最近、【検索フレーズ・ランキング】で、[よしの冊子]が頻繁にあらわれる。
鬼平ファンの便宜のために、かつて36回ほどに分載した[現代語訳]を、6日間ほどにまとめて、検索の用に資することにした。
長谷川平蔵と同時期の史料なので、鬼平ファンには興味深いともう。
老中首座・松平定信(さだのぶ)が、仕置(政治向き}の結果と世情を知るために求めたせいもあるが、数多くの隠密からリポートがあがってきた。活字本2冊になった『よしの冊子(ぞうし)』(中央公論社)は、1万件近くを収録している。
火盗改メと長谷川平蔵宣以(のぶため)にまつわるものは、うち、200件前後。
もっとも、定信は当初は熱心に読んだらしいが、後半になると、ほとんど目を通していないのでは---と推理できる。というのは、当初に書かれた平蔵像を、その後、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)』(岩波文庫)などでは、まったく、修正していないからである。
当初、反・田沼の印象を強めるために、隠密たちは親・田沼意次(おきつぐ)色の濃い人物たちを、故意にゆがめてリポートしているように見えるが、定信は、その時に刷りこまれたままの目で平蔵を見ているとしか思えない。
その火盗改メと長谷川平蔵に関連するものを現代文に置き換えて。
よしの冊子(天明7年11月4日より)
一. 堀 帯刀も、いまの火方盗賊改メよりも上の役に仰せつけられそうなものだ、との噂をしているよし。長谷川平蔵のようなものをどうして加役(助役)に仰せつけられたのかと、疑っているよし。姦物のよし。
(駿河台あたり 赤○=裏猿楽町の堀家 1400坪前後 近江屋板)
【ちゅうすけ注:】
堀 帯刀秀隆 このとき50歳。1500石…小説に 500石とあるの
は、池波さんの創作。
屋敷は裏猿楽町(千代田区猿楽町 2-5 1400坪余)
天明元 8月20日 先手鉄砲16組組頭
〃 10月13日 火盗改メ(助役)
〃 2年 4月24日 〃 解任
〃 5年11月15日 弓7組へ組替え
〃 〃 火盗改メ(本役)
〃 6年11月17日 弓1組へ組替え
〃 8年 9月28日 持筒組頭
一. 堀 帯刀組の与力の中には、御頭に感服していなくて出勤してこない者もいるらしい。帯刀は大拍子者(その時のははずみでよくも悪くもなる者)ではあるけれど、家来の中に姦物がいて、帯刀の知らないことも行われている模様。
(緑○=先手・弓の1番手組屋敷 牛込山伏町)
よしの冊子(天明8年2月17日より)
一. 先手の火方盗賊改メの堀 帯刀は、いままでに組替えを3度しているよし。
組替えの理由はというと、火盗改メというのは外聞もよく、また町へ出向くときには威勢もいいし、とりわけ最近のように米価が高値傾向にあるので、帯刀へ80両や100両遣っても、わずかのあいだに元がとれるというので、われ先に堀 帯刀へ賄賂を遣ったせいとか。2度目の組替えは80両を届けて帯刀の組になったよし。ところが次の組はほかから手をまわして100両を贈って帯刀組へおさまったとか。
本役で3度の組替えはこれまで前例がない。だいたい、帯刀は金繰りに困っており、組替えをタネに金銀を少しずつ取りつづけているらしい。
で、堀 帯刀の評判は悪く、そろそろ解任すべき時期だとの噂。
【ちゅうすけ注:】火盗改メの組頭の役料は40人扶持
…1日あたり玄米2斗。
1升100文として搗き減りを見込むと1分2朱100文。
(1両=20万円だと1日8万)。
与力の役扶持は20人扶持…1日あたり玄米1斗。3朱と50文。
(換算すると4万。月に120万円=6両弱)
同心の役扶持は3口…1日に玄米1升5合。
月に1斗4升(搗き減りを見て換算:月額7万円)。
組替えに80両を贈ったとして
与力1人あたり5両(100万円)
10人で計50両、同心1両(20万円)ずつ、30人で計30両、
合計80両拠出したとしても、すぐに元はとれる。
(役扶持は松平太郎著『江戸時代制度の研究』。
米価は『生業物価事典』 )
一. 先手・火方改の堀 帯刀組与力:大森宗右衛門は、先年お役を勤めたときもほかからまったく賄賂を取らず、町々でもふるまいを一切受けなかったよし。
(緑○=与力・大森宗右衛門宅 先手2ヶ組与力20騎の宅が集まる御納戸町。○赤=長谷川平蔵の次男が養子に入った一族の大身旗本・長谷川久三郎の屋敷 4000余石)
そのほかの与力はお役を勤めて家計を立て直したが、宗右衛門は逆に借金をしたほどだとか。
この役は下に通り者(博打打ち)を使っていないと成績があがらないよし。
宗右衛門が下谷あたりで通り者を呼び
「その方たちなら悪者のことは熟知していよう、いま、どんなのがいるか」
と尋ねたところ、
「承りましたが、ここではなんですから、まずは茶屋へお立ち寄りください」
料理茶屋へ与力同心をあげ、あれこれ料理を注文するので、宗右衛門が、
「自分はいま腹は空いていないが、注文してしまったのではしょうがない。
この料理の代金はいかほどかな」
「とんでもございません。手前どものおごりございます」
「冗談いうな。こちらで払う」
「ほかのお役人さまはどなたもお受けくださいますよ。
ぜひ、箸をおつけさすって……」
「もってのほかのこと」と宗右衛門は立腹、
「役人の身でその方たちから接待を受けるなどは、
とんでもないことだ。
その方がここでごまかしをするなら、まず、その方からお縄を打たねばならぬ」
その通り者を縛り、料理の代金を自分で支払ったとか。
もっともこれは田沼時代のお役中のこと。
さて、堀 帯刀組が金銀を取って組替えすることが知れわたったので、いろんな組が手をまわしたらしい。
