様ある伝
紅を付ける伝
青き顔をほんのりと桜色に見する伝
------
あなたが女性なら、すくにもページをさがすはず。

[顔だちによる化粧のしかた]から、数例を引いてみる。

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困ったことに、ちゅうすけには、髪型の違いはわかるが、顔の形は、みな似ているようにみえるのだが---。

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2009.08.09

〔左阿弥(さあみ)〕の円造(2)

「〔音羽(おとわ)〕の2代目はんからご丁寧な文(ふみ)をいただいとります。そやよってに、きょういらはるか、あすお越しやすかと、お待ち申してとりました」
祇園・京極一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60歳がらみ)は、その実力に似ず、小柄で、艶のある温和に顔だが、張りがあり、役者のようによくとおる声をしていた。
この声がいち怒気をこめたら、たいていの者は、ふるえあがってしまうだろう。

参照】2009年6月21日[〔銀波楼]の今助] (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/06/post-89f7.html)
2009年6月30日[〔般若〕の捨吉] (
2009年7月22日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

「父が着任する前に、手くばりをしておく雑用がありまして、ごあいさつが遅れ、申しわございませんでした」
「なんの、なんの。うちらは、まっとうな生業(なりわい)から遠いとこでやらしてもろうてますよってに、こっちから出むくわけにもいきまへんなんだ。それにしても、目黒の大火はたいへんどしたなぁ。〔音羽〕の元締もひと役買ったそうで、よろしゅおした」
「〔音羽〕の元締にお引きあわせいただいた、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のお助けがなかったら、父は火付け犯を逮捕できましたがどうか---」

参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () () (

「それで、うちらに、なにか、お手伝いさせていただくことがおきましたんか?」
「はい。じつは---」
「お待ちを---。できの悪い子ぉやけど、息子の角兵衛をご相伴せていただきます」

角兵衛は40歳がらみで、円造よりも男ぶりはいいが、目の鋭さをまだ隠しきれていない。
それでも、銕三郎(てつさぶろう 27歳)をあなどる様子はみせず、部屋のすみにかしこまった。
(そういえば、〔愛宕下〕の息子・伸太郎も、あのようにひかえた。この世界の礼法なのであろうか)

銕三郎は、堺町通り四条上ルの白粉舗〔延吉〕半兵衛方に化粧指南師として、かかわりのあるおんなが雇われたこと、そのおんなの お披露目(ひろめ)として、[読みうり]をださせたいこと。
その[読みうり]には、禁裏ご用達の髪油、髪飾りの類、紅、鉄漿(かね)、かもじ、手かがみ舗をはじめ、美顔水、にきび消し、被(かずき)帽子、日傘舗などの広告をとり、禁裏の女官たちのあいだで流行(はや)っている髪形、化粧などの読み物を絵入りでのせるが、その[読みうり]を、〔左阿弥〕傘下のおんな物をあつかっている店で配ってもらうわけにはいかないか---[読みうり]は無料である、と説明した。
いまでいう、フリーペイパーの発想であろう。

「彫り師や刷り師への手間はどないしはるおつもりですかな」
「お披露目(広告)枠の揚がりでなんとか---」
「お武家はんに似合わず、銭勘定の帳合(ちょうあい)まで、みとおしてはりますのんか」
「江戸の[読みうり]の者に教わりました」

参考】2008年8月12日[〔菊川〕の中居・お松] (11

祇園社さんや清水寺に屋台店をだしている、それらしい店に置かし、おんな客に手渡さすことはなんでもないが、と、
長谷川さまの目星は、どうやら、禁裏やろおもうとりますねんが、女官のあいだでの流行(はやり)ものというのんが気になりますな。堅気のおんなどもも、腹の底では、島原の太夫たちのようにおとこにもてたいおもうてるはず。いっそ、読みもののほうは、島原の太夫の化粧(みじまい)の秘伝のほうがよろこばれるのとちがいますやろか」
角兵衛が、遠慮がちに口をはさんだ。

