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2009年10月の記事

2009.10.31

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(3)

「坊(ぼん)さんが一人、でてきよったぜ。背格好から、どうやら、暁達(ぎょうたつ)らしい---」
旅籠〔炭屋〕の2階の表部屋の窓から、はす向かいの西迎寺の山門を看視していた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、助(すけ)っ人としてつめている万吉(まんきち 22歳)にささやいた。

万吉も、彦十の頭ごしに視線をとばした。
看視をはじめて2日目の午後であった。

きのうから神経の張りづめで、さすがの彦十も疲れていた。
横手の仏光寺通りも、まん前の富小路(とみのこうじ)も、〔炭屋〕の亭主・善三郎が示唆してくれたように、僧の往来が多い。
そのたびに緊張していたが、2日目からは、的を西迎寺の山門の出入りにしぼっていた。

すぐに身支度をととのえた万吉が、あとを尾行(つけ)た。
暁達(36歳)は、太めの躰のわりには速足で、富小路を南へ、五条通りで東へむかう。
大橋をわたり、東山のふもとの源泉院の山門をくぐった。

昼間なら、左のかなたに、清水寺(きよみずでら)の大屋根が見えるはずだと、万吉はおもった。

万吉の親は、清水寺の坂下でせんべえを商っている。

門前の花屋で50文(2000円)で供花を買い、店の老婆に、とぼけて住職の名をきいた。
銕三郎(てつさぶろう 28歳)からも〔左阿弥(さあみ)〕の2代目からも、探索に遣う金子を惜しむなといわれていた。

とぼけたふりで、源泉院の住職の名を訊いた。
元賢(げんけん)はんやおへんかいな。43やいうに、達者なご坊はんや。きょうもまた、新しい後家はんに功徳をほどこしはった」
「うらやましい。うちのおっかあと違うやろな」
「30歳ほどやったよって、違うてますやろ」
「うちのおっかあは、姐(あね)はんに似て、若うみられよるんや」
心得たもので、老婆の噂ばなしに調子をあわせている。
花屋は、50をとっくにすぎているのに、なんと、はにかんだ。

「こんど、昇進しはったとか耳にしたんやけど---」
カマをかけた。
「そんなことおへん、少僧正のまんまや。檀家の後家はんとのことが本山に知られてるよってに、階位はなかなかあげてもらわれへんねん」

長居がすぎるとあやしまれるから、山門をくく゜り、墓域のとっかかりの墓石の花立てに水もそえずに供花を挿しこみ、庫裏のほうをうかがったが、
「そら、あかん!」
元賢らしい声がもれたきり、話し声は聞こえてこなかった。
山門を出るときには、花屋の老婆は奥に引っこんでしまっていた、

翌日、〔炭屋〕をのぞきにきた銕三郎万吉が昨日の尾行の顛末を告げると、
「ご苦労だが、きょうは、花を倍ほど買って話を訊きだしてほしい。元賢とねんごろになった後家さんたちの名と住まいが知りたい。できたら、元賢の素性も---。それから、法泉院に出入りしている僧たちのことも---」

彦十の報告は、ゆうべ、暁達が西迎寺へ戻ってきたのは五ッ半(午後9時)まえだったが、酒を呑んでいたふうで、赤い顔をしているのが、月明かりでみとめられたと。
「破戒に加えることの、一だ」

山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠へ着いた銕三郎は、お(てい 享年25歳)の母・お(かね 47歳)に2つのことを訊いた。

旦那寺の山号、その所在、宗派、住持の法名と年齢。
もうひとつは---、
ここへ移るまえの住まい---油小路通り・二条通りの2件軒長屋の隣人。

旦那寺のことを訊いたとき、目じりと口まわりの皺はかくせないが、おどうようにととのった眉間に、影が走った。
寡婦になったとき、布団にはいってきて、おの太ももにすりつけて後家の欲を耐えていたというが、おが嫁したあとのことはわからない。
40歳にはなっていなかったろう。

寺は、花園の天寿院で、いずれ、この家に安置してあるおの遺骨も納めるといった。

「迂闊なお質(たず)ねごとだが、拙が貞妙尼と二条油小路町のそなたの家を借りたとき、泊まりにいったのは天寿院の庫裡(くり)でしたか?」
「8年ほども世話になっており、うちのほうが出向きますよって、近所はしりはらしまへん。親戚の家へ姪の子の世話にいっとる、おもうはるようどす」
「つかぬことをお訊きしました。この場かぎりで忘れます」
「おおきに」

隣家の主・お(ぎん)も、寡婦で、齢はおより15も上の、60すぎという。
生活(たつき)は、亭主が残してくれた6軒の長屋の店賃と、呉服屋の通い番頭をしている息子からの仕送りでやりくりしているという。
ちょっとした菓子や漬物などをやりとりする仲らしいが、おの仕立て物は、おの息子のこころづかいだと。

「おどのの菩提寺は?」
「筋屋町の、なんとやらいうお寺と聞いたことがおますが、覚えてェしまへん。すんまへん」

表情を殺してさりげなく、仕立ての仕事をまわしてくれる、おの息子が番頭として勤めている呉服屋の屋号と町名を訊いた。

仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕との返事。

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(太物類〔丹波屋〕 『商人買物独案内』)

(暁達の西迎寺と1丁と離れてはいない)

「ここへ移ってからの仕立てものの受けわたしは?」
「ここからは〔丹波屋〕はんが7丁ばかりと近いよって、じかに、うけわたしょ、おもうてますねん」
「では、まだ、ここのことは、伝えてない?」
「ええ。仕上がったら、うちがもっていこ、おもうて---」
「ここを、決して明かしてはなりませぬ。知られると、命があぶない」


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () (4) () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.10.30

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(2)

「仏光寺通り・富小路通りの角の〔炭屋〕って旅籠の表側の部屋からだと、西迎寺の山門がはすかいに見わたせやす」

相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が報せてきたので、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は早速に〔炭屋〕へ出向き、亭主・善三郎(ぜんざぶろう 48歳)に、西町奉行の息子であることを告げ、江戸から彦十がご用の筋をもってのぼってきたので、表側の客室をしばらくのあいだ借り受けたいと頼んだ。

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(寄宿〔炭屋〕善三郎 『商人買物独案内』)

亭主は、銕三郎の顔色で秘密の用向きらしいと察し、番頭にも女中にも伏せておくから、と承諾したうえで、
「うちのすぐ西側には、親鸞上人はん自作の御影(みえい)を祀ってはる本山・仏光寺はんがございます。まわりの塔頭も10寺ではききまへんよって、お坊さんがぎょうさんいはります。よほどにお気張りなさりまへんと---」
助言してくれた。

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(仏光寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

彦十は、江戸の十手持ち、〔左阿弥(さあみ)〕の若い衆---万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、地元で雇われた手先ということになった。

網を仕掛けおえた銕三郎は、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 31歳)に、役所の南の神泉苑(じんせんえん)の住職を紹介してもらった。
偶数月は、東組の月番で、奉行所の門は開かれている。

神泉苑は、近衛家が別当になっている真言宗・東寺に属する寺である。
池中に善女竜神を請じて旱魃の雨乞いを祈願してきた。

C360
(神泉苑 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎を茶室に招いた老師は、茶をすすめ、
「伝授をお望みのものは?」
「わが家の香華寺は、江府にありますに日蓮宗の戒行寺でございます。卒爾(そつじ)ながら、宗旨(しゅうし)により、比丘(男僧)が守るべき戒律は異なるものでございましょうか?」
老師は莞爾(かんじ)とした面持ちで、
「人は群れたがりよりますわなあ。群れはさらに鶏頭になりとうて小群れをつくりよる。これを名欲(みょうよく)いいますのんや。まあ、群れの中でだけのことやよって、俗界からの指弾(しだん)もおませんけど」

「俗界から指弾を受けなければ、かまわないのですか?」
「手きびしいの。欲のない人はおらしまへん。名欲くらいは、僧にもゆるしてやらんと、生きてても息がつまりよる。ほれ、この茶の湯も口欲の一つでおます」

「不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふいんしゅ)の五戒は、いかがでしょう?」
「不飲酒は、俗界では戒やおへんな。前の三戒は、世間でも犯戒(はんかい)どすやろ?」
「そのように心得ております」

「殺生すれば死罪。親や主殺しは引きまわしの上、磔(はりつけ)、曝し(さら)しどすな」
「それは、奉行所の裁きです」

「僧職にはあと、不食魚肉、不食獣肉---乳もなりませぬ。人のおなごの乳もですぞ」
銕三郎が顔を赤らめたので、老師は声をだして笑った。
この若者、意外にも正直だとでもおもったのであろう。

「冗談がすぎよりましたかな」
「老師。たびたび、お教えを請けに参上してもよろしいでしょうか?」
「いつにても、お迎えしますぞ」

山門を出ながら、貞尼(ていあま)の悲痛は、きっと鎮(しずめ)てやる、と覚悟を新たにした。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.29

銕三郎、膺懲(ようちょう)す

(てっ)つぁん。これを、許しておいちゃあいけねえって、ダチがいってますぜ」
与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)たちが帰ったあと、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)がいきまいた。
左阿弥(あさみ)〕の円造(えんぞう 60歳すぎ)も、
「やらはるんなら、助(す)けさせてもらいます」
2代目・角兵衛(かくべい 42歳)もうなずいた。

「元締。口の堅い若い衆を2人ほど、お貸しいただけますか?」
「2人といわず、5人でも10人でも---」
「いえ。討ち入りするのではありません」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が説明した。

これは、個人的な報復とか復讐ではなく、悪をこらしめる膺懲(ようちょう)なんだと。
奴らは、僧籍にありながら、もっとも基本的な五戒(かい)のうち---不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)の3つまでを犯している。
宗門はそれを見ないふりをし、見のがすといってきているにひとしい。
天にかわって、この不義の徒をこらしめるのであると。

ただ、現世の法は、すべては、町奉行所の裁きにまかすようにと、私的な膺懲を禁じている。
宗門は、あげて、犯人たちの擁護にまわるであろう。
とりわけ、門跡(もんぜき)がからんでいるばあいには---

したがって、こらしめた側が誰かわからず、迷宮入りにしなければならない。
それには、小人数で、ほころびがでないようにしてかかることが肝要。

「盗みもやってますのんか?」
角兵衛が訊く。
「われわれが寄進した10両(160万円)ばかり、盗みました」
「許せまへんな」
元締が歯ぎしりした。
(もっとも3本が義歯なので、さほどに力ははいっていなかったが---)

「邪淫って、そこまで辱めよった?」
彦十が口をすべらせた。
「いや、あ奴たちは、庵主(あんじゅ)に言いよって、拒絶されたのを、逆恨みしたのだ。庵主は、これまで、それを口にしては自分が淫逸(いんいつ)に与(く)みしたと同じことになるとおもい、秘していた。しかし、あ奴らはその上にあぐらをかいていたが、庵主が還俗すれば、いつ暴露(バラ)されるかと、それを恐れての襲撃であったふしも、ないではない。まあ、本筋のところは、嫉妬だが---」

襲撃組にまだ知られていない錦小路通り・室町通り上ルの家を、膺懲の本拠にすることに決め、顔をしられている寺男は外出をひかえること、彦十は滞在している〔瀬戸川(せとが)の源七(げんしち 57歳)のところから、こちらへ移ること、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の母親を、油小路・二条上ルから、しばらくのあいだ、ここへ住みかえてもらうこと、寺院を通しての葬儀はしないこと、無縁仏を火葬に付する手続きを奉行所でとってもらうことにした。

さんは、筋屋町の西迎寺が見渡せるところに見張り部屋ををみつけ、住持(じゅうじ)・暁達(ぎょうたつ)の出入りを看視し、訪ねてきた坊主がいれば尾行してどこの寺の者かたしかめてほしい。そのための手足を元締のところの若い衆から借りることになっておる」
「合点だ。ついでに、暁達とやらが囲っている妾と、庫裏の間取りも調べますぜ」
「妾をつくっていれば---だが」
みんなで笑った。


参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

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2009.10.28

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(10)

左阿弥(さあみ)〕父子がいるのを認めた与力・浦部源六朗(げんろくろう 51歳)が、
「元締は、どうしてここに?」

円造(えんぞう 60すぎ)が、貞妙尼(じょみょうに 25歳)の夫が病死前に祇園社の境内で蝦蟇(がま)の油売りをしていたこと、その死後に仏道へはいったお(てい 25歳)の後ろ盾になっていたことを手短に話した。

納得した浦部与力が、銕三郎(てつさぶろう 28歳)や奉行に対しては使わない京言葉で、
「〔左阿弥〕やのうて、〔めんどう見〕の円造・元締いうて呼ばれてはるわけが、よう、わかりました」
円造は、照れもせず、きつい顔で、
浦部はん。手ェをくだしよった悪党らに、早う天罰をくだしてやっくとくれやす」

「元締はん、法度(はっと 法律)は法度どす。けっして私怨をはらすような真似はせえへんことや」
浦部与力が念をおすと、元締は不満顔ながらうなづいたが、眸(め)で銕三郎をちらりと見た。

小者の一人に、中之町の本道(内科)の町医・玄泉先生を呼んでくるようにいいつけ、別の小者には、今熊野の先の本山へこのことを知らせてこいと命じた。

玄泉がきて、遺体をていねいにあらため、緊張のあまりに心の臓が突然に止まってしまったのだが、そういう衝撃を与えた者がいたとすると、犯罪がおこなわれたと見てよいと診(み)たてた。
和田 貢(みつぐ 23歳)同心がそれを書き取っている。

浦部与力は、寺男に坐棺を求めてくるようにいい、小者をつけていかせるとき、帰りにご用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕の藤次(とうじ)に声をかけてこい、といい添えた。

玄泉医師が引きとったあと、銕三郎貞妙尼の右手の爪を示した。
「爪のあいだに灰がついています」
「それがなにか---?」

須弥壇の裏の房への通路に浦部与力を案内した。
なぜ、そんな通路を知っているのかといったことは、訊かない。
銕三郎貞妙尼の関係を察していたのである。

茶室の風炉(ふろ)を示し、懐から灰がついている紙入れと紙片をわたした。
読みおえて和田同心へまわす。
和田は、おどろいた目を銕三郎へ向けたが、なにも訊かないで、与力へ返した。

「与力どの。尼は、襲撃者たちが房の表戸を叩いたとき、部屋は家捜しされるとすぐに察し、これだけを灰の中に隠したのです。拙なら、きっとも、灰の中に気づくとおもったのでしょう。尼は、このほかに、〔左阿弥〕からの10両(160万円)もこの房のどこかに仕舞っていたはずですが、奴らが持ちさったにちがいありませぬ」

小者が〔大文字町藤次(50歳前後)が来たことと、坐棺が届いたと告げた。
通路へ戻るとき、銕三郎は、三衣筥(さんねばこ)から投げだされていた緋色の湯文字をすくいあげ、坐棺におさまる貞妙尼の腰にまき、内股を隠してやった。

棺の貞妙尼の肩を引いて、脊もおこした。
躰は固まりかけていたので、手をはなすと元のようにしゃがもうとする。
彦十(ひこじゅう)に、房から布団をとってこさせ、躰の前につめた。

人目がなければ、顔に頬ずりし、乳房が暖まるで、掌で覆ってやりたかった。

本山から小者が帰ってきて、尼からは還俗の届けがでており、本山も門派とも無縁の女性(にょしょう)につき、奉行所でどのようにお扱いになろうと口だしはしない---といわれたと。

「それが、仏の教えを説く比丘(びく 男僧)のいい草かい」
左阿弥」の元締が吐いて捨てた。

遺体はとりあえず、新居になるはずであった錦小路通り・室町通り上ルの家へ移すことになった。
棺桶は幕で覆って分別がつかないようにし、小者たちが尾行者を見張りって運び込んだ。