こんど帯刀組になろうとしたのは、右の大森宗右衛門が所属する組で、与力たちが申しあわせたのは、「組替えのためには帯刀へ賄賂を遣わなければならないが、宗右衛門はどうせ承知すまいから、彼に声をかけないことにしよう」
と、与力同心で金を拠出して100両余をつくった。
で、めでたく組替えがなり、宗右衛門へ割当金を請求したところ、宗右衛門は立腹して一文も出さなかったため、彼の分をみんなで分担してすませたよし。
火方盗賊改メのお役中、与力には10人扶持ずつが下されるので、宗右衛門が組下の同心へきつく申しわたしたのは、
「仕事で出費が必要なら、自分への10人扶持を差し出すから、町々で賄賂を受けとらないうに」
その代わり、悪人を容赦なく縛り、総体に厳しいとのこと。
【ちゅうすけ注:】
『冊子』のいうとおり、火方盗賊改メのお役中の与力の役扶持が
10人扶持なら、月額は60万円=3両弱。
ただし、精米が1升100文として試算。1升150文が時価なら
3割増。1升5合100文なら3割減。
蔵宿の手数料は計算外。
一. 堀 帯刀は、寒中もゼゲン縞の綿入れに小倉の羽織を着てブルブルふるえながら炬燵に入っているほどの極貧なのに、用人は女を囲っているほど身代持ち。
帯刀は単に気のいいばかりで私欲もないのに評判が悪いのは気の毒だ、と同情されている。
(天明8年(1788)2月17日より)
一、加役の長谷川平蔵は勤務ぶりがよろしいので褒美下されたけれど、本役の堀帯刀へなんの沙汰もなにかったのは、その勤務ぶりがよくなかったからだ、ともいえそうなよしのさた。
一. 長谷川平蔵は姦物なりとの噂があるよし。
しかし時節柄をよくのみこんで、諸事に出費かかからないように計らっているので、町方はことのほか悦んでいるらしい。
去年も雪の降る夜、品川辺で賊一人を召し捕ったところ、自身番所へ預ければ、町内の出費も増えようから、その晩のうちに自分の屋敷へ連れてくるように申しつけたそうな。
そこで長谷川の屋敷へ連れて行ったところ、夜更けだったけれども、さっそくに門を開けて、白洲みたいなところへ通されると、向こうの障子の内にアンドンが見え、ただちに障子の内から同心がまかり出てきて囚人を受けとり、送ってきた者へ休息していくようにと申したそうな。
3畳ほどの屋根つきの休息所で茶や煙草をふるまわれて帰ったよし。
そんなわけで町方は悦んでいるらしい。
(天明8年(1788)4月10日より)
一、長谷川平蔵は加役を解かれたよし。先達て召し捕りものの実態を本弾(本多弾正少弼忠籌(ただかず)…側用人、若年寄、老中(格))へ申しあげたので、首尾よく本役に任命されるかと期待していたらしいが、加役は予定どおり解任だったと。
【ちゅうすけ注】このとき、平蔵が任じたのは、火事の多い冬場の火盗改メ・助役(すけやく)で、本役は堀秀隆。隠密はそういうこともわきまえないほど知識不足。要するに質が低い。
よしの冊子(天明8年--1788--8月30日より)
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでしげ 1500石)がいうには、奈良奉行の任期が明けるので、繰上げで自分が任命されると世間ではいっているが、おれには高齢の母親がいるので、遠国奉行にでも発令されたら母が喜ぶまい。この母のためにもどうぞ遠国奉行はご勘弁願いたいものじゃと申しているよし。
参考:2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
2006年4月17日[堀 帯刀の任期]
2006年4月19日[堀 帯刀の家系と職歴]
2006年4月16日[堀 帯刀秀隆]
一. ただいままで、京都町奉行の用人は年に100両(約1,600万円)ほど、取次は年に40両(640万円)ぐらい賄賂がきたものらしい。ところが去年、池田筑後守(長恵 ながしげ 700石 平蔵宣以の1歳年長)のところへ住み込んでいる取次が江戸へ寄越した手紙には、
「去年からたったの3両(60万円)にしかならぬ。
悦んで住んでいる甲斐がない」とあったよし。
一. 堀 帯刀のこれまでの勤め方はいいとはいえず、組の取締りがよくなかったことを知っている者は、
「あれでもよい幸せだ。四ツ(午前10時)のお召しでよかろう」
と噂しているよし。
中川勘三郎(忠英 ただてる 1000石。目付)の様子を知っている者はお目付へ仰せつけられてもよろしい人物といっているよし。事情を知らない者は、
「とんだことだ、小普請組頭からお目付とは」
といっているよし。
一. (火盗改メの)本役は、山本伊予守(茂孫 もちざね 38歳 1000石 小姓頭取から翌9月に堀 帯刀の後任で先手弓の一番手組頭)か松平左金吾定寅(さだとら 久松松平の一族 2000石)か、松平庄右衛門(親遂 ちかつぐ 61歳 930石。天明6年から翌7年まで弓組頭)の3人のうちだろう、と申しているよし。
一. 加役(火盗改メの助役)の長谷川平蔵は出精して勤めているよし。高慢することが好きで、なににつけてもおれがおれがというらしい。こんども、この春の加役でのおれの勤めぶりがよかったから本役を仰せつけられたのだ、と自慢しているよし。
一. 堀 帯刀は先手の同役の中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪い。にもかかわらず御役をそのままつづけていられるのは、まず、ありがたいことと思わねば。解任されても仕方がないのに、との評判が立っているよし。
一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人びとがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよし。
一. 左金吾の屋敷は広くて 8,000坪ほどもあるよし。植木好き庭好きのよし。普請も立派で1,2万石の大名もかなわぬほどと。