「武家の商法でした。角兵衛どののご助言、うけたまわりました」
銕三郎が素直に頭をさげたので、角兵衛は面目をほどこし、一気にのり気になった。

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2009.08.08

〔左阿弥(さあみ)〕の円造

からす山〕の松造(まつぞう 20歳)が、朗報と厄報(---と書いては常識に反する)をもたらした。

朗報は、父・宣雄に、京都東町奉行の発令が(旧暦)10月15日づけとなり、同時に備中守・従五位下に叙爵の内示があり、連日、あいさつ廻りにいそがしくしていると。
叙爵は、長谷川家はじまって以来の名誉であった。
もっとも、始祖の正長(まさなが 37歳で三方ヶ原で討ち死)は紀伊守を称してはいたが。

徳川実紀』は、10月15日の授勲者を宣雄一人だけ記している。
例年、幕臣の叙爵は12月初旬であるから、宣雄のそれは、赴任後、すぐに受爵に戻るのはきつかろうという思いやりと見ることもできる。
しかし、ちゅうすけはもっとうがって、幕閣の意思をそこに見ている。
すなわち、着任したらさっそくに密命を果たせ、叙爵などのために任地を離れるな---と。

厄報は、宣雄の赴任に、久栄(ひさえ 20歳)が同道して上洛してくるというのである。
於初(はつ)はまだ、7ヶ月であろう」
「ですから、於初姫は、旅がお出来になるまで、乳母人(ちちうど)にお預けになっておくとのことでした」
「うーむ。その手があったか」
「若さまも、お待ちかねであろう、もう、すこしの辛抱---と言伝(ことづ)かりやした---ました」

松造。その言葉づかいだが、町奉行所の役宅に入るまで、やした、でいってくれ」
「なぜでございます?」
「ほれ、それが困るのだ」
「なんででごぜえやす? こうですか?」

松造に、お(かつ 31歳)とのつなぎ(つなぎ)役を言いつけ、お勝のつくりごとの素性を話してきかせると、やっと納得したのはいいが、
「若奥方がいらっしゃいましたら、そのおというおなごは、あっしが引きうけてもようがすよ」
「ばか。姉弟で睦みあっては、人道にもとる」

松造とのいっときの生活のために、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が見つけてきたのは、白粉屋〔延吉屋〕半兵衛のところから、堺町通りを御所のほうへ6丁ほど北の、押小路の路地の奥の一軒家だった。

手づけをうったあとで父・宣雄の赴任日がきまったので、しばらくはそのまま、隠れ家として借りておくことにした。家賃は、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 52歳)がしばらくみてくれるというから、好意をうけることにした。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、松造を伴って〔千歳(せんざい)〕で、お(とよ)に引きあわせ、ついで〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう)の家を教わり、松造に、
「明日、ごあいさつに伺いたいが---」
と、予約をとりにゆかせた。
左阿弥〕の円造は、祇園一帯をとり仕切っている香具師(やし)の元締である。

「返事は、〔津国屋〕へ帰ってからでいい。そのあたりで、一杯、やってから帰れ」
1分(ぶ 4万円)をにぎらせる。

「奥が上洛してくる」
飯台におかれた片口から冷や酒を汲みながら打ちあけると、
「いつ、お着きですか?」
「11月のはじめかな」
「それまで、飽きるほどお会いできます」

まるで、それがきまりのように、小女を帰し、老爺・駒右衛門に表戸をたてるように言いつけた。
「ほんとうに〔左阿弥〕の円蔵元締とお知り合いだなんて、変なお武家---」
「けったい---かな」
「正体がしれません」
「食いつめ浪人の子だよ。〔津国屋〕も、あさってには引き払わなければならない」
「嘘ばっかり。食いつめ浪人が、供の郎党を連れているわけないでしょ」
「露見(ばれ)たか。じつは、町奉行の子息」
「また、嘘を---。でも、嘘も大きいほうが罪がなくていい」

おもいついたことがあって、円蔵元締の知恵を借りたいのだと言うと、
「そういえば、先刻、〔川端道喜〕さんが見えて、(てつ)さんに悪いことをした、謝っておいてほしい、御所内(ごしょうち)のことでなければ、お役に立ちたい---とおっしゃっていました」
「いずれ、お力をお借りするようになるとおもいます」
「やっぱり、変なお武家さま---〔道喜〕さんが、お人柄をほめていらっしゃいましたよ」