襲撃者たちが証拠隠滅のために寺男を襲うこともおもんぱかり、1ヶ月ほど、移り住むように銕三郎がすすめた。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.27

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(9)

(てっ)つぁん、っつぁんはいるかえ---」
内庭先で呼んでいるのは〔〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)であった。
一度訪ねただけで、もう、わが家のように自在に振舞うのが特技である。

その声に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)と久栄(ひさえ 21歳)が顔をだすと、
「奥方にはかかわりがねえんで---」
銕三郎の袖を引いて、表と役宅をしきっているくぐり戸の外へ連れだし、
「早く助けねえと、っつぁんのびっくりの人、あぶない---って、子鹿が、今朝方から、しきりにわめくんでさぁ。そいで報らせにきやしたが---}
「びっくりの人---?」
「なにしろ、まだ世間知らずなもんで、口跡(こうぜき)がはっきりしねえんで---」

「比丘尼だ。貞尼(ていあま)だ!」

部屋へとってかえし、袴をつけ、大小を腰に、
彦十どん。いそぐんだ。仲筋町だ」
「仲筋といわれても---」
「ついてくればいい。待て---」
若党・松造(まつぞう 22歳)にも支度をいいつけ、さらに表役所から小者を一人借りて、誠心院(じょうしんいん)へ向かった。

道々、彦十に庵主(あんじゅ)・貞妙尼(じょみょうに 26歳)が近く還俗(げんぞく)することになっていることを告げた。
「還俗するのに、あぶねえってことでもありやすんで?」
「還俗をさせないで、破戒にしたがる輩が懲戒(ちょうかい)の集まりを開いているかもしれない」


誠心院の本堂前て、60がらみの寺男がうろうろしながらぶつぶつつぶやいていた。
銕三郎たちが駆けつけた姿をみると、奉行所の小者に、本堂の中を指さして、
「ご庵主はんが---」

雪駄のままかけあがると、白い法衣のあちこちがやぶれ、白い肌もみえている貞妙尼が須弥壇(しゅみだん)の前で正座したままうつぶせていた。
長い黒髪が頭の前方にすだれのようにひろがっていた。

法衣の背中には、紅で卍がえかがれいている。
銕三郎が油小路・二条上ルの2軒家でわたした口紅を、大切に房へ持ち帰っていたのを見つけた犯人たちが描いたらしい。
貝殻が割れて床に散っている。

そっと抱きあげたが、すでに息をしていない。

(まつ)。〔左阿弥(さあみ)の元締に報らせろ。お前は奉行所へ戻って浦部与力を呼んでこい。どん。寺男を押さえて、つれてくるんだ」

寺男が、おどろおどろに言ったことをまとめると、昨夜、数人の僧たちがやってきて、房で寝ていた貞妙尼を本堂へ引きだし、みんなでとりかこんで責めはじめたという。

寺男は、口ぎたない怒号しか聞いていない。
「淫行の相手をいえ」
「邪淫女め」
「淫戒の罪で地獄へ行け」
「淫女(いんにょ)とはお前のことや」
「淫法(いんほう 性交)の味をいうてみ」
「淫欲臭い」
合間々々に肌を撃つ音、蹴ったりの音がしたとも。
明け方には、
「それでも相手の名をいわんか」
布がやぶれる音がし、まもなく、僧たちは引きあげた。
ふせた庵主は、ぴくりとも動かなかった。

「僧たちのなかにも、見知ったのは?」
寺男は、しばらく黙っていたが、消えいるような声で、
「西迎寺の暁達(ぎょうたつ)はんらしいお人が---」

「房をあらためる。立ちあえ」
房内は、暗い中で何かをさがしたらしく、荒らされていた。
銕三郎は、庵室の三衣筥(さんねばこ)の法衣も乱れていたが、白い大衣をえらび、彦十に、
「躰に触らないようにして、覆ってくれ」

房中をぐるりと観察し、風炉に目を留めた。
掌でならした跡があった。

灰を掘ると、紺色の紙入れがでてきた。
2両ちょっとと紙切れがあった。

---どのにお返しする分

浦部与力たちが来るまえに、寺男に命じた。
「父が町奉行だ。暁達の名は、証人調べのときにはいうな」

左阿弥〕の円造(えんぞう 60すぎ)と2代目の角兵衛(かくへえ 42歳)が息をきらして駆けつけたき、本堂の貞妙尼を見るなり、
「誰が---」
と絶句した。

つづいて与力・浦部源六郎が和田貢(みつぐ 24歳)同心を伴ってやってきた。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.26

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(8)

「さようか。〔狐火きつねび)〕のお頭のところの〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 57歳)爺(とっ)つぁんのところに泊めてもらっているのか」
役宅からは4丁ばかりの二条城の北東角、竹田町橋のたもとの一杯呑み屋である。

相模(さがみの)〕彦十(ひこじゅう 38歳)は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が京へのぼるちょっと前に、名古屋の〔万馬まんば)〕の八兵衛(はちべえ 40歳前後)の盗(つと)めを助けたあと、難波へくだって〔生駒いこま)〕の仙右衛門(せんえもん 40歳すぎ)のところで英気をやしなわせてもらってくるとかいい、姿を消していた。

参照】2009年7月14日[彦十、名古屋へ出稼ぎ] 

銕三郎の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)が京都町奉行に大栄転をしているとの噂を大坂で聞きこみ、もしやして銕三郎も付随してきているのではないかと、淀川を遡ってきたというわけである。

_160(てっ)つぁんが都にいるというのに、大坂でぼやぼやしてるわけにゃ、いかねえ---で、がしょう」
盃を満たしてやりながら、
「ダチの大鹿はどうした?」
「それがねえ、雌エゾジカを嫁(めと)って帰(け)えってきたところまではご存じやんしょう? その雌がかわいい子鹿を産んだと思いなせえ。そしたら、ダチのやつ、ずるして、子鹿をよこしやがるんでさあ」

参照】2008年5月21日~[相模(さがみ)〕の彦十] () () (
2009年3月5日[雌エゾジカ
2009年3月6日[蝦夷への想い

適当に飲ませ、当座の小遣いとして2分(8万円)わたし、
「いま、ちょっとした物入りがあって手元不如意でな。足りなくなったら、源七爺つぁんに立てかえてもらっておくがいい」

そのうち、つなぎ(連絡)をつけたら。手を貸してくれ---というと、
「その気で大坂からのぼってきやしたんで---」
酒の勢いもあって景気がいい。

暗くなったので、彦十を送りがてら、押小路通りのお勝の住まいまでいき、路地の入口で別れた。

_100は、お乃舞(のぶ 14歳)とその妹(11歳)と夕餉(ゆうげ)をとっているところであった。
姉妹が家を出るにあたっては、与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)の配下同心・長山彦太郎(ひこたろう 30歳)が介添えしたため、父親もしぶしぶ同意した。
島原へでも売るぐらいのことは継妻と話しあっていた雰囲気であったという。(歌麿『寛政美人』 お勝のイメージ)

姉妹はそろって頭をさげ、銕三郎の手配にきちんと礼をいった。
11や14で、島原へ売られることの意味を知っているのだ。
もさすがに、姉妹の前では、躰の関係がある様子はみじんもみせないが、お乃舞のほうは、なんとなく察している目つきである。

(てつ)さま。おかげさまで、むくの木の皮を煎(せん)じたのを混ぜた髪仕上の〔平岡油〕の売れ行きがたいへんなんです」

3回分が50文(2000円)で、おの取り分は8分・2分の8分だから、1ヶにつき40文(1600円)の手取り---買っていく客が日に10人をくだらないという。
10人で400文(1万6000円)かと銕三郎がつぶやくと、
「いいえ。1人の客が、親類や近所の分といって3ヶも5ヶも買っていくのもいるから、この7日のあいだに、
「240ヶも売れました」
「9600文---といえば、2両をこえているではないか」

売り出し元の祇園町の〔平岡屋〕のほうは、日に500ヶではきかないから、毎日6両(96万円)をかるく超える売り上げで、
「近いうちに、役宅のほうへお礼にあがるといっいました」
「拙への礼はいいから、表の役所の与力が20人、同心50人、それだけにわたる現物をもってくるように伝えておいてくれ。なに、いちど使えば、あとは店に行くから、何倍もになって返ってくるとな」

さまは、あいかわらず欲がない。それでは、私の儲けの半分をさしあげます」
は3両(48万円)を手早く包んだ。

_150「ありがたく頂戴しておく。〔瀬戸川〕のに世話になっている〔相模〕の彦十に小遣いがわたせる。ところで、〔紅屋〕の濃い紫色の口紅のほうはどうだ?」
「あちらは、私の発案ということで、手取りは5分5分ですが、売れゆきは日に5ヶというところです」

「1ヶ、幾らなんだ?」
「80文(3200円)」
「明日から、弟子の若いむすめたちにつけさせるんだな」
「わぁ、いいこと教わりました。ところで、お宝がいる、尼僧さんのほうは?」
乃舞を気にしながら訊いた。
「そのことで寄ったのだ。錦小路通り・室町通りに格好の家がかりられた」
「では、私たちは当分ここで---?」
銕三郎がゆっくりうなずいた。(英泉〔小町紅〕の濃い紫の口紅の女)


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.25

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(7)

「元締が、脇門の外でお待ちどす」
いつも金子を届けてくれる〔左阿弥(さあみ)〕のところの若い者(の)が、役宅の下僕とすっかり顔なじみになったらしく、内庭へはいってき、銕三郎(てつさぶろう 28歳)に告げた。

読んでいた書物『十八史略』を伏せ、袴を着して門の外に出ると、円造(えんぞう 60歳すぎ)元締が、
「錦通り・室町通りに、ええ家が見つかりましてな。ご見分いただこうおもいまして---」

誠心院の貞妙尼(じょみょうに 25歳)が還俗(げんぞく)して住まう家を頼んでおいたのである。
しもうた家という条件で探してもらった。
円造は顔がひろいから、その道の周旋人にも知り合いが多かった。
「元締じきじきにお運びいただき、恐縮です」
「なにをいわはる。庵主(あんじゅ)はんは、孫むすめやおもうてますねん」

_120その家へ着いてみると、2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)が庵主を伴なって、さきに見分していた。
室町通りから路地をはいったつきあたりの二階家であった。
「どうですか?」
墨染めの大衣の貞妙尼は、淡い比丘尼頭巾で長髪をかくしていたが、顔は上気しており、頬の赤みがいつもより濃かった。
「お(てい)に戻って住むには、もったいないほどのお家どす」

「母ごもいっしょに住めるような家をと、元締にお願いしておいたのです」
「すんまへん。母(たあ)は、近所の知り合いと別れとうないさかい、いまのところを離れられへんいうて、駄々こねてます」

「ま、母・むすめで、ゆっくり話しおうたらよろし。この家さえあったら、いつかて越してきてもらえるんやさかい」
角兵衛・2代目がとりなし、周旋人に目くばせした。

貞妙尼が好みの什器をあの部屋、この納戸に配る空想にふけっているのを、元締は満足そうに眺めている。
銕三郎は、貞妙尼に5両(80万円)の紙づつみを手わたし、
「これで、なんやかや、買い整えなさい。還俗をすませ、越してきた日にとどけるようにいいつけておけばいい」

元締と角兵衛に礼をいい、銕三郎はひと足に役宅へ戻った。

_360_5
(春信『髪洗い』 久栄のイメージ)

先日の貞妙尼の髪洗い姿が、ちらっと横ぎったので、
「雇い人の目のとどかないところで洗ったらどうかね」

久栄(ひさえ 21歳)は、右腕ごしに眸(め)を投げかけ、
「旦那どのは、長い髪をさげた女性(にょしょう)がお好みとおもったので、やっているんですよ」
声にトゲがあった。

「なんの話だ」
「お分かりになっているくせに---」
「分からぬ」
「お分かりにならなければ、それまでのことでございます。ただ、部屋ずみの身で、側室をおもちになるのは、いかがかと思います」

「側室? 誰のことだ?」
久栄は問いかけをはずし、お舅(しゅうと)どの・備中守宣雄(のぶお 55歳)は、1500石格に加えて西町奉行としての玄米600石の役手当てをおもらいになっているのに、
「側室にでもと雇いいれた左久(さく 17歳)に手もお触れになりませぬ」
(ははーん。父上にあてがうために佐久を座敷女中にしたのに---と、不満のはけ口を、おれにむけたな。カマをかけただけのことか---)
「38は、齢が離れすぎとはおもわぬか?」
「世間には、いくらも例がございます」
「父上は、面倒と、おおもいかも---」

浴衣に袖をとおして居室にはいった久栄を追い、障子の陰で、押したおそうとした。
「なりませぬ。辰蔵(たつぞう 4歳)がきます」

A_360
(歌麿『ねがいの糸口』 久栄のイメージ)

「若。彦十さんが見えています」
内庭から松造(まつぞう 22歳)の声がかかった。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () (8) () (10
   

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


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2009.10.24

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(6)

「すぐ、すませますよって、お待ちになっておくれやす」
双肌ぬぎで長髪を洗っていた貞妙尼(じょみょうに 25歳)が、左手で髪を束ねもち、顔だけを向け、声を送ってきた。

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(歌麿『婦人相学十躰 洗髪』 貞妙尼のイメージ)

透(す)きとおるほどの白肌が、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、まぶしい。
子にふくまさせたことのない乳頭は、25歳におんなにしては小さく桃色のままである。
もっとも、銕三郎は吸っているが、亡夫もなぶったであろう---。
小豆ほどの乳首にもかかわらす、張った乳房は銕三郎の掌にあまる。

(符合ということは、ほんとうにあるのだな)
きょう、油小路・二条上ルの鞘師・三右衛門の裏の、いつもの2軒長屋へやってきたのは〔化粧(けわい)読みうり〕の名代(みょうだい)料をわたすためでもあった。

符合というのは、その〔化粧読みうり〕の客寄せの記事が、[髪を洗う伝(でん)]であったからである。

陽気がよくなり、15丁ほどもいそぎ足であるくと、汗ばむ日がつづいている。
道が乾いて、土ぼこりが舞うことも多くなった。

_360
(速水春暁斎・絵 『都風俗化粧法』東洋文庫)

〔ふのり〕〔とうどんのこ〕に〔むくの木の皮〕を刻んで煎(せん)じた湯をくわえたもので洗うと光沢(つや)もでるし、黒い髪がより美しくなる---といったことを絵に添えた。

すすぎを終えた貞妙尼が上半身裸のまま、後片づけをしながら、
「きょうはお会いできるのやとおもうたら、お経をあげてたかて、気がはいらしまへんよって、早めにきて、洗ってましてん。そしたら、銕'(てつ)はんも早(は)よきィはって---」
髪を乾かすために、まだ、束ねていない。

_200
(歌麿『歌まくら あわび採り』 貞妙尼のイメージ)

「拙も、考えごとに身がはいらなくてな。さいわい、〔左阿弥(さあみ)〕のところの若い者(の)が昼すぎに届けてくれたので---」

貞妙尼は、還俗したときの住まいのあれこれについて空想していると、すぐに日が経ってしまって---と笑った。
「新世帯をととのえるみたいに、浮きうきしてくるんどす。おかしおますやろ」
「おかしくはない。お貞(てい)の新しい門出だ。ついでに、名もあたらしくととのえたらどうかな。町名主のほうへは、奉行所がなんとかしてくれよう」
「ひゃあ。新しい名を考えるだけで、3日はかかりますやろ。なんや、楽しゅうなってきました」