【ちゅうすけ注:】
8,000坪はオーヴァーで、史実では2,500余坪ほどだったらしい。
現在の港区元麻布3丁目。中国大使館の敷地と麻布消防署が
その跡地。
(松平左金吾屋敷 麻布 約8000坪 現在は中国大使館など)
一. 松平左金吾は、ご老中・定信様とご縁がつながっている(同じ久松松平)方だが、とうからあのくらいには成られて当然の人だ、先手では不足なくらいだと申して、ご老中とのご縁で任命されたとは、だれもいっていないようだ。当然の人事だと申しているよし。
【ちゅうすけ注:】
松平左金吾定寅は、天明8年9月28日に、先手鉄砲組
頭を拝命。
左金吾定寅はいわゆる久松松平の一族。
松平定信はご三卿の一つ---田安家から久松松平一門で
ある白河藩へ養子に出された。
家禄2000石の左金吾が職格1500石の先手組頭へ任命さ
れたのは、火盗改メの助役となって長谷川平蔵を監視する
ためとしか解釈のしようがない。
それほど、定信は、平蔵を嫌っていた気配が濃厚だ。長谷
川平蔵が同年10月2日に火盗改メの本役に発令されると、
左金吾も追っかけるように10月6日に助役に任じられた。
一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。
左金吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。
議論で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口もいいかえせることではない。
まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれでいい納めだろう。なんとしてもかなうはずはない。
長谷川平蔵が左金吾どのへ伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。
(出所:松平左金吾の近辺か)
一. 与力同心が急に雨に降られて、傘下駄の無心をしても貸さないようにと町々へ触れが出された。ただし、代価を出すなら売ってやるようにとも。同心どもへの手当は当方でまかなっているから、貸すようなことを決してしないようにと。
よしの冊子(天明8年10月16日より)
一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにいい争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。(出所:松平左金吾の近辺か)
参考:2006年5月12日[松平左金吾定寅の家系]
2006年5月14日[松左金吾のその後]
よしの冊子(日付なし)
一. (松平(久松))左金吾(定寅 さだとら 2000石)の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこなければならない。
これはあまりに外聞が悪い。
で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。
そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。手当てをお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあげになったと評判上々のよし。
(左金吾組、筒の8番手の組屋敷。麻布龕前坊谷)
【ちゅうすけ注:】
松平左金吾屋敷…麻布桜田下町(現:港区元麻布3丁目)
先手鉄砲・8番手
組屋敷……………麻布・龕前坊谷(がぜんぼうただに)
(現:港区麻布台1丁目)
左金吾屋敷まで、徒歩20分。
松平左金吾の墓は、品川の東海寺に現存する。
一. 上州の百姓が1人、博奕場で殺されたので、堀 帯刀組の与力同心が出向いて吟味をしたとき、上州の岡っ引きの栄次がいうには、近郊の金持ちの弥右衛門が加害者だといい、金子20両を取って弥右衛門をゆるし、さらに身代のいい百姓5、6人も加害者だといって金子を取り込んだよし。栄次はその後、召し捕られて江戸表へ送られ、入牢したよし。
栄次の江戸宿の藤田屋がある日、掛りの羽田藤右衛門へ金千疋に鮮鯛一折を持参し、藤右衛門の留守に置いて帰ったよし。
そのあくる日、羽田が藤田屋を根岸(鎮衛 やすもり 勘定奉行公事方)の宅へ呼びだし、
「その方が岡っ引き栄次の金子と鮮鯛を私宅へ持参したのはもってのほかのことだ。入牢申しつける」
と、きめつけたよし。藤田屋がいうに、
「それは人違いでございます。私は昨日はお宅へ参上してはおりません」
羽田藤右衛門が叱った。
「その方に間違いないはず」
そのとき呼びにきた者がいて藤右衛門は中座したが、ふたたび着座し、
「来なかったというなら仕方がない。それではその方へ頼みがある。栄次からの賄賂をことづかった者へ、その方は栄次の宿主なのだから、この目録と肴を返してくれるように。さて、このたびは見逃すが、以後、こんなことがあったらその方に入牢を申しつけるから、このこと江戸宿一同へよくよく伝えるように」
と、きびしくいって帰した。
栄次の手から根岸の用人2人にも300疋と1樽が贈られていたよし。
このことが根岸に知れたのできびしく叱られ、早々に目録を返し、樽はすでにいささか手をつけていたので内田屋で酒を買いたして返した。用人どもがいうに、自分たちが外出した留守に妻どもが受けとったことゆえ、今後は妻どもへもきつく申しつけておきます、と約束したよし。
栄次に金子をゆすられた百姓どもも根岸の宅へ呼びつけられ、きつく叱られてから帰村したもよう。栄次は死罪ときまったよし。
