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2009年9月の記事

2009.09.30

姫始め(2)

「木を隠すには、森に置く」
(りょう 享年33歳)が、生前に言った。

「人を潜めるには、人ごみにまぎれさせる」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)がつぶやいた。

すれちがった男が、怪訝な視線をくれたが、銕三郎は意にかいさない。
賀茂(かも 33すぎ)母子がひそんでいるのは、京のまん真ん中かもしれない。
あるいは、伏見か。

昨年の12月のはじめ、東町奉行所の町廻り同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)とともに、荒神河原に近い太物扱い〔荒神屋〕を改めて逃げられたとき、舟で賀茂川をさかのぼって逃げたと、銕三郎は推察した。

参照】2009年9月17日~[同心・加賀美千蔵]() (

加賀美同心たちの目をくらますために、川上へ避難したことはまちがいない。
しばらく刻(とき)をかせいで、川下の南へ漕ぎついて隠れたろう。
そのときには、丑三(うしぞう 40がらみ)とその女房らしいおんなは降り、舟に乗っていたのは、お賀茂とややであったか。

銕三郎は、舌打ちをして四条大橋を東へわたった。

祇園社は、初詣での人でごったがえしていた。
拝殿で賽銭をなげ入れ、家族の安寧を祈念し、とりわけ、父・宣雄(のぶお 45歳)の健康を長く願ったのは虫の報せであったかも。

雑踏をよけて北門から東へぬけると、〔千歳(ちとせ)〕が店をあけていた。
晴れ着の参詣帰りの客で満席らしい。

銕三郎の姿を認めたお(とよ 明けて25歳)がすばやく寄ってき、
「七ッ(午後4時)には店をi閉めておきます」
耳元でささやいて、客席へ去った。
(なぜ、かせぎ刻に店を閉めるのだろう。まさか、おれのためとは思えないが---

祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の家を訪ねると、2代目・角兵衛(かくぺえ 明けて42歳)があわてて出迎え、
「こっちからお年賀にうかがわななりまへんのに、商(あきな)いびらきにとりまぎれ、かんにんしておくれやす」
恐縮しながら、奥へ通した。

奥座敷では、長火鉢の向こうの円造(えんぞう 60すぎ)が、肉づきのいい頬をゆるめて迎えた。
が、えらい、知恵習いをさせてもろうて、ありがとさんです。お屠蘇(とそ)を召しあがりはりますか?」

見ると、円造が手にしているのは茶であった。
「元締さんは?」
「暮れ六ッまでは、盃を手にせえへんことにきめとりますのや。家にこうしていることが多うおますよって、呑みぐせがついたら、どもなりまへんよって」
「では、拙も、見習って---」
「そうどすか。では、おぶうを---」

円造は、化粧(けわい)読みうりの思いつきを誉めにほめた。
「ものをやりとりせんと、口先だけでおたからがはいるいう術(て)があるのんは、この齢まで気ィがつきまへんどした。には、ええ学問どした」


角兵衛は、父親の前でかしこまっている。
「じつは、正月早々、そのことでご相談に伺いました」
「なんぞ、不調法でも?」
角兵衛が心配げな眼差しを向けた。

「そうではありませぬ」
銕三郎は、いそいで笑顔をつくり、
「先日、板元の名代(みょうだい)のことをお話しになりました」


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (

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2009.09.29

姫始め

賀茂川土手を川下に向かってあるきながら、銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)に、お(かつ 明けて32歳)が言った、
「姫始めですよ。それとも、奥方となさるお約束ですか?」
にこだわっていた。
(そうだな。久栄(ひさえ 21歳)の姫始め---を、な)

河原では、子どもたちが凧をあげている。
悠々と空にとまっているのもあれば、くるくるとまわりながら落ちていくのもある。

(しかし、なんだな。姫始めというのは、2様に解釈できるな。おんながその年初めて男のものを迎えることをいっているようでもあるし、男がその年に初めて秘女(ひめ)に接するという意味にもとれる)

銕三郎は、〔孔雀(くじゃく)〕という言葉をおもいだした。
正月用に結いあげた髪をくずさないように、おんなが裾をひろげて上位になるのだと。
〔孔雀〕といえば、お(りょう 30歳=当時)が、掛川城下の川が見下ろせる貸し座敷で、裾を割って銕三郎の太股にまたがって秘部をあわせ、
「これが孔雀です」
と教えてくれた。

参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川城下で] (

(そういえば、齢上のおなごに、いろいろと教わった)

14歳のときに、お芙沙(ふさ 25歳)。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

19歳のときの芦ノ湯の阿記(23歳)

参照】20081月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) 

22歳では、お(なか 33歳)。

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () ()  

そして、23歳のときからのお(りょう 29歳)。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8

27歳になって、お

参照】2009年8月5日][お勝、潜入] (

齢下といったら、久栄は別として、21歳のときに18歳のお(しず)。

参照】2008年6月2日[お静という女〕 (

ここ、27歳でのお豊(とよ 24歳)だが、あのしたたかさは齢下といえるのかな。

参照】2009年7月29日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (10

(なぜに、新年早々から、なぜ、性歴なんぞを繰っているのだ、おれは---)
とはいえ、おとこにとっては、大事な功名手柄でもある。

銕三郎は、おもった。
(省みると、どのときも、もののはずみであったような---どうも、おれは、もののはずみに弱い。しかし、もののはずみがなければ、男とおんなのあいだ柄は、前にすすむものではない)

そういえば、銕三郎の誕生だって、父・宣雄(のぶお 26歳=当時)と、知行地の一つ・上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の村長(むらおさ)・戸村のむすめだった妙(たえ 19歳=当時)のはずみの結実だったともいえる。

は、宣雄が家督しても正妻というの公式の座を求めず、陰の奥方として、この22年間、すごしてきた。

銕三郎久栄とのなれそめも、5年前、府中(甲府)への途中、深大寺へ寄り道し、掏られて困っていた久栄主従に、はずみで、つい声をかけたことからは始まった。

参照】2008年9月8日[中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)] (

(あのとき、おれは、〔中畑〕のお竜に興をそそられ、府中を訪ねるべく、甲州街道を歩いていたのであ
った)

中畑村の村長・庄左衛門(しょうざえもん 55歳=当時)に、おが『孫子』を学んでいたと教えられた。

参照】2008年9月13日~[中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)] () (

(人が身をひそめるとき、おは、どうすると言った?)
「木を隠すなら、森へ置く」

お(賀茂が身を隠すとしたら---)

銕三郎は双眸(りょうめ)をほそめて、三条大橋の西側にひろがるのいらかを瞶(みつめ)た。


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (
 

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2009.09.28

お勝の恋人(3)

御節(おせち)を小皿にとりわけているお(かつ 明けて32歳)の仕草を見やりながら、銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)は、つい、お(りょう 享年33歳)のことを考えていた。

(生きていれば、いま、おれがこうして坐っている場所におがいて、おの箸さばきを見ているんだろうな)

は、去年の11月の初め、銕三郎に会うために、夕闇の中を彦根から小舟を出して大津に着く寸前に、突風にまきこまれて湖水に投げだされ、水死した。
知りあったのは、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ あけて51歳)の軍者(ぐんしゃ 軍師)としての智力をつくしていたおに興味をそそられたこともあるが、おんなおとこ役という性の数奇さに興をおぼえたこともあった。
そして、29歳のおの最初で最後の男になった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8

14年前、14歳のときに、ぐうぜん知り合った〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)という盗賊の頭が、おんなおとこのお賀茂(かも 30すぎ)にややを産ませたことをしったからである。

ちゅうすけ付言】〔荒神〕の助太郎は、文庫巻22[炎の色]の女賊〔荒神〕のおの父親である。

(これも言ってみると、なにかの縁(えにし)というものであろう)
つい、笑いを洩らした。

「なにがおかしいのです?」
「いや。おとも、ふしぎな縁だと、おもってな」
「お若い奥方がいらっしゃって、こんな婆ぁで、お困りなんじゃ、ないんですか?」
「知られないようにしないとな」

酒を2,3盃呑むと、おが床をのべようとした。
「あ、きょうはやめておこう」
「姫始めですよ。それとも、奥方となさるお約束ですか?」
「そうではないが、湯屋が開けておるまい」
「湯屋がどうか?」
「房事の臭(にお)いを洗いながせない」
「終わったあとで、そこをしっかり拭いてさしあげます」
「いや、ものだけではだめなのだ。房事の臭いは躰中に残るのだ おんなは鼻がきく」

そのときである。
「お師匠さん、お乃舞(のぶ)どすえ」
初荷用の半被(はっぴ)は家で脱いできたらしい、せいいっぱいの晴れ着すがたの14,5歳のむすめが、銕三郎を見てぎょっとたように立ちすくんだ。

(14,5歳のときのおまさに似ている)
黒くてぱっちりした双眸(りょうめ)のせいであった。
唇はお乃舞のほうがぽってりしている。
(そういえば、おまさも、明けて17のむすめざかりだ)
父親の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 5Oからみ)が寝こんだことは、久栄(ひさえ 21歳)から聞いている。

「姫始めがきたようだ。おれは用なしだ」
つぶやいてた立ちあがった。
「いやなさま」
は悪びれることなく、お乃舞に笑顔を向け、
「いのよ。お上んなさい。この家の家主の初瀬さまを引き合わせてあげます」


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2009.09.27

お勝の恋人(2)

「下働き小おんなたちは、役立っているのか?」
(かつ 明けて32歳)の疲労があまりに深そうなのが気になった銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)である。

「3人とも、14歳のむすめたちです。家のおまんまの助けになると、張りきって手伝ってくれています」
「しかし、教えることのほうが多いんじゃないのか?」
「みんな、生活(すぎわい)がかかって根性がはいっていますから、手くだはすぐにおぼえます。あとは、その娘(こ)の美しいものを賞(め)でる力が強いかどうかです」

「おは、そのような化粧(けわい) の手くだをどこでおぼえたのだ」
「かくべつに習ってはおりません。お(りょう 享年33歳)姉さんといっしょに暮らしているうちに、なんとなく身についてしまいました」
「おが、おからもらったものは、それだけ大きかったというわけだ」
銕三郎のことばに、涙ぐみかけたおが、気分を換えるように、
(てつ)さま」
坐りなおした。

「む?」
「お姉さんが、私に乗りうつりました」
眸(め)の光がちがってきた。
「なんと?」
「お姉さんが私のことを好きになったように、私にも好きな子ができたのです」
「ほう---」

「14の子です」
「14歳? もしかして、手助けのむすめの中の---?」
がうなずいた。

「14といっても、3日前に14になったばかりの子ではないか」
「おんなの子は、14になれば、惚れたはれたのこころができています」

乃舞(のぶ)という名のその子から、うち明けられたのだという。
もうすぐ大晦日というので客がたてこみ、居残りをして帰りが遅くなった日、「話を聞いてほしい」といわれたので、近くの菜飯屋へつれていったが、人が聞いているところでは話せないというから、この家まで伴った。
口が軽くなるようにと、冷酒をだしてやり、おも呑んだ。

比叡おろしが雨戸を鳴らしたのが合図みたいに、お乃舞が、とつぜん、
「お師匠はんのこと、好きで、すきで、しょうおまへん」
泣きながら、むしゃぶりついてきた。

{おは、甲州八代郡(やしろこうり)中畑村の山の果樹園小屋で、おの手をにぎったのがきっかけで、睦みあうようになったときのことをおもいだした。
がしてくれたことを、そのまま、お乃舞にしてやった。

参照】2009年8月25日[:化粧(けわい)指南師のお勝] (2)

(てつ)さま。私、どうすればいいのでしょう?」
「どうすればいい?」
「私、(てつ)さまも大好き。お乃舞もかわいい」
「それじゃあ、両方とも好きでいるしかあるまい」
(てつ)さまは、それでいいのですね?」
「いいも悪いも、そうするより、ほか、あるまい」
「はい。ありがとうございます」

「躰をいたわれよ」
「うれしい」


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2009.09.26

お勝の恋人

年があけ、.安永は1ヶ月半で、2年(1773)となった。

京都で迎えた初めての正月で、銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)と久栄(ひさえ 明けて21歳)が、なにに驚いたかというと、雑煮である。
餅が円座のように丸かった。
そして、雑煮の具はなくて、小豆であった。
つまり、ぜんざいふう。

父・平蔵宣雄(のぶお 明けて55歳)は、年賀を受けるのと、廻るのとで、忙しい。

3ヶ日は店は休みと言っていたお(かつ 明けて32歳)を、押小路のしもた屋に訪ねると、戸が閉まっていた。
_80 路地からでようとしたら、晴れ着のうえに白粉問屋〔延吉屋〕の丸に吉の字の屋標を染めぬいた半被(はっぴ)を羽織って帰ってきた。
「初荷だったんです」
祝い酒を飲んでいるらしく、白粉の下の顔が赤い。

「上方の商家は、2日が初荷か---」
「そういえば、江戸は、お大名衆の賀辞登城のさまたげになるというので4日でしたね」

部屋で、きちんと年賀をかわすと、
「お屠蘇(とそ)を召しますか? お節(せち)を、お(きち 明けて38歳)さんが届けてくださいました。東国ふうの濃いめの味付けですから、お口にあいましょう」

は、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 明けて53歳)の妾で、小田原で又太郎(またたろう 明けて15歳)と暮らしていたが、助五郎の本妻・お(せい 歿年26歳)が病没したのを潮(しお)に、京都に呼ばれて、本妻がのこした子・文吉(ぶんきち 明けて15歳)もいっしょに育てている。