参照】2009年7月31日[川端道喜

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2009.08.07

お勝、潜入(4)

_100「お。お(りょう 享年33歳)どのの忠告がある」
「お姉さんからって、いつのことですか?」
はやくも、嫉妬(やきもち)まじりの声になっている。
(あれほど永く究めあったはずなのに、もう、恋敵あつかいだ。おんなは変わり身が速い)(歌麿 お竜のイメージ)

「夢の中でだ」
「あたしたちが、できたあとですか? それだと聞く耳をもちません」
「できた7夜も前のことだ」
「許してさしあげます」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は懸念した。
(これほど、男女のあいだがらにこだわっていて、閒者の役をつらぬきとおせるのだろうか?)

_100_3銕三郎の不安を読みとったように、
「これでも、〔蓑火(みのひ)〕のお(かしら)の下で、お盗(つと)めの引き込みを10年もやってきています。お役目はわかってますから、連絡(つなぎ)のほうをしっかりやってください」
逆にはっぱをかけられた。’(お勝のイメージ)

参照】2008年10月18日[お勝というおんな] () () (
2008年10月21日[お雪というおんな] (
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (
2009年1月23日[銕三郎、掛川へ] (
2009年6月6日[火盗改メ・中野監物]清法(きよかた) (

その連絡役は、明日、入絡するはずの〔からす山〕の松造(まつぞう 20歳)を、とりあえず、おの弟というふれこみで、あてることになしている。
甲州・八代郡(やつしろこおり)中畑村から、江戸・本所の軍鶏なべ〔五鉄〕の板場で働いたが、仕事がきついので、姉のおを頼って上洛したという筋書きである。

からの幻の忠告だが---と、彼女が死んだ夜に
「御所役人に閒者(かんじゃ 密偵)を入れるのは、早すぎましょう? 気づかれては元も子もありません」
こう言ったと伝えると、
(てつ)さま。おは、御所役人の家に奥女中にはいるのではありません。白粉屋の化粧(けわい)指南師として働くのです。間違えないでください」
手におぼえさせた仕事のあるおんなとして、誇らかに宣言したものである。
(これでは、松造も苦労しそうだ)

はやくも、銕三郎の股間に手をのばして催促するのを、
「お待ちなさい。ものの本にあった、閒者のこころがまえを、も一度、さらえてからだ」
「あたし、犬じゃありません。おあずけなんか、ききません」

銕三郎は、おのかすかに紅の味がのこっている口を吸いながら、頭の中で『孫子』[用閒篇]の語句をさらえていた。

参照】2008年10月1日~[『孫子 用閒篇』 (1) (2) (3)

「死閒(しかん)というのがあったな」
おもわず、つぶやいてしまった。
(死閒とは、配下の閒者に偽りの戦闘なり陣形をとらせて、敵を誘いだし、計略のはめること)

が聞きとがめた。
「死姦(しかん)だなんて、おお姉さんのことが、まだ、忘れられないんですか。未練たらしい」
「そうではない。『孫子』だ」
「損しだか、得(とく)しだかしりませんが、このときには、このことに念を集めてくださいな」
「男が、ことを長びかせるには、ほかのことをかんがえるのが妙法---ということをしらないのか?」
「男と睦んだことがないのに、男の妙法など、しってるわけないでしょ」
「そうであったな。ふっ、ふふふ」
「笑いごとではありません。あたし、まっとうにやってるんです」
「そう。これが、まっとうぞ」


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさjまざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2009.08.06

お勝、潜入(3)

「あたしのお勤めは?」
布団をかけ、すっかり満たされた顔で、横になったまま、お(かつ 31歳)が話しかける。
寝衣は、羽織っていない。
声が上ずっているのは、高まりが、おさまりきっていないのか。
あるいは、側臥のせいか。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)さまのお仕事だから、まさか、間どりとか、金蔵の錠前の蝋型どりはないとおもっていますが---」
「盗みも頼むかもしれないぞ」
「ご冗談を---」
銕三郎 の唇に指をあてた。
獣のもののような生臭い匂いがかすかに鼻にまとわる。
(さすが、30年増だけに、濃いな)

