ちゅうすけのひとり言(40)
長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)の京都西町奉行への破格の栄転にあたり、禁裏御所の地下(じげ)役人たちの汚職にかんし、探索の密命がでていたのではないか、との推量をつづけてきた。
もちろん、史料があってのことではない。
きのう---9月23日のコメントで、左衛門佐(さえもんのすけ)さんが、
---氣になるのは、死罪の項で、飯室(いいむろ)左衛門(ざえもん)大尉((だいじょう)の名がなく、服部左衛門になっていますね。どう解釈すればいいのでしょう?
それに、
---苗字はともかく、名前がおなじ左衛門ですね。
ひょっとしたら同一人物かも。
もっとも、東町奉行所の加賀美千蔵(せんぞう 31歳)同心が、飯室は武田方の流れと言っていましたね。
武田方の御近習衆に、飯室与左衛門とその子・庄左衛門、
山県衆に飯室宮内丞(くないのじょう)、八郎兵衛(はちろべえ)、
跡部の同心に飯室次郎兵衛の名がみえます。
この5人が、まず、徳川方で家を立てた。
ここに名のでなかった誰かが京で禁裏に職を得ていたのかも。
服部となると、分布が広すぎて、推理もおぼつきません。
こんな、無責任なレスをつけた。
気がとがめたので、〔飯室〕という地名を『旧高旧領』で検索してみた。
越後国頚城郡(くびきこおり)飯室村---現・秋田県上越市浦川原区飯室
下野国塩谷郡(しおやこおり)飯室村---現・栃木県塩谷郡高根沢町飯室
安芸国高宮郡(たかみやこおり)飯室村---現・広島市安佐北区安佐町飯室
天正10年(1582)3月11日、天目山で武田が滅んだのち、その年の6月2日に信長が本能寺で自刃した。
家康は、さっそくに武田方の武士たちをとりこみはじめた。
いわゆる、秋葉山での誓詞の提出である。
飯室姓の5人のうちの、与左衛門昌恒(まさつね)の『寛政重修諸家譜』に、こう書かれている。
武田家につかえ、天正十年かの家没落のち、甲斐国八代(やつしろ)郡大福寺に蟄居す。六月めされて東照宮につかへたてまつり、この年諸士とおなじく誓詞をたてまつる。
大福寺(山梨県大宮市大鳥居 旧・東八代郡豊富村大鳥居)を、平凡社『郷土歴史大事典 山梨県の地名』で調べてみた。
なんと、
大福寺の山号は〔飯室山〕とあった。
再建者・飯室禅師にちなむらしい。
飯室禅師は、武田信義嫡男一条忠頼の子とつたえると。
信義は鎌倉時代の武将で、富士川の合戦で功があったが、i讒言で頼朝にうとんぜられた。
その孫・飯室禅師であれば、同村から飯室を姓とする武家が武田方の旗下にいてもおかしくはないが、このあたりのことは、郷土史家の方の教えをまちたい。
余分ながら---。
大鳥居村は、お竜(りょう 享年33歳)の生地である中畑(なかばたけ)村から2里(8km)ほどであるのも、なにかの因縁であろうか。
もちろん、銕三郎はこのことをしらない。
★ ★ ★
これまでの[ちゅうすけのひとり言]
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(40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
(39) 3人の禁裏付
(38) 禁裏付・水原家と長谷川家
(37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら
(36) 備中守宣雄への密命はあったか?
(35) 川端道喜
(34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
(33) 『犯科帳』の読み返し回数
(32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
(31) 田沼意次の重臣2人
(30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
(29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
(28) 諏訪家と長谷川家
(27) 時代小説の虚無僧と尺八
(26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
(25) 長谷川家と駿河の瀬名家
(24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
(23) 受講者と同姓の『寛政譜』
(22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
(21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言
(20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
(19) 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
(18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
(17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
(16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2
(15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
(14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
(13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
(13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
(11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28
(10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
(9) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
(8) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
(7)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
(6) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13
(5) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
(4) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
(3) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
(2) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
(1) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17
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コメント
たいへんな探索がおこなわれている舞台裏を覗き見せていただたおもいで、興奮がまだやみません。
飯室左衛門大尉の素性が甲斐八代郡大鳥居村で割れたなんて、鳶魚センセイも知ったら、おそらくお驚きでしょう。
それも、加賀美同心がヒントだった。
しかも、加賀美家が京に流浪したのは勝頼の側近の跡部氏が関係したなんて。
架空の人物と実在していた人物との交錯がこれからますます深まっていきそう。
投稿: 文くばり丈太 | 2009.09.25 04:25
>文くばり丈太 さん
長谷川平蔵宣以---鬼平は実在の人物ですから、調べる手がかりは、あちこちにいくつか残っているはずです。
とはいえ、ぼくたちは象牙の塔にいるわけではないので、史料を買うにも限度があり、容易に手にできるデータをたぐり、たぐりで行くしかありません。
根気と腰を軽くしてやるのが一番とおもいます。
腰も齢とともに重くなりつつはありますが。とにかく、つとめます。
今後ともよろしくおねがいします。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.25 10:47
ちゅうすけさんの探索が広島から青森まで広がって歴史って本当に面白いし新鮮ですね。
でもあまりご無理をなさいませんようにお体お大事に。
投稿: みやこのお豊 | 2009.09.25 11:55
>みやこのお豊さん
長谷川平蔵を、『鬼平犯科帳』だけでおわらせたくはないし、といって、あまり離れたり、史実に忠実だと、ふつうの鬼平ファンに見てもらえないし---痛し痒しです。
まあ、適当に---とおもっています。
ただ、長谷川平蔵を通じて、歴史に目がゆけば---と。歴史は、いまの日本人の心情にも投影していますから。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.25 16:30