一. 松平左金吾が加役(火盗改メ・助役)中は役料を40人扶持ずつ下されているが、日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれているよし。
五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣いまでされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。
一. 本役の与力同心が田舎で出張った節、盗賊ていの者を召し捕り、金持ちの家の多い村方へ行き、盗賊を預ける。預かるのはたまらないと、金子を差しだして、
「ほかの村へどうぞ」
と頼む。昼どきでも身代のよい百姓家では庭で盗賊を拷問にかけ、きびしく責める。それを迷惑がって早く立ち去ってもらうようにと金子を差しだすそうな。
偽役人もいるとのこと。
一. 田舎は博奕がきびしく止まったようだが、江戸はまだ止んでいない模様。
一. 下総国香取郡で、盗賊を召し捕ったはいいが盗賊の妻の行き場がなくなったので、そっちで引きうけて善処しろといわれた村役人は難儀のてい。で、その方たちはこれまで村にいた盗賊を見逃していたのだから、その点を咎められるべきところだが、このたびは差し許す。
゜妻のほうは吟味しても盗みには関係がなさそうなので咎めなしだから、その方たちへ預けるから百姓へでも縁づけてやれと申されたよし。
反対できなくなった百姓どもは承知。その捌きを人びとはさすが根岸どのとほめているよし。
一. 左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役(火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だったよし。
【ちゅうすけ注:】
子どもっぽい見せたがり屋。この仁には、どうもそういう性癖があ
る。ぼくが、寛政のドン・キホーテとあだ名しているゆえん。
一. 加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれまでは普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕らえることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは流儀が異なっている。
長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂されている。
【ちゅうすけ注:】
松平定信と親戚筋の左金吾の、このあたりの持ち上げようは、
隠密の「よいしょ」である。
間もなく、定信方の隠密の間でも、左金吾のメッキがはげる。
そこがおかしい。
一. 松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向け、
「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行してくるように」
との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へこれほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよし。
先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかっていたよし。
いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたので、町内は大悦びのよし。
一. これまで加役に就任した当座は、張り切って捕物をしたものだが、ことしの加役はめったに捕物をしないので、かえって気味が悪いと悪党どもも用心しているよし。
一. 松平左金吾が御先手を仰せつけられたとき、師匠番は松平庄右衛門(親遂 ちかつぐ。天明6年から翌7年弓組頭。930石)のよし。
庄右衛門が左金吾へ、
「早々のお礼廻りとして、御先手筆頭ならびに師匠番へはぜひお廻りになるように」
と教えたところ、
「いや、拙者はそうはしない。あなたはいまは引退なさっている。引退なさっている方のところはあとまわしでよい、現職の方々が優先だ、引退のお方はいちばん後にまわればよい」
といってのけたので、庄右衛門は、
「それはそれは……」
と絶句して引きさがったよし。
【ちゅうすけ注:】
庄右衛門は能見(のみ)松平の支流。祖は世良田二郎三郎
信光の八男。
この条で、退役した役職者が、新任者の師匠番という影の教導
者となるシステムだったことがわかる。
一. 左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいうには、
「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」
と。
「それは公儀よりのきまりでござるか」
と聞き返す左金吾。
「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」
「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書になっているのであれば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしいではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾ならば怪我がくない」
これには平蔵も、
「お勝手に」
というしかなかったよし。
一. 左金吾は先手組の同役の30人ほどの組頭の前でいうことに、