「それとなく、禁裏との商いの成り行き、納品をうけとる御所役人の名とか、納品した品数、付けとどけとか、接待の度合などを探ってほしい」
「奥女中をしていてですか?」
「そこをおどのの才覚で---」
「その、おどのは、こうなったからには、おやめください。お---と呼んで---」
(お(りょう)も、お(しず)も、阿記(あき)も、そう言っていたな---)
「わかった。おだけがたよりだ」

参照】2008年11月25日[屋根船
2008年6月3日 [お静というおんな] (
2008年1月3日[与詩を迎えに] (14

足をいれてきた。
「む?」
「あたし、日本橋通り3丁目御箔町の〔福田屋〕で、化粧(けわい)指南をしてましたでしょう? 座敷小間使いでなく、禁裏ご用達の白粉舗に、化粧指南役で入れば、御所女中や、御所役人の奥方やむすめ衆にじかに会えます」

参照】2009年6月5日~[火盗改メ・中野監物清方] () () (

「名案かもな」

「あたしも、おお姉(ねえ)さんの薫陶で、軍者(ぐんしゃ 軍師)になったのかな」
「そうらしい」
「では、軍者料をおはらいください」
「そういうおねだりの仕方も、おどのゆずりだ」
「あ、やっぱり---」
2人は笑いあい、また、躰をからませた。

若いということは、節制がきかないことでもある。

翌日の午後、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が、さっそくに、堺町四条上ルの〔延吉屋〕半兵衛方を見つけてきた。

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(御所御用達・白粉店〔延吉屋半兵衛〕)

5日後には、おは化粧指南師として、雇われていた。

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2009.08.05

お勝、潜入(2)

「では、お(りょう 享年33歳)になりなさい」
「おお姉さんになるって?」
「死んだつもりで、そこへ寝なさい」

怪訝な面もちのお(かつ 31歳)が仰向けに寝る。
「目をつむる。なにがあっても、目をあけてはならない。ただ、死んだつもりで、じっと、寝ている」

銕三郎にすると、先夜、お(とよ 24歳>と演技しあった死姦を再現するつもりであったが、さすがに、「死姦」とはいわなかった。
「力をぬき、抵抗しないで、自然のままに---な」

「お---」
「はい」
「口をきいてはだめ」
「はい」

「お
呼びかけて、瞼(まぶた)に唇をつけ、そっと動かすと、jまぶたがぴくりとふるえた。
つづいて唇へ。
_200_2そっとなめて、はなれ、また吸う。(北斎『縁結出雲杉』部分 イメージ)
くりかえしているうちに、おが開いた。
舌を、からませ、たしかめあう。
の舌もからんできた。

舌が深くからんだ。
からめたまま、
「お---お
「はい」

上にのり、肘で体重をささえ、秘所を接し、掌が乳房をまさぐる。
子をはらんだことのない乳首はちいさい。
おどろいたことに、乳房は、おんな男のお竜のほうが張っていた。
(くらべては、かわいそうだ)

が小さくうめいて、足をひらく。
銕三郎のものは硬直しきっているが、割れ目にあてたままで、口を吸いつづける。
片方の指でぼんのくぼをゆっくりとなぜる。

の片腕もあがってきて、首にくまきつく。
脇毛に息をふかけ、噛み、舌が這う。

>の、もう一方の手が尻部にまわされた。

が腰を微妙に動かす。
そのたびに、銕三郎が浮かせ、密着をはずす。
が反りかえり、腰をあげる。
さらに浮かす。
尻にあてていた腕が抑えてくる。
銕三郎は、先端だけ接する。

尻部にあった手がすばやく銕三郎をつまみ、秘所へあて、するりと収まった。
腰を引くと、
「いや」
反った。

乳首をくわえ、ころがす。

の両足が鉄三郎の胴をまき、腰の上で足首が組まれた。

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(英泉 『好色 夢多満佳話』 イメージ)

「太い。硬い、でも、やさしい。熱い。長い。奥の骨にあたっています」
「躰が少女のようにやわらかだ」
「初めて---」
「なにが?」
「ほんとの男の人を入れたの---だんだん感じてきます。うれしい」
「おんなに、なるのさ」

