[御所役人に働きかける女スパイ]
ここ、1ヶ月ばかり、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、京都西町奉行に任じられた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)に先行して上洛し、あれこれ策を練っている様子を書いてきたのは、三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)に刺激を受けたことによるとは、これまでもたびたび打ち明けた。
それが、ある史料を目にしたために、鳶魚翁の物語が信じられなくなったのである。
もちろん、その史料によって、平蔵宣雄が密名をうけたことも、銕三郎がそのために駆けまわったことも打消しはしない。
ただ、両人には運がついてまわっていなかったとおもうだけである。
【参照】2006年7月27日[町奉行 山村信濃守良旺(たかあきら)]
2009年7月11日[佐野与八郎政親] (1)
まず、↑をくりック。、ちゅうすけの、宣雄への密命拝命説は、かなり以前からのオリジナルなものであることをご納得いただきたい。
これから、1週間ばかりかけて、運がついていなかったことを明かしていきたい。
まず、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をかいつまんで引用しながら、理解を深めるために注釈を適宜おぎなっていこう。
山村信濃守の発途
明和七年(1778)、京都の町奉行は、東が酒井丹波守(二条南神泉苑西)、西が太田播磨守(二条城西千本通角)であった。
太田は昨年から仙洞御所(せんとうごしょ)御造営御用を承って、二年越しでようやく御出来になり、その方が御用済みになったので、月番も勤めるようになった。
これで、東西両町奉行ともに、公事訴訟を取り扱う常態に復しましたが、それまでは、二人で負担する京都町奉行を、一人で引き受けていたのですから、勢い手が回らないわけにもなります。
【参考】東町奉行・酒井丹波守忠高の個人譜
西町奉行・太田播磨守正房の個人譜 (補1) (補2)
【ちゅうすけ注】造営の東洞院(とういん)へおはいりになるのは、明和8年(1771)12月に退位された第117代で最後の女帝となった後桜町天皇であった。
洞院の改修費は、もちろん、幕府の負担である。
この方が皇位におつきになったのは、先皇・桃園天皇が22歳の若さ、在位15年で崩御されたとき。
皇子は5歳と幼なかったので、異母姉で第2皇女(24歳)が後桜町として皇位つかれたのである。
8年間、禁裏をお守りになり、13歳の英仁(ひでひと)弟君・後桃園天皇に譲位され、東洞院へお移りになった。
明けて明和八年(1779)---新帝(後桃園天皇)は、幕府の名代をはじめ、諸大名からの慶賀を受けさせられる。
引き続いて御即位の御式も挙げさせられる中の賑い事の紛れに一年を過し、安永元年(1772)になってしまった。
【ちゅうすけ注】安永への改元が、明和9年(1780)11月16日。平蔵宣雄の京・町奉行への発令はその1ヶ月前。
また、銕三郎は、改元を京都で知った。
西の町奉行太田播磨守は、安永元年九月、小普請奉行に転任し、跡役の長谷川備中守は、わずか十箇月勤めて、二年(1773)六月に病死した。
七月になって山村信濃守が就任。
東は酒井丹波守が明和七年(1770)の六月から勤役していたが、安永三年(1774)三月に死去したので、赤井越前守が跡役になった。
【ちゅうすけ注】禁裏・地下(じげ)官人の不正の探索は、東の酒井丹波守には知らされていないことになっている。
また、丹波守の歿前に、事件の捜査は終了し、処刑がのこっているだけであった。
山村信濃守は、名を良旺(よしはる 鳶魚のまま 正しくは、たかあきら)といって、信州木曾御関所預、交代寄合山村甚兵衛の分家で五百石、早く御小姓になり、御先手頭から御目付を経て、京都町奉行になった人だ。
山村信濃守が赴任の際に、幕閣は特に内命を授けた。
「近年禁裡御所方御賄入用莫大にして、年々御取替高多く、是全く御所役人共、非分の義有い之と相見え侯得者、其方宜敷相純すべき」旨を命ぜられたのであった。
京都町奉行が、禁裏役人の私曲増長を怪しく眺めながら、三、四年も手をつけずにおいたのを、山村信濃守に機密を授けて、いよいよ宮培の内の罪悪を評発しようとするのだ。
【ちゅうきゅう注】天皇家が幕府から与えられている知行は10万石。
うち、7万石ほどを宮家や5摂家、公卿、公家、地下官人たちへ割りふり、禁裏の祭事や生活に使える分は3万石前後である。
物品の購入をつかさどっているのは、業者と接触する口向(くちむけ)役人の賄方と勘使(かんづかい)で、その計算書を代官所が点検、予算を超えた分は、幕府が立替えて払っておき、禁裏へ貸した形をとる。
禁裏は、翌年の3万石から返済をするきまりになっているが、返済額が大きいと、借り越しとしてつけておく。
この借り越しがどんどんふえ、大きくなってきていたので、そこに不正の臭いが濃くなってきていた。
しかし、代官所では、不正の事実を発見できなかった。
もちろん、代官所が点検した計算書は、町奉行所の承認をうける。
山城代官・小堀数馬邦直(くになお 44歳=安永元年 600石)の小堀家は、代々、山城の代官に任命されており、役宅は二条城の西にあった。
【参照】小堀数馬邦直の個人譜
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[命婦(みょうぶ)、越中さん]
『幕末の宮廷』
『翁草』 鳶魚翁のネタ本?
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コメント
ほう、鳶魚翁の江戸ものに疑義がでてきましたか。
それはすごい発見です。
タネあかしを、期待してます。
諸田玲子さんのこの事件を扱った『楠の実の熟すまで』が3週間前に図書館の順番がきて、読み終えたところなので、興味津々です。
投稿: 文くばり丈太 | 2009.09.20 04:18
>文くばり丈太 さん
発見した史料は、下橋敬長『幕末の宮廷』(東洋文庫 宮内庁所書陵部でのスピーチをまとめたもの)の中にありました。この2,3日のうちに公開します。
それと、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]のヒントが京都町奉行所・与力だった神沢貞幹『翁草』が拾っていたものをふくらませたのだと分かりました。
『翁草』はオリジナル著作ではなく、抜粋ものですから、元ネタは不明ですが。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.20 07:56
確か鳶魚翁は著述の出典を明かさないのといわれていると思ったのですが。
2,3日内に史実が公開されるのですか、ドキドキしちゃいます。
ただ1ヵ月あまりの銕三郎の画策が無駄にならない事を願ってます。
投稿: みやこのお豊 | 2009.09.20 23:14
>みやこのお豊 さん
そうなんです、鳶魚翁は、なせだか、ほとんど、出典を明かさないため、学者たちからは非難とまではいいませんが、重く見られませんでした。
ぼくが新しく見つけた史料は、学者たちの目をくぐってでているものですから、まず、安心です。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.21 07:53