「いま、東国ふうの味付けといったな。おの小田原、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 明けて57歳)どんの駿州・藤枝在の生まれということはわかっておるが、〔狐火〕もあっちなのか?」
「あ、うっかり---。そんなところからも身許が割れるんですねえ」
「どこだっていいんだが---狐火というから、伏見あたりかと見当をつけていたが---」」
「お稲荷さんつながりは、つながりなんです」
「まさか、王子では---?」
「もそっと、北---」
_150_2「笠間稲荷?」
「内緒ですよ」
「わかっている。しかし、京弁もないが、常陸(ひたち)なまりもないなあ」
「盗人(つとめにん)は、手がかりになるなまりを消すようにと、〔狐火〕のお頭のお若いころにお盗(つとめ)の手〕ほどきをしてくださった〔堂ヶ原(どうがはら)〕のお頭が指導なさったんだそうです」

「〔堂ヶ原〕---といえば?」
「そうです。小浪(こなみ 明けて34歳)姉(ねえ)さんの最初のお頭---」
御厩(うまや)河岸の舟着き前の茶店の女将であった。

参照】2009年12月19日[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] (

「拙も、盗(つとめ)の世界に知り合いがふえたものだ」
(てつ)さまには、だいじな勤めがあるのですから、あちこちに通じていらっしゃらないといけません」
「そうだ。そっちのほうの手がかりもだが、おの仕事はどうなんだ?」
「相変わらず、日に2分(8万円)の稼ぎがつづいています」

参照】2009年8月31日[化粧(けわい)指南師のお勝] (

「月に15両(240万円)ではないか」
「躰が保ちませんから、手助け小おんなを3人雇いましたから、12両(192万円)」
「長屋なら、一家の1年分の稼ぎだ」
「いつまで躰がつづきますことか」
(そういえば、脱ごうとしないな)


 


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2009.09.25

ちゅうすけのひとり言(40)

長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)の京都西町奉行への破格の栄転にあたり、禁裏御所の地下(じげ)役人たちの汚職にかんし、探索の密命がでていたのではないか、との推量をつづけてきた。

もちろん、史料があってのことではない。

きのう---9月23日のコメントで、左衛門佐(さえもんのすけ)さんが、

---氣になるのは、死罪の項で、飯室(いいむろ)左衛門(ざえもん)大尉((だいじょう)の名がなく、服部左衛門になっていますね。どう解釈すればいいのでしょう?

それに、
---苗字はともかく、名前がおなじ左衛門ですね。
ひょっとしたら同一人物かも。
もっとも、東町奉行所の加賀美千蔵(せんぞう 31歳)同心が、飯室は武田方の流れと言っていましたね。

武田方の御近習衆に、飯室与左衛門とその子・庄左衛門
山県衆に飯室宮内丞(くないのじょう)、八郎兵衛(はちろべえ)、
跡部の同心に飯室次郎兵衛の名がみえます。

この5人が、まず、徳川方で家を立てた。
ここに名のでなかった誰かが京で禁裏に職を得ていたのかも。

服部となると、分布が広すぎて、推理もおぼつきません。


こんな、無責任なレスをつけた。
気がとがめたので、〔飯室〕という地名を『旧高旧領』で検索してみた。

越後国頚城郡(くびきこおり)飯室村---現・秋田県上越市浦川原区飯室
下野国塩谷郡(しおやこおり)飯室村---現・栃木県塩谷郡高根沢町飯室
安芸国高宮郡(たかみやこおり)飯室村---現・広島市安佐北区安佐町飯室

天正10年(1582)3月11日、天目山で武田が滅んだのち、その年の6月2日に信長が本能寺で自刃した。
家康は、さっそくに武田方の武士たちをとりこみはじめた。
いわゆる、秋葉山での誓詞の提出である。

飯室姓の5人のうちの、与左衛門昌恒(まさつね)の『寛政重修諸家譜』に、こう書かれている。


武田家につかえ、天正十年かの家没落のち、甲斐国八代(やつしろ)郡大福寺に蟄居す。六月めされて東照宮につかへたてまつり、この年諸士とおなじく誓詞をたてまつる。

_360_2


大福寺(山梨県大宮市大鳥居 旧・東八代郡豊富村大鳥居)を、平凡社『郷土歴史大事典 山梨県の地名』で調べてみた。

なんと、

大福寺の山号は〔飯室山〕とあった。

再建者・飯室禅師にちなむらしい。
飯室禅師は、武田信義嫡男一条忠頼の子とつたえると。
信義は鎌倉時代の武将で、富士川の合戦で功があったが、i讒言で頼朝にうとんぜられた。

その孫・飯室禅師であれば、同村から飯室を姓とする武家が武田方の旗下にいてもおかしくはないが、このあたりのことは、郷土史家の方の教えをまちたい。

余分ながら---。
大鳥居村は、お(りょう 享年33歳)の生地である中畑(なかばたけ)村から2里(8km)ほどであるのも、なにかの因縁であろうか。
もちろん、銕三郎はこのことをしらない。


       ★     ★     ★


これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?

35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2009.09.24

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

_120誘眠剤がわりに、ふと手にとった『現代語訳 翁草(おきなぐさ) 上・下 』(教育社 1980.6.25)に、
(もしかしたら、これに、禁裏賄役人の不正の顛末が---)
とおもい、眠りをやめて調べたが、それらしい気配はない。

翌日、図書館で、吉川弘文館『日本随筆大成』の借用を申し込んだ。
翁草』は全6巻というすごい量だったが、目次を瞥見していくうちに、
「あった」

本文は以下、原文のままあげるが、鳶魚翁のネタ本と断じてもよさそう。
もっとも、『翁草』の著者・神沢貞幹(ていかん)自身が諸書から書き写しており、元本の書名を記していないから、軽々にきめるわけにはいかない。
しかし、内容はすこぶる、近似している。

 禁裏御賄役人処刑

禁裏御賄の儀は御所々々大抵御分量有て御代官小堀数馬方にて、月々の御勘定を仕上る帳面を作り、町奉行へ差出し、町奉行に於て是を算当(サントウ)して相違なければ、其帳面を所司代へ差出し、所司代より関東へ言上有るなり。

然に月々臨時の御物入多く、禁裏御物成(ナリ)銀にては、始終御不足なる故に、余銀を以て御取替被置、其秋の
御収納は、直(スグ)に其冬より、春迄の御賄料となれ共、無程御遣ひ切りと成ゆゑ、また余銀にて御取替に成。

畢竟御取替と申は、名目計にて、御不足の分は足し被進、実は渡り切りなれ共、名目を御取替と唱ふる事なり。
斯る温和(オンクハ)なる御風俗に誇りて、御賄掛りの役人、不廉直多く、先年も余り過分の御物人の節、公儀より少し其御汰有之けるに、結句其翌月猶御人用増ける侭、愁(ナマジイ)に御綺(イロヒ)有ては益御入用累(カサナ)るにより、其後は一向其御さたにも及ばず、是上々に実に御不足ならんは如何せん。

全く左には非ず、役人の私曲重畳して、何方よりも察当なきに乗じて、思ふ優に挙動、讐ば諸の御買上げ物に、二重証文を売人に書せ、若干(ソコハタ)高直(ジキ)の証文を以、御勘定に立る、其身の栄耀歓楽は云べからず。

下司の者迄も十手(ジウシュ)の指す奢超過して、関東に聞え、安永三年京町奉行山村信濃守始て上京の節、台命を奉って罷登られ、所司代土井大炊頭へ奉書を以て御下知有之、御賄頭を始、御賄掛りの者共、悉く召捕れ、夫々揚屋へ入れ、一々糺明せらる処に、一言の申披(ひらき)無之、重立候者共牢内に於て死刑に処せられ、或は流刑に滴せられ、下司の軽きに至迄、追放国中払等に成り、而して関東より御勘定役人余多登り、更に御賄方を勤む。

御賄頭には江戸御勘定御目見の者を被任、其余は支配勘定以下の軽き役人を差登せられ、夫々欠役を勤め、此御吟味掛り、山村信濃守井禁裏御附天野近江守立会、是を頭取て支配し、総て京都御入用事の取極りを相兼、是迄江戸へ相伺ひし小事は、向後京都に於て評定を遂げ執計べしとて、与力同心にも、此掛役人出来、一味吟味相済ぬ。

今般坐せられたる御賄方の名前左記。但科書焼失故爰に略す。

 安永三甲午年八月二十七日

        於牢屋敷死罪
 田 村 肥 後   津 田 能 登  服部左衛門
    存命に候得ば同罪 西 池 主 鈴 吟味中死
        遠 島
 高屋遠江 藤木修理 山本左兵衛 山 口 日向 関 目 貢
        中追放
 渡辺右近 本庄角之丞 世続右兵衛 久保田利兵衛 佐藤友之進
 小 野 内 匠
  其外洛中洛外井江戸構余多、
  死罪の者伜は遠島、十四歳迄親類預け
  遠島の者の伜は中追放、右同断
中にも遠島、高屋遠江は、三味線に長じ、且猿楽の能を善し、度々御能をも勤め、皆人堪能を称しける。
前巻に記せる如く、左こそ島人の賞翫他に異ならめと、思ひやる計なり。


さて、昨日の『幕末の宮廷』とあわせると、この件は、ほとんど経過・結末が見えてしまう。
京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)がからんだという史料がでてくる気配はきわめて薄い。

残念だが、銕三郎(てつさぶろう 27歳)に事態の収拾を命じなければ---。

ついでに記す。
神沢貞幹は、京都町奉行・与力の家へ養子へ入った。東・西いずれか未詳。病弱を理由にはやばやと奉行所を辞職、『翁草』の執筆に専念。
前編成立の時は、宣雄・銕三郎が入洛した明和9年(1772)、貞幹63歳のときと。

後編の成立は、平蔵宣以が江戸で゛火盗改メの任についていた寛政3年。

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幕末の宮廷

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2009.09.23

『幕末の宮廷』 因幡薬師

_130_2つい最近、発見した史料というのは、下橋敬長『幕末の宮廷』(ワイド版東洋文庫 2007.9.25)である。

じつは、図書館から通常版を借りだして、つぎのくだりを発見し、あわてて、三省堂に問いあわせた。
版元・平凡社にはワイド版の在庫しかないとのことだったので、清水の舞台---やむなく、注文した。

問題のくだり---。

安永の御所騒動は、松原通鳥丸東入町因幡薬師の御堂に、菊の御紋を附けた紫縮緬の幕が張ってあったのを近衛家の家来が不審に思って尋ねたところ、
「朝廷からの御寄進じゃ」
と答えられ、いよいよ不審に思って御主人の関白内前公に伺われたのが発端で、吟味の末、ロ向役人の寄進と判明し、それから段々口向役人の不正矯奢の事実が露顕に及び、とうとう百何人というものが一時に処刑になり、重いのは死刑・流罪、軽いのは追放となって落着を告げた。

これは全く内前公の果断によったので、処刑せられる方では酷くこれを怨み、遠江守などは死刑に臨んで、「誠に心外の至りである、われわれの怨みばかりでもこの後七代近衛家へは関白を遣らぬ」と罵りました。まさかその怨念の為でもありますまいが、内前公の後二代は関白になられず、三代目の忠煕公が関白になられた時、「もう高屋の妄執も晴れたかいなア」と申したようなことです。


これが史実だとすると、女スパイが不正の端緒をつかんだのではなく、公卿(くぎょう)家筆頭の近衛家に近侍していた者が見つけたことから、購入金額の墨入れ(金額加増)が露見したことなる。

諸田さんは、女スパイ・利津(りつ 21歳 初婚)を(高屋)遠江守康昆(こうこん 40歳 再婚・子持ち)に嫁がせ、慈愛の人物のように造形しているが、近衛家への恨み言を読むと、ちょっと違うようにもおもえる。

鳶魚翁と諸田さんは、遠江守を流罪としているが、『幕末の朝廷』は死刑にあげているから、いちがいに信じてはいけないのかもしれないが、露見の端緒はなっとくできるのだが---。

もし、近衛家の家臣が、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が西町奉行に在任中に紫縮緬の幕を見つけていたら、手柄は宣雄のものになっており、山村信濃守良旺(たかあきら 46歳=安永3年 500石)はその後、江戸の町奉行の席につけなかったかもしれない。

ことは、鳶魚翁の女スパイものの出典さがしからはじまったのだが、おかしなところに漂着してしまった。
それで、さらに出典さがしがつづいたのだが、その結果は明日。

それよりも、個人的な興味を記す。
ちゅうすけは、幼・少年期を、日本海側の城下町・鳥取ですごした。
それで、一件の端緒となった因幡薬師に関心が湧き、『都名所図会』をあたってみた。

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(因幡堂平等寺 『都名所図会』)

鳥取市を貫通している千代(せんだい)川の河口の津が、賀露(かろ)港である。

長徳3年(997)というから1000年も前の平安時代の中ごろか。
因幡国・賀露津の海面(うみづら)に、夜ごとに光るものがあった。
国司・(たちばな)行平(ゆきひら)卿が漁人に命じて網をひかせたところ、身の丈6尺2寸(186cm)の薬師仏があがった。
7年後の長保(ちょうほう)5年(1004)4月7日に、行平卿の居館の烏丸(からすま)高辻に忽然と飛来してきたという。
4月7日というのが、なんとも憎いではないか。