櫛けずろうと腕をあげたときの黒い脇毛を目にし、たまらず、抱きよせ、口を吸う。

_360_3

櫛の手をやめないので、唇がついたり離れたり---それがおかしいと、2人とも噴きだした。

「名どすけど、貞妙尼の「」を「たえ」と読んだらどないでしょう」
「待った。それだけは駄目だ」
「奥方の名やったんなら、寝言でいわはったかてたかて、よろしやおまへんか」
「違う。母上の名なんだよ」
「そら、親子どんぶりになってしまいますなあ」
また、噴きだした。

他愛もない冗談が、先の見通しが明るいために、屈託なく笑えた。

「うち、ほんまに淫らになったかもしれしまへん。ゆうべ、嫁にいくとき、母(たあ)が行李の底へしのばせてくれはった、絵ェの夢をみてしもたんどす」

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(北斎 『嘉能之故真通』部分)

「雄蛸と子蛸がからんできて、唇やら乳首やら下腹やらを吸いよりますねん」

夢の中の刺激をおもいだしたらしく、貞妙尼の双眸(りょうめ)が潤んできた。
相づちに窮した銕三郎は、懐の、刷りあがったばかりの〔化粧読みうり〕を、わたした。

下のお披露目枠に目をとめ、
「ぎょうさんの小町紅どすなあ。小町紅の大名行列やおへんか---」


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B_360_3
(『商人買物独案内』より)

祇園町の〔平岡油〕は、〔むくの木の皮〕を煎じて混ぜた、化粧法の書いておいた髪洗い油である。
銕三郎の入れ知恵でつくらせた。
左阿弥〕の2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)は、お披露目枠にそのことを載せたらといったが、銕三郎が反論した。
混じた油はどこで売っているかと、〔化粧読みうり〕を売っている祇園社境内の仮床の店へ客が訊いときに教えたほうが、真実味とありがた味が高まるのだと教えた。
もちろん、〔延吉屋〕でお(かつ 32歳)に化粧指南をうけているむすめが訊いたら、即、売りつける。
8:2で、おの取り分は8分だと。

_150「忘れていた。女化粧指南師のおが、〔紅屋〕のために、あたらしい色に口紅を考案したんだ。橙色と濃い紫色のと桃色とかいっていた」
「濃い紫?」
「貞尼(ていあま)のように武家風のおんなには向かないが、跳ねっかえりのむすめは、その筋のおなごたちがしているから飛びつくだろう」

いつの時代にも、奇をよろこぶ若いむすめがいることを、お勝は店で毎日見ているのである。
そこから想をえた製品開発だけに、強い。
〔紅屋〕も、おのところで日に3人のむすめが濃い紫の口紅を買えば、10日後には洛中に3,000人のむすめたちが黒っぽい下唇をして街をあるき、1ヶ月後には1万人がそうしている---とふんだ。
(左の絵は、英泉『艶本婦慈之雪 洛陽之売色』)

苦笑を消した銕三郎が、貝殻(かいがら)を取りだし、まともな紅だから、還俗したつもりで、ためしに刷(は)いてみないかとすすめた。

筆にほんのすこしつけて、母親の手鏡でたしかめ、笑みをこぼした。

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(歌麿『北国五色墨』)

銕三郎が筆をもぎとり、
「こっちを向いて」
浴衣の前を押しあけ、乳頭に紅をさす。
「くすぐったぁい!」
躰をよじりながらも、胸をつきだす。
それに、銕三郎が口でうけとめた。

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(歌麿『ねがいの糸口』部部分 貞妙尼のイメージ)

軒先では、雀が藁を1茎ずつ運んでは、巣づくりにはげんでいる。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


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2009.10.23

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(5)

「やっぱり、そないにならはりましたんか。いや、けっこうどす、ちょっぴり、うらやましゅうはおますけど---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、貞妙尼(じょみょうに 25歳)とできてしまったことを告げると、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締は、楽しそうな笑い顔になり、かたわらの2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)に、
(かく)も、ええ話や、おもうやろ。25後家が男断ちでいはったら、躰のためにようない---」
自分で大きくうなずいた。

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
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[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)] () () () () () () () () (10

還俗の段になったとき、角兵衛が口をはさんだ。
〔縁起(えんぎ)読みうり〕を案じていたのだという。
貞妙尼に、月々の仏道の縁起を書いてもらい、それを 引き札として配布するつもりであったというのである。
お披露目(ひろめ)枠(広告枠)の買い手も小あたりして、すでに10店舗ほど予約をうけているらしい。

絵師・冬斎(とうさい 41歳)も大乗り気で、貞妙尼の似顔を描いているとも。


「これは、まったくの引き札やよって、祇園はんの境内の、うちが支配してる仮店だけで配りますさかい、〔化粧((けわい)読みうり〕とは競いまへん」
つまり、角兵衛が板元(はんもと)とお披露目枠の扱いも取り仕切るということである。

「もちろん、誠心院(じょうしんいん)はんには、1板につき2両(32万円)ずつ、寄進させてもらお、おもうてます」
貞妙尼どのが還俗してもよろしいのですか?」

元締がのりだしてきた。
「そこどすねん。還俗の話をきく前の案どすよってな。どないでしゃろ、祇園はんのわきに、小じんまりした、無宗派の庵室を一つ結んで、貞妙尼はんには、そこで読経してもらういうのんは? 姿かたちだけの比丘尼はんでよろしのや」

たしかに、祇園社の境内であれば、〔左阿弥〕の目が光っているから、貞妙尼に危害はおよぶまい。
しかし、大衆が簡単にだまされるだろうか。
数ヶ月はだませたとしても、京都中のお寺は真相を檀家も者たちにささやくと、たちまち、偽装がばれよう。
そうなると、〔化粧((けわい)読みうり〕にまで影響がおよぶ。
表向きは貞妙尼が板元(はんもと)ということになっているから、讒言はそっちにもおよぶだろう。
とりわけ、銕三郎が破戒の主とわかれば---。

そのことをいうと、角兵衛も考えこんでしまった。
やはり、貞妙尼が誠心院にいてこそ、なりたつ案であろう。

代案として、元締が取り仕切っている縁で、祇園社か知恩院の住持の説文にしては、と提案してみた。
「あきまへん。少々の名義借り料で承知なさるようにお方や、おへん。それに、尼僧はんの説文やからありがたいのんどす。僧の説文を、婆さんやったらともかく、若いむすめたちが読むはずがおへん」

ありがたい尼寺---たとえば御寺(おてら)御所と呼ばれている烏丸上立売の大聖寺のご庵主(あんじゅ)さんとか---。
「伝手(つで)が---」
しぶる角兵衛に、禁裏付から公家方の武家伝奏(てんそう)を打診してみるテなら---といった銕三郎に、元締が、
「公家はんたちへの口きき料いうたら、世間相場の10層倍ではききまへん」

けっきょく、銕三郎が身を引いて貞妙尼は口をとざしていまのまま庵主をつづけるか、〔縁起読みうり〕の案を延期するかだが、貞妙尼は還俗をあきらめないだろうということに落ち着いた。

「長谷川の若ぼんも、罪つくりなお人どすなあ」
元締がしみじもといい、談義を3人で笑ってすませた。

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2009.10.22

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(4)

「愛(いと)しい娘(こ)・お乃舞(のぶ 14歳)とは、その後、うまくやっているか?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)としては、おんな同士の出事(でごと 性愛)のことを、冗談めかして訊いたつもりであったのに、お(かつ 32歳)は、そうはとらなかった。

参照】2009年9月24日~[お勝の恋人] () () (

_100「お店でも、甘えてくるので、ほかの弟子2人が焼餅で、ちょっと困っているんですよ」
「それは、よくないな。床の中で、きちんと躾(しつけ)るんだな」(歌麿『寛政3美人』 お勝のイメージ)

甘えられる大人ができて、おもいっきり、そうしているので、無碍(むげ)に叱るのはかわいそうなんだという。
7年前の3人目のお産が難産で、母親とともに嬰児](えいじ)も死んでしまった。
やってきた継母が、自分の子ができると、お乃舞と妹を邪魔ものとしてあつかうようになったのだという。
父親も継女房にかまけ、姉妹の生母をしだいに忘れていく様子も悲しい。

「情に飢えていたのと、父親と継母との痴態にやりきれなくなっていたんです」
「よくある話だな」
「で、お乃舞と妹をここへ引きとり、いっしょに暮らそうかと---」
「妹というのは、幾つなのだ?」

「3つ下だから11歳ですか」
「いっしょに住んでいて、お勝たちの睦みごとが隠せるのか?」
「妹のほうは、まだねんねですから---」

(「十三と十六はただの年でなし」と、姉妹をもっている儒塾の悪友から聞いたぞ、といいかけ、やめた。
お勝もおんなだからこころえていよう)

ちゅうすけ注】「十三と十六はただの年でなし」は、銕三郎の時代の古川柳で、数えの13歳で月のものが始まり、16歳で芝生が生えてくる---を詠んでいる。

「家のことをやるのは、馴れているようですから、弟子をやめさせて---」

それで、おのほうから、銕三郎に相談があったところだと言った。
奉行所のだれかに、わからず屋の父親らしいとの話しあいに立ちあってもらえないかと---。

浦部という与力に頼んでみよう。小者が打ち合わせに〔延吉屋〕へ行ってもいいのか?」
「近くのうどん屋でなら話せます」

引きうけて、銕三郎が切り出した。
「日に2分(8万円)は稼ぐとのことであったが---」
「お宝ですか? 幾らお入り用ですか?」
「いや。いますぐではない。頼んだ時のことだが---」

「おなごですか、お相手は?」
「おんなでは、嫌か?」
「嫌とは申しませんが、どんなおなご衆かと---」

「齢は、25歳」
「そんなときもありいました」
「名は、貞妙尼(じょみょうに)---」
「え? いま、なんと?」
「じょみょうに---」
「に---って、比丘尼(びくに)さまの、に---ですか?」
「そうだ」
「その比丘尼さまがお堂でもお建てになるから、さまが、壇越(だんえつ)にでも?」
「そうではない。還俗(げんぞく)をすすめている」

そうなってしまった経緯(いきさつ)をかいつまんで話した。

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () (

貞妙尼のほうから誘ったということで、おは納得した。
「わたしだって、お(りょう 享年33歳)お姉さんだって、さまには、ころりといってしまったのですから、その比丘尼さんも、そうだったのでしょう」

そう言ってから、
「お宝はなんのために?」
「自活させなければならない。とりあえずは、寺をでて住むところを借りなければならない」

しばらく考えていたおが、
「わたし、この家をでます。さいわい、これまで稼いだものが10両(160万)ほど、お(きち 37歳)姉さんに預けてありますから---お竜お姉さんがのこしてくれた12両(192万円)も手つかずです。これをさまへさしあげます」
「おの遺産金(かたみがね)なら、拙も20両(320万円)もらっていた」

参照】2009年8月22日[〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] (


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (


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2009.10.21

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(3)

おんな化粧(けわい)指南師・お(かつ 32歳)との連絡(つなぎ)をつけた若党・松造(まつぞう 22歳)が、六ッ半(午後7時)までには、押小路裏の家に帰っているとの返事をもってきた。

「出かけてくる」
夕餉(ゆうげ)のあと、そういった銕三郎(てつさぶろう 28歳)に、久栄(ひさえ 21歳)が、不満を押し殺して見送った。
「ずいぶんと、お忙しいご様子でございますこと」

武家の夕餉は、七ッ半(午後5時)には箸をとる。
六ッ半には1刻(2時間)ほどあった。
この時分は日没がおそくなってきており、六ッ(午後6時)でもまだ夕闇がこない。

(---というのは、現今のいい方で、江戸時代は日の出が明け六ッ、日の入りが暮れ六ッ。月はもちろん陰暦である)。

足が自然に三条通りを東へ、右に折れて中筋通りに入る。
桝目につくられている京の道の名も、だいぶ覚えた。

誠心院(じょうしんいん)の門前でちょっと思案したが、おもいきって境内に踏み入れる。
本堂の灯は消えていた。

房(ぼう)の木鐸(もくたく)を打つと、誰何(すいか)する声がとがめた。
長谷川です」
わざと、まわりに聞こえるように名乗った。

表口の戸があき、木綿の普段着の直綴(じきとつ)をあわててはおったらしい貞妙尼(じょみょうに 25歳)が立っていた。
洗い髪を広げ、そのまま背中にたらしているのが艶っぽい。

「おあがりになりますか?」
「ここで、帰ります。あの話がどうなったか、伺うために参上いたしましただけです」
誰の耳にはいってもいいように庵主(あんじゅ)に対している態(てい)で、丁寧に問いかけた。

ことばづかいとは裏腹に、笑みをたたえた眸(め)が、お(てい)のくつろいだ姿態をなめまわしている。
後ろからの灯で、ころもが透けて裸躰の見えるように錯覚した。
その視線にこたえた貞妙尼が、腰をくねらせ、
「はい。おすすめのように、決めました」
「それは、よろしゅうございました。では、失礼いたします」

銕三郎が、ばか丁寧にあいさつのあと、口をひそめて、貞妙尼にだけ聞こえるように、
「一目、会ういたかった」
「うちかて----」

訪問者が門前の小さな中川に架かる橋をわたりおえるところまで見とどけた庵主は、深いため息をもらして戸をしめた。

誠心院を出た銕三郎は、押小路の一筋南の御池通りで見かけた呑み屋へ入り、
「六ッ半の鐘を聞いたら教えてほしい」
冷や酒と、あぶった小魚を注文した。

(還俗(げんぞく)したおが〔化粧(けわい)読みうり〕を仕切るとなると、〔左阿弥(さあね)〕の家から離れすぎるのも考えものだ。
といって、千本の役宅から遠すぎても不便だ。
押小路の借家は、おにゆずってしまったし---)


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


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2009.10.20

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(2)

「言わはった還俗(げんぞく)どすねんけど---」
貞妙尼(じょみょうに 25歳)も全裸のままふとんから出て、茶碗酒をすすった。

「おいしおすなあ。葷酒(くんしゅ)や魚、油ものまで禁じとぉるのんは、精がついたら、淫欲にはしる---いうことや、おもいます。
そやそや。みだらいう字ィは、ふつうはサンズイどすやろ。それが仏道では、わざわざ、女偏の「婬」いう字をつこうとりますんよ。聖欲はおんなだけあるもんやおへん」
投げるようにいって、また、すすった。

「還俗から、話がそれたよ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が腕を肩にまわした。
すりよってきて、乳房を脇の下に押しつけた。
「銕(てつ)はんと、こないなってから、乳房が肥えたみたいどす」
「ややができたんではあるまいな」
「できてたら、どないしはります?」
「うむ。側室に---といいたいが、まだ、部屋住みだから、どう、思案したものか」

「月の障りが、おととい、終わったとこどす」
「おどかすなよ」

銕三郎の前へまわり、
「銕はんの精をいただいて、肌の艶(つや)がふえたみたいどす」
全裸の肌を、目の前にさらした。

久栄(ひさえ 21歳)は、ふとんの中でなにも身につけないことはあるが、床の外では、さすがに武家の妻らしく、下腹は覆っている。
貞妙尼は、最初(はな)のときからこだわらなかった。亡夫の好みだったのであろうか)

(お(りょう 享年33歳)はどうであったかな。とっかかりは湯殿だったな。双方、裸だった。蚊帳の中で浴衣をつけていたような。こういうことって、相手まかせにしているから、覚えていないものだな)

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

「たしかに---。町娘なら、白粉ののりがよくなったとよろこぶところだな」
手をのばし、乳首をもてあそぶ。


障子にうつる南天の影が消えかかっていた。

「こない、なんども、極楽へのぼるの、はじめてどす。こんなん、ほかのおなご衆も、そうなんやろか」
半分、正気がもどり、しみじみともらした。
「躰が熟(う)れる齢(とし)ごろになったのだよ」
「いいえ。銕はんのみちびきのせいどす」