「おお姉さん、ずるい」
「どうして?」
「だって、自分だけ、ひとりじめして、おんなになってしまったんだもの」
「おも、いま、なっているんだから、いいではないか」
「もっと、早く、なれば、よかった。あ、中が動く。とめられないの。とまらないのよ」
「どう?」
「信じられないほど、いい---あ、そこ、感じた。ふるえがくるほど、感じる」

「ここは?」
「きゅっと、感じた」

「いちど、拭いて、すべりをおさえるといい」
「まだ、つづくのですね」
「そうだ。まだ、序2段のあたりだ」

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2009.08.04

お勝、潜入

「お(かつ 31歳)の身許請人(みもとうけにん)になっていただく方ですが、仮に、丸太町富小路(とみのこうじ)東入ルの御肴ご用所〔河内屋〕さんであれば、うちの店の上得意に、夷川富小路の〔井筒屋〕のご隠居がおられます。ごく、気軽なお方ですから、お引きうけくださるとおもいます」
瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が、気づいた。

「番頭さん、いいお方を思いだしてくれました。あのご隠居さまなら、二つ返事で請けてくださるはず」
狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 52歳)も乗り気になった。

「どんな物をお求めになっているのですか?」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)の問いかけ応えた源七の説明によると、刀剣の鍔(つば)を集めているのだと。
理由(わけ)を聞いて、銕三郎は感心してしまった。

京都は地震が少ない土地だが、もともとは湿地だったのを、農耕と鍛冶と酒造をもたらした渡来人の秦氏(はたうじ)が埋めたて、一族のおんなが産んだ桓武天皇に献上したところゆえ、地盤は硬くはない。
したがって、地震には強いといえない土地柄である。
鍔なら、家が倒壊しても、つぶれたり、こわれることはない。
のちのち曾孫(ひまご)の代に地震が襲ったとしても、鍔を売れば、家の一軒ぐらいは再建できようと。

「家が建てられるほど、お集めなのですか?」
「買い値ではね。しかし骨董のたぐいは、売るときに買い値の1割にいけばおんの字です。まあ、5分(ぶ)以下とおもっておけば---」
「それでは、仮小屋しか建ちませぬな」
「いえ。骨董は、値が大化けすることもないとはいえませんから---」
源七が大真面目に言い、勇五郎が奇妙な笑い声をたてた。

_100それを機(しお)に、いとまを告げた銕三郎に、おが、
「お(lりょう 享年33歳)お姉(ねえ)さんの形見分けの品がありますから、お(きち 37歳)さんの家まで、ちょっと、お立ち寄りください」(お勝のイメージ)

形見というのは、『孫子』であった。
ずいぶん読みこんだらしく、表紙のすみずみの色が剥げ、角がすりきれている。
の筆で書き込みもしてあった。
たまたまに開いた冒頭の、

将者、智信仁勇厳也(将たる者の器は、信と仁と勇と厳である)。

(てつ)さまは、智と信をおもち。嘘がなく誠が大きい。頼って報われる。勇気はだれにも負けないほど。しかも、己れにきびしい人。初めて出会った将たる人---と脇書きがしてあった。
くすぐったかったが、それ以上に、おへのいとおしさが増した。

参照】2008年11月2日[『甲陽軍鑑』] (

が上目づかいに、
「おお姉さんが、長谷川さまによろこんで身をまかせた理由(わけ)がお分かりになりましたでしょう?」
(やはり、2人は、おれとのことを話しあっていたらしい)
「買いかぶりだがな」
「いいえ。おお姉さまの、人を、とくに男を看(み)る目はたしかです。お姉さまは、嘆息していました--10年遅く生まれていたら、人手になんか、わたしはしなかったと」 
「拙も、10年早く生まれていたら、おどのを放しはしなかった」
「いまのお言葉、おお姉さんが聞いたら、どんなにか喜んだことでしょう。そこまで、お送りします」

付きそって三条大橋をわたった。

Photo
(三条大橋 『都名所図会』 塗り絵師:黒崎朔子 [鬼平クラス])