そこで館を仏閣につくって安置したのがはじまり。
代々の天子の厄年には毎日勅使が薬師詣でをして祈祷を捧げたともいわれている。

で、後桃園天皇の安永3年(1774)は17歳、なにかの厄だったのであろうか。

それを口実に、賄方役人・飯室(いいむろ)左衛門大尉たちが菊花の紋章入りの紫縮緬の幕を奉納、その購入代金を10倍にも水増ししたりしたのであろうか。


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_360_2
(山村信濃守良旺の個人譜)


ちゅうすけ追記】2009年9月28日の[MIXI の日記]

がん封ジお守り


「赤は安産、青は開運、紫はガン封ジでございます」
お守りの布の色である。
聞いた瞬間、義兄の顔が浮かんだ。
彼は83歳で、手術できない部位に膵臓がんが発見され、余命数ヶ月と宣告されている。

場所は、京都市下京区松原通烏丸東入ル 因幡堂町728
因幡薬師の本堂前。

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_200
解説してくださったのは、大釜住職の夫人(あとで話してわかった)。

もちろん手遅れだし、快癒はすまいが、その日までの義兄の心の支えになればと、500円を献じた。

と、夫人は、そのお守り仏前に供え、鐘をうち、念仏をとなえ、祈願してくださったのちにぼくへ手渡し。

これまで、100ヶ社寺ほどでお守りを請いうけたが、祈念してからわたされたの初めてである。

因幡薬師へ参詣した次第は、

『幕末の宮廷』 因幡薬師
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/post-85ec.html

[御所役人に働きかける女スパイ](3)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/3-5be3.html

ブログ 鬼平がらみの取材の1行程。

もし、がん告知をされている近親者やご友人に贈るなら、
祈念料と郵送料こみで1000円も送れば、手配してもらえようか。

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『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

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2009.09.22

[御所役人に働きかける女スパイ] (3)

三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)、この史実めいた記述に触発されて創作されたらしい諸田玲子さん『楠の実の熟すまで』(角川書店)から引いている。

鳶魚翁は、徒(かち)目付・中井清太夫(せいだゆう 150俵 5人扶持)と西町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら 45歳=安永2年 500石)が相談の結果、姪(めい)・利津(りつ 21歳)を地下(じげ)官人に嫁がせることにしたと書いているが、詳しい手だては省略している。


スパイの嫁入りによって、捜索を遂行する打合せ万端を済まし、信濃守は委細を所司代土井大炊頭へ上申し、江戸から来ている隠密御用の面々を、帰東させることにした。

中井清太夫は、隠密御用の面々とともに、五十三次の駅路恙なく江戸に帰り、安永三年(1774)の若春を迎えた。女スパイは、清太夫が退京すると間もなく縁談整い、禁裏御賄役人の妻となった。


_130あった事件を伝えるにはこれでもよかろうが、小説となると、そうはいかない。
だから諸田さんは、そこのところを、いろいろ工夫している。


縁談はどうなってしまったのか。進行もせず、詳細も知らされぬまま宙ぶらりんでいるのは蛇の生殺しさながら。利津は毎日のように墓参に出かけ、祖父の墓に向かって、大役を無事、果たせますように……と両手を合わせた。
もしや計画が頓挫したのか。いっそこのまま立ち消えにならぬものか。かすかな願いを抱きはじめた頃、京から商人がやって来た。

「こちらの娘はんのことで、折り入ってご相談がおますのどすけど……」
商人は老舗の骨董屋「かずらや」の番頭で、多兵衛と名乗った。懇意にしている茶の湯の宗匠から利津の話を聞き、知り合いの堂上(どうしょう)家へ問い合わせたところ、京仕込みの娘ならぜひとも取り持ちたい縁談がある、話をつけてきてくれと頼まれた……というのが口上だった。間に入った武家の名はいっさい口にしない。

「娘はいてますけど、京仕込みというほどでは……」
「いえいえ。こちらの娘はんは堂上家の奥に仕えてはったそうで……。いえ、ちょっとかてかめしまへん。これもご縁どっさかい、あんじょうまとめてやると大納言さんが仰せにおます」

縁談の仲立ちを申し出ているのは、武家伝奏(てんそう)を務める広橋家だという。武家伝奏は幕府と朝廷の間を取り持つ重い御役で、主の広橋兼胤は大納言、利津が行儀見習いに上がっていた堂上家より格上である。兼胤は、広橋家の雑掌、つまり実務を行う家臣の一人を利津の仮親とすることで、すでに先方と話をつけているとのことだった。

「なんと言うたかて、相手はお公家はんどす。こないな良縁はめったにおへん」
番頭は値踏みするように家のなかを見まわした。公家が郷士の娘を娶るのは持参金が目当てだ。
広橋家の狙いも過分な謝礼だろう。仲介した商人もおこぼれに与る。


骨董屋の番頭やら、茶道の宗匠やらといった仲立ちの脇役を創作して、楠葉郷から京洛までの筋道を敷いている。小説家も空想力がなければつとまらない。


「そらもう願ってもおまへんけど、娘はこのとおり、茎(とう)が立ってまっさかい……それに、あれこれおましたよって、先方はんのお気に召しますやろか」
待ってましたとばかり飛びつけば怪しまれる。万太郎はまず尻込みをして見せた。

番頭はぐいと身を乗り出す。
「そのことなら心配はいりまへん。先方はんかて事情がおます」
先方は昨年、妻女を亡くしていた。歳は三十二、六つになる男児がいる。子供の養育のためにもできるだけ早く後妻を迎えたいと願っているという。
「先方はんちゅうのはどないな……」


嫁入り先は、昨日記した高屋遠江守康昆(こうこん)となっている。
鳶魚翁はそこまでは書いていない。
ただ、高屋遠江守の名は、処罰者の中にみられる。


牢屋敷に於て死罪、田村肥後守、津田能登守、飯室左衛門大尉、存命に侯へば同罪、
吟味中死、西池生鈴。
遠島、高屋遠江守、藤木修理、山本左兵衛、山口日向守、関目貢。
中追放、渡辺右近、本庄角之丞、世続右兵衛、久保田利兵衛、佐藤友之進、小野内
匠。
其外洛中洛外並江戸構余多。
死罪の者倅は遠島、十四歳迄親類預け。
遠島の者倅は中追放、右同断。


ただ、両書とも、隠密探索の端緒については触れていない。
だから、読み手には釈然としないものが残る。
ところが、腑(ふ)に落ち、膝をたたく資料を見つけた。


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2009.09.21

[御所役人に働きかける女スパイ] (2)

三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)から、引用している。

女スパイの嫁入り

内命を受けて赴任する山村信濃守は、一切を胸底に収めて、黙々として着京した。

内命の次第を知っているのは、幕閣からの通達によって、所司代土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ただ一人だけだ。

参考】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (
2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (

山村は同僚の東町奉行酒井丹波守にさえ漏さない。
もとより隠密の御用なのだから、手付きの者にも言わない。組下の与力・同心には、いずれも数代京住の輩ゆえ、いかなる縁故があって、御所役人へ漏洩せぬとも限らぬ。

ちゅうすけ注】このことは、銕三郎の禁じ手の一つでもあったことは、これまでに記した。
探索の要員としては江戸から、前職・目付の下役だった腕利きの徒(かち)目付、小人目付を内々に上京させたという。


そうだから、隠密御用で入洛した連中は、夜陰人静まった頃でなければ山村信濃守のところへ忍んで来ることをしないほどであった。

こうして、着任後の半年を、江戸から隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索につとめたけれども、何の甲斐もない。さすがに山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様もなく、隠密方も工夫才覚が断えて、献策する者もなくなってしまった。


ここで、女スバイ案が登場する。
京都と大坂を結ぶ水路の淀川ぞいで、いまは枚方市にとりこまれている楠葉の里の出身の徒目付・中井清太夫の名は、上掲・[小川町の石谷備後守邸] (2)にあげておいた。
鳶魚翁の筆を借りると、


今度上京した御徒目付中井清太夫、この清太夫は河内楠葉の郷士の倅で、親父仁右衛門が利口な当世向きの男だから、如才なくその向々へ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用してもらった。
微禄にもせよ、河内の在郷から、大名衆にでも抱えられることか、新規お召出しというので、天下様の御家来、御直参にあり付いたのだ。

才覚者の仁右衛門の倅だけに、清太夫も才走った上手もの、身上も富裕だから、賄賂も惜しげなく遣う。
たちまちに御徒目付(百俵五人扶持)に進んだ。御徒目付は骨の折れる役で、その代り働き振りも見せられる。
御用向きが広く、何と限らず勤めて出なければならぬから、この場は御目付支配の中での大役で、励み場といった。


鳶魚翁は、見てきたような書きぶりだが、さて、原典どおりなのか。
その原典がなにだったのかは、不明である。


清太夫も、今度の上京には御勘定(百五十俵、御目付と同等で、この役からお旗本の列に入る)の格式であった。

清太夫の故郷河内の楠葉に、実弟中井万太郎がいる。この万太郎に、当年二十一歳になる娘、美人でもあり怜俐なものであった。

その頃にしては、嫁期を逸していた。

言い分のない女なのに、なぜか縁遠い、その縁遠いのを疵にして、持参金を多く付け、御所役人へ嫁にやる。
公家の諸大夫などという連中は、江戸の御家人と、貧乏は御同様だが、根性の綺麗でないことは比較にならない。

女房喰いは、ほとんど常習になっている。
田舎の物持から来る持参嫁は大喜び、彼等が咽喉を鳴らす代物だ。

清太夫は姪(めい)女に、伯父が一期の浮沈、中井一家の興廃、さては大切な隠密御用の次第を委細に申し含めて縁付ける。

これは女探偵の嫁入り、妻になって夫の悪事を探る。思えば人倫を破壊する運動だ。
差し当って、伯父が姪女を残虐するのだ。


鳶魚翁も、清太夫の案は人道にもとるとは非難しているが、[御所役人に働きかける女スパイ]の初所載は『随筆 江戸の噂』(春陽堂 1926)だから、冗談めかしていうと日本人はまだ『007ロシアから愛をこめて』(1957)の洗礼をうけていなかった。

この事件を小説にした諸田玲子さん『楠の実の熟すまで』(角川書店)は、さすがに女性の目で、いまと゜きの若い読者には愛のない結婚は受け入れられまいと、ヒロインの女スパイ・利津(りつ 21歳)と、入婚相手の御所役人・高屋遠江守康昆(こうこん 40歳)のあいだに、慕情といつくしみのこころをかよわせている。

参照】2009年8月10日[ちゅうすけのひとり言] (36


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『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

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2009.09.20

[御所役人に働きかける女スパイ]

_100
ここ、1ヶ月ばかり、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、京都西町奉行に任じられた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)に先行して上洛し、あれこれ策を練っている様子を書いてきたのは、三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)に刺激を受けたことによるとは、これまでもたびたび打ち明けた。

それが、ある史料を目にしたために、鳶魚翁の物語が信じられなくなったのである。
もちろん、その史料によって、平蔵宣雄が密名をうけたことも、銕三郎がそのために駆けまわったことも打消しはしない。
ただ、両人には運がついてまわっていなかったとおもうだけである。

参照】2006年7月27日[町奉行 山村信濃守良旺(たかあきら)]
2009年7月11日[佐野与八郎政親] (

まず、↑をくりック。、ちゅうすけの、宣雄への密命拝命説は、かなり以前からのオリジナルなものであることをご納得いただきたい。


これから、1週間ばかりかけて、運がついていなかったことを明かしていきたい。

まず、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をかいつまんで引用しながら、理解を深めるために注釈を適宜おぎなっていこう。


山村信濃守の発途

明和七年(1778)、京都の町奉行は、東が酒井丹波守(二条南神泉苑西)、西が太田播磨守(二条城西千本通角)であった。

太田は昨年から仙洞御所(せんとうごしょ)御造営御用を承って、二年越しでようやく御出来になり、その方が御用済みになったので、月番も勤めるようになった。
これで、東西両町奉行ともに、公事訴訟を取り扱う常態に復しましたが、それまでは、二人で負担する京都町奉行を、一人で引き受けていたのですから、勢い手が回らないわけにもなります。

参考】東町奉行・酒井丹波守忠高個人譜
西町奉行・太田播磨守正房個人譜 (補1) (補2

ちゅうすけ注】造営の東洞院(とういん)へおはいりになるのは、明和8年(1771)12月に退位された第117代で最後の女帝となった後桜町天皇であった。
洞院の改修費は、もちろん、幕府の負担である。
この方が皇位におつきになったのは、先皇・桃園天皇が22歳の若さ、在位15年で崩御されたとき。
皇子は5歳と幼なかったので、異母姉で第2皇女(24歳)が後桜町として皇位つかれたのである。
8年間、禁裏をお守りになり、13歳の英仁(ひでひと)弟君・後桃園天皇に譲位され、東洞院へお移りになった。


明けて明和八年(1779)---新帝(後桃園天皇)は、幕府の名代をはじめ、諸大名からの慶賀を受けさせられる。

引き続いて御即位の御式も挙げさせられる中の賑い事の紛れに一年を過し、安永元年(1772)になってしまった。

ちゅうすけ注】安永への改元が、明和9年(1780)11月16日。平蔵宣雄の京・町奉行への発令はその1ヶ月前。
また、銕三郎は、改元を京都で知った。

西の町奉行太田播磨守は、安永元年九月、小普請奉行に転任し、跡役の長谷川備中守は、わずか十箇月勤めて、二年(1773)六月に病死した。

七月になって山村信濃守が就任。

東は酒井丹波守が明和七年(1770)の六月から勤役していたが、安永三年(1774)三月に死去したので、赤井越前守が跡役になった。

ちゅうすけ注】禁裏・地下(じげ)官人の不正の探索は、東の酒井丹波守には知らされていないことになっている。
また、丹波守の歿前に、事件の捜査は終了し、処刑がのこっているだけであった。