還俗の話にもどった。
「1ヶ月前には、本山へいうとかな、あきまへんやろな。あとにきはる比丘尼はんの手あてもあることやし---」
「その気になったようだな。髪が伸びるのを待たなくてもいいから、町住まいはその日からそのままだ」
「住むところもなんとかせな---」
「ここには帰らないのか?」
「ご近所に、みっとものうおす」
「家は、なんとか考える」

貞妙尼は暗算し、
「いただいてたお布施が、本山にないしょで、10両(160万円)ほどたまってますよって、当座のお宝はなんとか---」
「近所の衆と顔をあわせないですみ、役宅からさほど遠くないところというと---」

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.19

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)

「波羅夷(はらい)の汚名をきせらる前に、還俗(:げんぞく)してしまう考え方はないかな?」

参照波羅夷罪

布団から裸形のまま這いでて、膳にのっていた飯茶碗の冷酒でしめらせた口で問いかけた。
おんなは、空を浮遊しているような余韻にふけっていた。

雨戸があけてあり、午後の西陽が障子ごしに貞妙尼(じょみょうに 25歳)の透きとおるほどに白い裸体を浮き上がらせている。

先(せん)にここで会ってから10日がすぎたので、街中の花はすっかり散り、みずみずしい若葉が一斉にふくらみはじめている季節になっている。

二条油小路上ルの鞘師・三右衛門の店の裏の2軒長屋---貞妙尼の実家である。

母親(47歳)は、きょうも親類へ泊りがけででかけ、顔をあわせるのを避けた。

役宅でも江戸の家でも裸のままということは、武士の子としては、許されない。
いつ、不時の事件で人前に出ることになるやもしれないからである。

もっとも、布団の中で久栄(ひさえ 21歳)を抱くときは別であった。

「うちが波羅夷の犯戒の罰をうけるのんを、こころ待ちにしてはる比丘(びく 男僧)衆がぎょうさんいてはる---」
「みんな、貞尼(ていあま)にさそいをかけた僧たちだな」

「じょみょうに」ではいかにも睦言らしくないと、布団の中では、そう呼びかけることにしたのである。
そのくだけた呼び名を耳元でささゆかれると、貞妙尼は昂(たかぶ)りがますようであった。

「破犯裁きで、その僧たちの名をバラしてやればいい」
「証拠のないいいがりをいうてると、反対に破戒の罪状がかさみますやろ」
「言いよりの文はのこしていないのか?」
「そんな、あとにのこるようなことはしィはらしまへん」

「やはり、その前に還俗することだな」
「せやけど、まだ、バレてぇしまへんえ」

破戒裁きの波羅夷のことは、寝床にはいる前に、貞妙尼が話した。
「比丘尼が懲罰をうける破戒は、男の比丘の4行為に、さらに4行為がくわえられていると。

くわえられているのは、
一、 摩触戒(ましょくかい) 好きこごろを示している男の腋(わき)から下に触れること。
一、 八事成重戒(はちじじょうじゅうかい) 尼のほうが好きごころを抱いており、むこうも憎からずおもっている男の手をにぎったり、着ているものをどうこうしたり、隠れた場所でともに坐り、、話しあい、いっしょに歩いたり、寄り添ったりすること。
一、 覆蔵(ふぞう) 比丘の破戒所業を秘していわないこと。
一、 随挙(ずいきょ) 破戒所業をした比丘に殉ずること

【参照真言宗泉湧寺派の戒の構成

銕三郎は、噴きだしてしまい、しばらくとまらなかった。
「このあいだ、貞尼が難じた意味が、ようわかった---」

貞妙尼をなぐさめてから、蘭学をかじっている人(平賀源内)から聞いたことだが、向こうのキリシタンの坊主たちにもきびしい戒があるようだが、それが不自然だといって、妻帯する坊主の派を新教徒と呼んでいるらしい。
長崎にきているオランダ国もその宗派だから、公儀がゆるしているだそうだ。
もっとも、新教徒の尼僧が夫をもっているかどうかは聞きもらした。

貞尼も、真言新宗を唱えるといいかもな。おんなを罪が深い生きものとみるなといってな」
「そんなんしたら、お寺さんの多いこの京では、生きてはいけまへん。それより、秘して、こうして聖欲を愉しんでいるほうが、賢おすよって---」

銕三郎が還俗を問うたのは、ゆっくりと刻(とき)をかけた房事が終わってからであった。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.18

〔千歳(せんざい)〕のお豊 (12)

「〔千歳(せんざい)〕のおどののことで、お願いにあがりました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、烏丸蛤ご門前の粽司(ちまきつかさ)〔川端道喜(どうき)〕の10代目(60がらみ)に頭をさげた。

参照】2009年8月1日[お竜の葬儀] (
2009年8月29日[化粧(けわい)指南師・お勝](

「あらたまらはって、なんぞ、むつかいことでも出来(しゅたい)しよりましたかいな?」
世なれている道喜・10代目は一拍おき、
「花見は、どこぞですませはりましたか?」

きのうは、御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)の遅めの桜を、辰蔵(たつぞう 4歳)と久栄(ひさえ 21歳)を連れ、目付与力の嫡男・浦部彦太郎(ひこたろう 20歳)に案内されて、看てきた。
10代目は、そのことを訊いている。

C_360
(御室仁和寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「御室へ、人ごみにもまれに行ったようなものでした。京には風流人が多いようで---」

「は、ははは。風流なお人らは、八瀬(やせ)あたりへ遠出して、窯風呂あがりに一杯やりながら、山ざくらを楽しんではりますやろ。それはそうと、ご用件を承りまひょ」

_360_2
(八瀬・窯風呂 『都名所図会』 塗り絵師::ちゅうすけ)

祇園社の北の茶店〔千歳〕が、奉行所から「盗人宿(ぬすっとやど)と目をつけられているから、お(とよ 25歳)に、急いで身をかくすように伝えてもらえまいか---と打ち明けると、
長谷川はんは、身分を、どないいうてはりましたんや?」
「浪人の息子と---」

「それやったら、奉行所の名ぁをだすわけにはいきまへん、わなあ」
10代目は、銕三郎の眸(め)をじっと見て、
「あんたはん、いくど、抱かはったん? おんないうもんは、抱かれた数によってあきらめがついたり、つかへんかったりしますのんや」
ずばりと訊かれ、思わず指を折って勘定するのを、笑顔で見て、
「片手の指で足りそうやさかい、安堵々々。両方の指にあまったら面倒なところでおした」

10代目は、祇園の茶屋で夕(ゆうげ)をとる前の喉ならしに寄っていただけで深いかかわりはなが、35,6歳の恰幅のええ、眼光のするどい男を何度か見かけたことがある---あの男が店とおの持ち主であろう、と初めてあかした。

ちゅうすけ注】10代目がいう男こそ、2代目〔虫栗むしくり)〕の権十郎(ごんじゅうろう 35歳)であろう。
彼が、情婦・お銕三郎の情事を知ったら、たぶん、刺客を向けたろう。
銕三郎貞妙尼(じょみょうに 25歳)とのあいだのことをお豊が知ったら、おんなの嫉妬は、相手のおんなに向かうというから、権十郎を焚きつけ、貞妙尼が危なかったかもしれない。

たまたま、遠国盗(づと)めに出かけているあいだのおの浮気でよかった。

10代目が、どう、おを説いたのか、10日のうちに茶店〔千歳〕は、居ぬきで持ち主がかわっていた。
老爺ィ(じつは、〔男鬼おおに)〕の駒右衛門(こまえもん)も姿を消していた。

銕三郎が礼に訪れると、10代目は、
「相変わらず、おんな遊びィ、やってはりますか? 遊ぶのんは、若いうちにすましとかんと、齢くってからのおんな遊びィは手がつけられしまへん」
「10代目どのの貴重な体験談として拝聴---」
半分もいいおわらないときに、まだ30代とおぼしい細面(ほそおもて)の女性(にょしょう)が茶と粽を捧げてきた。

「わての嫁はんどすねん。よろしゅう」
女性が引きさがってから、
「手がつけられなくなった口のお女(ひと)ですか?」
「はっははは。うっかり手をつけたら、抜きさしならんようになりよって---ははは。男とおんなの仲いうもんは、抜きさししてたら、すぐに、抜けへんようになりよります---あ、その粽、奥方へのお土産につつみませまひょ」


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2009.10.17

誠心院(せいしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(7)

貞妙尼(じょみょうに 25歳)が瞼(まぶた)をひらいた。
部屋は、ほとんど暗く沈んでいる。

それなのに、横の銕三郎(てつさぶろう 28歳)をまぶしげに瞶(みつ)め、
「うち、どないかなったんやろか、躰が空に浮いてます」
「極楽から帰ってきたのだよ」
「ほんま。まだ、芯がしびれてますえ」

銕三郎が、背中を何度もゆっくりとなぜてやり、尻の丸みを掌で覆い、中指で谷間をとんとんと打ってやる。
その快さを笑顔で楽しみながら、
「淫欲たら、肉欲たら、情欲たら、色欲たら、性欲たら、いいますけど、字が違うとります。好きな人となら、聖欲、正欲、清欲、こころのこもった精欲どす。 色欲(しきよく)やなしに、分別したうえでの識欲。情欲やおへんで清らかな浄欲。仏典は間違ごうてます」
「拙にとっては、勢欲だったかも---」
「銕(てつ)はんのんは、若さの徴(しるし)やよって、うれしゅおす---」

それから、躰がまだほてっているらしく、裸のまま立っていき、行灯を点し、桜紙をとって内股をぬぐい、
はんからの贈り物が多すぎたらしゅう、流れてきよりました。もったいない」
艶(なまめ)かしい仕草であった。

すぐに布団に入って語る。

仏道では、5欲として、財欲、色欲、飲食欲、名(みょう)欲、睡眠欲をあげていること、このうち財欲、名欲は少ないほうがよいが、飲食欲はよほどの美食をもとめなければ、生きものならみんな持っているあたりまえの欲だと言った。
魚、獣、鳥を食することを禁じているが、米や芋だって生命を持っているはず---。
理に筋が通っていない。
「色欲は、いまいうた聖欲どす」

月のものがなくなっても、男に抱かれたい気持ちは消えないというし、歯がすっかり抜けて歯茎だけの老婆も誘われればよろこんでしたがうと、母から聞いた、ともいった。

「母上は、お幾つ?」
「47歳にならはりました。父が逝ったのは10年前---うちが15、母(たあ)は37。夜、うちの布団にはいってきて、抱きしめ、太ももにすりつけて耐えてはりました」

そのうち、抱かれるだけの男ができたことは、打ちあけない。

銕三郎のそれを指先でいとしげになぶりながら、幼なかったときの寺子屋の壁に貼ってあった、やったら居残りという注意書きも話した。
「おんな組の壁だけどした。男の子の組には違ったんが貼ってあったんたどす」

一、顔のよしあし
一、着ているもののよしあし
一、家のくらしのよしあし
一、わがままなふるまい
一、男の子のうわさ
一、たんき
一、中ぐち(そしり口)
一、つげぐち
一、むだぐち
一、耳こすり(ないしょ話)

「男の子のうわさ---か。きびしいな」
「6歳から12歳ごろのおんなの子ゥの男の子のうわさかて、性欲の形が幼ないだけですやろ。それより、おんなの子にとってきついのんは、顔のよしあしと、着ているもののよしあし---どすけど」

銕三郎のものが硬くなったので、
「もう一遍、極楽を感じさせてほしおす---」
「10日後の愉しみにとっておきなされ」
「10日後も、ここで---いまから、待ちどうし」
初めてのときは、ねだった銕三郎を姉のようにたしなめた貞妙尼が、いまは、妹にでもなったように甘えきっている。

「庵までお送りしようか」
「今夜はここで寝て、ひとりで、なごりをたどります」


参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
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お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌く寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.16

誠心院(せいしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(6)

http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/10/post-1293.html板壁1枚の長屋なので、貞妙尼(じょみょうに 25歳)は必死に声を殺していたが、房(ぼう)のときよりも姿態は大胆であった。
身もこころも、町女房になりきっていたのであろう、戒を捨ててかかっていた。

起きあがり、母親のものらしい丹前だけをはおり、勝手知った流しの上の棚の酒徳利から飯茶碗に酒を注ぎ、水屋から魚の煮こごりなどをのせた膳を枕元にしつらえた。

「尼午前どのに魚は似合わないが---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)がからかう。
「いまは、町女房どす」
茶碗酒に口をつけた。

「いける口だったのだ。なんなら、このあたりの居酒屋へでも行こうか」
(てつ)はん。お高祖頭巾をかぶってたら、お酒は呑めしまへん。頭巾とったら、墨鏝(すみごて)に、みんながひっくりかえりますやろ」
「そうだった。墨を洗い流して、素顔になったら?」
「このへんの人は、みんな、うちの顔も受戒した経緯(いきさつ)も、知ってはります」
「薬屋町小町だったのだ」

雨戸の隙間から見える外は、暮れかかっているらしい。
銕三郎が飯茶碗を返すと、膳を遠ざけ、丹前を脱ぎ、横にはいった。

はん。墨を塗った貞妙尼を抱いたときと、素顔のうちと睦んだ感じは?」
「墨を縫った貞妙尼へは、すまないという気持ちが強くて、より昂(たかま)ったようだ」
「罪の意識どすか?」
「お(てい)は、初めてのときに痛がゆい---とかいったな。きりきりと締めつけられながら、喜悦を深めているというか---、いけないことをしているという気持ちはあるのだが、それをわざとしていることからとめどなく湧いてくる愉悦というか---」

「うち、はんとこないなってみて、よう、わかりましたんえ。おんなは、このことの愉悦から逃げられられへん---いうことが。躰の仕組みがそないなってるんやと。そんなんでないと、苦労してややを産むはず、おへん。愉悦の結果やさかい、産むんどすえ」

「産んだことがなくて、そういう考えにきめていいのか?」
「愉悦は、こころを許したいとしい男---亡夫やはんやさかいに、躰の芯まで甘美にとろけるのんどす。受戒したからいうて、そうすることを禁じるのは、戒が間違うてます。ほかの人に迷惑かけんと、2人だけで生きてることを喜びあってるいうのんに、仏が口をはさまはるのは出しゃばりいうもんと違いますやろか。うちは学問はおへんけど、躰が感じていることのほうが正しいのんや、おもいます」

声をひそめての、貞妙尼の宗門への疑念であった。

銕三郎は、反論する代わに裸身を抱きよせ、口を吸ってやり、秘所にやさしく触れ、考えていた。

(そういえば、芦ノ湯の湯舟で、まだ縁切りができていない人妻の阿記(あき 22歳=当時)も、似たような自分流のことを言ったなあ)

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎に] (13

貞妙尼の息づかいが切迫してきた。

はん。好きで好きでしかたがない男の人と交接して、下腹も骨の髄(ずい)も痺(しび)れ、頭の芯を真っ白にさせてもろたら、明日、死んだかてかめへん---それがおんなの極楽行や、おもうのんが、ほんまやおへんやろか」
「髄までしびれてみるがいい」

極楽で果てたまま貞妙尼は、後始末もできないほどであった。

銕三郎も、これまでにない愉悦を究(きわめ)たようにおもえた。

禁じられていることを破るときの恍惚感は、盗人もそうなんではないか。
子どもが、叱られると分かっていて、泥んこ遊びがやめられないのに似ていないか。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌く寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.15

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(5)

「こちらは、誠心院(じょうしんいん)のご庵主(あんじゅ)はんからの文どす」
左阿弥(さあみ)〕の元締のところの若い衆が、9板目のお披露目(ひろめ)枠のあがり6両(96万円)をとどけにきて、告げた。

