久栄のおめでた(2)
「銕(てつ)さま。お願いがございます」
久栄(ひさえ 17歳)があらたまって、夫・銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前に三つ指をついた。
「冬の着物でもほしくなったかな」
「いいえ。ややが無事に生まれますように、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)さまへお連れいただきたいのです」
「鬼子母神は、雑司ヶ谷までゆかずとも、入谷(いりや)にもあるが---」
銕三郎としては、鬼子母神の隣の料理茶屋〔橘屋〕の座敷で、座敷女中をしていたお仲(なか)の宿直(とのい)の夜を、一年以上も合歓(ごうかん)していたこともあり、そこへ久栄と参詣に行くのは、なんともはばかられた。
「お母上にご相談したら、〔橘屋〕のご亭主・忠兵衛どのへ頼めば、夕餉(ゆうげ)のあと、一泊くらいは計らってもらえるとか、おすすめくださいました」
「母上が、さように---?」
「はい。お料理が、ぜいたくだけれど、たいへんにおいしいとも、おすすめいただきました」
「うむ。考えておこう」
「悪阻(つわり)がはじまらぬ前がいいとも、おっしゃいました」
「それもそうだな。悪阻では、せっかくの料理が胃の腑に納まらなくなる。では、明日にでも、忠兵衛どのへ、便をつかわそう」
「うれしゅうございます。2人きりの外での夜は、寺嶋村のあの家以来---」
けっきょく、銕三郎は久栄に押し切られた。
(いくらなんでも、母者(ははじゃ)は、おれがお仲と睦んでいたことまでは、洩らしておられまい)
そういえば、お仲に仕込まれた性戯を、まだ、ほんの2,3しか、久栄に与えていない。
夫婦(めおと)の床技は、小出しにほどこしていても、妻のほうが快楽のむさぼり方を自然に会得してしまうもの、とお仲の忠告を守ってきた。
その日がきた。
父・宣雄(のぶお 51歳)が贔屓にしている菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕から舟を頼んだ。
横川から小名木川へ出、高橋(たかばし)をくぐると大川。
お仲は〔橘屋〕の座敷名である(そのときは、まだ、お留 33歳)で、南本所・弥勒寺の塔頭(たっちゅう)・竜光院前の五間堀から舟にのった。
刺客の目をさえぎるために、お留は夜鷹ふうに手拭いをかむっていた。(歌麿『寄辻君恋』 お留のイメージ)
武家の初々しい新造らしい薄紅色の揚げ帽子が、久栄にはよく似合っている。(清長 久栄のイメージ)
大川から日本橋川へはいり、江戸橋、日本橋をくぐっても、久栄は端然と銕三郎の顔をみつめていて、左右に眸(め)を散らさない。
銕三郎も、過去の連想を断ち切っていた。
一石橋、常盤橋、神田橋、一橋橋、俎板(まないた)橋でも、久栄のその姿勢は変わらなかった。
ちゅうすけとしても、気がひけるのだが、お留の名を出したてまえ、2年前の参照ファイルだけは引いておく。
【参照】2008年8月6日~[〔梅川〕の仲居・お松] (6) (7) (8)
江戸川橋のたもと桜木町で舟を降りたが、久栄は船酔いもしていなかった。
音羽町9丁目の角の駕籠屋で久栄が乗ると、勢いよく、目白坂をのぼってゆく。
のぼりきったところの右手が、先手・弓の2番手の組屋敷である。
「奥田山城守さま組方衆の組屋敷でございましょう?」
駕籠の中から、声をだした。
「さよう」
応えたものの、
(いつのまに、奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳 300俵)どののことを、どのようにして探索したのものか。これでは、もしかすると、〔橘屋〕でのお仲とのあいだのことも調べつくしているのかもしれないぞ)
銕三郎の思惑を読んだように、久栄が言った。
「奥田さまは、舅(しゅうと)どのとご同役でございます。失礼があってはなりませぬゆえ、実家(さと)の父に、弓組の組頭衆のあれこれを教わりましたのです」
行く手に鬼子母神の森が見えてくると、銕三郎の緊張はいよいよ高まった。
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