「お宿で、2つ3つ、確かめておきたいことがあります。ごいっしょしてもかまいませんか?」
「他人行儀なことを、訊くでない」
「はい」

〔津国屋〕の銕三郎の部屋で、雪見障子をあげて中庭をのぞき、
「おお姉さんは、この部屋に泊まるはずだったのですね」
「せんないことだ」

なにか、言いよどんでいたが、
長谷川さま。こんどのお勤めで、男に言いよられたら、どうすればいいのですか?」
「これまでは、どうしていたのだ?」
「おんな男の男拒否で通してきました」
「これからもそう言えばいい」
「そうは参りません。これまでは、おお姉さんが顔をみせに来てくださいましたから、駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛のほかは、みんな納得しました」

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

「おはいないし---」
「旗本のご嫡男のおもい者だと言ってはいけませんか? そのとき、長谷川さまが来てくださいますか?」
「よかろう」

おもいきったふうに、
「では、ほんとうに、抱いてください」
「おいおい、男拒否ではないのか?」
「お姉さんをお抱きになった時のように、やさしく抱いてください。最初の時は、どこで?」
「寺嶋村の、あの寮の風呂場だった」

参照】2008年11月8日[宣雄の同僚・先手組頭] (

「それでは、ここの風呂場で---」
「ここは、寮とはちがう。ほかの客の目もあるから、無理だな」
「では、この部屋で---」


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2009.08.03

お竜(りょう)の葬儀(3)

「じつは、長谷川さま。お(かつ 31歳)の嘆きようが、尋常ではないのです」
葬儀の翌日である。

焼香に訪れ、仏間に招じられた銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 52歳 初代)がこぼした。

「おどのは、どこに?」
「狂乱に近いので、引き込みにいれていた彦根を引きはらわせ、お(きち 37歳)に看させております」

は、 勇五郎が小田原に囲っていた妾だが、本妻・お勢(せい )が病死したので、おが産んだ子・又太郎(またたろう 15歳)と京都へ引きとられ、本妻の子・文吉(ぶんきち 15歳)とともに、店からすぐのしもた屋で暮らしている。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]p124 新装版p132

高級骨董舗の〔風炉(ふろ)屋〕のほうには、若い妾・お(しず 24歳)が、店の者に「小(ちい)ご寮(りょ)はん」と呼ばれて、勇五郎といっしょに起居していた。

店の小僧が、おを連れてきた。
長谷川さまッ」
仏間へ踏みこむなり、銕三郎の膝の上に身をくずして泣きつづけた。

「おどの。泣いていいなら、拙もおことのように泣きたいのだよ。だが、そうもしていられないのだ」
「おお姉(ねえ)さんがいなくなってしまった---あたし、どう生きていけばいいのか---」
「拙が、おどのに頼みたかったことを、おが引き継いでやってくれると、うれしいし、お竜どのも、あの世から、おどのの所作を見守ってくれるとおもうのだが---」
「おお姉さんの代わりを、あたしがするのですね」
涙声ながら、おの正気がもどりはじめたようである。

「〔狐火〕のお頭(おかしら)。おどのを、拙にお預けくださいませぬか?」
「おの気持ちしだいです」
「お頭、あたし、お姉さんの代わりをつとめさせていただきます」

が、おを離れへ連れて消えた。
「お頭。わけはお訊きにならず、お耳になさったこともこの場かぎりで、お忘れくださいますか?」
銕三郎が、勇五郎の眸(め)をしっかり見据えると、
「よろしいですとも。この勇五郎は、ずっと、長谷川さまのお味方です」

を、禁裏御用の老舗の一つに上女中として潜入させたいので、信用のおける身元請人(うけにん)をたててほしいこと。潜入させる老舗を教えてほしいこと、を銕三郎が言うと、
「用向きによって、老舗のえらび方が違ってきますが---」

「しばしば、納品する商売か、ときどき、高額のものを納める店の、どちらかです」
「しばしばのほうだと、さしあたっておもいつくのは、茶うけの菓子、多葉粉(たばこ)、酒と肴、紙類でしょうかな」