金包みのほかに結び文がそえられていた。

〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目料は1両単位だから、商舗からの支払いはすべて1両小判でわたされるが、あとの諸方への払いをおもんぱかる〔左阿弥〕の角兵衛(かくべえ 42歳)は、3両ほどを2朱銀に両替してくれている。
3両は2朱銀が24枚である。

_250明和5匁銀(1万3000円)を半裁にした懐紙にくるみ、
「いつも、ご苦労である。2代目どのに、たしかに---と伝えてくれ」
遣いの若いのは、ほくほくして帰っていった。
いつものことなので、役宅の脇門のことはこころえている。

貞妙尼(じょみょうに 25歳)からの結び文には、

二条油小路の角の茶店。八ッ半(午後3時)。

短かった。
左阿弥〕の若い者(の)を、あまり待たしては怪しまれると気づかいしたのであろう。

最初の交接から7回目の名代料---お布施をお清めする日であった。
(旧暦)2月の中旬で、久栄(ひさえ 21歳)と御室(おむろ)の看桜をあさってに約束していた。

貞妙尼へわたす1両2分(24万円)を包み、2両3分1朱(45万)をいつものように彫り師、刷り職などへ配るように若党・松造(まつぞう 22歳)にいいつけた。
それぞれへ支払う金額は、たびたびのことなので、松造が承知している。

(まつ)。おぬし、彫り師からいくら駄賃をもらっているのだ?」
おもいついて、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が訊くと、
「ほんの150文(6000円)ばかり」
虚をつかれた松蔵は、つい、本音を漏らしてしまった。

「駄賃の2重取りはよくない。きょうは、おれからのは、なしだ」
「へえ」
「いままでの分を返せとはいわないから、安心しろ」
咄嗟に恩を着せた。

ありこまっちの8両(128万円)なにがしは、高杉銀平師(ぎんぺい 没年58歳)の墓石代のたしにと、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 28歳)の上総(かずさ)国印旛郡(いんばこおり)臼井へ送金してしまったが、それから3両(48万円)ばかり、手元にたまってきていた。

参照】2009年10月4日[高杉銀平師の死

(そろそろ、久栄の春衣も買ってやらないと---)

C_170二条油小路の角の茶店には、お高祖頭巾(こそずきん)の町女房がいるだけであった。
(早すぎたかな)

町女房から離れた床机に腰をおろそうとしたら、お高祖頭巾がこちらを向いて手まねきした。
目鼻だちから、貞妙尼とわかった。
隣りにかけて、
「どうしたのだ?」
「房(ぼう)では、噂がたちます。寺男の目もあります」
「その衣裳は?」
「娑婆(しゃば)にいたころのものを、あるところに秘しておきました」

茶店の爺ぃが茶をはこんできたので、しばらく、眸(め)と眸をみあわせるだけにした。
貞妙尼の眸は、もう、うるんで、抱いてほしがっている。

老爺がひっこんだので、
「その姿(なり)で庵を出たら目立つだろうに?」
「着替えました」
「どこで?」
「すぐそこ。これからご案内します」

その2軒長屋は、二条城の東---油小路二条上ルの鞘師・三右衛門の看板がでている店の裏にあった。
「うちが、亡夫といっしょになる前に住んでた家どす」
あがってみると、いまも誰かが暮らしているらしく、さっぱりと片づいていて、塵ひとつ見あたらない。

「誰が?」
「母どす」
縫い物で生活(たつき)をたてているのか、裁縫台や物さしが部屋の隅にあった。

「母ご?」
「花園の親戚の家へ泊りがけででかけました」
「悪い娘ごだ」
「いいえ。母も(てつ)はんとのこと、祝福してますんえ」
「添えもしないのに?」
「一人前のおんなが、男けなしの夜ばっかりやと、血の道の通じにもさわりがでるいうて---」

(てつ)はん。見て---」
貞妙尼がお高祖頭巾をとった。
「あっ---」
双頬にかけて、墨を塗っていた。
「焼き鏝(こて)の代わりどす。こうして、み仏に謝りをいれてますねん」
「お(てい)---」
呼びかけを待っていたように、腕の中にとびこんだ。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


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2009.10.14

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(4)

「もう、お戻りにならはらんと---」
貞妙尼(じょみょうに 25歳)は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)の乳頭を吸うと立ちあがり、脱ぎすておいた中宿衣(ちゅうしゅくね 襦袢)だけをはおり、隣室の風炉(ふろ)の鉄瓶から湯をみたした手桶に、手拭いをひたした。

みじかい中宿衣のままで紐も結んでいないため、膝をついた中腰になると、薄暗いなかにも豊かな白い尻が露わに出、前のほうは乳房も黒い茂みも銕三郎の側から丸見えであった。

「弁天さまのこの上ないお目見(めみえ)---まさに眼福」
銕三郎の戯(ざ)れ口にも、そういうことが交わせるあいたがらになれたことを喜ぶように、
「さ、尼僧を殺した妖刀を、ここでぬぐいまひょ」

半しぼりにしての手拭いで、銕三郎の下腹から太股の内側まで入念にぬぐい、つづいて堅絞りにしたので水気を除いた。
貞妙尼のしなやかな指の感覚に銕三郎のものが勃起しはじめると、
「今宵は、いい子して、もう、寝んね。つぎの再会は、10夜の先---」
かがんで、先端をぺろり舐めた。

そのあと、その手拭を半しぼりにして、両股を大きくひらき、内股を拭く。
凝視している銕三郎に嫣然(えんぜん)と、
「亡夫の生前、貧しゅうて、桜紙がもったいのうて、こないして、始末してましたの。亡夫は、見てるうちに催してきはって、せっかくの湯ゥ拭きを無駄にしてはりましたんえ」

「ありがたいご開帳、拙は初めて拝観。そそられ申す」
「ほな---。いえ、あきまへん。10日の宵までお預け---。うちは、み仏にお仕えしている身ィどすよって、白粉はつけてまへん。そやよって、その匂いは移ってぇしまへん」

けっきょく、銕三郎が房(ぼう)をあとにしたのは、五ッ(午後8時)をまわっていた。

もうすぐ(陰暦)2月(きさらぎ)となり、北野天神社などの梅花が見ごろというのに、京洛は、陽がおちるととたんに底冷えがきつくなる。

どこかで、犬が遠吼えをしていた。

情事で躰の芯がほてっていた銕三郎だが、この寒気にくしゃみひとつして、貞妙尼とのなりゆきをおもい返しながら、暗い街をいそぐ。

これまでに、何人かのおんなと肌をあわせたが、今宵のこれは、申しひらきのできないような所業であった。
尼は、「戒(かい)をやぶるんやったら、あとはどうなったかて、かめしまへん。身ィの肉が腐って、こころが痛がゆうなって---ふるえがくるほどに昂(たかぶ)ります」
それは、銕三郎もおなじく自分の中で、自制と戦ってはみたが、どうすることもできないで、踏みだしてしまった。

禁断のおんなを抱いてということでは、〔狐火(きつねび)〕が囲ったお(しず 18歳)とのことがあった。

参照】2008年6月2日 [お静という女] (
2008年6月7日[明和4年(1766)の銕三郎] (

ひょんな拍子でできてしまったが、さいわい、〔狐火〕は、たしなめただけで許してくれた。
もっとも、あれは、銕三郎と〔狐火]の、2人だけのあいだの事件であった。

貞妙尼の破戒に手(?)を貸したということは、全寺院、全信徒---世間を裏切った行いであったことに間違いない。
(それだけに、悪と知りつつはまっていった2人の気分の昂りも、尋常ではなかった)

比丘尼には、具足戒(ぐそくかい)と呼ばれる348ものまもるべき戒(かい いましめ)がある。
とりわけ、淫戒に対してはきびしい。
淫欲は、人間ならだれでも持っているものだからである。

夫が死んだために、その後の身を清く保とうとして誠心院(じょうしんいん)にこもったのに、銕三郎という若者をしったために、2年で破法を犯した。
(23歳で若後家になったおに、淫戒を犯すなというほうが無理なのかもしれない)
銕三郎は、勝手な言い訳をしてみたが、そんなことでは、貞妙尼の悩みはおさまるまい。

10日後に会えば、また、おなじ渕に沈むことは目にみえている。
(さて、おれはどうすべきか)

暗闇が言ったような空耳がした。
(だれも助けにはこないぞ)


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.13

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(3)

もたれかかった貞妙尼(じょみょうに 25歳)を支えようとして、背に右腕をまわした銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、たっぷりとした乳房が胸を押してくる感触に酔いかけた。

と、脇差の柄頭を避けて躰をあずけていた貞妙尼が、
「お待ちになっとくれやすか」
身をはなした。

「先刻、頼まれた家でお経をあげてきましたよって、白絹の大衣(おおね)のままどす。白やさかい、汚れがついたらわやどす」
大衣をもどかしげに脱ぎ、風炉(ふろ)を仕切った茶室の隣部屋で、箔押しで外側を飾った三衣筥(さんねばこ)の一番上に、きちんと畳んで納めた。

Photo
(三衣筥 『仏教大辞典』 富山房)

身にまとっているのは中価衣(なかげね)というのであろうか、白襦袢 じゅばん)と緋の湯文字だけになった。

「おんなは、そのときになっても、べべのことが気にりなりましてなあ。おかしおすやろ」
目も顔もくずしながら、あらためて、もたれかかる。
「ほんまは、緋は着てはなりまへんのどすえ。緋衣(ひえ)は高僧はんだけのもんで、朱や紅なら許されてますねんけど---でも、湯文字は見えへんよって---」

そのあいだに銕三郎は、正気にもどりかけていたので、両手で貞妙尼の肩を押しもどし、
「仏にお仕えの庵主(あんじゅ)どのを抱くことは、拙にはできませぬ」

「このままでは、うちが寒(さむ)おす。ふとんにはいって話しまひょ」

貞妙尼は、さっき僧衣を納めた部屋に、ふとんをのべはじめた。
あわててその手をとめた銕三郎が、
「庵主どのに破戒を冒(おか)さすわけには参りませぬ。さきほどの拙の振るまい、お詫びいたします」

それをやさしく払った貞妙尼は、
「火ィつけたんは、お(てい)のほうからどす。消しはるのは、(てつ)はんのほう」

受戒(じゅかい)前の名がおらしい。

「困った---」
さんと戒(かい)を破るんやったら、あとはどうなったかて、かめしまへん。身ィの肉が腐って、こころが痛がゆうなって---ふるえがくるほどに昂(たかぶ)りますやろ」

銕三郎の袴の結びをぱっとほどき、下へ引きおろしたとき、脇差が尼の腕に落ちた。
「痛ッ!」
「お怪我は?」

かがみこんだ銕三郎に飛びついた貞妙尼は形相は鬼女---そのままふとんに押し倒して、上から口を吸う。
銕三郎も、あきらめて舌をからませた。

ことが終わり、天井をみあげながら互いのものに手でふれあっていて、
「こうなること、〔左阿弥(さあみ)〕の元締から、お布施のこと、持ちこまれたときから、わかってましたんえ」
「なぜに?」
「慾のない人が好きどすねん。逝った夫も慾のないお人どした」
「拙は、慾がないのと違います。〔化粧(けわい)読みうり〕の板元の名代(みょうだい)料としてお払いしているのです」
「あないに、ぎょうさんどすか?」
「ぎょうさんかどうかは、考え方のちがいだけのことです」

「お武家はんでないと好きになれしまへん。父も亡夫も処士どしたが、武家の志は捨ててはおりまへなんだ」
「拙はたしかに、お目見(めみえ)をすませた幕臣ですが、部屋住みの身分です」
「せやけど、いずれは出仕しはります」
「それはそうです」

「自分から誘いはるお人は好きになれへんのどす」
「そういえば---」
「なんどす?」
「いえ---」
「おから誘ったんや」

「仏に申しわけない」
貞妙尼の指がうごく。
「どないもおへん。あの人、かえって喜んでますやろ。ええ人に抱かれて満足やったやろいうて---」

「しかし、拙には、妻子がおる---」
「いうて、よろしか? おこりまへんか?」
「なにを---?」

「〔千歳(せんざい)のお(とよ 25歳)はんとのこと」
「どうして、それを?」
「壁には耳がおます、襖(ふすま)には目がついてます。ふっ、ふふ。〔左阿弥〕の元締はんどす。はんが悪いおなごにつかまってはるって---」
「悪いおなご?」
「知りはらへんのどすか、あの女(ひと)は、怖ぁーいのんのお妾どすえ」
「怖いのん?」
「大盗人(おおねずみ)とか---」
「まさか?」

そういったものの、あれだけのいい場所に店を構えるからには、それ相応の金主がいるとは、銕三郎もおもってはいた。

参照】2009年7月27日~[千歳(せんざい)のお豊] () () (10) (11

土地(ところ)を仕切っている〔左阿弥〕の元締がいうことだから、まず、まちがいはあるまい。
(いずれ、発覚(バレ)たら、騒動だな)
覚悟はしていたものの、
(〔円造(えんぞう 60すぎ)元締は、なぜ、そのことを、貞妙尼にいわせようとしたのか?)

(そうか。〔化粧(けわい)読みうり〕の名代人に、貞妙尼を推したときからの道筋だったのか)

銕三郎は、貞妙尼に腕をまわし、上から耳元にささやく。
「地獄へ、いっしょに落ちよう」
「いえ。極楽へ、どすやろ。うれしゅおす」
襦袢も湯文字も、すでに脇へほうり投げてある。
銕三郎も裸になっていた。
貞妙尼は束ねていた布もとっているので、長い髪が枕の先にまでひろがり、生きもののように波うちはじめた。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.12

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(2)

絵師・北川冬斎(とうさい 40がらみ)のところへ2板分の画料として2分(8万円)、彫り師に1両3分(28万円)、刷り職に3分(12万円)、紙屋へ1分1朱(5万円)、誠心院の貞妙尼(じょみょうに 25歳)に約束の1両2分(24万円)を配ってきた若党・松造(まつぞう 22歳)に、駄賃として1朱(1万円)わたした。
(多すぎたかな。ま、京は物の値も高いからな)

参照】2009年8月26日[化粧(けわい)指南師・お勝] () 

銕三郎(てつさぶろう 28歳)の手元には、1両(16万円)ぽっきりしかのこらなかった。
しかし、貞妙尼へ利益の半分---1両2分板を重ねるごとに奉納することになってから、京極一帯を取り仕切っている〔左阿弥(さあみ)〕の力の入れようが、一段と強まった。
月に3板ではものたりない気分のようである。

参照】2009年10月1日~[姫始め] () (

「若。誠心院さんがご不満のようでした」
松造が、あたりを気にくばりながら告げた。
「きっちり、1両2分、包んだはずだが---」
「そのことじゃ、ねえんで---」
松造には、探索のこともあるから、武家ことばは、京では使わなくてもいいと申しわたしてある。

「なにが不満なんだ?」
「初回(はな)にお布施をお持ちにならはったきり、お見えにならへんよって、お礼のこころがとどきまへん---と、こういうてやした」
「お礼なら、(まつ)からきっちり聞いておる」
「気がおさまらないんでしょうや。なにしろ、大金でやすから---」

「わかった。しかし、あの能面づらは、鬼門なのだ」
「能面づら---?」
「にこりともしない」
「そんなことはありやせん。あっしがお布施をお渡しすると、もう、顔中の笑顔でお受けになりやす」
「顔中の笑顔---信じられぬ」
「次に、若がご自身でご持参になれば、あっしが嘘をいってねえってことが証明されやす」