「拙者、このたび加役を仰せつかった。せんだっての加役の勤めぶりはよろしくなく、いろいろと了見違いもあったから、その方が改めるようにといいつかった」
【ちゅうすけ注:】
左金吾の前の火盗改メの助役(加役)は、長谷川平蔵だった。
だからこれは本役の平蔵を公然と誹謗したことになる。
一. これまで、放火犯または盗賊を吟味するために逮捕しているのは、はなはだよろしくない。火附盗賊をしない前に逮捕してこそ加役の第一の心得といえる。将軍のお膝元に火附盗賊がいるなどということははなはだ悪いことだから、そのような者をいないように、その前から手をうっておくのが加役のご奉公というもの。まず、それについては江戸中の無宿がはなはだ悪者である、これを残らず召し捕り首を切ってしまえ、とまではいわないが、せめて(水替人夫として)佐渡送りにすべきだ。田沼以来、とりわけ無宿人がのさばり、丹後縞などを着ている者までいるというではないか。
【ちゅうすけ注:】
「無宿人を将軍の江戸から追っ払え」というのは、近隣藩の迷惑
を考えない暴論。
また、当時の佐渡金山の水替人夫の死亡率は極端に高くて、
送られて半年もしないうちにたいてい病衰弱死したという。
丹後縞…丹後国与謝地方から産した縞の着物。多くは紬(つむ
ぎ)の高級品。
一. 左金吾は麻の上下の小紋、衣類の小紋など、みなおも高(沢潟 おもだかの葉を図案化したもの)の小紋のよし。目立つほどの大きな小紋のよし。これは拙者の替紋だといっているよし。
【ちゅうすけ注:】
子どもっぽい目立ちたがり屋の左金吾の性格がよくあらわれて
いる(情報の出所は、ひとりよがりの左金吾の放言に反発を感じ
た、先手組の同僚の組頭あたりか)。
一. 左金吾は、自分の中に規矩(基準)をもっている人だから、加役(火盗改メ)が性に合っているようだ。加役を勤めるには申し分のない方だとくり返しくり返し褒める人もいるようだ。
【ちゅうすけ注:】
左金吾のひとりよがりな放談をもちあげるふりの先手組頭もい
る。
一. いつのころか、当時、御徒頭だった遠山織部の下女が左金吾方へ使いに来て、その帰りにキツネがつき、いろんなことを口走りはじめた。
このことを聞いた左金吾はもってのほか立腹、
「うちへの使いの帰りにキツネがついたとあってはそのままにはできない」
と、家来を呼びだし、
「わが屋敷の鎮守のキツネがついたら、自分が一番鎗で稲荷も御幣も神鏡も宮も鳥居も突き砕いてやる。途中の稲荷のキツネがついたのなら、その下女に向かい、落ちるか落ちぬか問うて、落ちぬなら下女を鎗玉にあげてくれるから、その方たちは左右からその下女を突き殺せ。生き長らえたところでキツネつきでは役に立つまい。さあ、遠山伊織の屋敷へ参ろうぞ」
と、手鎗をさげ、家来を引きつれ、真っ黒になって行ったので、伊織方ではその下女が、
「左金吾様がおいでになられ、奥へお通りではどうにもなりませぬ。落ちますから、左金吾様、どうぞ奥へいらっしゃらないで」
とおめき叫んだので、伊織も左金吾を奥へ通そうとしなかった。
が、ことの次第を聞いた左金吾は、どうしても下女と対面するといって奥へ通って下女を責めたところ、
「落ちますから赤坂の榎坂(現:港区赤坂1-9~10 米国大使館脇の坂)までお送りください」
と懇請するので、駕籠に乗せ左金吾が脇をかためて行き、榎坂の上の大名屋敷にさしかかったところでキツネが一匹、その屋敷内へ走りこんだよし。
その後はキツネが落ちたので、左金吾殿はキツネまで落とされるたいしたお方だと評判のよし。
一. 松平左金吾どのは、去年(天明7年 1787年)の米騒動のときにも、門前の町家へ米などの食料を配られたよし。
そのとき、近所の屋敷にも打ちこわしの暴徒が来るとの噂が流れたので、家来へ命じ、毎夜々々、大小を抜きはなち、鎗の鞘をはずして門内へ控えさせ、もし、当屋敷へ入りこんだら、切り殺すか打ち殺せ、鉄砲以外なら何を武器にしてもいいから一人でも入ったら命じてあるとおりに処置するようにといってある、と殿中で話していたよし。
【ちゅうすけ注:】
米の値段が倍近くにあがったのは、米問屋が買い占め、売り惜し
みをしているからだと、天明7年5月に、暴徒化した群衆が江戸
府内の米屋や質屋などの商店を襲った。
町奉行所は鎮圧できなかったので、長谷川組をはじめとする先手
組10組に出動命令が下った。
34組の中で選抜された10組は、いずれも組頭の年齢が65歳以
下の組だった。
先手組頭は高齢化がそれほどすすんでいた。
リストのトップに長谷川組の名があがっているのは、弓組・鉄砲
(つつ)組では弓組のほうが格が上、また、2組の弓組組頭では
長谷川平蔵が先任者だったため(日本的な序列のつけ方)。
データを読み違えて、発令された10組の総指揮を長谷川平蔵
がとったように書いている人がいるのは、史料の読みが浅い。
またこのときの動員人数を、1組の与力は10人、同心は30人だ
から、かける10組で、与力の総数100人、同心300人と書いて
いる人もいるが、捕物担当の与力・同心は組の中でも半分以
下……ということを知らないための算術。
【ちゅうすけ注:】
お目見 明和2年(1765) 24歳
継嗣の兄の死によリ、織部定寅が相続権が生じた。
家督 明和8年(1771) 30歳
火事場見回り 安永2年(773) 32歳
1年半で免。よほど勤務が不良だったか。
先手組頭・火盗改メ助役
天明8年(1788) 47歳
15年ぶりの役職。
よしの冊子(天明8年(1788)11月6日より)
一. (松平(久松))左金吾(定寅 さだとら)が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人もいない。武術者もこれまたいない。
歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰卿のように詠むのがよろしい。そのほかの歌は歌ではない。
拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のように詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものではない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に立たない、といい放ったよし。
かつまた、絵描も天下に一人もいない。
いま栄川(泉)などが上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっとつけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵ではない。
絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい放ったよし。
その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言しなかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。
【ちゅうすけ注:】
山本伊予守(茂孫 もちざね。38歳。1,000石。
堀 帯刀の後任の先手弓の1番手の組頭。長谷川平蔵は弓の
2番手の組頭。
寛政7年(1795)5月、長谷川平蔵が死ぬと、松平左金吾は弓
の2番手の組頭へ組替えしてきて、組の平蔵色の一掃には
げんだほど、平蔵流を嫌悪していた。
一. (左金吾は)すべて何芸でも、ほんとうにできる者は天下になしとつねづね申されているよし。
一. 左金吾は、明け七ツ(午前4時)から六ツ(午前6時)までのあいだを、おもに廻っておられるよし。
一. 左金吾は町方にたいへん悦ばれ、町奉行よりは評判がよろしいので、このあとは町奉行になられるであろうとの声が出ているよし。 (出所:左金吾を「よいしょ」する先手組頭あたりか)
一. 長谷川平蔵も負けずに懸命に勤めている様子。ただ心中が苦しくてなるまい。おれがおれがも出まい。おれが負けぬようにと、勤められるであらうと噂されている。 (出所:上記に同じ)
一. 左金吾のさしている大小は、縁頭は手向茶碗に樒(しきみ)の花、目貫に位牌、鍔はしゃれこうべ、栗形(鞘の下げ緒を通すための半円形のもの)が石塔、小柄は名号(仏の名。ふつうは阿弥陀仏)なりとのこと。
【ちゅうすけ注:】
なんと悪趣味!!
一. 長谷川(平蔵)は、山師、利口者、謀計者のよし。
この春の加役(火盗改メ・助役)中も、すわ、浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺にも自分の定紋入りの高張りを2張、さらに馬上提灯を4,5張も持たせた人を差し出す。
浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張っているが、3か所や4か所に長谷川の提灯が数多く掲げられているから、ここにも平蔵が来ている、あすこにも平蔵が出張っていたというように思って、町人どもはうまくだまされているらしい。
もっともその提灯が高張りして掲げられているところには与力か同心が出張っているのだから、とうぜん御頭もいるように見える。
だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組頭が提灯を30張こしらえるところを長谷川は50も60もこしらえているらしい。
はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危ないと陰でいう者もいないでもない。
一. 先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき、長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちのきになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしましょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速右の菓子を差しだしたよし。自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくって田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとのこと。
他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのごとく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。
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【ちゅうすけ注:】
鈴木越後は、当時、江戸一番との評判の菓子舗。
新しい役に就任したら、同役たちにこの店の菓子を振る舞わない
と意地悪をされた。
(『江戸買物独案内』文政7年 1824刊より)
一. 長谷川(平蔵)も、町々へ、自分の配下の家来が飲食とか無心をしても決して応じることのないよう。断ってもさらに強要された場合は長谷川宅まで召し連れてくるように、との触れを廻したよし。
【ちゅうすけ注:】
『鬼平犯科帳』では清水門外が役宅だが、史実は、火盗改メ長
官は自宅で執務するしきたり。
与力同心の詰め所や白洲・留置場も自家の敷地内に設けた。
『鬼平犯科帳』ては、長谷川邸を目白台に置いた池波さんの
意図は?
