ちゅうすけのひとり言(21)
長谷川銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)の子・於嘉根(おかね 3歳)を産んだ阿記(あき)が、病死(享年25)した。
10年ほど前(68歳のとき)に、ぼくが考えている死について、『週刊朝日』のリレー・エッセイに小文を寄せたことがあり、のち、朝日選書の1冊に収録された。
『人、死に出会う』(2000.1.25)---帯に「生きることの達人67人が家族の、友の、自分の〔死〕をみつめ、語る」とある。
阿紀の死に対する、銕三郎の感慨を書く前にと、書架からとりだして読み返した。
おつきあいいただきたい。とくに、末尾。
名なしのほとけでかまわない
「われわれも、まさかと思いましたが、組織からがん細胞が見つかりました」
告げられたのは、14年前、54歳の秋だった。
――喉頭がん。
(口の悪さをたしなめるために、天から灸をすえられたのだな)
いささか自嘲的に考えられるようになったのは、術後5年が過ぎてから。
がん医療関係者は、治療5年後の生存者の割合を5年生存率と呼んで治癒成功のいちおうの目安としている。
現在のそれを国立がんセンター中央病院は、男性で55パーセント、女性65パーセントを達成。
ぼくが施術を受けたのは大塚の癌研病院だったが、数字は似たりよったりだろうから、2人のうちの幸運組の1人のほうへ入ったといえよう。
「より効果的な放射線治療を受けてもらうために、千葉のほうへ通院していただくかもしれません」
とつけ加えられてもいたので、ひやひやものの5年間だった。
その間に実兄が結腸がんで逝った。
戦時中に大陸で40代で殉職していた父のことは不明だが、兄と自分の発病で、がん体質の家系とも推測がつき、気分としては死を隣にかかえていた。
「術後10年以上なのだから、完癒といっていいでしょうね」
かつての病歴を知っている友人たちの慰めは、それはそれで自己暗示のもととなり、ありがたい。
が、5年生存者が第2のがんにかかる率は、そうでない人より高いことも知っている。
そっちのグループへいつ入らないともかぎらない。
そのときは再会を喜んだがんのほうで、見逃がしてはくれないだろう。
じつは家人も10年前にがんを摘出している。
夫婦きりのわが家で、がんや安楽死、延命装置無用や葬式の話はタブーでもなんでもない。
食卓での気軽な話題の一つですらある。
「この年齢になると、提供を受けつけてくれる臓器は角膜だけらしいね」
「2人が逝ってしまうと墓を守る者がいなくなるのだから、いまのうちに散骨して墓地をお寺さんへお返ししておいてもいいかな」
「そうすると、わたしたち、戒名もいらないわけね」
「名なしのほとけでかまわない。葬式なんかで友人知人の時間を奪うこともしない」
「戒名料分、いまのうちにおいしいものを食べておく、ってのはどう?」
終末の日までのことを、最近、しきりに考えるようになった。
けっこうプラグマチストなのか、死の床での痛みと苦痛は医学が除去してくれるだろうと楽観しているし、肉体は有限・魂魄は無窮とも思っていない。死ですべてはおしまいと諦観。
考えることは身辺の始末がほとんど。
これからますます視力が衰えようから、まず、本や資料の整理。
貴重といえるほどの蔵書はないが、大学図書館へ寄贈するにしても維持費つきでないと受け手が困るだろう。
1000冊につき100万円かな。いや、こう低金利では500万円でも維持費がでまい。
5000冊で2500万円? そんな余裕はない。
けっきょく二束三文で売るしかなさそうだ。
1万冊を10回に分けて2年間で処分するとして、その区分けの決断に何か月かかることだろうか。
1000万円を超える入力料をかけて10数年ごしにパソコンへためこんできている、海外ミステリ1660篇・24万件の世界でも珍なる事象データベースは?
ほんと、おかしなDBなのだ。留守番電話の項では、私立探偵で最初にこれを導入したのはビル・プロンジーニによる名無しのオプの1980年で、それはパナソニックが対米輸出をした年だとか、シングルモルトのマカランを好む警視・刑事は3人、将軍、元傭兵、弁護士、探偵各1……なんてことも即座にわかる。
閑話話休題。
これこそMO1枚、場所をとるわけではないのだから、どこかの公共図書館か英米文学部のある大学へ寄贈できそうだ。
いや、コピーさえとれば幾つもの機関へだって贈れるが、はたして備えたがるところがあるかどうか。
エッセイのネタの泉なのだが。
ミステリーといえば、殺人しかも残虐な殺し方がありあまるほど提示される小説を読みすぎたために、しらずしらずのうちに死に対して不感症気味になっているのかもしれない。
それにしてもミステリー作家はいとも簡単に殺すなあ。
あの人たちの自分の死のイメージはどうなっているんだろう。これからしばらくは殺しのでてこないミステリーを読むようにしてみるか。
年に十篇あるかなしなのだから。
対話してみたい死者は、いまは長谷川平蔵。
そう、『鬼平犯科帳』の主人公の……。
持ちだしの多い火盗改メ役を8年間も勤めて私財を使いつくした平蔵だが、その後任にすわった2人の幕臣――。
一は、平蔵がまだ病臥中なのにさっさと火盗改メ役をついだ森山源五郎孝盛。
短歌詠み仲間の老中・松平定信へ平蔵のことを讒言していた仁で、「ほかの者の足を引っぱらないと出世できない」とうそぶいた。
歴代の火盗改メが業務を記録文書として残していないのは怠慢とも広言。
一は、定信の縁者で火盗改メの同役時代に平蔵とことごとにそりのあわなかった松平左金吾定寅。
火盗改メとして顕著な実績をあげていた先手弓組2番手・長谷川組の後任組頭となったが、同組の長い豊富な経験を活用しようとはせず、火盗改メの任につかせることはなかった。
彼の着任のねらいは、平蔵色の払拭だったようだ。
この後任人事に対する平蔵の、慷慨の弁を聞きいてみたい。あ、そうか、「死ですべてはおしまい」と諦観しているくせに、他人を枠外におくのは公平とはいえないか。
ではこっちが生きているうちに、森山源五郎と松平左金吾の死にざまを調べてやろう。
文献もさらに買いこまないといけないな。む?
(1930年鳥取県生まれ。多摩美術大学講師(=当時)、エッセイ
スト。『「鬼平犯科帳』に恋して候』『ミステリー風味ロンドン案内』
など)
【参照】2006年5月5日~[松平左金吾定寅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17)
2006年6月8日~[森山源五郎孝盛] (1) (2)
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コメント
名なしのほとけでかまわない……
まったく同感です。
お葬式に行くたびに、つくづく思います。
投稿: おっぺ | 2008.08.01 07:24
>おっぺさん
コメント、ありがとうございます。
いまでも、名なしの仏でいいとおもっていますが、エンマ大王が呼びかけるのに困るかな、とも。
実技から遠のくと、イメージ・ヌレ場が多くなります---ご叱正ください。
投稿: ちゅうすけ | 2008.08.01 14:52