銕三郎は、半信半疑でいたが、気分がすっきりしないため、七ッ(午後4時)すぎに誠心院へ足を向けた。
西の嵐山の上の雲が夕焼けしている。

夕べの勤行らしく、経があげられていた。
謡うような抑揚の、美しい誦経(じょきょう)である。
仏頂面から発している声とは、とてもおもえない。

しばらく聞きほれていたが、意を決めておとないを乞うた。

読経がやみ、
「どなたはんどす?」
振りかえり、銕三郎を認めると、満面に笑みをうかべ、
「おこしやす」
立って本堂の上がり口へでてきた。


きょうは白の僧衣をまとってい、薄暗い本堂にもかかわらず、白い顔が透(すきとお)って見えた。
(表情がうごくと、能面どころか、きわめて美形だ)

「使いの者から聞きましたゆえ、参じました」
「お待ちしとりましたんえ。房(ぼう)のほうでお話ししまひょ」

横の裏戸が房へつながっているから、履物をもってあがれといい、手ぎわよく須弥壇(しゅみだん)まわりを片つ゜けていった。

堂の戸締りをし、房への通路へ手をとるようにして導いた。

「先(せん)は、表の玄関からでしたが---」
そういった銕三郎に、
「男封じの、秘密の逃げ道どす」
いたずらっ子のように、肩をすくめ小舌を見せて笑った。

「突然、うかがいまして---」
謝ると、これがこの前の能面づらと同じおんなかと目を疑うほどに表情をくずし、
「いつも、ぎょうさんなご寄進をしてくれてはるのに、なんの遠慮もいりまへん。いつかて、大喜びでお迎えしますえ」
薄ぐらい部屋で双眸(りょうめ)が生き生きと輝き、艶っぽい笑みを絶やさない。

行灯に灯(ひ)がはいり、気をゆるした顔は、銕三郎が思っていたよりふっくらとしており、、はるかに美人であった。

「先日、〔左阿弥〕の元締とうかがったときには---」
「不満顔は、男除(よ)けどす。そのために仏道にはいりましたんやさかい---」

夫が病死したとき、葬儀もすんでいないのに、妾話がしつこく持ちこまれたということであった。
難のがれのつもりで得度したが、こんどは、僧たちが入れかわり立ちかわりで口説きにきているのだと笑った。
「うちにはその気ィはみじんもおまへんのに、名ァのある名刹の高僧はんかて、誘いにきやはるのどす、大仰なことどす」

あまりにうっとうしいので、本山の門跡・泉湧寺(せんゆうじ)へでもはいろうかとおもったこともないではなかった。

C_360
(誠心院の本山・泉湧寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「でも、あそこへはいってしもたら、不自由やろと---」
「不自由---?」
「都のはずれどすし、戒もきびしゅうて、こないして、銕三郎はんとおおっぴらで会うこともでけしまへんやろ?」
艶(なまめ)かしい眸(ひとみ)で見上げる。

泉湧寺は、下京区今熊野に現存している。

寺名を聞き、銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛から聞いた、近くの下落合・泰雲寺の故事をおもいだした。

泉湧寺門前の骨董舗〔くずやま〕のむすめが、夫に死なれ、高僧智識・白翁和尚に入門を願ったが断られた。
美貌すぎる---が理由であった。
おんなは、焼きごてで顔を焦がし、ついに、許されたという。
授戒ののちの法名を、了然尼といった。

378
(泰雲寺故事 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

いける世にすててやく身やうからまじ
 終(つい)の薪とおもわざりせば  了然 


故事を貞妙尼に話すと、
(てつ)はん、うちが顔を焼きごて傷つけていても、きてくれはりましたか?」
もとの能面づらをしてみせた。

能面づらのまま、つづけて、
「先だっては、元締はんがいやはりましたんで、わざとそっけのうしときましたんどす。気ィ悪うしはったんやったら、かんにんどす」
銕三郎がなにか言おうした途端、その唇を指でふさぎ、さらに左右になぞる。

感じてきた銕三郎は、衝動的に指をくわえこみ、舌でまさぐり、軽く噛み、吸った。
「うれしおす」
貞妙尼が、躰をあわせてきた。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.11

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)

(おや、さげ尼どのか---)
貞妙尼(じょみょうに 25歳)が深ぶかと頭をさげたとき、黒縮緬(ちりめん)の頭巾の後ろから、同じ布地で束ねた長い黒髪に目にとめた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、胸のうちでひとりごちた。

さげ尼とは、有髪の比丘尼をいう。
銕三郎の時代には、増えていた。

_360
(誠心院 『都名所図会』部分)

顔をあげ、表情で察した貞妙尼は、仏に仕える尼はみんなこうか---とおもわすような動きのほとんどない双眸(ひとみ)を真っすぐに銕三郎にそそぎ、
「さげ尼やいうんで、おどろかはりましたやろ。亡夫が、この髪が好きやいうてくれてましたよって、おもいきれまへんのどす。往生ぎわの悪いことでおます」
「美しいお髪(ぐし)と感嘆したところです」
「おじょうずいわはります」
ぴくりとも微笑まずにいう。

眸や眉の動きはあいかわらず止まったままだが、やわらかな京弁が、なんとなくちぐはぐな感じを添えた。
能面と話している気分とでもいおうか。
もっとも、銕三郎は能面と話したことはないのだが。

(面高で、色白で、美しい女(ひと)なのだが、成熟したおなごの艶(つや)がない。〔左阿弥(さあみ)〕の元締は、色ごころ抜きの後ろ楯といったが、これなら、わかるような気がする)

横の円造(えんぞう 60すぎ)が、ふところからだした袱紗(ふくさ)をひらき、2ヶの金包みを銕三郎の前に押し、
「最初(はな)から、別(わ)けさせてもらいました。長谷川はんから、小さいほうの包みを、庵主(あんじゅ)はんにお清めねがっておくれやすか」

大きい金包みは、〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠の売り上げ8両(128万円)から、角兵衛(かくべえ)との取り決めができている仲介手間料の2両(32万円)を差し引き、さらに誠心院(じょうしんいん)へのお布施の1両2分(24万円)を小包みにした、のこりの4両2分(72万円)と、承知している。

参照】2009年8月26日[化粧(けわい)指南師・お勝] () 

そこから、絵師・北川冬斎(とうさい 40がらみ)、さらには彫り師や刷り職、紙の代金などをはらうと、銕三郎のとり分は1両ちょっとになる。

「お清め、お願い申しあげます」
銕三郎が差し出した包みを受けとるとき、貞妙尼の指が触れた。
と、躰中に稲妻がはしった。
淫情ではなかった。
撃たれたような衝撃であった。
たとえていうと、高杉道場で、銀平師が振りおろした木刀が眉間の半寸(1.5cm)のところでぴしゃりと止まったときに覚えるような衝撃といっておこう。

そのとき銕三郎は、貞妙尼がわざと触れたとはおもわなかった。
尼は無表情である。
(躰が動くところをみると、血は通っているらしい)

立ち直って、
「じつのところは、絵師や彫り師への支払い分も、すべて庵主どのの手からお支払い願おうかと存じましたが、それではあまりに恐れ多いので、拙のほうで仕切らせていただくことにしました」
「造作、おへんのに---」
「いや---」
銕三郎は、次の言葉がでない。

「粗茶を進じますよって、隣りの房(ぼう)のほうへお直りを---」
紙包みを仏壇へ載せ、さっと念仏を唱えてから、ふところへ移し、
「ねずみに盗(ひ)かれてはなりまへんよってに---」
冗談とも本気ともつかない口調でいい、眸(め)を銕三郎にそそぎ、
「房へは、ほんまは、男はんは入れしまへんのどす---けど、きょうは別どす」

房とは、尼の住まいをいう。

戸口は鍵が3ヶ所もかかる、厳重な仕掛けになっていた。
一つひとつを解きながら、
「み仏にお仕えしてる身ィやのに、誘わはる男衆はんがたえへんのどす」

貞妙尼が夜を怖がったので、屋根に隠し鐘楼をもうけ、房の綱を引くと鳴りひびく仕掛けをしたと、円造が口をそえた。
綱は、房のあちこちにさがっている。
「み仏が護ってくれはってるせいか、綱牽(ひ)くような、ひどいことには、まだ、なってェしまへんけど」

貞妙尼は、比丘尼の作務衣にあたる黄色の直裰(じきとつ)の裾をさばいて亭主の座についた。

直裰とは法衣である。
腰のあたりからの下の裳(も)に襞(ひだ)がよせられている着物とおもえばいい。

房の茶室ふうの小部屋では、風炉(ふろ)の灰をほじると、赤くなっていた炭があらわれ、貞妙尼の眸(め)に点のような赤い灯を映した。
銕三郎には鬼女が尼に化けたかとおもえ、さっき貞妙尼の指が触れた手首を、気づかれないように、あらためたが、:気配はなにものこってはいなかった。

それを、茶筅をあやつっている尼が目じりとらえ、かすかに微笑んだのを、銕三郎ほどの剣の上手も見逃してしまった。
動かない表情は、演技であったのだ。

湯はすでにたぎっている。

作法どおりに茶をたて、まず、円造にすすめながら、
「こないになんども、かまわれるんやったら、いっそ、比丘尼御所へでもはいってしもたら、おもいますねんけど、不自由やろと、二の足ふんでます」
「町奉行に言いつけて、夜廻りをきびしくさせましょう」
「おおきに。銕三郎はんの父(とう)はん、お奉行はんどしたなあ」
貞妙尼が、苗字でなく、名を口にしていることの意味あいも、銕三郎は気づかなかった。
気があがっていたのである。

「お寺さんの公事(くじ)をあつかう、西組です」
「そない、元締はんからうかがいました。ええお方とご縁がむすばれて、ほんま、うれしゅおす」

銕三郎の前に茶碗を進め、
銕三郎はん。これからもよろしゅうにお願い申します」
「こちらこそ---」
茶碗を持つ手がほんのわずかだが、ふるえていた。
礼法どうりにゆすることでごまかしたつもりだが、比丘尼は見とっていた。


ちゅうすけ注】
_360
誠心院(中京区中筋町)が面している新京極はアーケードの商店街としてにぎわっている。寺が通り側の地所を貸しているのであろうか。
誠願寺の塔頭であったか。真言宗泉湧寺派。

_360_3

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(前段部を拡大)

案内板の〔誠心院〕につけられてふりがなは「せいしんいん」となっているが『都名所図会』も平凡社『日本歴史地名大系 京都市』も「じょうしんいん」なので、銕三郎時代にかんがみ、「じょうしんいん」をとった。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.10

西町奉行・長谷川備中守

京都町奉行の職掌は、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](『敵討の話 幕府のスパイ政治』 中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧)から引用しておいた。

参照】2009年8月13日[与力・浦部源六郎] (

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滝川政次郎先生『長谷川平蔵 -その生涯と人足寄場-』(朝日選書 1982.1.20 のち中公文庫)は、これに諸寺社の公事(訴訟)が西町奉行所の専管であったとし---、


幕府が最も頭を悩ましたのは、王朝以来の権威を誇る京都の古寺社の統制と、皇族の住持せられる門跡(もんぜき)寺院、比丘尼御所の取扱いであって、こればかりは幕府の武威のみではどうにもならない厄介な問題であった。

これらの古寺社等の役者なるものは、いずれも学識に富み、弁舌もさわやかである。しかのみならず、彼らは応仁の乱以来、猫の目のように変った京都の支配者の中を巧みに泳いできた海千山千の世間師であって、訴訟戦術にも長じている。


その一つの例に、広沢池(右京区西町)の漁業権をめぐる宮門跡・仁和寺(にんなじ 右京区御室)と摂家門跡・大覚寺(右京区嵯峨)の公事争いがあった。

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(御室仁和寺 『都名所図会』)

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(広沢池 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

どちらもゆずらず、しょっちゅう、西町奉行所へ訴えていたという。
備中守宣雄(のぶお 55歳)が真面目に双方の主張に耳をかそうとしたところ、馴れっこにな.っている公事方で筆頭与力・中井孫助(まごすけ 67歳)が、笑いながら助言したものである。
「お奉行。毎度のじゃれあいですから、放っておかれてよろしいかと---」
「門跡方を放っておいては、公儀の面目がたたぬのでは?」
「いいえ。武家伝奏も禁裏付も、いつものことなので取り合いませぬ」

しかし、滝川先生の前掲書は、宣雄の精勤ぶりを---、


長谷川宣雄の裁決は、むつかしい訴訟当事者を前にして、快刀乱麻を断つ如く、東奉行所が四、五件の事件を処理している間に、西で二十数件も事件が解決してしまうという敏速さで、京都の市民もその明察に服したという。


そうではあるが、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、あいかわらず、不正御所役人の探索の手がかりを求め、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)などと接触していた。

角兵衛からの使いがきた。
元締・円造(えんぞう 60すぎ)が、誠心院(せいしんいん)の貞妙尼(じょみょうに 25歳)に、〔化粧(けわい)読みうり〕のあがりを、1板ごとに1両2分(24万円ずつ)寄進する話を持って行ったところ、尼は大いによろこび、お礼のしるしに点茶を進じたいから、いっしょに訪ねてきてほしいとの口上であった。

参照】2009年10月1日~姫初め] (3) (4

使いの若者は、初めて入った奉行所内の役宅を、ものめずらしそうに見渡している。
「表役所の白洲など、案内してつかわそうか」
銕三郎がいうと、
「めっそうもないことで---」
あわてて帰っていった。
(あの者の吹聴で、おれの株も、祇園あたりであがるかな)

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ちゅうすけ注】滝川政次郎先生『長谷川平蔵 -その生涯と人足寄場-』の、オリジナル朝日選書版と中公文庫版の違いは、本文はほとんどそっくり移されているが、図版類がまるで割愛されている点といえようか。(右は中公文庫版)

名著であるが、注意事項2点。
その1. 寛政7年(1795)に50歳で卒した平蔵宣以の生年を、延享2年(1745)としている。当時は数え齢だから、逆算すると延享3年になる。
その2.火盗改メ時代の平蔵宣以の逸事を、真偽こもごもに記した『よしの冊子』(中央公論社)の刊行前の著作なので、その史実が汲まれていない。この点は、『鬼平犯科帳』も同前。

参照】2009年8月16日~[現代語訳『よしの冊子』(まとめ)] () () () () () (
       ★     ★     ★

《特報》

きょうのこのコンテンツで、1,800件だそうです。

足かけ5年間、ちゅうすけの都合では1日もやすまずにつづけてきた結果です。

これからも、体力(知力じゃなく---)のつづくかぎり、記録をのばしていきます。

ご声援のほど、お願い申しあげます。

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2009.10.09

[鬼平クラス]リポート 10月4日分

静岡駅ビル・SBS学苑[鬼平クラス]の2009年10月4日(日曜日)のテキストは、文庫巻11[土蜘蛛の金五郎]。

シリーズ前に発表され、文庫巻1に収録された[浅草・御厩河岸]もふくめると、第72話目にあたる。
連載が始まって満5年目---『オール讀物』のトリ(最後部に掲載)をとって満3年目、固定読者がふえつつあったときの佳篇である。

ついでにいうと、文庫第1巻が刊行される満1年前。

佳篇といったのは、『鬼平犯科帳』の特徴の一つである、鬼平岸井左馬之助による凄いチャンパラが書き込まれ、その結果が、額にのめりこんだ刃片を針でほじくりだすというシーンで想像させていること。
鬼平が貧乏浪人に化けて盗賊の首領〔土蜘の金五郎〕をあさ゜むく、化けの楽しみが描かれていること---などからである。

話そのもののモト・ネタは、本所に近隣の貧しいものたちに食事などをほどこす浪人者を、人びとが聖者のごとくあやめているのを聞いた平蔵が、
「そやつ、盗賊なり」
と召し捕らせたら、はたせるかな、盗賊であったというエピソードが、明治時代のなにかに載っていたのを換骨奪胎したものである。

この篇の主役の〔通り名〕の土蜘蛛が、平蔵が火盗改メに任じられたころに刊行された鳥山石燕『画図百鬼夜行』から採られたことは、左欄のカテゴリー[盗賊の通り名検索た・な行]からでもおたしかめいただきたい。