山村信濃守は、名を良旺(よしはる 鳶魚のまま 正しくは、たかあきら)といって、信州木曾御関所預、交代寄合山村甚兵衛の分家で五百石、早く御小姓になり、御先手頭から御目付を経て、京都町奉行になった人だ。

山村信濃守が赴任の際に、幕閣は特に内命を授けた。
「近年禁裡御所方御賄入用莫大にして、年々御取替高多く、是全く御所役人共、非分の義有い之と相見え侯得者、其方宜敷相純すべき」旨を命ぜられたのであった。

京都町奉行が、禁裏役人の私曲増長を怪しく眺めながら、三、四年も手をつけずにおいたのを、山村信濃守に機密を授けて、いよいよ宮培の内の罪悪を評発しようとするのだ。

ちゅうきゅう注】天皇家が幕府から与えられている知行は10万石。
うち、7万石ほどを宮家や5摂家、公卿、公家、地下官人たちへ割りふり、禁裏の祭事や生活に使える分は3万石前後である。
物品の購入をつかさどっているのは、業者と接触する口向(くちむけ)役人の賄方と勘使(かんづかい)で、その計算書を代官所が点検、予算を超えた分は、幕府が立替えて払っておき、禁裏へ貸した形をとる。
禁裏は、翌年の3万石から返済をするきまりになっているが、返済額が大きいと、借り越しとしてつけておく。
この借り越しがどんどんふえ、大きくなってきていたので、そこに不正の臭いが濃くなってきていた。
しかし、代官所では、不正の事実を発見できなかった。

もちろん、代官所が点検した計算書は、町奉行所の承認をうける。
山城代官・小堀数馬邦直(くになお 44歳=安永元年 600石)の小堀家は、代々、山城の代官に任命されており、役宅は二条城の西にあった。

参照小堀数馬邦直個人譜

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2009.09.19

命婦(みょうぶ)、越中さん

_130「どないどす、この命婦(みょうぶ 高位の女官)はんの絵---?」
町絵師・北川冬斎(とうさい 40歳前後)がひろげた。(『都風俗化粧伝』より)

「うん、冬斎はん、ようでけた」
ほめたのは、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目・角兵衛(かくべえ 40がらみ)。

「2代目。どういうことです?」
銕三郎が訊いた。

銕三郎がお目当てにしている御所かかわりのおんな客が、化粧(けわい)指南師・お(かつ 31歳)のところへ目論見どおりに現れないから、いっそ、直(じか)に女官をあしらってみては---と冬斎に描かせたkのだと角兵衛が釈明した。

長谷川はんが、いつやったか、命婦(みょうふ)はんのなかに、越中はんと呼ばれとぅる立役(たちやく)がいてはるらしいいうて、笑わしてくれはりましたやろ」
「粽(ちまき)司の〔川端道喜〕の10代目どのから聞いたのです」

参照】、2009年8月30日[化粧(けわい)指南師・お勝] (

それで、4板刷りの〔化粧読みうり〕を飾る絵にしたい---と。

〔化粧読みうり〕は大当たりで、1ヶ月のうちにすでに3板刷りまで出た。
読み手であるおんな衆も次のが刷られるのを待っているが、お披露目枠の申しこみが7板刷りまでうまっているという。
それだけ、効き目が大きいというわけであった。

角兵衛によると、早くも柳の下の2匹目の泥鰌をすくおうと、手くばりをはじめた者もいたらしいが、〔左阿弥〕がかんでいると分かって手をひいたらしい。

4板目のお披露目2枠を買ったのは、次の2店舗であった。

B_360
B_360_2

〔山城屋〕は、角兵衛に枠代を倍払っても---とでも申し出たのであろう、2度目であった。
倍払ってももおつりがくるほどの効き目に、味をしめたのであろう。
もっとも、枠をきまった値段以上で取引きするのは〔左阿屋〕の勝手である。
銕三郎には、決めた分だけがきちんとはいればいい。
枠がうまらなかったら、角兵衛が枠代を負担する。

下の枠は、これまでどおりに、〔紅屋〕と〔延吉屋〕が居座っていた。

3板目も4板目も、角兵衛は律儀に自分の手数料を差し引いた、6両(96万円)を銕三郎へ渡した。

参照】2009年8月27日[化粧(けわい)指南師・お勝] (

「彫り師や刷り師への払い分も2代目がとり仕切ってください」
銕三郎がいうと、
「いえ。これは、長谷川さまが案じなさった商売ですよって、わずらわしゅうても取り仕切っていただかな、あきまへん。代人やったら、おひきあわせしますよってに---」
どういうわけか、角兵衛が固辞した。

彫りとか刷りとかの実の手がおよぶことにはかかずらわりたくなかったのかもしれない。
「空気を売るにひとしい」と銕三郎が表現した、お披露目(広告)枠の手数料だけをやっている分には、火傷(やけど)をしっこないとふんだこともあろう。

「どないしまひょ」
冬斎の催促に、銕三郎は、
「いや。直かに女官を誘うのは気がすすみませぬ」
断った。
2代目も、あっさりと承服した。

ちゅうすけ注】明治以前の命婦の定員は7名。皇子・皇女を身籠ることもあったから、立役はいなかったろう。
たぶん、話をおもしろくするために、〔道喜〕の10代目がふつうの官女(女嬬 じょじゅ 諸道具掛)
あたりを位あげして話したのだ。
なお、越中ふんどしは、甲冑を着たとき、前結びのほうがべんりなので考案された。
ふだんはうしろ結びであった。
当時の至上は、絹の6尺をお召しであったと。


        ★     ★     ★

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2009.09.18

同心・加賀美千蔵(6)

「どうであったな、東町の同心衆は---?」
表の役所からさがってきた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が訊いた。

加賀美どのの祖は、武田勝頼(かつより)公の側近であった跡部(あとべ)尾張守勝資(かつすけ 1547~1582)に愛想をつかして、京へひそんだ仁だそうです」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)の受け売りに、宣雄は、
(てつ)。ものごとを片側からからのみ見てはならぬ」

戦前に出た平凡社『日本人名大事典』は、『甲陽軍鑑』の記述を参考にしたか、跡部勝資について、

戦国時代の武人。大炊助と称し、武田信玄に仕へて、その侍大将となる。信玄の歿後その子勝頼Iに事へしも、長坂釣閑と共に専権の行あり。ために誠忠の士多く勝頼を離れたといふ。

徳川の陣営にはいった跡部姓は、『寛政譜』には7家が収録されている。

太田 亮著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』(秋田書店)は、

阿刀部(アトベ)氏 信濃【清和源氏、小笠原伴野氏族】又跡部とも書く。信濃阿刀部の後裔だが伴野時長の子長朝が阿刀武を称してから、系を小笠原に引くを常とする。
尊卑分脈に「小笠原長清-伴野時長-長朝(号阿刀部)-泰朝-時朝」と見える。
和名抄小県郡に跡部郷を載せているが、この氏は南佐久郡野沢町大字跡部を本拠とすると云う。

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跡部(アトベ)氏 信濃、甲斐【清和源氏、小笠原伴野氏族】前条の阿刀部氏の跡である。行忠より系がある。寛政譜に七家を載せる。家紋松皮菱(右図)。

また、近時は、『甲陽軍鑑』の呪縛から離れた評価が行われるようになってきている。、

参考】[跡部勝資]

おかしなことに(---といっても、おなじ小笠原流れなので、あたりまえかもしれないが---)加賀美一族の家紋も〔松皮菱〕である。

ふたたび『太田 亮博士著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』から---。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【百済帰化族か】美濃各務勝の一族中巨摩郡に移住して各務という地名を生じ、後に加賀美と云った。
甲州で大いに栄えたが、遠光が武田氏より出て此の氏名を冒したので全族が源氏を称している。
寛政譜ではニ家を記載。家紋中太松皮菱。割菱、五七梧桐、王文字。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【成和源氏 武田氏族】前条氏名を冒したもの。
尊卑分脈に「義清-清光-遠光(信濃守、加賀美二郎)-長清-(加賀美小二郎)-長経」とあり、また「長清の弟光清(加賀美二郎)」と見え、成和源氏図には、「猶遠光-経光、加賀美四郎」と見える。武田系図に「義清-遠光(加賀美次郎)とあるのは誤りであろう。

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五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鑑』(吉川弘文館)は、足かけ5年がかり、全16巻、歴史学徒による詳細な注が有用という壮大な企画で、これまでのところ第6巻まで刊行されている。

同シリーズを杜撰ながらあたってみたところ。加賀美長清小笠原二郎)の名が4ヶ所、遠光(とうみつ)が1回現れているが、事蹟の記述はない。

それでウェブをあたってみた

参考】[加賀美遠光
[加賀美遠光館跡] http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/site/page/info/bunkazai/shi/shiseki/kagami/
[鬼丸智彦さんのHP] http://www7b.biglobe.ne.jp/~onimaru/index.html
 


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2009.09.17

同心・加賀美千蔵(5)

「それにしても、半刻(はんとき 1時間)のあいだに消えうせるとは---」
同心・加賀美千蔵(せんぞう 3歳)がくやしがった。

「われわれが訪れたときには支度ができあがっていて、裏の賀茂川で丑三(うしぞう 40がらみ)が小舟をもやって待っていたのでしょう」
銕三郎のなぐさめに、巳之吉(みのきち 25歳)が、奉行所の小者らしく、口をはさんだ。
「河原町通りをあがっていったうちらに出会わへんかったんは、小舟のせえだったんどすな」

「いや、小舟は、さがったとばかりはいえない」
「えっ?」
加賀美同心が、聞きなおす。

「ふつうなら、川をくだると考えましょう。しかし、われわれがどこにいるかは、あの者たちにはわかっていません。そこで、うまく誤魔化すには、流れにさからって、川上で舟を捨てて潜むところを整えておいたかも知れませぬ」
「なるほど。そこでほとぼりがさめるのを待つ---賀茂川をさかのぼったか、高野川のほうをとったか--?」

加賀美どの。きょうのところは、あきらめましょう」
4人は、先刻の茶店へ引き返し、あらためて、銕三郎が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)との因縁を語ってきかせた。

13年前の、小田原城下の松島神社と芦ノ湖畔での再会、そして三島宿までの道ずれ。

参照】2009年7月14日〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2)

三島宿で本陣の主人・樋口伝左衛門の手引きで、14歳だった銕三郎が、お芙佐(ふさ)から、初体験をえたことは、さすがに、あたり前ではあるが、洩らさなかった。

参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙佐(ふさ)]

4年後、養女で妹になる与詩(よし)を迎えに駿府へ出向いた小田原城下、薬種舗〔ういろう〕の前で顔をあわせたこと、さらに彼が盗賊であったことを推測したこと。

参照】2008年12月27日~[与詩を迎えに] (
[{荒神〕の助太郎] (4) (5) (6) (7)

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)夫婦が、奇妙なことを思い出したものだから、銕三郎は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)・お(かつ 27歳)のカップルと親しくなった。
しかし、お・おのことも、加賀美同心への経緯(ゆくたて)語りからは省いた。

参照】2008年3月29日~[荒神の助太郎] (8) (9) (10

銕三郎がかかわった、駿府と掛川の事件は、加賀美同心の興味をいたく引いた。

参照】【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10)(11
12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () (

「賊としては、いろいろと知恵をはたらかせる方ですな」
「浅知恵ではありますがな。知恵よりも、実情を調べることには長(た)けています。それと、おんなをとろけさせる技(わざ)---」
「は---?」
「いや。なに---」


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2009.09.16

同心・加賀美千蔵(4)

松造(まつぞう 21歳)と小者が戻ってくるあいだ、焦慮をまぎらわせるためか、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は、いましなくてもいい話題を披露した。

町奉行所の与力と同心の俸禄と屋敷について、大坂のそれとくらべての愚痴であった。

俸禄が大坂並みに、与力が200石、同心が10石3人扶持にあがったのは、東が12代j前の松前伊豆守嘉広(よしひろ 56歳=転出時 1600石)、西は11代前にあたる小出淡路守守里(もりさと 48歳=致仕時 1600石)---つまり元禄のころ---70年前だという。
(まさに、役人の待遇の差別は恨み骨髄だな)

屋敷の広さも、大坂は与力が500坪なのに、京都は200坪、同心も大坂の200坪に対して京都は半分の100坪と嘆いた。

加賀美どの。むしろ、狭いのは、それだけ地価が高いと誇るべきではないでしようか。江戸の町奉行所の与力・同心衆も、屋敷の広さは京師とおなじと聞いております」
「大坂がうらやましい」
「転勤をお望みですか?」
「とんでもない」

(役人衆の、いつもの高望みの愚痴なのだ。しかし、なぜ、拙に---?)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が案じかけたところへ、松造が首をかしげながら戻ってきた。
「幼な子の声はしませんでした」

小者・巳之吉(みのきち 25歳)が顔色を変え、あたふたと駆けるようにして帰ってき、どもって、つまりつまり報告。
「み---店の、表戸が、し、しまっとりますねん。き、近所の衆は、た---たしかに、2つぐらいの、女の子ォが、いとるいうとりまねんけど」