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「京菓子は気づかいが細かそうだから、さしあたっての狙いは、紙屋か酒・肴屋かな」

参照】2008年10月18日[お勝というおんな] () () (
2008年10月21日[お雪というおんな] (
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (
2009年1月23日[銕三郎、掛川へ] (
2009年6月6日[火盗改メ・中野監物]清法(きよかた) (


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2009.08.02

お竜(りょう)の葬儀(2)

「明日の夜、目眩(めまい)するほど頭がまわるように、実(じつ)を進ぜよう」
(とよ 24歳)に、そう約束したときには、お(りょう 享年33歳)の通夜が、まさか、今夜になるとは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)はおもっていなかった。

それが、通夜には顔を出さないでくれと、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろうに 52歳 初代)に釘をさされてみると、お(りゅう)があわれな気にとらわれた。
溺死した晩に、まんじりともしないで、その声、その目つき、肌の丸み、高まりのはげしさ---を、あたかもおを抱いてでもいるようにおもいだしながら、ひとりきりで通夜をしたことはしたが、
(今夜が、表向きの通夜というのなら、もうひと晩、独り通夜をしてすごすか)

きめたとき、小女が文をとどけにきていると、女中が廊下から伝えた。
玄関に出てみると、〔千歳(せんざい)〕の小女であった。

結び文には、

  真葛(まくず)ヶ原 なびく秋風 吹くごとに
       阿太(あた)の大野の 萩の花散る

例のように、『万葉』のものらしい和歌が記されていた。

(おと、2人通夜の供養を、おは微笑みながら喜んでくれるかもしれない)
ひとりよがりの勝手なきめつけをして、腰に大小をおとし、〔津国屋〕の番頭に、
「四ッ(午後10時)までに戻らなかったら、表戸は戸締りしてよろしい」

番頭は、馴れたもので、表情もかえず、誰にでもいう、
「お気をつけて、行ってぇきやはりませ。お早いお帰りを---」
矛盾したようなことを投げただけであった。

〔千歳〕は、すでに表戸をしめていた。
銕三郎が入ると、おは桟をおとし、
「あれほど、しっかり、お約束なさったのに、いらっしゃらないような気がしたもので、出すぎた遣いを出しました」

「通夜だったのだが、行かなかった」
「あのお人の?」
「うむ」

「では、2人で、ここで、通夜をしましょ」
は、仲間うちの風聞で、通夜の仏が、〔狐火〕のところの「おんな軍者(くんしゃ 軍師)」のおであることはとっくに耳にし、気がついていた。
それを言うと、自分の素性があからさまになるので、しらないふりを装っている。

「お幾つの方でしたの?」
冷や酒を酌しながら訊く。
「そういえば、33はおんなの厄であったな」
「33---ちょうど、おんなざかり---」
「おんな男であった」
「それなのに、銕三郎さまと?」
「おんなに、なりきってみたかった、のであろう」
「罪な方---いえ、お得な方」
「奇妙に、気が合った」
「私とは、躰が合っただけですか?」
「それだけなら、こうして来てはいない」
「うれしい」

湯をすまし、寝床に浴衣姿で横たわり、
「私、死にました。私をいとしい方とおもい、死姦をなさってみて」
「これは、まこと、通夜」

眼を閉じ、まっすぐに寝ているおの腰紐を抜き、浴衣の前を開き、目頭と唇をなぜ、吸い、乳房をつかみ、
「おお、冷たくなったのだな、よし、いまに、温かくしてやるぞ」

太股の茂みの湿りをたしかめ、両足の親指をもって開き、舌先で舐め---

池波さんの文章を借りる。

化粧の気もないのに、女体からたちのぼる汗のにおいが、茴香(ういきょう)のような芳香をはなった。

死姦のはずが、小半刻(こはんとき 30分)もしないうちに、おさえきれなくなったおは、たちまち銕三郎の上にのっかり、はげしく動きはじめてしまった。

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(湖竜斉 イメージ)