じつは旧版『鬼平犯科帳』には、〔土蜘蛛〕の異名をもつ盗賊の首領がもう一人いた。
巻2[埋蔵金千両]の〔小金井(こがねい)〕の万五郎がそれであったが、ダブリに指摘されたか、新装版では削除された。

池波さんが鳥山石燕画図百鬼夜行』を愛読していたことは、『剣客商売』文庫巻2『辻斬り』所載の[妖怪・小雨坊]p202 新装版p221 でタネあかしされている。


画図百鬼夜行』から引かれていると盗賊の〔通り名〕は、ほかにも大どころで〔蓑火(みのひ)〕の喜之助、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎、〔墓火(はかび)の秀五郎など、合計15名いる。

篇名、〔通り名〕などから、池波さんには、ネーミングの名人の称がたてまつられているが、上記『画図百鬼夜行』のほかにも〔通り名〕のネタ本かあった。

明治30年代に出た吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)が、池波さんの書斎にあるのを見つけ、ひょっとしたら、盗賊の呼び名は、これに拠っているのではなかろうか---と思いついた。
明治に出たこの辞書についての池波さんの弁。

たとえば、故吉田東伍博士の著書〔大日本地名辞書〕のごときは、手垢のつくまで使用させてもらつてたいるが、ページをひらくたびに、この念の入った、ほとんど半生をかけてなしとげられた業績の恩恵を身にしみて感ぜずにはいられないのだ。([時代小説について] 朝日文芸文庫『池波正太郎自選随筆集 2』)

池波さんは、この『辞書』から250人近い盗賊の〔通り名]を借りている。

---というような話をした。

     --------------------------------

今回、とくに紹介したいのは、クラスの一人・大久保典子さんが、京都へ行ったからと、東西の町奉行所跡の石標と表示板の写真を撮ってみえたこと。

ちょうど、ブログは、鬼平の父・長谷川備中守宣雄を語っている。
グッド・タイミンなので、紹介する。


_250長谷川備中守宣雄が西町奉行として着任した奉行所跡

中京区千本通東側の、現・西ノ京北聖町
 敷地坪数3,886坪6分9厘5毛


A_250_2東町奉行所跡

中京区西ノ京職司町東側付近
 敷地坪数5,327坪6分2厘5毛


_360

この現NTTに西日本壬生別館付近、東きは神泉苑の西側より美福通にいたる一帯は、江戸時代に、東町奉行所があつたところである。

この奉行所は、奉行のもとに与力。同心と和ばれる職員をもち、京都の市政一般、すなわち行政、司法、警察全般を担当し、さらに畿内幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理にも当たった幕府の役所で、西町奉行所(現中京学校付近)と隔月交代で任についた。

しかし、両奉行所それぞれ与力20騎、同心50人で職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政に当たった。

京都町奉行所が初めておかれたのは、慶長5年(1600)、寛文8年(1668)からは常置の職となって幕末にいたった。

                     京都市


        ★    ★    ★


これまでの[鬼平クラス]リポート

2009年9月5日分

2009年7月5日分

2009年1月11日分

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2009.10.08

備前守宣雄の嘆息(4)

翌日の七ッ(午後4時)。

いつもならは八ッ半(午後3時)には役宅へ引きあげているはずの奉行・備前守宣雄(のぶお 55歳)が、裃(かみしも)の肩口へこぶしを差し入れて揉みながら、書付をしらべている。

「お奉行---」
目付方の与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)が目で、別室へまねいた。

沙可(さか)という女性(にょしょう)の所在が知れました」
沙可は、きのう、長安院の墓域の、松平信濃守康兼(やすかね 享年41歳)の墓に奉納されていた卒塔婆(そとば)に記されていた施主の名である。
宣雄は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)や久栄(ひさえ 21歳)に気づかれないように盗みみておき、浦部与力に素性の探索を依頼しておいたのである。

荒神口の下(しも)の禁裏付に属している顔なじみの与力に訊くと、沙可と信濃守康兼の仲は、秘密でもなんでもなかった。

明和6年(1769)6月17日づけで禁裏付に発令された信濃守康兼(39歳=着任時)は、妻を帯同していなかった---というより、同伴赴任を拒否された。
単身赴任の頭格の武士が、任地妻を置くことはあたりまえのことであった。

沙可は、蛸薬師通り東洞院東ヘ入に西陣帯地を商っている〔墨屋〕三郎兵衛の末妹で、嫁入りがきまっていた相手が流行り病で急死したので、19歳で未婚であった。

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(沙可の実家〔墨屋〕)

とりもつ者があって、信濃守康兼の役宅へ小間使いということで奉公にあがった。
兄の三郎兵衛にすれば、妹の縁で御所への出入りがかなえばもうけもの---といったほどの気持ちもあった。

2年とちょっと、康兼と躰をあわせたが、子はできなかった。
康兼は、江戸の家付きの妻とくらべ、なにごとにもすなおで、肌もぴったりとあった沙可をいとおしくとおもっただけでなく、もし、のちのち、同じ墓へ入る気持ちがあなら---と、生前に、長安院の方丈へ話をつけ、その分の布施も渡しておいたらしい。

康兼が没して1年半になり、沙可は21歳になったが、いまだに兄のところで暮らしているという。

信濃守さまに、よほどに可愛いがられたのでしょうか?」
「そうではあるまい。おんなとして安心できたのであろう」

「で、このあと、いかがいたしましょう?」
「なにもせぬのが、こころづかいというものであろう。このまま、浦部も忘れてしまってくれ」
「うけたまわりました」

役宅へ戻った宣雄は、座敷女中の佐久(さく 17歳)に肩を揉ませながら、訊いた。
佐久の家は、堀川通り蛸薬師下ルであったな?」
「父(ととう)が打物を鍛えをしとりますが---」

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(佐久の実家〔丹波守門弟・伊三郎)

「ここへあがる口ききをした者から、〔墨屋〕の沙可のことを聞かされたか?」
佐久の揉む手がとまった。

「大事ない。その者のいうようなことはない、安んじていてよい。若奥のけしかけに、決してのるでないぞ」
宣雄は、佐久を安心させるためにかるい笑い声をだしたが、やがてそれは、嘆息に変わっていた。
(苦労をしょいこまなくてすんだようだ)


_120
ちゅうすけ注】長安院の『墓誌』には、信濃守康兼の横に、祐仙院殿としか添え書きされていない人物が納骨・合葬されていることが書かれている。祐仙院殿が沙可であったかどうかは、いまの寺の者にもさだかにはわからない。

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2009.10.07

備中守宣雄の嘆息(3)

いつのまに手をまわしたのか、久栄(ひさえ 21歳)が、明け六ッ(午前6時)には髪結い婦(おんな)を呼んでおり、奥の部屋でなにやら騒がしく支度をととのえていた。

現れた姿を見て、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、おもわず、
「あっ」
久栄が、若衆姿で野袴さえ着していたからである。

時刻になると、与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)が馬を2頭、息子・彦太郎(ひこたろう 20歳)に牽かせて現れた。
1頭はもちろん源六郎が乗るためだが、もう1頭は、なんと、久栄が頼んだ馬であった。

父・宣雄(のぶお 55歳)は、久栄の騎乗用のいでたちを、目を細めておもしろがり、
「手綱さばきは、いつおぼえたのじゃ」
「跳(はね)っかえりでございましたゆえ---」
「たのもしい巴(ともえ)御前どのじゃ」

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を京の人たちは、〔黒谷(くろだに)さん〕と呼んでいる。
叡山(えいざん)黒谷を移したからである。

寺へは、役宅のすぐ北の丸太町通りをまっすぐに東へ小1里(4km)ほど行く。
先導は浦部与力、つづいて備中守宣雄、その後ろを、彦太郎が口をとる久栄の馬、最後尾は前に辰蔵(たつぞう 4歳)を乗せた銕三郎

内与力格の桑島友之助(とものすけ 40歳)と若党・松造(まつぞう 22歳)は先触れですでに黒谷に達している。

町の者たちが、若衆姿に見とれるたような眼差しをむけるが、久栄は照れもしないで見返している。
(おんなというのは、見られることが平気なのだ)
後ろの銕三郎は、久栄の意外な面を発見して、苦笑している。
いや、辰蔵までが、得意然とした面持ちでいるからおかしい。

ゆるやかな坂を北にのぼったところに山門があった。
賀茂川をわたった街区のはずれで、幕末に、守護職の陣屋となったこともなっとくできるほど、境内がひろい。

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(金戒光明寺 『都名所図会』)

浄土鎮i西4ヶ寺の一つと、権威も高いのだが、町奉行の来駕(らいが)というので、住持がみずから出迎えた。
もちろん、松平信濃守康兼(やすかね 享年41歳 2000石)の墓は、18の塔頭のものを本堂の西の墓域にまとめてある。

松平信濃守の塔頭・長安院は、手洗い所の脇を下がったところにあった。
小坂の手前で、本寺の住持が、
「お帰りには粗茶など進ぜましょうほどに、お立ち寄りをお待ちしております」
引きあげた。

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(塔頭・長安院の山門。門内に枯山水づくりの小庭)

長安院は、(松井)松平本家の2代目・周防守康広(やすひろ 没年73歳=寛永17年 岸和田藩主 7万石)の開基による。
法名・長安院殿誉浄和大居士は、その証しであろう。

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(長安院を開基した岸和田藩主・周防守康広の墓石)

本家で長安院に葬られているのは、3代目。康映(やすてる 没年60歳)、4代目・康官(やすのり 享年24歳などで、ほかは江府・西久保の天徳寺のようである。

分家・信濃守康兼の歴代の主たちの葬地も上記の天徳寺で、康兼ただ一人が長安院に葬られた。
法名・秋岸院殿晴晧月円照大居士。
京都で卒したからということもあろう。

しかし、墓域には、供花がたむけられた跡がみえなかった。
卒塔婆(そとば)も雨にうたれて黒ずんだのが数枚。
なかに1枚だけ、この秋の彼岸のものがあっただけである。

備中守宣雄が、浦部与力にささやいた。
「下(しも)の(禁裏付)与力・同心衆は、詣でてはくれないのかな」
「ここの檀家の者でもおれば気をきかせるでしょうが---」
「ふむ」

線香をあげてから、
(てつ)]と久栄に頼みおく。われのときは、京では葬儀のみにとどめ、骨は江戸の戒行寺へ鎮(しずめ)てくれるように」
「なにを仰せられますか」
銕三郎が抗議したが、宣雄は寂しげに微笑んだだけであった。


ちゅうすけメモ】金戒光明寺の重要文化財
・三重塔(江戸時代の建立)
・絹本着色山越阿弥陀図
・絹本着色地獄極楽図
・木造千手観音立像

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2009.10.06

備中守宣雄の嘆息(2)

「いまだから言えることだが---」
父・宣雄(のぶお)が、ゆっくりゆっくり語りはじめた。

25年前、ともに遺跡を継ぐゆるしをうけた寛延元年(1748)4月3日の13人のうち、4人が末期養子であった。

参照】2007年4月27日[養子縁組] (その3

「銕(てつ)も存じておるとおり、われの場合は、従兄(いとこ)の6代目・宣尹(のぶただ 享年35歳)どのの実妹・波津(はつ 30すぎ)を養女にしたて、その婿という形での末期養子であった」

参照】2007年4月23日[家督相続と跡目相続]
2007年4月24日[寛政]重修諸家譜] (19

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が受けた。
「そのとき、拙は、3歳でした」
「さよう。われはの母者・(たえ 23歳=当時)と、夫婦(めおと)どうぜんであったが、身分は宣尹どのの叔父の子で、病身なわが父上ともどもに厄介者であった」

しかし、家禄400石の長谷川家を存続させるためには、波津の婿となるほかなかった。
「継母どのは、長年、病床にありました」
「さよう。婿といっても、じっさいの夫婦の関係はなかった。それで、も、しぶしぶながら、なっとくしてくれた」
「継母どのは、拙が5歳のときに、みまかられました」
「言っては波津に不憫だが、そのことも、6代目どのと暗黙の了解が成り立っていた」

そのような処置は、幕臣においては異とするほどのことではなかった。

「松平信濃(守 康兼 やすかね 2000石)どのの場合にも起きたのじゃ」

松平舎人(とねり)康兼は、岡部伊織忠藩(ただつぐ 500石)の次男で、18歳のときに松平松井の流れ)へ養子に入った。
実家が岡部を称しているといっても、駿河のそれではなく、武蔵国榛沢郡(はんさわこおり)の岡部郷(埼玉県深谷市岡部町)に住していたことによる。

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(岡部忠藩・舎人の個人譜)

だから婿養子のようなもので、養女(20歳)と妻(めあわ)せられた。
妻が、家格が高いことを鼻にかけ、なにかと舎人の実家を下にみた。
しかし、妻の素性ははっきりしていず、どうやら、養父・康喜(やすよし 享年20歳)の父・伊左衛門康直(やすただ 享年47歳)がどこかのおんなに産ませた子を、死の直前に養女としていれ、康喜の妹分に据えたらしかった。

彼女は、禁裏付となった信濃守康兼(39歳=赴任時)の入洛にも、もちろん付随していなかった。

「そういうことで、岡部どのは、われよりも家禄ははるかにうえ、年齢も12歳も離れていたが、初卯の集いがお開きになったあとも、引きとめられて、憂さ話を聞かされたものよ。もうすこし生きておられたら、この京で手をとりあって勤めにはげめたものを---無念じゃ」
めずらしく宣雄がこころをくずした言葉を吐いたのに、銕三郎は内心、ちょっとおどろくとともに、心配になった。
(父上は、体調がよほどにすぐれないのではなかろうか。こんな気弱なことをおっしゃる父上ではないのだが---)

新規に雇われた若い召使・佐久(さく 17歳)をしたがえた久栄(ひさえ 21歳)が、茶を淹(いれ)れてあらわれた。
銕三郎の湯呑みは、燗酒であった。
(今宵も、おはげみくだされ)
無言の督促である。
(この分だと、次の子は、早いかも---)

佐久。殿さまの肩をもんでさしあげなさい」
久栄の堂々たる嫁ぶりである。

久栄。明日は、父上が黒谷の寺へお詣でなる。拙たちもお供をする」
「まあ、うれしい。都見物ができます。佐久もお伴をして、殿さまのお足元に気を配るように」
久栄は、舅どのが佐久に早くなじみ、夜伽をいいつけるのを待っているようである。

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2009.10.05

備中守宣雄の嘆息

銕(てつ)。そなたには、いまから25年前の寛延元年(1748)4月3日に、われが、6代目・宣尹(のぶただ)どのの遺跡を継ぐことをゆるされ、その日、同様のお達しをうけたうちの10人が、初卯(はつう)の集いを約したこと、話したことがあったな」
「5年ほど前に、その集いのことをお尋ねしたら、10人のうち、お2方がお亡くなりになったとおっしゃいました」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が応えた。

「あれは明和4年(1767)であった」

参照】2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15
2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (

宣雄(のぶお 55歳)は、なにかを思案するように黙りこみ、双眸(ひとみ)を伏せた。
やっと口をひらき、
「あの明和4年には、さらにお2人---津田(30歳)どのと米津(36歳)どのも逝かれたのじゃ。もっとも、津田どのは初卯の集いに参じてはおられなかったが---」
「おのこりになったのは、お7方---」
「そうでない。おととし---明和8年に、石河(いしこ 64歳)どのと松平(41歳)どのが亡じられた」

松平信濃守康兼(かねやす 2000石)の個人譜は、上記[平蔵宣雄の後ろ楯] (15)に掲げてある。
西丸の目付から、禁裏付に転じ、任地の京師でみまかった。

「松平康兼さまのお名は、佐野与八郎政親 まさちか 42歳 1100石)の兄上からお聞きしたことがあります。松平ご一門なのに、偉ぶったところがなく、佐野の兄上を先任者としてお立てなるとか---」
「初卯の集いでも、年長者をつねにお立てになっていた」