加賀美さん。急いで!」
銕三郎が飛び出た。
松造がつづく。
加賀美千蔵同心は、お茶にむせ、息をととのえる分、おくれをとった。

表戸を蹴破って入ったが、もぬけのから。
昨夜から準備をしていたらしく、奥はきれいに片づいていた。
店内の商品も、よくみると、のこしているのは安物ばかり。

「しまった。拙が来たことで、奴らは警戒したのです」
丑三(うしぞう 40がらみ)に、あんじょう、騙されましたな」

竃の前に、童女のものとおもわれる、片袖がなくなっている人形が落ちていた。

「いえ。手前が、きんのう、予告したよって、消えたんです」

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2009.09.15

同心・加賀美千蔵(3)

賀茂川の手前に、いつかのとおり、その店はあった。
〔荒神屋〕と書いた看板もそのままである。

参照】2009年7月26日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

刺し子をしていた店番の中年おんなも、まるで蝋人形のようにそのままの姿でいた。

ずいっと入っていった加賀美千蔵(せんぞう 30歳)同心が、
「亭主を呼べ」

おんなは、刺し子から目をはなさないで、
「きょうは、いてまへん」
「どこへ行った? 帰りは?」
「聞ィてェ、しまへん」

加賀美同心が、おんなの腕を打ち、
「こっちを見て、答えろ。きのうのうちに、きょう、来ることを報せておいたはずだ」
「そんなん、うち、聞ィてやおへん」
おんなは動じない。

「亭主が帰ってきたら、きょうのうちに、奉行所に出頭するように伝えろ。きっとだぞ」
「へェ」

加賀美同心は、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を、丸太橋西詰の茶店に導き、茶をすすりながら、助太郎から〔荒神屋〕の屋号も店の品も居抜きで、買ったのが丑三(うしぞう)という中年男だと告げた。

20日ばかり前に会った中年の、大福餅のような丸顔で、人のよさそうな店主をおもいだしていた。
「いつ、店を買ったと言ってましたか?」
「所司代のご与力から、うちのお奉行に話がきてすぐだったから、7年前(明和2年 1765)の---」
加賀美同心は、初夏---4月の晦日近くだったようにおぼえていると。

参照】2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (

(出仕をするということは、記憶を研ぎすますということらしいな)
加賀美千蔵からも、銕三郎は一つまなんだ。

(まてよ。お(りょう 31歳=当時)から〔盗人酒屋〕あてに文をもらったのは、2年前(明和7年=770) だった。名古屋で助太郎と身重の賀茂(かも 30すぎ)らしいのを見かけたと書いてあった。賀茂は、前の女の子を悪い風邪で亡くしているとも報じてあった。
賀茂がややを産み、育てるとしたら、1年ほどは旅はできないfず。どこかに定着して育てているに違いない)

参照】200年4月30日[お竜(りょう)からの手紙] () () (

加賀美どの。さきほど、〔荒神屋〕の奥で、子どもがぐずる声かしませぬでしたか?」
「さて、気がつきませなんだ」
松造。あの店の裏手へまわって、しばらく、耳をすませてこい」

加賀美同心についていた小者が、
「近所で、それとのう、訊きこんできまひょ」
出ていった。

ちゅうすけ注】〔荒神こうじん)〕のおが、長編[炎の色]に登場したときは25,6歳---とすると、安永元年(1772)の年11月のこの時期、2歳に育っていないと辻褄(つじつま)があわなくなる。


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2009.09.14

同心・加賀美千蔵(2)

「まず、近衛河原へご案内します」
役宅の通用門で待っていた同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は長身を折ってあいさつをすと、歩みはじめた。

(ずいぶんと、ぶっきらぼうな仁だな)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)と若党・松造(まつぞう 21歳)は従うよりなかった。

昨夕、加賀美同心に会っている松造は、その人柄までは告げていない。

押小路を東へ向かう加賀美と並んだ銕三郎が、
「ご出身は、甲斐ですかな?」
加賀美同心が足をとめ、見下ろすように見詰め、
「巨摩郡(こまこおり)加賀美村ですが、それがなにか?」

ちゅうすけ注】現・山梨県南アルプス市加賀美

「いや、江戸にも、武田方から参られた加賀美姓の方がおられるので、ご縁のあるお家かと---」
千蔵は不審の眉を解き、頬をゆるめ、

加賀美一族---といっても数家が、跡部大炊助勝資(かつすけ)の同心衆に配されていたが、かの人の勝頼公への側近ぶりに離心し、わが祖は京へ逃げて処士(浪人)、のち東町奉行所で働かせていただくことになった---と述べた。

徳川軍団に組みこまれた跡部一族の衆とは、さようなかかわりがおありだったのですか」
「御所かかわり付(つき)ならともかく、東町奉行所にだけは、跡部さまがご赴任にならないことを願っております」
「これまでのところは---?」
「甲斐あってか、無事でした」
瞔(め)をあわせて笑いあった。

「わが長谷川は、今川方から徳川で、しかも、祖は三方ヶ原の戦いで武田方に討たれておるゆえ、おこころおきなく、おつきあいを---」
銕三郎の冗談めかした口調に、加賀美同心は好意をもったようであった。

加賀美どののご先祖のように、跡部方から京へ逃れた武田方の数は多かったのですかな?」
銕三郎は、歩きはじめながら、なんの気なしに訊いた。

「2,3家はわかっております。御所で賄方におつとめで、越後方からの武田勢入りされた飯室(いいむろ)一族の左衛門大尉さまもそのお一人です」

ちゅうすけ注】加賀美同心がなにげなく口にした飯室こそ、地下役人の不正事件の首犯の一人だったのだが、銕三郎は聞き流してしまった。
ミステリーだと、これは重大な伏線だから、ここで注などはいれない。

2人のうしろでは、加賀美つきの小者と松造が、たのしそうに何事か話し合っている。

銕三郎が借りている家のある、押小路の路地口にさしかかった。
横目で加賀美同心の表情をうかがったが、変わりはない。
(西町奉行所は、東のお町へは、どうやら、通じてはいないらしい)

加賀美どの。先刻、近衛河原と言われたように聞きとりましたが---?」
「失礼。このごろは、荒神河原と呼んでいるようです」
(それで納得。〔荒神(こうじん)} )の助太郎(すけたろう 50すぎ)の店が以前あった所へ向かっているのだ)

御所の東南角---寺町通りを左折した。
仙洞院御所脇の武家町門(寺町門)をすぎ、先日訪れた下(しも)の禁裏付・高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)の役宅の北から川原町通りを横切って、銕三郎が思わず声をだした。
「あっ」

加賀美同心がふところの十手へ手をかけ、ふり向き、
「どうか、なさいましたか?」
「いや。仔細ありませぬ。河原町通りの名づけの理由(わけ)がわかっただけのこと」
「近衛河原で---?」
「さよう」

笑顔が交わされた。


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2009.09.13

同心・加賀美千蔵

(てつ)。東の酒井丹波 忠高 ただたか)どのから、言伝(ことづ)てがあった」
西町奉行として、奉行所の与力・同心たち全員との顔合わせもようやくにすませたらしい父・宣雄(のぶお 54歳)は、役宅へさがってくるなり、息・銕三郎(てつさぶろう 27歳)を書院へ呼びつけた。

「拙にでございますか?」
「うふ、ふふふ。釣り天狗どのは、よほどに、のことがお気に召したようじゃ。もの好きにもほどがある」

参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

宣雄は、苦笑しながら、
「ほれ、〔荒神(こうじん)〕の---なんとやらいうたな、盗賊---」
助太郎(すけたろう)---です」
「そう。その助太郎のことを調べた同心に引きあわすから、暇なときに役宅へ参るようにとのことであった」
「は。では、お伺いしてよろしいのですね」
「別に、かまわぬ」
「西のお町の息が、東のご奉行のところへ参っても---」
「なにをとぼけたことを。なんぞ、西の奉行所の端くれにも入っておらぬわ---うふ、ふふふ」
よほどにご機嫌がいいらしい。
きょうの宣雄は、笑顔が絶えない。

下がろうとする銕三郎へ、
久栄(ひさえ 20歳)の手がすいていたら、肩をもんでくれと伝えてくれ」
「かしこまりました」

上洛の旅のあいだずっと、本陣へ落ち着くとすぐに、久栄に肩をもませていたらしい。
奥どうぜんの(たえ 47歳)が、この齢になって異国の水は飲みとうないと、夫とともに京へ上ることを承知しなかったせいもある。
「それでは、お舅どのが若い京女(おなご)をおつくりになります」
久栄がおどすように誘ったが、
「子種がのこっておりますものか」
「まだ、54歳のお若さです」
久栄どのの手でもにぎりましたかえ」
久栄が赤面するのを、うれしげに眺めていたという。

銕三郎は、若党・松蔵(まつぞう 21歳)を東町奉行・酒井丹波守忠高の役宅へ使いに出し、明五ッ半(午前9時)に参上してよろしいかと伺わせた。

松造が戻ってきたのは、半刻(はんとき 1時間)もたった夕刻であった。
「たかが3丁半(400m)ほどの往還に---」
言う前に、松造が言い訳をした。
「ご同心・加賀美(かがみ (30歳)さまの組屋敷をお訪ねしておりました」

松造が弁解したところによると、酒井町奉行は、そのことは加賀美千蔵同心が掛りだが、すでに帰宅しておるから、組屋敷へまわって時刻をじかに打ち合わせるように。加賀美同心は宿直あけの公休日やもしれぬゆえ---との示唆であったと。

「それで、上へあげられまして、かように遅くなりました」
「苦労であった。して、加賀美どののお返事は?」
「用向きのことはお奉行から指示があった。あすは公休ゆえ、五ッ半にこちらへお迎えに参られると---」
「迎え?」
「お目におかけしたいものがおありになるとか---」

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2009.09.12

[鬼平クラス]リポート 9月6日分

静岡駅ビル・SBS学苑[鬼平クラス]の2009年9月6日(日曜日)のテキストは、文庫巻10[お熊と茂平]。

池波さんの発想の手順が端的にうかがえる好篇である。

いつもいっているとおり、池波さんが発想の端緒をつかむのは、
1.『江戸名所図会(ずえ)』の絵
  (ときにはそれが、『東海道名所図会(ずえ)』『都名所図会(ずえ)』『中山道名所図会(ずえ)』であることもある)
2.江戸切絵図
この2つは、江戸もの時代小説家は、だれでも重宝している。 
(上の2点に加える基本史料は、武家ものなら『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』『徳川実紀』『柳営補任(りゅうえいぶにん)』『武鑑』など。
市井ものなら『武江年表』『近世風俗志』『広重江戸百景』)

池波さんは、上記の諸書にくわえて『鬼平犯科帳』のために『江戸買物独案内』を所蔵していた。
盗賊に襲われる商舗の所在した町名を調べるためである。


さて、テキストの[お熊と茂平]。

連載中の『剣客商売』の[老虎](文庫第2巻収録 『小説新潮』連載)を書き上げた波池さんは、ほっとし、
「明日からは『鬼平』(『オール讀物』連載)にとりかかるか」
独り言をつぶやき、机脇から愛読の『江戸名所図会』を手にとってぱらぱらとめくる。

偶然にひらいたのは、〔本所・弥勒寺〕のページ。

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本所・弥勒寺 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

参考】大きな画面でご覧になるなら[本所・弥勒寺]←クリック

この絵をみるたびに、1年半前に創作した[寒月六間堀]の文章が自然と頭に浮かぶようになっている。

弥勒寺の前を通りすぎようとした平蔵へ、門前茶店〔笹や〕から、
「ちょいと、銕つぁんじゃあねえか。素通りする気かえ」
と、声がかかった。爺いのような塩辛声なのだが、声の主は女である。女といっても七十をこえた凧(たこ)の骨のような老婆である。これが〔笹や〕の女あるじでお熊という。このあたりの名物婆さんだ。p217 新装版p227

この篇を書いたときは、弥勒寺の山門前のニッ目の通りのニノ橋寄りにしつらえられている木戸に目がとまり、その右先の板庇(いたびさし)に、門前茶屋〔笹や〕を設定、その南隣の庭に記された〔植木や〕の文字で、〔植半〕と店名をつけ、ここへ老武士・市口瀬兵衛を倒れこませた。

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(同上部分 [笹や]と〔植木や〕の指定書き文字)

が初登場したこの篇以後、彼女は、

[8-6 用心棒]       p217 新装p227
[9-1 雨引の文五郎]   p7 新装p7
[10-2 蛙の長助]     p8 新装p8
[10- 5 むかしなじみ]  p50 新装p53

新しいコメディ・リリーフの役を立派にこなしている。

[10-7 お熊と茂平]では、おに主役をふってみるか---池波さんは思いながら就寝と、寝酒のウイスキーをショット・グラスに注ぎ、も一度、〔本所・弥勒寺〕の絵に視線をおとす。

「五間堀に架かった弥勒寺橋は[寒月六間堀]で使ったから---」
---ひとりごち、
「弥勒寺を舞台にしてみよう。五間堀側の塔頭(たっちゅう)の竜光院とその前の南門はどうたろう」

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(同上 塔頭・竜光院と南門)