目白台は先手弓の2番手(長谷川組)組屋敷で、史実の長谷川
邸は、平蔵が19歳のときから死ぬまで本所三ッ目……
都営新宿線〔菊川〕駅の真上の1,238坪。
(近江屋板・南本所竪川辺 赤○=遠山左衛門尉下屋敷。じつは平蔵の孫の代に遠山家に売却。
右手の緑○=入江町の鐘楼前の長谷川邸が小説で設定された、平蔵とは無縁の長谷川家。
天保以後の切絵図はすべて買った遠山左衛門尉になっている。例の「遠山の金さん」である。
(都営地下鉄・新宿線菊川駅上の長谷川家居宅跡銘板
長谷川平蔵住居跡
所在 墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。長谷川家は三方ケ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組(ごしょいんばんくみ)の家として続いてきました。天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)につきました。火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました
平成九年三月 墨田区教育委員会
銘板のある菊川駅A3出口
池波さんは「本所三ッ目」をたよりに、切絵図を探して、入江町に見つけたが、偶然同じ400石でも京都出自の長谷川家で、平蔵とは無縁。
一. 本役・加役とも、夜中に召し捕らえた者は自身番へ預けておき、明朝役宅へ連行してくるように申しつけるのが従来からのしきたりなので、大屋や五人組が寝ずの番をしており、囚人が夜中に自身番所で飲食をねだることもあり、それで町内の出費も少なくない。
さて、このたび左金吾が沙汰したのは、夜中に召し捕った者は何時でも役宅へ連行してきてよろしいとのことなので、町々は大悦びのよし。
一. 先日、堀 帯刀が召し出されたので、諸大夫の地位(従五位下)への申し渡しかと思って登城したところ、御(鎗)持だったので大落胆。
一. 堀 帯刀は、栄転先が御持だと、席順はすこし上がるが、役料は(御先手組頭と)同じなので、お役御免で無役でいるよりもかえって物入りで迷惑だといっている。
数年間(火盗改メを)勤めて極貧になったのに、役料が同じポストへ仰せつけられるとはむごすぎる、お役しくじりと同様の処置になったのはどういうわけかと愚痴っているよし。
【ちゅうすけ注:】
堀 帯刀が先手組頭から栄転したのは〔持筒頭(もちつつがし
ら〕。役料は先手組頭と同じ1500石だから収入増にはならない
が、〔持弓頭〕とともに4組ずつしかないので大出世。
先手組の組下は与力10人・同心30人がふつうだが、
持筒組は与力10人・同心55人だから、部下の多い分持ち出し
も増えると嘆いているのだ。
もっとも、堀 帯刀の家禄は1500石で、先手組頭の時にも、役高
と家禄の差をうめる足高(たしだか)はなく、持高(もちだか)勤めであった。
*足高がつかないことを、持高勤めという。
長谷川平蔵の家禄は 400石だから、先手組頭に抜擢されて
1100石の足高が支給された。
松平左金吾の家禄は2000石。したがって先手組頭に任命され
るほうが異常。平蔵の監視役を買ってでた説の根拠である。
一. (先手弓第1組の与力で、組頭が堀帯刀から)、いまは山本伊予守に変っている大森惣右衛門は、人物もいたって堅いよし。
先達て堀 帯刀組に属していたときも、惣右衛門はいささかも賄賂を取らず、たまたま音物が贈られてきてもすぐに送り返していたよし。
帯刀の勤務ぶりの評判がよくなかったことはよく承知していて、帯刀の身分のことを案じていたので、持筒頭を拝命したのは幸せなことといっているよし。
老中首座・松平定信(さだのぶ)が、仕置(政治向き}の結果と世情を知るために求めたせいもあるが、数多くの隠密からリポートがあがってきた。活字本2冊になった『よしの冊子(ぞうし)』(中央公論社)は、1万件近くを収録している。
火盗改メと長谷川平蔵宣以(のぶため)にまつわるものは、うち、200件前後。
もっとも、定信は当初は熱心に読んだらしいが、後半になると、ほとんど目を通していないのでは---と推理できる。というのは、当初に書かれた平蔵像を、その後、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)』(岩波文庫)などでは、まったく、修正していないからである。
当初、反・田沼の印象を強めるために、隠密たちは親・田沼意次(おきつぐ)色の濃い人物たちを、故意にゆがめてリポートしているように見えるが、定信は、その時に刷りこまれたままの目で平蔵を見ているとしか思えない。
よしの冊子(天明8年11月20日より)
一. 江戸中に菰かぶり(無宿人)が 350ほどいる。これを残らず召し捕れば、放火沙汰やそのほかの騒ぎも起きなくなるだろうと、その議論を本役加役であれこれしているよし。
しかしこれはウジ同様のようなもので、一旦はいなくなっても、また湧いて出てくるだろうといわれているよし。
