おまさが消えた
「部屋を変えておきましたよ」
昨日、帰宅のあいさつをしたとき、母・妙(たえ 48歳)から告げられた。
そのときにも、銕三郎(てつさぶろう 28歳)はおもった。
(おれが、この家(や)の当主なんだ)
父・宣雄(のぶお 歿年55歳)の寝所だった部屋で目を覚ました。
久栄(ひさえ 21歳)は、廊下をへだてた奥方の間をあてがわれていたが、寝衣になると、さっさと移ってきて横にもぐこみ、不平をならした。
「若奥と呼ばれていたころは手軽でした。おねだりのために、廊下で足を冷やしてわたってくることもなかったのですもの」
「冷や飯組の若奥から、冷や足組へ奥方へ栄進したのだよ」
「冷や足をあたためてくださいませ」
銕三郎の内股へさしこんでささやいた。
だがさすがに、中山道132里22丁(ほぼ、530km)、久栄と辰蔵(たつぞう 4歳)づれの旅は、自分ではそうはおもわなかった気づかれだったらしい。
横の久栄が床を抜けて自室へ戻ったのも気づかず、目がさめたときには、雨戸が開けられ、障子が明るくなっていた。
(今朝だけは棒振りはズルさせてもらおう)
そうおもったとき、下僕の太助(たすけ 62歳)が、庭先から障子越しに、
「若---いえ、殿さま。権七どんが見えておりますが---」
「玄関脇の控えの間に案内しておいてくれ」
権七(ごんしち 41歳)は、深川の黒船橋のたもとで町駕篭屋の経営している。
急いで顔を洗った。
南本所のこのあたりは浅瀬を埋めたてて築地した土地なので、井戸水が悪水で、顔を洗う水は水売りから買って溜めおいた真水をつかう。
幕府は、神田上水の樋を新大橋の橋桁に沿わせて---と計画をしてはいるが、勝手(会計)方が、毎年、なんのかんのと理由をつけて先おくりにしてすませている。
(お上の威信も地におちたものだ)
本所に屋敷を拝領している軽輩のご家人たちは、陰で百年らい、ぼやきつづけていた。
「そろそろご帰着のころと、一番町新道の長谷川さまからお聞きしましたので、きのうきょうあたのりかと---」
一番町には、本家の太郎兵衛正直(まさなお 64歳 1450石 先手組頭)の屋敷がある。
「おとといも来てくれたそうで---なにごとか、出来(しゅったい)いたしたかな」
「〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ)どんが亡くなったことは、お耳にへえっておりやしょうか?」
「いや。初耳です。いつ?」
「この5月でやした。どっさり血を吐き、そのまま逝っちまったと」
「世話になったらしいな。礼をいわせてもらう」
「とんでもねえことです。それより、おまさ坊の行く方が知れなくなりやした」
【参照】2008年4月29日~ [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
久栄が茶を運んできた。
「おまささんがどうかいたしましたか?」
そういえば、銕三郎のところへ輿入れするまで、久栄はおまさ(17歳=当年)の手習いの師匠でもあった。
権七が銕三郎をうかがい、かすかにうなずいたのを見て、
「忠助どんの葬式がすむと、ぷいと消えちまったんでやす」
「忠助どのが亡くなられた?」
権七が経緯をくり返した。
「どちらに葬られたましたか?」
「それを聞いておく前に、おまさ坊が消えましたので---」
最近のコメント