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2009.03.29

ちゅうすけのひとり言(32)

宮城谷昌光さんの『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12,1)の目を洗うほどの巨細な検証、それをふまえた心情の推理に、呆然としなからを読みすすめた。

これほどの細微をうがった筆致であれば、もしかして、武田の大軍との三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で戦死した、長谷川紀伊守(きのかみ)正長---平蔵宣以の祖---の新資料もあろうかと、期待をふくらませて第五巻[三方原合戦]の章へすすんだ。

_130信玄は軍を南下させて浜松城の方角にむかわせ、三方原台地の北部を横断する道を選定した。むろん三方原台地の南端に城を構えている家康を挑発するためである。
家康は挑発に乗った。
「多勢でわが屋敷の背戸(せど 裏口)を踏み切って通ろうとする者がいるのに、屋敷のなかにいて、でてとがめぬ者があろうか」
と、吼(ほ)えた家康は、いくさには多勢も無勢もなく、
---天道(てんとう)次第。(『三河物語』)
と、天にむかっていい放ち、目をつりあげて出撃した。徳川勢八千と織田勢三千が家康の指麾に従って北上した。
この日、雪であった。

ここまでは、諸書と大差なく、新知識というほどのものはない、
いや、篭城をしないで撃ってでて、平地で決戦をするのがが松平の---あるいは三河の武門たちの戦い方の定法と、宮城谷さんがこれまで幾度となくくりかえして指摘してきた戦術である。

武田軍は三方原台地の東端にあたる大菩薩(だいぼさつ)から坂路を登り、都田川に近い祝田(いわいだ---ただしくはほうだ)におりるという予定の行動をとった。最初から十全の布陣を家康にみせてしまうと、家康がかならず気おくれするので、信玄は平兵を停止させず、あえて軍の脇腹や背をみせて、徳川勢に襲わせやすいようにした。信玄の兵術のこまかさは、本陣を祝田への下り口まで移動して、
---これから坂をおりる。
と、みせかけたことである。

_100読みはかなり正鵠(せいこく)をうがっているし、表現もいかにも宮城谷さんのものである。
大和田哲男さん『三方ヶ原の戦い』(学研M文庫 2000.11.21)は、三方ヶ原が最近は「三方原」とつづられ、読み方も「みかたはら」になってきていると警告。 

背をみせて坂をおりる兵をうしろから襲え勝てる。兵術の常道である。それゆえ家康は寡兵であってもあえて両翼をひろげて鶴翼の陣を形成して追撃をおこなった。
---きたか。
信玄は会心の笑みを浮かべたであろう。孫子の兵法にあるではないか。
---人を形(かたち)せしめて我(われ)に形なければ、即(すなわ)ち我は専(あつ)まりて敵は分(わ)かる。
相手にはっきりとした形ょとらせて、こちらに形がなければこちらは集中するが敵は分散する。武田軍は大軍であるが、いわば魚鱗の陣であるのでかたまって一つである。

三方ヶ原の戦記はいくつも読んできた。
しかし、宮城谷さんのような喩(たと)え方をした文章はない。
さすがに古代の戦国もの古典にくわしい作家は、手なれたものである。

だが、ちゅうすけが求めているのは、孫子の解説でもなければ、戦いのかけひきでもない。
長谷川紀伊守正長が、徳川方のどの武将の麾下(きか)にあって先手を勤めたかを知る手がかり、そして、どのように戦死したかである。
その答えは、『風は山河より』からは得られなかった。

たぶん、記載はあるまいとおもったが、念のためと、『徳川実紀 第1篇』(吉川弘文館 1981.10,1)の[東照宮御実紀付録]の該当年をたしかめてみたが、長谷川紀伊守の名はどこにもみあたらなかった。
田中城の守将であれば、あのころの徳川陣営ではかなりの遇し方をされたとおもうのだが、あるいは、引きつれていった配下の人数がすくなかったか。
これからの研究課題が一つふえたともいえる。


これまでの[ちゅうすけのひとり言]
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31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
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) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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