そのまま、
「あとのストーリーは、朝のさんぽにまかせよう」
ウイスキーをあおって眠りについたろう。

余談だが、おは、これ以後、以下の諸篇に登場して笑いをふりまく。

[12-7 二人女房]    p290 新装p303
[15 雲竜剣-3 闇]    p131 新装p136
[16-2 網虫のお吉]   p79 新装p83
[17 鬼火-5 丹波守下屋敷]p193 新装p198
[18-3 蛇苺]        p82 新装p85
[19-:2 妙義の囲右楕円] p72 新装p73
[20-7 寺尾の治兵衛] p257 新装p266
[22 迷路6 梅雨の毒]  p157 新装p152
[22 迷路-7座頭・徳の市]p187新装p177
[23 炎の色-1 夜鶴の声]p60 新装p58
[23 炎の色-2 囮]     p90 新装p88
[23 炎の色-3 荒神のお夏]p144新装p140
[24 誘拐-2 お熊の茶店]p163新装p155

もっとも、北林谷栄さんがお役で登場するのはテレビ版では[お熊と茂平]の1編きりのはずだが。

原作のほうは、さて。
朝のさんぽで、茂平が竜光院の南門で行き倒れる場面がうかび、ストーリーは、糸をつむぐように、池波さんの頭の中でするするとつながっていく。


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2009.09.11

備中守宣雄、着任(7)

長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳 400石)らが、東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000石)の役宅を辞したとき、玄関の式台の脇に西町奉行所の同心・和田 貢(みつぐ)がひかえており、下(しも)の禁裏付・高力(こうりき)土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)から、禁裏での用務が思いのほか早く終わったので、七ッ(午後4時)すぎに役宅でお待ちしているが、ご都合はどうかという使いが来たと、曲渕(まがりぶち)勝十郎(かつじゅうろう 30がらみ)与力へ告げた。

曲渕与力が、新旧両奉行にうかがった。
さきに太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)がうなずいたので、宣雄も首を縦I傾けた。

曲渕与力が、
「伺うと伝えてくるように---」

和田同心が立ち去ったのをたしかめてから、曲渕与力は、言葉をつないだ。
和田は、浦部(源六郎 げんろくろう 50歳)どのの配下の、こころきいた同心です」
これは、宣雄への添え言葉であった。

一行は、東町奉行所から、そのまま、荒神口の下(しも)の禁裏付武家の役宅へと東に向かう。
寺町通りを左折、仙洞の御所の南角、武家町門をすぎると、下の役宅である。

「まことに、ご無理な所望、恐懼(きょうく)千万。なにしろ、公家方の武家伝奏(てんそう)は、自分方の要求のときには悪鬼のごとくにしつこく、こちらの申しようにはのらりくらりでしてな。きょうは、仙洞御所の廊下の柱からやにがでたとの愚にもつかぬ苦情で---こちらが新任とおもってか、かさにかかって言い立てますのじゃ」

土佐守長昌の着任は、昨年(1771)の9月下旬であった。
高力家の遠祖は、平氏の武門であったのに頼朝(よりとも)に味方し、兵庫の戦闘では16歳の若武者・平敦盛(あつもり)を手にかけた熊谷直実(なおざね)ということで、公家方の人気がよくない。
底意地の悪い応対をやめないらしい。

土佐守長昌とすれば、600年も昔の源平のことと、いまの徳川の譜代である自分とをいっしょにするとは、禁裏に勤仕している人びとの刻(とき)の感覚は止まってしまっていると嘆くばかり。

とにかく、交替のあいさつをすませて引きあげながら、太田播磨守が、
土佐どのが本気でお怒りになるから、公家衆がおもしろがって悪さをしかけるのですよ。そこのところを、土佐どのも早くにiお気づきにならないと---」
こころえた風のことを言う播磨守だが、その蔭には、宮家・隋自意院遵法親王(51歳)から時服4領を恩賜されてから、朝廷側びいきになったにすぎない。

じつは、今宵は、備中守宣雄が主催する送別の宴会がひかえているのだが、その席でまたぞろ、恩賜の自慢をきかされるかとおもうと、宣雄も気がおもかった。


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2009.09.10

ちゅうすけのひとり言(39)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の、京都・西町奉行(1500石格 役料600俵)の着任あいさつまわり先のひとつに、禁裏付をいれた。

三田村鳶魚[御所役人に働きかける女スパイ]をたどりながら、3人の禁裏付(1000石格 役料1500俵)の名をあげておいた。
天野近江守正景(まさかげ 70歳 300俵)
高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)
水原摂津守保昌(やすまさ 50歳 200俵)
 (年齢は安永元年(1772)現在)

職務は、鳶魚翁の解説を引用すると、

秀忠将軍の時、朝廷からのお請求によって設けられた皇居警察官ともみ申すべき役柄)

とある。

与力各5騎、同心各20人。ほとんど京都生まれ、同じく育ちだから、御所役人と縁つづき、顔なじみが多い。
したがって、口向(くちむき 天皇の諸事に仕える地下)宮人の不正の探索のことは、逮捕の時まで、与力・同心には洩らされなかった。
月番で隔月に交替で勤務し、与力・同心の何人かずつが禁裏の3門を警備に向けられた。

明治期の後年に宮廷人・下橋敬I長(けいしょう)氏が口述した『幕末の宮廷』(東洋文庫)から、宮廷人側から見た「(禁裏)御付武家」の項を引いておく。

御附武家(おつきぶけ)衆ニ人、徳川家の旗本御附人、上(かみ 北)の御附は、相国(しょうこく)寺門前町が今日(明治期)の官宅、その時分の役宅でございますが、其処(そこ)におりまして、下(しも)の御附は、今日でいう高等女学校(現鴨沂 おうき 高校)になっております寺町荒神口の角が役宅。

それが月番です。七月が下の御附が月番ですと、八月は上の御附が月番。そうして、すべて御用を取り扱いますのは月番の職掌でございます。

非番の方は相談はむろんでございますが、役宅におきまして御用は取り扱いませぬ。
御用を取り扱うのは、すべて当番でございます。

これはなかなか見識にものでございまして、此処(ここ)に御附ニ人と申します者が、御内儀(御所まわり)の口向を総括し、取次以下士分に残らず、口向および仕丁(じちょう)に至るまでの進退ちっ陟(ちょく 官の任免)をつかさどる。

すべてご用談は(公家側の)伝奏(てんそう)と相談をし、(公家側の)武家伝奏も、徳川家への御用談の筋は、御附の詰所(祗候間 しこうのま)へ天奏が罷(まかり)り出て、御附武家と相談をする。

御附の参内行列 それから、御附が役宅から朝廷へ向けて参上いたします時には、なかなかに偉い勢いなものです。
先徒士(せんかち)三人、次に槍(持 もち)、それから駕篭(かご)に乗りまして、舁夫(かごかき)が四人で、近習(きんじゅう)ニ人両側に召し連れまして、後には草履取と傘持、その後に押(おさえ)と申しまして、羽織を着まして一本差した下部(しもべ)がニ人ほどございます。


大げさな---といってはいけない。
失業救済とわりきっておこう。
合理主義だけがいいとはかぎらないのである。


案内同心 そうして、先へ向けて案内同心を一人ずつつけてゆきます。
案内の同心は、京都に常住居(つねずまい 父子代々京住みで、交替で赴任して来る上司の武家に仕える)ですが、徳川さんの御家来です。

その同心というものが、不都合のないように、先徒士三人の先に立ちまして羽織袴で、そうして案内をいたします。

そういたしませぬと、御附は徳川さんから来た人でございますので、どれがお公卿(公家)さんで、どういう身分の人やら、どれが宮さんで、あるいは、どれが五摂家だということは、区別が分かりませぬから、案内同心と申して、京都に常住で、御附こそ東京(江戸)から交代しまして、京都へ出て来て、御附から出世して町奉行になる。
その上にまだ出世すると東京(江戸)へ帰りまして、徳川さんの旗本の御用をいたします。

旦那(上司の御附武家)は始終代わりますが、与力同心は代わることはない、京都のことは黒人(くろうと)でございます。
その案内同心が先へついて、五摂家なり、宮さんなり、大臣、堂上(どうしょう)方がお出になってもも不都合のないようにいたします。(後略)


いくら町方だから禁裏とは縁がうすいはずとはいえ、それをかさに着たもめごとも持ちこまれようから、、この先の平蔵宣雄の苦労がおもいやられるというもの。

それはそうと、「禁裏付から町奉行への出世」ということだと、宣雄の着任は、ケタはずれであったことが、よく分かる。


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2009.09.09

ちゅうすけのひとり言(38)

きのう、掲示した下(しも)の禁裏付・水原(みはら)摂津守保明(やすあきら 50歳=安永元年(1772) 200俵)の[個人譜]を眺めていて、合点がいかないことが発生した。

ご同意を容易にしていただくために、その[個人譜]の一部を再掲示。

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長谷川平蔵家の史的l理解のために、どうしても解明しておかなければならない疑問である。

水原保明は、幸田善太夫高成(たかなり 享年56歳 飛騨・高山の代官 150俵)の次男である。

水原家に養子にはいり、先妻は家つきの長女であったが、子をさずかることなく歿したらしい。
というのは、家督が許されることなく、罰せられて遠流になった長男の保興(やすおき)の母は後妻・「宣雄が女」となっていることからの推察である。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の個人譜では、仮に多可と名づけたこの女性は、銕三郎(てつさぶろう)の第一妹のところに記されている。
鬼平こと平蔵宣以(のふため)の息・辰蔵が幕府へ提出した[先祖書]でも、養女・多可は、銕三郎の次---すなわち、妹と記載されている)

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ここまでの経緯には、なんの疑念もおきない。

いろいろの状況から、当ブログ[多可がきた]()で、彼女の年齢を銕三郎と同じにした。ただ、生まれたのは、わずかに多可のほうが遅れていたために、妹扱いとなった。

疑問は、ここからである。

多可が水原保明(40歳=当時)に嫁いだのは、宝暦11年(1761)、16歳なら平仄(ひょうそく)があうような気がして、[多可の嫁入り]()にそう書いた。

さて、水原の長男・保興は、博打(ばくち)に手をだしたが、戒められて一応は遠のいたものの、胴元をした者にかかわりのある者に住まいを貸したということで、天明8年(1788)に島流しの刑に処(しょ)されている。

多可が後妻になった年に保興を産んだとすると、受刑のときの保興は27歳のはず。
(この年、父・保明はまだ京府iにあって禁裏付をつとめている。多可はもちろん病死してしまっており、保明は三人目の妻を迎えていた)
保興は、いわゆる軽輩御家人の家が密集している本所・南割下水の屋敷に、妻子とともに留守をまもっていて、博打にかかわりのある里見庄左衛門をとめた。

ここまではよくある話である。

2人の息子たちの幼名は、万之助徳之助

解せないのは万之助が、追放されていること。
一族の罪のとばっちりを息子がかぶる場合、たしか15歳になるまでは執行されなかったはず---とすると、万之助は15歳か、こえていたのかな?
15歳だったとすると、父・保興が27歳だったとして、12歳のときの子になるが---。

こういう疑問が、おいそれと解決するとはおもえないが、こうして記録しておくことで、いつか、奇特などなたかが、追跡・解釈してくださるかも。

ところで、2人の息子の母---つまり保興の後妻---は、朽木市左衛門寛総(ひろのぶ)の許へ、幼い徳之助をつれて身を寄せたとおもうが、『寛政譜』に朽木寛総の名はない。
織田信長が越前の戦線から遁走するとき、京への山あいの道を領していた朽木家に救われている。
朽木はそれほどの家柄なのに寛総が『寛政譜』に収録されていないということは、この仁、お目見(みえ)以下の家格だったか、大名家の家臣てげあったか。


ところで、息・保興と孫たちが処分されたとき、禁裏付・摂津守保明はどうしたろう。
京にとどまって職務を遂行しており、保興の不始末を憤っていただけでであろうか。
非番月を利用していそぎ帰府、あちこちに手くばりをしたか。

とにかく、天眼鏡で覗いて仔細をたしかめると、一族にはこうした悩みのタネをつくる仁が一人ほどはいるのが、人の世ともいえそうである。


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2009.09.08

ちゅうすけのひとり言(37)

前回(36)のひとり言で、中公文庫・鳶魚江戸文庫8『敵討の話 幕府のスパイ政治』から、[御所役人に働きかける女スパイ]を選び出し、、御所・口向(くちむき)役人の汚職の探索ぶりを紹介しておいた。

鳶魚は、京都西町奉行・長谷川平蔵宣雄(のぶお 享年55歳 400石)の後釜の山村信濃守良晧(たかあきら 45歳=着任・安永2年 500石)が幕府上層部から密命をうけ、案をつくしたように書いている。

山村信濃守についても、

名を良晧(よしはる)といって、信州木曾御関所預、交代寄合山村甚兵衛の分家で五百石、早く御小姓になり、御先手組頭から御目付を経て、京都町奉行になった人だ。
山村信濃守が赴任の際に幕閣は特に内命を授けた。「近年禁裡御所方御賄入用莫大にして、年々御取替高多く、是全く御所役人共、非分の義有之と相見え候得者、其方宜敷相糺すべき」旨を命ぜられたのであった。

べつにあげつらう気はないが、鳶魚ともあろえう碩学が、「先手組頭から目付」というような基本的な間違いを記しているのは、どういうことであろうか。
名前の読み方についても、首をかしげるのだが。

鬼平ファンならすでに衆知のように、先手組頭は1500石格、目付は1000石格である。
寛政譜』にも、先手組頭に就任したとは書かれていない。

それはともかく、山村信濃守の前任の長谷川平蔵宣雄も、同じ密命を受けていたが、着任後わずか8ヶ月で病没してしまったので、成果をあげることができず、密命だったので記録も残されていないのではないか---これが、ちゅうすけの推理である。