その康兼は、この地の黒谷金戒(こんかい)光明寺の塔頭(たちゅう)・長安院に葬られた。

「江戸で逝かれたご葬儀には参じたであろうが、信濃どのは当地に葬られたゆえ、なにもできなんだ」
「それは、いたし方のないことでございます」
「いや、今なら、線香の1本なと、供(そなえ)て差しあげられる。さいわい、年賀のあいさつ廻りもひととおり終わった。この機をのがすと、用務繁多となり、身動きがとれなくなろう。明日、参じたいが、そなた、供をしてくれるか?」
「はい」
久栄(ひさえ 21歳)にも、そう申しておいてくれ」

久栄も、でございますか?」
「われとて、この地で果てるやもしれない。京の寺のしきたりを見覚えておくのも、なにかの心得であろう」
「縁起でもないことを仰せになられますな」
「冗談じゃ。与力の浦部源六郎(げんろくろう 51歳)が案内にたってくれるそうじゃ」

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2009.10.04

高杉銀平師の死

高杉先生が正月3日に亡くなりました。
葬儀は、門下一同で、春慶寺にて簡単にすませました。
遺骨は、縁者のことをお打ちあけにならないので、臼井へ持ち帰り、わが家の墓域の隣にささやかな墓をつくり、祀ることにしました。

先生のおられない江戸にとどまっていても詮(せん)ないので、臼井で兄に小さな道場でも開いてもらうつもりです。

そうえば、先生がお逝きになる前の日に、「(てつ)に、くれぐれも申し送れ」とおっしゃったことがあります。

「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」
は、これだけでわかる」
と。
修行、怠りなくおつとめのほどを---。

剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 28歳)からの飛脚便てあった。

「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」
の行まできて、押さえきれなくなった銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、嗚咽を殺して泣いた。

辰蔵(たつぞう 4歳)が、
「母上---」
久栄(ひさえ 21歳)を呼びに走ったが、文を見て事態をしった久栄は、辰蔵の手を引き、静かに部屋をでていった。

銕三郎銀平師から「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」と最初に聞いたのは、初お目見(みえ)の祝辞のあと、
長谷川は、幕臣と定まった。剣客ではない。3歩、退(ひ)け。1歩出よ---を餞(はなむけ)として贈るゆえ、受けてくれ」
銕三郎の気性を知りつくしている師の、こころからの処世訓であった。

(先生。せめて、拙が江戸へ戻るまで、どうしてお待ちくださらなかったのですか。無念です。京における銕三郎は、つねに3歩、退(ひ)いておるつもりです。もし、退き方がたりないとお感じになったら、どうぞ、あの世から木刀で撃ってください)
いつまでも、自分に言いきかせていた。

父・備中守宣雄(のぶお 55歳)が表の役所からさがってきたとき、 
「江戸へ、いえ、下総・印旛沼の臼井まで行ってきてもよろしいでしょうか?」
じろりと銕三郎を見、
「なにをしに行くのじゃ」
「先生にお別れを申しに---」
「無駄じゃ。京へのぼるときに、お別れをしたはず。会うことは、別れのはじまり。生まれたことは、死へ向かっての歩みはじめていること---と心得よ」
「しかし---」
「先生は、お望みではあるまい。お心を察せよ」

あとは、無言のまま瞶(みつめ)ていたが、銕三郎が一礼して立ちかけると、
(てつ)。そなたが〔読みうり〕で得た金は、いかほどのこっておる?」
「8両(128万円)と2朱(2万円)ばかり---」
「2両(32万円)はわれが出す。10両(160万円)にして、墓標のたしにと、左馬之助どのへ、明日にでも送金してやれ」
「遺漏なく---」

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2009.10.03

京都奉行所・西組与力の名簿

膨大な随筆の集成『翁草 2』(吉川弘文館 1978.4.5)をくっていたら、京都町奉行所の与力衆の名簿に行きあたった。

筆者の神沢貞幹が東町奉行所の与力・神沢弥八郎の養子に入り、その娘を妻とし、養父の跡目を継いでいること、『翁草』が明和・安永・天明・寛政の初期にわたって書きつづけられたことをおもえば、とうぜん、備中守宣雄平蔵宣以に筆がおよんでいるかもしれないとおもうのは、人情であろう。

それで、全巻に目を通してみた。
が、長谷川平蔵宣以の名は、天明7年(1787)の江戸打ちこわしのときの鎮圧組に発令されたと出ているだけであった。

もっとも、神沢与兵衛 よへえ 貞幹)が与力を勤めたのは享保19年(1734 25歳)から宝暦3年(1753 44歳)の20年間であったらしい。

あとは病身を理由に公事方を退任、養子・弥十郎と入れ代わった与兵衛貞幹)は、渉猟・執筆の日常に専念したようである。

奉行所の与力の移動はかなりくわしく記されている。
ただし、西組与力に浦部源六郎の名はない。
浦部与力が池波さんの創作であることがはっきりしただけでも、鬼平ファンとしては満足である。

それと、も一つ、大きな発見があった。

先月、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をめぐってあれこれ考察した。
処刑された首犯一味の一人---賄頭の飯室(いいむろ)左衛門大尉(だいじょう)については、かなり書きこんだつもりである。

翁草』に、奉行所西組の与力の一人に、飯室十右衛門の名を目にしたとき、鳶魚翁が、京都の町奉行所の与力・同心の中には、御所役人と縁つづきの者もいようから、幕府は探索を秘密裡にすすめよと山村信濃守良旺(たかあきら 45歳 500石)に命じたわけが、判然とした。

享保(1716~35)の初めのころとある、奉行所西組の与力名と担当職務を掲げる。

深谷平左衛門  (公事方)
熊倉市太夫    (同)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (勘定方 同心支配兼)
下田忠八郎    (勘定方)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
才木喜六     (同)
中井孫助     (同)
本多文助     (証文方)
三浦儀右衛門  (同)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
棚橋源右衛門  (同)
入江安右衛門  (御番方)
砂川金右衛門  (同)
鵜飼冶五右衛門 (同)
渡辺熊右衛門  (同)
飯室十右衛門  (同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)


次に西組が記録されているのは、享保10年(1725)である。

熊倉市太夫    (公事方)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (同)
下田忠八郎    (勘定方)
才木喜六     (同)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
中井孫助     (同)
砂川金左衛門  (同)
三浦儀右衛門  (証文方)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
鵜飼冶五右衛門 (上同)
手島織右衛門  (欠所方兼)
棚橋源右衛門  (上同)
渡辺熊右衛門  (御番方)
飯室十右衛門  (上同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)
元木平次右衛門 (同)
桂元右衛門    (同)
八田新左衛門  (同)
深谷平左衛門  (同)

一気に安永3年(1774)飛ぶことにする。

中井孫助     (公事方 同心支配)
入江吉兵衛   (同支配)
不破伊左衛門  (同支配)
深谷平左衛門  (勘定方)
熊倉市太夫   (同)
手島郷右衛門  (同)
前田忠次郎   (目付方)
真野八郎兵衛  (同)
飯室嘉伝次   (同)
渡辺熊右衛門  (証文方)
上田権右衛門  (嘉伝次アト)
桂元右衛門   (欠所方)
棚橋源右衛門  (権右衛門アト塩津改)
長尾十郎助   (御番方)
砂川直右衛門  (同)
入江判次郎   (同)
鵜飼孫之進    (御番方)
野村彦三郎   (同)
三浦儀右衛門  (同)
本多高四郎   (同)
  (いずれも先任→後任の順)

注目すべきは、安永3年(1774)の名簿から、飯室(嘉伝次)の後任として上田権右衛門が就任し、その上田もすぐに棚橋勝右衛門に席をゆずっていること。

安永3年といえば、御所官人・飯室左衛門大尉らが死罪に処せられた年である。
飯室嘉伝次も、一族ということで遠ざけられたのであろうか。

飯室家は、享保(1716~35)の初めのころの名簿の十右衛門から、助左衛門文右衛門(2人が襲名したもよう)とつづき、明和5年(1776)以降に嘉伝次が勤めてきた西町奉行所の与力職であった。

ついでながら、嘉伝次は、明和3年(1774)10月に番方4番手で病身でもあった飯室文右衛門に代わって真野姓で跡役として抱えいれられ、同5年(1776)に飯室姓となっている。つまり、養子に入ったのであろう。


それはそれとして、飯室家が上記の結果となって終わった真相は、いまのところ不明。
記録のありどころを探し、究めてみたいことの一つである。


ちゅうすけからのお願い】上記の西町奉行所・与力の末裔・縁者の方々、お話をお聞きしたいので、ご連絡いただけれるとうれしい。

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2009.10.02

姫始め(4) 

「吉報をお待ちしております」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)は、香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)にあいさつをして立つと、2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)が門口まで送ってきた。

長谷川さま。父にええ仕事をつくってもろて、ありがとおした。父も若返りますやろ」
「それほどにご執心ですか?」
「色ごころ抜きで、孫みたいに気ィをつこうてあげとりますのんで」
「それは上々」
「ところで、代人料ですが---」
「あちこちへ支払いをすますと、のこるの3両(48万円)です。その半分、1両2分(24万円)ではどうでしょう?」

参照】2009年8月30日[化粧(けわい)指南師お勝] (

「板ごとにでおますか?」
「そのつもりです」
「ありがとさんです」
月に3板刷るとう4両2分(72万円)である。
角兵衛は、父親へ報せるために、いそいそと引き返していった。
香具師のあがりはもっと大きかろうし、お披露目枠の扱い代だって3板なら6両(98万円)はいるのに、自分たちの腹が痛まない話なので、1板ごとに1両2分でもうまい話におもえるのであろう。

茶店〔千際(せんざい)〕は、お(とよ 明けて25歳)がいったとおり、表戸をおろしていた。
くぐり戸をコツコツとたたくと、すぐに開いて、おが顔をのぞかせた。

なんと、洗い髪を巻いている。
「どうした。さっきはきれいに結っていたで゜はないか」
銕三郎の手をとって引っぱりこみ、
「髪油の匂いが(てつ)さまの肌にのこっては、奥方にしれますでしょ」
「正月早々、そのおねだりか」
「お年玉をいただくのです」
「姫始め」
「はい」

湯もちゃんとわかしてあった。

あがるとき、閉じぶたを浮かす。
「こうしておくと、匂いおとしにおつかいになるとき、湯がさめていないのです」
(ずいぶん、馴れているな)
ちょっと不審におもったが、いわなかった。

終わって浴びてみると、おの言葉どおりであった。
「湯冷(ざ)めにお気をおつけになって」
見送られ、底冷えのする暗い街並みを急ぎ足で役宅へ帰りついたのは、六ッ半(午後7時)すぎであった。

書院では、久栄(ひさえ 明けて21歳)が、舅(しゅうと)・備中巣守宣雄(のぶお 55歳)の肩をもんでいた。
宣雄は、あいさつ廻りでくたびれきったのか、うつらうつらしている。
久栄が唇に指をあて、帰宅のあいさつをいうなと合図した。

自分たちにあたえられている部屋の隣室では、辰蔵(たつぞう 4歳)がすでに眠りこけていた。
部屋には床がのべてあった。
着替えていると、久栄がはいってきて、銕三郎の着物・袴を手ばやくたたみ、さっと帯をほどき、着物は衣紋かけになげるようにかけ、寝衣の腰紐もむすばないで床へはいった。

銕三郎が横にならぶと、
松造(jまつぞう 明けて22歳)をお連れくださいね。そうでないと、連絡(つなぎ)がつきませぬ」
「なにかあったのか?」
「舅どのの、新しい召使いを、浦部(与力 明けて51歳)どのがお連れになりました。あなたさまのお目にかなうかと心配しておいででした」
「おれの召使いではないのだから、父上がよければそれでいいのだ」
「いいえ。浦部どのは、舅どのは好き嫌い口になさらないからと---」

「その話は、あすでいい」
のばした手をまたではさみ、
「冷たい。あったまるまで、こうしていてください」
「姫初めだ。指があいさつをしたがっておる」
「きょう、あいさつをしてきたおなご衆のことを吐くまで、なりませぬ」
「ばか」
久栄が股をひらいた。


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (

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2009.10.01

姫始め(3)

「板元(はんもと)の名代(みょうだい)---」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)がぜんぶ言い終わらないうちに、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目・角兵衛(かくべえ 明けて42歳)が、
「それでしたら、先日おすすめした祇園社の---」

長谷川さまのお話をぜえんぶお聞きしたあとで、おまはんの案をいうたらええ」
円造(えんぞう 60がらみ)が゜、ぴしゃりと釘をさした。

「2代目さんが申された、祇園社の鳥居内の〔藤屋〕さんも悪くはないのですが、この際、商い人(あきないびと)は避けたほうがよろしいとおもいまして---」
「なんぞ、不都合でも?」
角兵衛が訊いた。

銕三郎の説明は、理にかなっていた。
〔化粧(けわい)読みうり〕は、煎じつめれば、お披露目引き札(広告チラシ)である。
お披露目は、ちょっとのものを大げさにふくらませていうことがないではない。
そこのところを世間には、〔千三ッ屋〕と極論する者もいる。
千に三ッしか真がない---ということらしい、

しかし、泰平がつづいている当今、物の売り買いがさかんになり、商いが繁盛している。
物には、質がピンからキリまであるが、ピンの物がかならずしも評判をとるとはかぎらない。
評判は、風評で上下する。
大切なのは風評である。
風評をきめるのは、人の口端(くちは)によることも大きいが、お披露目だって隅におけない。

「全部がそうだというのではないが、商人は、利にさとい。いえ、そのことをとやかくいうのではありませぬ。しかし、ことの実を伝えるはずの読み売りの板元が、商人とわかると、信が薄れましょう」
「なるほど、もっともや」
円造が賛意を示した。
2代目・角兵衛もうなずく。

「板元には、人びとが信を置く人がよろしいとおもうのです」
「たとえば?」
「手習い所---上方では、寺子屋と申しましたな、そこのお師匠とか、寺のご住職とか---」
「奉行所のお奉行はんとか?」
「いえ。幕臣は脇職を禁じられております」

「祇園社の執行(しぎょう)はんとか?」
「お引きうけくださいますか?」
「むずかしおすな」

「そうや、誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)はんはどないやろ?」
「さすがは元締、ええとこに気ィがつきはらはった。名案どす」

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(赤○=誠心院 右から2堂目:蛸薬師 『都名所図会』)

角兵衛銕三郎に解説した。

誠心院(中京区京極六角下ル東側)は、蛸薬師(現・中京区蛸薬師上ル)の北にあり、和泉式部が剃髪して住んだといわれている寺で、貞妙尼は2年ほど前に武家の夫を亡くし、まだ23歳やいうのに仏道にはいってしまったのだと。
浪人だった夫は、祇園社の境内で蝦蟇(がま)の油を売っており、〔左阿弥〕一家と顔見知りであった。

「〔化粧(けわい)読みうり〕の板元代人料のいくばくかでも入れば、お布施のたしになりまひょ」
話は、円造自らがつけに行くという力の入れようであった。
「誠心院はんへお布施がいくんなら、月に4度の板行にしたかて、かめしまへん」
2代目も張り切った。
「ということは、貞妙尼さん、よほどの美人のようですな」
銕三郎は、図星をいいあてたようであった。

蛸薬師通りには、盗賊・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 明けて53歳)の妾・お(きち 明けて37歳)と息・又太郎(またたろう 明けて15歳)などか住んでいる家があることは、いう必要もないので、黙っていた。


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[姫始め] () ()  (

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