「地獄の鬼も顔負けの力みようだな。咬戯は、なんといっても、生き仏にかぎる---」
は、くっくっと笑いを殺してあえいでいる。

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2009.08.01

お竜(りょう)の葬儀

朝、旅籠〔津国屋〕の主人・長吉(40歳)と顔があったので、粽(ちまき)司〔川端道喜〕の名をだしてみた。
「お求めにならはりますんどすか?」
「いや、どういう店舗(みせ)かと---」
「お昼すぎにはきょうの分は売れてしもうた、いうて、お店の表戸をたててしまわはりますんどす。そら、天子さまもご贔屓のお店どすさかいできることで、ほかのお店やったら、1年ともたしまへん」

「禁裏は、粽の代金をお支払いになっているのかな?」
「いえ。200年のむかしから、毎朝、できたてのあつあつのんを、奉供なさってる、と聞いてます」
「ほう、お代をとっていないのか---」

(そういう商舗の主人が、利が目あてのご用達(ようたし)の商人たちとつながりがあるのであろうか?)
霙(みぞれ)もよいの空であったが、丸太町まで出向くことにした。

〔川端道喜〕は、間口3間(5..4m).ほどの小じんまりとした店がまえであった。
案内を請うと、店主の道喜(10代目 60歳がらみ)が、
「何か、手前にお訊きになりたいことがおますとか---」
店につづく部屋へみちびいた。

細い眸(め)で、じっと銕三郎(てつさぶろう 27歳)を射るように瞶(みつめ)たまま、口をきかない。
しかたなく、江戸の火盗改メ・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)の継嗣であることを打ち明けた
「この夏の初めに、大火の付火人(つけびにん)をおあげなって、お手柄どした」
商人に似合わず、業績を知っていた。

「それで、手前の名をどなたはんがお耳に---?」
祇園社の東の茶店〔千歳(せんざい)〕のお(とよ 24歳)というと、
「おはんどしたか。それやったら、お役に立たへんわけにはまいりまへんなぁ」

には身分を伏せているというと、また、じっと眸の奥を射すえ、
「秘密のご用のようでおますな。禁裏のことやったら、お役に立てしまへん」
やんわりと、断った。
「わかりました。いつか、父とともにお伺いします」
道喜がうなずいた。

店を出るとき、粽を3本ほど、紙にのせて渡した。
銕三郎が、銭袋を取りだすと、その手を抑え、
「御所には、毎朝、6本ずつ奉供してます。これは、手前の志でおます。気持ちよう、受けてやっとくなはれ」
初めて、笑った。
その顔が、なんとも魅せた。

〔津国屋〕へ戻ると、〔瀬戸川(せとがわ)の源七(げんしち 56歳)が待っていた。
今夜、お(りょう)の通夜、明日は野辺送りをするが、同業のお頭衆が集まるので、追悼・香華はお控えくださるようにとの、〔狐火(きつねび)}の勇五郎(ゆうごろう 52歳)の伝言をつたえ、銕三郎の手首をにぎり、情のある声で、
「お辛いでしょうが、お耐えください」

「このあたりで、線香を求めます。せめて、それだけでも手向けてやってください」
うなずいた源七は、
「知恩院さんの門前に置いている店がありましょう」
白川ぞいに連れ立った。

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(知恩院 『都名所図会』)

「お骨(こつ)には?」
「鳥辺野(とりべの)です」
「線香を一束、いっしょに入れてやってくださいますか」
「承知しました。かならず」
「それから、小さな骨壷に分骨していただけますか?」
「できるでしょう」

線香を渡して別れてから、
(そうか。源七どのは、おとのあいだ察していたのか。お(かつ 31歳)がばらしたかな)

ちゅうすけ補】銕三郎は、おの分骨を、翌年初秋、四谷・戒行寺の長谷川家の墓石の霊室に、父・宣雄を安置するとき、こっそりとまぎれこませた。
それから23年後、久栄(ひさえ)が夫・平蔵宣以(のぶため)を骨壷を納める時、小さな骨壷を見咎めたが、そのまま、その横に平蔵の骨壷を並べて安置した。
銕三郎とすれば、おの父は酒毒で正体がなく、母・飛佐(ひさ)は行方しれずで、故郷で供養してやる者がなく、哀れとおもったのである。


参照】2008年5月28日~〔〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () (2) (3) (4)

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