ふたたび、[御所役人に働きかける女スパイ]から、もう一件、糺しておく。

事件は、安永3年(1774)8月27日、関係者の処刑いいわたしをもって落着するが、購入物件についての、御所役人の目にあまるほどの購入金額加筆があきらかになった夜の項---

禁裡御付水原(みはら)摂津守・天野近江守(これは秀忠将軍の時、朝廷からのお請求によって設けられた皇居警察官とも申すべき役柄)、召取方を指揮し、飯室左兵衛大尉以下を揚がり場へいれ---

とあるが、このときの上(かみ)の禁裏付は、先日に長谷川平蔵宣雄があいさつに行ったたしかに天野近江守正景(まさかげ 72歳=安永3年 300俵)は在任中であった。

もう一人---下(しも)の禁裏付水原摂津守保明(やすあきら 53歳=安永3年 200俵)の『寛政譜』をみると、禁裏付に任じられたのは安永5年(1776)7月8日、事件が片付いて2年後である。

だから、御所役人の不正摘発には関係がないようだが、長谷川家とは大いに縁(えにし)がある。
平蔵宣雄の養女---つまりは銕三郎(てつさぶろう)の妹・多可が嫁いでいる。

参照】 2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (

2007年12月3日~[多可の嫁入り] () () () () () () (

2008年1月5日[与詩を迎えに] (16

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多可は、後妻であった。
男の子を一人産んで歿する薄幸の生涯であったが、銕三郎という兄を持てたことを、いつまでも感謝していた。
もっとも、14歳で男になった銕三郎は、芝・新銭座の表御番番医・井上立泉から、処女の芝生は、割れ目から左右にきれいになびいていると吹かれ、多可にいくども「見せろ」と言いそうiになって困ったが。

多可が歿してから、長谷川家水原家はまったくといっていいほど疎遠になった。
というより、水原善次郎保明が微禄を気にしてよりつかなくなったのである。
水原家が200俵加増されて400俵---采地400石に相当---になったのは、この事件から7年ばかりあとの天明2年(1782)である。

というわけで、平蔵宣雄が新任のあいさつにいった(しも)の禁裏付は、名門・高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)であった。
銕三郎は、長昌のことより、その役宅が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)のかつての店に近いことのほうが印象に残ったと洩らしていた。

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2009.09.07

備中守宣雄、着任(6)

東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000石)の役宅は、西町と同じく、奉行所の敷地の中にあった。

この月の月番は西町なので、東の奉行所は表門を閉ざしている。
脇の門が役宅の玄関へ通じている。

小柄な丹波守が齢より老けて見えるのは、目尻や口元の両端の皺が深いからであろう。
川釣りが好きというだけあり、肌はけっこう日焼けしていた。

「この春の目黒・行人坂の火付犯の割り出し、お手柄でありました」
かつて、先手・弓の10組の組頭時代に、火盗改メの助役(すけやく)を半年近く勤めたことがあるだけに、火付犯の逮捕のむつかしさをこころえた口ぶりであった。

「僥倖でございます。それよりも、あの火事で、向柳原のお屋敷がご難でありましたこと、お見舞い申しあげます。発(た)ちます前日に、奥方さまにごあいさつに伺いましたが、お住まいは九分どおり進んでおりました。新しくなり、かえって使い勝手がよくなったとお喜びの様子でありました」
「おお、お忙しいところ、わざわざ、お見舞いくだされましたか。恐悦、恐悦」

連れの太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)の留守屋敷は赤坂築地なので、火難をこうむっていない。
この会話に加わるわけにはいかず、憮然としていた。

備中守宣雄(のぶお 54歳 400石)は、着任のごあさつ代わりのつもりと断り、携えていた釣竿を袋から抜いて差しだした。
受けた丹波守忠高は、目をかがやかせ、
「東作(とうさく)でござるな。いま、江都でめきめきと評判を高めておるやに聞いておりましたが、備中どのから頂戴できるとは---優美な姿(しな)といい、しなりの軽妙といい、さすが、噂にたがわぬ逸品。かさねがさね、恐悦至極」

丹波守のよろこびようは尋常ではなかった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、父・宣雄の釣り好きをしってはいたが、東作を手みやげに選ぶとはおもいもつかなかった。

ちゅうす:け注】『鬼平犯科帳』文庫巻12の好篇[密偵たちの宴]p184 新装版p194 に、宣雄は町医・玄洞の筋向かいの釣道具屋〔浜屋〕伊四郎方の釣竿「好んでひいきにしている」とある。

とにかく、東作の竿で、丹波守宣雄の親密さはたちまちに深まった。

「で、本日の獲物はいかがでございましたか?」
播磨守正房が精いっぱいのお世辞を言った。

丹波守忠高はほとんど無視同然の口ぶりで、
「上手は、釣らぬのを矜持(きょうじ)としておるのでござるよ。ふっ、ふふふ」
手はあいかわらず、東作のしなり具合をたのしんでいる。

「江戸では、北風(ならい 寒冷な強風)は魚に吉---といいますが、京ではいかがでしょう?」
宣雄の問いかけは、丹波守のこころをくすぐった。
「まさに、至言ですぞ」

帰宅してから、銕三郎が東作の効果に感心したことを告げると、宣雄はさらりと、
「かの仁は、水野一門から酒井の末流へご養子にお入りになった。どちらも名家中の名家である。そこへ、今川系長谷川では、対等のおつきあいはむつかしい。しかし、釣り朋友ということであれば、あとは腕次第」

「それにしては、父上は、釣りをお誘いくださいと申されませんでした」
「あたりまえじゃ。釣り人というのは、自分の穴場を釣り仇には教えないものよ」
「そういえば、丹波さまもお誘いになりませんでした」
「人情の機微よ」

銕三郎が、好々爺を装っている酒井丹波守を隅におけない仁とみたのは、つぎの一幕があったからでもある。

丹波守宣雄に問いかけた。
「ところで西のご奉行。隅にお控えの若衆は、ご継嗣ですかな」
「はい。銕三郎と申す、ふつつか者でございます。今後ともに、よろしくお引きまわしのほどを---」
「ふつつか者と思うているのは、父親ばかりでな。うっ、ふふふ。これ、銕三郎とやら。本多紀品(のりただ 59歳 2000石)どのはお変わりないかな?」
本多采女(うねめ)紀品の名が突然iでてきて、あわてたのは銕三郎ばかりでなかった。

宣雄が、
「どうして、本多どのを?」
「うっ、ふふふ。火盗改メをやった者の性(さが)でござろうか。盗賊という字を見逃せぬのですな」
「は?」
本多どのが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎だか助兵衛とかいう盗賊の探索方を、当時の所司代・阿部伊予(守 正右 まさすけ 42歳=当時 福山藩主 10万石)さま経由で頼まれましたろう? その書状が東町にまわってきておりましてな。いや、前の前の奉行・小林伊予(守 春郷 はるさと 65歳=当時 400石)どののときです」
「そんなものまでもお読みで?」
「釣り場で、浮きを見ているのに飽きたときに---」

参照】2008年2月16日[本多采女紀品] (


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[備中守宣雄、着任] () () () () () 

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2009.09.06

備中守宣雄、着任(5)

上(かみ)の禁裏付の役宅は、御所の北側---近衛家脇の今出川門から相国寺へ通じている道の東側(上京区の同志社大学裏門の向かいあたり)にあった。

68歳の天野近江守正景(まさかげ  300俵 1000石格 役料1500石(実は俵))は、よほどの寒がりらしく、綿入れで着ぶくれていた。

この好々爺が、月番で御所の詰所(祗候間 しこうのま)へ参内するときには、10人をこえる供にかこまれ、五摂家と行き交っても槍を伏せないほどの威厳を示すのかと、事情をしっている者なら疑うであろ。

ここでも、備中守宣雄は、ぬかりがなかった。
「ご壮健なのは、お血筋でございますな」
近江守は目を見はり、
「実父をご存じですか?」
「はい。仙波年種(としたね 220俵 享年79歳)どのでございましょう? 小十人の5番手与頭(くみがしら 組頭とも書く)の現役を23年間も矍鑠(かくしゃく)とお勤めだった、伝説のお方です」
「おうおう、実家の父をご存じのお方にはじめてお目にかかりましたぞ。長谷川どの。ゆっくりとして、実父のことをもっと聞かせてくだされ。なにしろ、手前は10歳のときに養家にだされましたので、実父の記憶が薄うございましてな」
「お兄上さま・弥一郎(やいちろう 享年79歳)どのも長寿であられました」
「あの兄とは、血がつながってはおりませぬ」
「しかし、甥ごの弥左衛門(やざえもん)どのも、大番を現役でお勤めです」
「あれは、甥ごというても、手前と1歳ちがいなのですじゃ」

さすがの太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)も、恩賜の自慢ができなくて、憮然とした面持ちでいるのが、部屋の片隅にかしこまっている銕三郎(てつさぶろう 27歳)にはおかしかった。
(それにしても、父上は、いつのまのあのよな知識を仕込んだのであろう?)

「ご実父・仙波さまですが、手前が小十人におりましたときに、風邪や腹痛で欠勤届けでも出そうものなら、仙波さまを見習えとはっぱをかけられましたものです。それほど、ご精勤をおつづげになり、小十人組の鑑(かがみ)でございました」
「長生きもご奉公の一つですな」
「まったく」

もっと話して行けとすすめる近江守に、あと、東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000俵)との約が控えていると赦しを乞う。
近江守正景は、いかにも残念といった面持ちで、
「また、お遊びにおこしくだされ」
何度もくりかえした。

その夜、宣雄銕三郎が交わした会話を記しておく。
「父上。上(かみ)の禁裏付どのの実家のこと、どのようにしてお調べになったのですか?」
「われが頭をしていた小十組が5番手だったから、伝説を耳にはさんでいてな。上洛するまえに古巣へ行っていまの組子たちにたしかめてみた」
「それにしても---」
。人というのは、自分のことにいちばん興味をもつものなのだ。他人のことは、不幸なことにしか興味を示さない」
「しかし、そこまで、自分を無になさいますと、お躰にさわりませぬか」
「そういうものだと割り切れば、別にどうということもない」
銕三郎は、父の顔色がさえないことをいいそびれた。


[備中守宣雄、着任] () () () () () 

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2009.09.05

備中守宣雄、着任(4)

所司代の役宅を出ると、前任奉行・太田播磨守正房(まさふさ 69歳 400石)は、すぐ目の前の二条城の北大手門で、
備中どの。相国寺門前町、上(かみ)の禁裏付(きんりつき)の役宅までは小半刻(30分)もあれば足りる.。九ッ(正午)をすぎたあたりに、ここて落ち合いましょう」
「粗餐ですが、昼餉(ひるげ)でもごいっしょにとおもっておりましたが---」
宣雄(のぶお 54歳)の申し出を、いとも簡単に断り、さっさと大手門の中に消えた。

宣雄とすれば、郎党や下働きのおんなたちを奉行所の役宅にのこして、帰任まで二条城に仮住まいしている播磨守を、好意で誘ったのだが、なにか別に考えがあるらしい遁辞ぶりであった。

銕三郎(てつさぶろう 27歳)も異様におもい、役宅へもどっての昼餉の場で、
播磨さまは、父上に、なにか含むところでもあるのでしょうか?」
口にしたほどであった。

「いや。大事ない。われが田中城や小川(こがわ)の香華寺にまわり道をしたために、播磨どのの帰任が遅れたことを不快におおもいなのであろう」
「しかし、それは、播磨さまの了解のもとになされたことでございましょう?」
「この7月、日光ご門跡(もんぜき)の公啓法親王の病いが篤くなり、寺務を代って御されるために随自意院遵法親王(51歳)の下向に、所司代の意をうけ、播磨どのが随伴なされた」

その途次、掛川辺で大嵐に会い、一行が難儀したのを太田播磨守が掛川藩とかけあって護衛をまっとうした。その適切な手配に随自意院がわから時服4領を恩賜された。
よほどに自慢であったか、所司代・土井大炊頭利里(としさと 51歳 上総・古河藩主 7万石)への帰別のあいさつのときにも、新任の宣雄をさしおいて、掛川での功績を語った。

そういう場での宣雄は、まるでそこにいないがごとくに口をはさまず、ゆったりとして面持ちで聞き流している。
これが、銕三郎には、まだ、見習うことができない。
つい、話に加わってしまう。

「父上。これから訪れる禁裏付の天野近江守正景(まさかげ 68歳 300俵)どのは、大権現さまの尾張と駿河への人質に随伴なされた天野康景(やすかげ)どのの流れを汲む---」
「家名はそうだが、伊豆田方郡(たかたこおり)天野村の出の天野---大権現さまの人質にお供をした天野、三河国中山・岩戸村からおきた天野、織田方でその後の伊勢・長嶋を守っていた天野、甲賀・山上の天野、福釜松平の配下であった天野---と、いろいろでな」
またしても、銕三郎は、父の記憶力と調べの深さに驚くばかりであった。

「したがって、銕(てつ)。天野どのに、家筋のことを訊くでないぞ」
「わかりました。もう一つだけ、お教えください。京都町奉行は1500石格、禁裏付は1000石格なのに、格上の町奉行どのが、どうして禁裏付へあいさつに出向くのでございますか? 先方から司候してくるべきではないのですか?」
「われにもわからぬ。太田播磨どのがおたてになったあいさつまわりである。ま、役人というものは、できかぎり多め、広めにああいさつをしてまわるのが出世の条件ではある。いや、遵法親王さまから恩賜された自慢話でも、なさりたいのであろうか。、そのときは、久栄(ひさえ 20歳)との睦みごとをしているときのことでもおもいうかべ、聞きながせ」
(ありゃ。昨夜の久栄のあのときの嬌声がお耳にとどいてしまったか?)