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵宣以の火盗改メ・本役の前任者)はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だけでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧のよし。
先手組頭時代の用人は悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。おしいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国(おんごく)奉行になれたものを、といわれているよし。
【ちゅうすけ注:】
遠国奉行も役高は1500石だから、堀帯刀の場合は足高は出な
いが、役得が入るとみているのだろう。
『鬼平犯科帳』の最初のころの堀 帯刀は有能と書かれていた
が、途中から無能あつかいに変わったのはこの『よしの册子』の
せい、とはじつはいえない。『よしの册子』が収録された『随
筆百花苑第8巻』 (中央公論社)の刊行は昭和55年(1980)
11月で、 『鬼平犯科帳』でいうと文庫巻21に収められている
「瓶割り小僧」が『オール讀物』9月号に発表されたあとであ
る。
一. 堀 帯刀のいま用人がある人に話したところでは、帯刀は目付(安永 5年11月 1日~天明 1年 8月20日 1776~81 先手組頭の前の 6年間)時代に物要りが多くて家計が窮屈になった。
先手組頭を拝命して加役を数年勤めたが、これまた物要りの多いお役目で、そのころはほんとうに逼迫し難渋していました。
思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても二、三年はこの役をつづけたいものだと申しております。
せっかく任命されたのだから、どんなに貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤めると私どもへも話しております。
まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かったために、周囲での帯刀の評判をそこなっていました。
しかし、帯刀はそんな人物ではございません。
かつての用人をお払い箱にしたが、永々のお役中のときのこととか、こんどのお役についてのこととか、外々からいわれてくることがあったら、かつての用人へも問い合わせて善処するつもりでおります。
もっとも、かの用人を他へ住まわせると、一々呼んで事情を聞くことにもなるので、来春まではこれまでどおりに屋敷内にとどめておき、その後で暇を出します。
もちろん、引っ込ませておりますから、表へ出て応対することはありません、
といったよし。
(『寛政重修諸家譜』より、堀 帯刀の個人譜)
(堀 帯刀夫妻の墓(文京区白山2-10 喜運寺) 5回娶っているので、葬られているのは5人目の室か。
一. 両番(書院番、小姓組)のうちに、ぼうふりと仇名されて、役立たずの者をこのぼうふりにしているよし。
これは棒をかついで江戸中を廻ってこい、といわれるからだそうな。
さて、その棒ふりの両番が、去年の冬、あちこちを廻っていたいたとき、怪しい者がいたので召し捕って自身番へ預けて吟味しているところへ、長谷川平蔵組の与力同心が廻ってきて、両番を偽役と見て、あれこれいい合いになったので、両番は大立腹し、殿中で長谷川平蔵にことの次第を話したところ、平蔵も立腹したよし。どう決着がつくことやら、なかなかややこしそうな雲行き。
一. この節、左金吾組の与力が田舎へ廻ったところ、うまく泥棒を召し捕ったので、そのまま宿送りに江戸へ送ったよし。これまでのように田舎の富家が賄賂を出すこともなくて、田舎では大悦のよし。
一. 江戸でも泥棒を召し捕ったら、早々に町奉行所へ連絡すれば、奉行所から受け取り人がやってくるようになっている。大いに簡易で諸掛りも少なくてすみ、みんな悦んでいる模様。
これは去年から右のとおりに上から仰せだされたところ、(町奉行の)柳生などが不才略なので下のほうまで徹底せず、先日(新番組頭の)松下権兵衛方へ入った盗人を召し捕り差しだしたのに、うまく機能しなかったよし。
この節は行きとどいていてよろしいとの噂。
【ちゅうすけ注:】
柳生主膳正久通 (ひさみち 600石)の北町奉行着任は天明
7年(1787) 9月10日。職を得たのは、同年5月の府内の騒動の
不始末で解任になった曲渕甲斐紙景漸(かげつく)まの後任・
石河(いしこ)土佐守政武(まさたけ 64歳 廩米500俵)が3ヶ月
後に没したため。同 8年 9月10日に勘定奉行上席へ栄転(1787
~88 44歳~45歳)。
大和の柳生の門下として柳生姓を名乗ることを許された家柄で、
久通は、将軍・家治の嫡男の家基の剣術相手をつとめたことも
ある。
家基は安永 8年(1779)に18歳で急死した。
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