「じゃがな、。ものは考えようじゃ---」
宣雄は、口じまいの茶をすすりながら、
「町方は、禁裏のことには手をだせない。禁裏の中のことは、禁裏付の職分じゃ。が、ご老中・田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 54歳 相良藩主 3万石)さまお声がかりの、御所賄方の不正探索の密命は、禁裏付へではなく、この備中守個人にささやかれた。なぜかわかるか。禁裏付の与力・同心が京育ち者たちだからである。御所役人と縁つづきの者がいないではない。しかし、最後には、御所内の探索・逮捕は禁裏付にの手にゆだねなければならない。そう考えると、この顔つなぎも捨てたもので゜はないぞ」

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[備中守宣雄、着任] () () () () () 

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2009.09.04

備中守宣雄、着任(3)

「ほとんどの家士を、帰してしまったので---」
明和元年(1764)閏12月15日---まる9年間、西町奉行を勤めた前任の太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)は、1500石格の供ぞろえの半分しか人数がいないことの言い訳をした。

「お詫びをしなければならないのは身共のほうでございます。一生にいちどの機会と、上洛の途次、先祖の墓参りなどで日を浪費いたしまして、ご迷惑をおかけいたしました。あとになって反省いたしました。墓参りなぞ、帰任のときにいたせばよかったのです」
備中守宣雄(のぶお 54歳)が深ぶかと頭をさげた。
謝った宣雄も、今朝の供ぞろえは、播磨守にあわせ、半分近くに減らしている。

ちゅうすけ注】宣雄は、「帰任のときにすれば」と言ったが、翌2年6月には病死し、帰路は遺骨であったから、着任時に墓参して正解だった。
こういうのを「虫がしらせる」というのであろう。

曲渕(まがりぶち 勝十郎)与力。この供ぞろえのこと、土井大炊頭 おおいのかみ 51歳 所司代)侯には通じてあるな」
播磨守は、まだこだわっている。
気はよくまわる仁だが、胆が大きいといえるほどではないようである。
徳川直参の中でも名門のひとつである水野の流れから、こちらも清康以来の家柄の太田家の一に16歳のときに養子に入っているから、引きは多い。

二条城北門前の所司代の上屋敷が、東西122間半と大げさなほど広いのは、徳川の実力を示すためと、公家衆に対する威圧もあってのこと---銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、腹の底で笑った。

高い物見櫓が、さらに威圧感を強めている。

新旧の町奉行が土井侯と面談しているあいだに、銕三郎は別の小部屋の襖をすべて開けはして、公用人・矢作(やはぎ)喜兵衛(きへえ 38歳)と対していた。

化粧指南師を、なんとか手だてをつくし、御所の賄頭(jまかないがしら)か勘使(かんづかい)の口向(くちむけ)役人の家への出入りを図っているというと、矢作用人は、満足げな笑みをもらし、
「どえらい謀(はかりごと)をお立てになりましたな。ことがうまく運びますことをる念じておりますぞ。それにしても、長谷川お奉行は、よき息をお持ちです」

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ちゅうすけ注】賄方と勘使が禁裏の購入を取り仕切っている。このうち、事件解決後、賄頭は幕臣を江戸から派遣するように変わった(下橋敬長・述『幕末の宮廷』(東洋文庫)。

「ひとつ、お伺いいたしてもよろしいでしょうか?」
「なにか?」
矢作どののご出自は、三河・岡崎領下の矢作川にゆかりが?」
「そのことなら、然り---とお答えします。祖が代々、土井侯の配下であったのです」
土井侯の?」
「三河に、かつて土居(どい)と称する郷があり、土井家はそこの土豪でありました。長谷川どのは、なぜ、他家の祖のことにご興味を?」

「いえ。恥ずかしながら、長谷川の祖も、駿州・小川(こがわ)の土豪から今川家の重臣になりましたもので---」
今川衆でしたか。それなれば、大権現さまも駿府に預けられておられたから---」
「駿府にも、小川の法栄の屋敷があったやに---」

そのとき、家士の桑島友之助(とものすけ 39歳)が廊下の向こうから、と声をかけた。
銕三郎さま。殿がご帰館になります」、

「では、ご公用人さま。また、いつか---」
「吉報をお待ちしておりますぞ」


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(所司代・土井大炊頭利里の個人譜)

[備中守宣雄、着任] () () () () () 

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2009.09.03

備中守宣雄、着任(2)

朝五ッ半(午前5時)をいくらかすぎた、まだ、暗いころあい、日課の鉄条入りの木刀の素振りをしていると、家士の桑島友之助(とものすけ 39歳)が、殿(宣雄 のぶお 54歳)がお召しになってておられます、と呼びきた。

「こんな早くに、お目覚めになったのか?」
「道中はずっと、その藩のご重役がお訪れになってもいいように、早くお起きでした」
「で、藩の重役は訪ねてきたのか?」
「いいえ、お一方も---」
「それでも、おやめにならなかったのか?」
「はい」
桑島も、気苦労であったな」
(あの人の性格なのだ。先読みがすすみすぎている)


息が霜になるのではとおもうほどの寒気だが、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、胸や背に汗をかき、頬にも幾筋もしたたっていた。
冷水で拭きとり、父・宣雄の部屋へ行ってみると、浦部源六郎(げんろくろう 50歳)と、もう一人、30がらみの初めてみる役人がひかえている。
浦部が、ご奉行のご用を承る執次(しつじ)役の与力・曲渕(まがりぶち)勝十郎(かつじゅうろう)と紹介した。

曲渕と申されると、北町ご奉行の---?」
「あちらとは縁者になりますが、こちらは右府さまの事件のあと、京へ逃がれてひそみ、そのまま、西町奉行所へ奉公いたしました」
「ほう。山県衆の出でしたか。いつか、ゆっくりと、ご先祖の三方ヶ原での戦いぶりなど、お聞かせくだされ」
宣雄が見かねて、
銕三郎、さような不急のことは、いまは措け。きょうの順路と、着るものなどの心得を聞け」

曲渕が控えの紙をたしかめにながら、四ッ(午前10時)に所司代・土井大炊頭(おおいのかみ)利里(としさと 51歳 古河藩主 7万石)の約がとれていること、ただし、銕三郎は目どおりがかなわず、公用人・矢作(やはぎ)喜兵衛(きへえ 38歳)が待っていること。

昼餉(ひるげ)のあと九ッ半(午後1時)に、上(かみ)の禁裏付の先任・天野近江守正景(まさかげ 70歳 300俵 1000石格 役料1500俵)を、今月は非番なので相国寺門前の役宅へ伺う。

本来ならば、格からいって、相役の東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000石 1500石多格 役料600俵)を屋敷のほうに先に訪問するべきだが、今月は東は非番でもあり、朝早くから嵐山の奥のほうへ山女(やまめ)釣りにでかけているので、八ッ半(午後3時)にお待ちしているとの申し入れがあったのである。

「装束ですが、こちらは市中と公領地の仕置きが職務でありますから、お奉行のみ肩衣(かたぎぬ)、われわれは若もふくめて、羽織袴です」
「こころえました」

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(赤=西町奉行所関連、緑=東町奉行所関連、青=所司代)

「町地図をご覧ください」
曲渕与力は、下手(しもて)を宣雄のほうに向け、新奉行ががよく見えるように置いたので、覗きこむようなかたちになった銕三郎へ、
「赤○が西町奉行所。その西側の赤半○が手前ども西町に勤めております与力・同心の住まいです。緑○が東町奉行所で、1町と離れてはおりませぬ。緑半○が東の組屋敷。
二条城の北にある青○が所司代の役所と役宅です。ここからざっと3丁(330m)とおおもいおきください。

浦部与力が、銕三郎にちらりと視線をなげ、
「二条城の南端から東へのびている通りが押小路(おしのこうじ)です」
「あいわかりもうしました」
返事を聞いて、浦部は意味ありげに微笑をもらした。
宣雄は、見ないふりをよそおっている。

「禁裏付の方々の役宅は、二条城から10丁(1.1km)東の御所の北と東の外にあります。北側のが上(かみ)、東のは下(しも)の禁裏武家と呼ばれております」

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(禁裏付の役宅。上の緑○が上(かみ)、右下が下(しも))


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2009.09.02

備中守宣雄、着任

明和9年(1772)11月11日の四ッ(午前10時)---京都町奉行の目付方・与力の浦部源六郎(げんろくろう 50歳)ほか1名、同心3名、小者6名が、京洛への東の入り口・粟田口手前---蹴上(けあげ)まで出迎えてにでていた。

ちゅうすけ注】明和9年が安永元年とあらたまったのは、11月25日である。
江戸市民のあいだでは、この改元を茶化した、年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(めいわく)---との落首がささやかれていた。

新任の西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)の一行が、今朝五ッ(8時)前に大津の脇本陣を発ったことは、大津まで出張っていた小人(こびと)目付が先に戻ってきて浦部与力に伝えている。

馬をおりて出迎えの礼を述べた備中守の、口調はしっかりしていたが顔色が冴えないのが、浦部与力は気になった。
(山城国特有の寒風のせいかも---)

銕三郎はまえまえから、役宅で待つことにきめていた。

宣雄が、白川橋の手前で、浦部らに、寸時、旅籠〔津国屋〕為吉と久闊(きゅうかつ)を叙し、かつ、銕三郎が世話になったことを謝していきたいと断わり、一行の足をとめたとき、
(気くばりが篤いこと、聞きしにまさるお奉行だな)
好意をもった。
銕三郎の行状については、ことさらに告げないほうがよさそうだ)
とも断定したという。

役宅で対面した銕三郎も、父・宣雄の顔色がすぐれないのは、長旅の疲れのせいかも---とおもったが、夜、久栄(ひさえ 20歳)から、駿府をすぎたあたりから、ときどき脇腹をなでることが多くなったようだと聞き、
(もしかしたら---)
医者の手配のことを、こっそりと浦部与力に頼んでおいた。

久しぶりの銕三郎に接した辰蔵(たつぞう 3歳)が興奮して寝つかないため、その夜、寝化粧の久栄が横にはいってきたのは、四ッ半(午後11時)をまわっていた。

辰蔵の躾(しつけ)が行きとどかず、申しわけございませぬ」
「疲れているのではないか? 明日の夜でもいいのだぞ」
「いいえ。50夜も一人寝をおさせしておりますゆえ、私の疲れなど---」
「無理をいたすな」
「ぜひにも、いたしとうございます。お隣の松田於千華(ちか 37歳)さまから、ひさびさのときのこなし方その1、その2を教わってまいっております。今宵は、その1を---」

参照】2009年6月10日~[宣雄、火盗改メ拝命] () (
2009年7月3日[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (

「その1は、拙がほかの女性(にょしょう)に精をほどこしたか否かを試す技戯であろう?」
「ほ、ほほ。身におぼえがございますような?」

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(清長 睦み)

「は、はは。馬鹿をいうておる場合でなかろうが---」
(性的不満の於千華どのの目、京までひそんできておるわ)


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2009.09.01

化粧(けわい)指南師のお勝(9)

「手職(しごと)で草臥(くたび)れきっていたのに、(てつ)さまとこうしていると、生き返ってきました」
「睦みあう力もよみがえってきたと---?」
「はい」
太腿におかれたお(かつ 31歳)の掌(たなごころ)が、そろりと股へ動いた。

「その前に、すましておきたい話がある」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)があらたまり、
「父上が、数日後に町奉行所の役宅へお入りになる」
(てつ)さまの奥方もごいっしょですか?」
「うむ。息・辰蔵(たつぞう 3歳)連れだ」

「では、しばらく、お会いできなくなりますね」
「拙は、父上についてあいさつ廻りに追われるとおもう。松造(まつぞう 21歳)のつなぎ(連絡)も、役所が退(ひ)けた七ッ(午後4時)以後、陽の落ちの早いこの季節だと、〔延吉屋〕の表戸がおりる七ッ半(5時)すぎとおもっておいてもらいたい」
指の動きを止めないおは、眸(め)をふせたまま、うなずいた。

銕三郎は、それにかまわず、押小路のしもた屋があくこと、家賃は半年分先払いしてあることを告げ、
「炊事・せんたくとか掃除が負担になるが、住まっておいてくれるか?」
「来てくださるのですね?」
「約束はできないが---」
「炊事や掃除は、通いのばあやを頼みます。夜はひとりでいます」
「〔延吉屋〕まで、片道8丁ほどの往来になる---」
「堺町通りはずうっと町屋つづきだから、宵の口なら、灯も洩れていましょう」
「そうか。住んでくれるか」
「出会茶屋の部屋代くらいは稼いでますが、いちいち、探す手間が省けるだけでも気が楽ですもの」

「それから、預かっておいてほしいものがある」
「なんでしょう?」
「お(りょう)の分骨の壷だ。あの家においてある。数年のちに、江戸へ帰ったとき、わが家の墓へ納めてやりたい」
「私のときも、そうしてくださいますか?」
「とうぜんだ」
「うれしい。きっとですよ」

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