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2009年11月の記事

2009.11.30

おまさが消えた

「部屋を変えておきましたよ」
昨日、帰宅のあいさつをしたとき、母・(たえ 48歳)から告げられた。
そのときにも、銕三郎(てつさぶろう 28歳)はおもった。
(おれが、この家(や)の当主なんだ)

父・宣雄(のぶお 歿年55歳)の寝所だった部屋で目を覚ました。
久栄(ひさえ 21歳)は、廊下をへだてた奥方の間をあてがわれていたが、寝衣になると、さっさと移ってきて横にもぐこみ、不平をならした。
「若奥と呼ばれていたころは手軽でした。おねだりのために、廊下で足を冷やしてわたってくることもなかったのですもの」
「冷や飯組の若奥から、冷や足組へ奥方へ栄進したのだよ」
「冷や足をあたためてくださいませ」
銕三郎の内股へさしこんでささやいた。

だがさすがに、中山道132里22丁(ほぼ、530km)、久栄辰蔵(たつぞう 4歳)づれの旅は、自分ではそうはおもわなかった気づかれだったらしい。

横の久栄が床を抜けて自室へ戻ったのも気づかず、目がさめたときには、雨戸が開けられ、障子が明るくなっていた。

(今朝だけは棒振りはズルさせてもらおう)
そうおもったとき、下僕の太助(たすけ 62歳)が、庭先から障子越しに、
「若---いえ、殿さま。権七どんが見えておりますが---」
「玄関脇の控えの間に案内しておいてくれ」
権七(ごんしち 41歳)は、深川の黒船橋のたもとで町駕篭屋の経営している。

急いで顔を洗った。
南本所のこのあたりは浅瀬を埋めたてて築地した土地なので、井戸水が悪水で、顔を洗う水は水売りから買って溜めおいた真水をつかう。

幕府は、神田上水の樋を新大橋の橋桁に沿わせて---と計画をしてはいるが、勝手(会計)方が、毎年、なんのかんのと理由をつけて先おくりにしてすませている。

(お上の威信も地におちたものだ)
本所に屋敷を拝領している軽輩のご家人たちは、陰で百年らい、ぼやきつづけていた。

「そろそろご帰着のころと、一番町新道の長谷川さまからお聞きしましたので、きのうきょうあたのりかと---」
一番町には、本家の太郎兵衛正直(まさなお 64歳 1450石 先手組頭)の屋敷がある。

「おとといも来てくれたそうで---なにごとか、出来(しゅったい)いたしたかな」
「〔盗人酒屋〕の忠助ちゅうすけ)どんが亡くなったことは、お耳にへえっておりやしょうか?」
「いや。初耳です。いつ?」
「この5月でやした。どっさり血を吐き、そのまま逝っちまったと」
「世話になったらしいな。礼をいわせてもらう」
「とんでもねえことです。それより、おまさ坊の行く方が知れなくなりやした」

参照】2008年4月29日~ [〔盗人酒場〕の忠助] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)


久栄が茶を運んできた。
おまささんがどうかいたしましたか?」

そういえば、銕三郎のところへ輿入れするまで、久栄おまさ(17歳=当年)の手習いの師匠でもあった。
権七銕三郎をうかがい、かすかにうなずいたのを見て、
忠助どんの葬式がすむと、ぷいと消えちまったんでやす」
「忠助どのが亡くなられた?」
権七が経緯をくり返した。

「どちらに葬られたましたか?」
「それを聞いておく前に、おまさ坊が消えましたので---」

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2009.11.29

銕三郎、江戸へ帰った

「江府はいい。空の色からしてちがう」
峠、また峠の木曾路から、中山道を旅してきただけに、板橋をわたりながら銕三郎(てつさぶろう 28歳)が感慨をこめていうと、久栄(ひさえ 21歳)が馬の脊から、
「おんなは、都のほうがいい---とおっしゃりたいのでございましょう?」

「見た目ではきまらないぞ」
「あら、お抱きになったのでございましょう」
「しらぬな」

久栄の前にまたがっている辰蔵(たつぞう 4歳)が口をはさんだ。
(たつ)は、佐久(さく)に抱かれたよ。佐久は京都で生まれたといっていました」
佐久(17歳)は、堀川通り蛸薬師下ルの打物師の次女で、亡じた備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の召使として役宅にあがっていたが、宣雄はけっきょく、手をつけなかった。

参照】2009年10月8日[備前守宣雄の嘆息] (

辰蔵。抱かれたのでありませぬ。転びかけたので、抱きあげられたのです」
久栄が訂正する。
「幼な子どもがいうことだ。いちいち、目くじらをたてずとよい」
「いいえ。まもなく、平蔵をご襲名になる、あなたさまの嫡子でございます。しっかりしつけませぬと、家督が相続できませぬ」

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(板橋駅 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

板橋のたもとの茶店に、用人・松浦与助(よすけ 57歳)が出迎えにきていた。
会わなかったのは1年たらずでしかないのに、髪は真っ白、腰がすこしまがりかけてきていた。
与助の後ろには、下僕の太助(たすけ 70歳ちかい)がひかえていた。

銕三郎は、太助とは秘密を共有している仲と観念している。
14歳のときに、はじめておんなを抱いた。
手配をしたのは太助であった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年8月3日[銕三郎、脱皮] (

あいさつの交しあいがひとわたり済んだところで、太助久栄をはばかりながら、耳打ちをした。
権七どんが、毎日のようにお屋敷へ参っております」
「用向きをいったか?」
「若さま---いえ、殿さまのお戻りを待っていますようで---なんでも、〔泥棒酒屋〕だか〔盗人酒屋〕だかの亭主のことらしゅうございます」
(そうか。まだ、ご公儀の跡目相続のお許しはうけてはいないが、この者たちにしてみると、おれはすでに主人なんだ)
身が引きしまるとともに、なんとも面映い感じであった。

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2009.11.28

銕三郎、京を辞去(2)

滝川政次郎先生が『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)の執筆時には、鬼平ブームは起きていなかったばかりか、平蔵宣以の同時期の詳細な記録『よしの冊子』(中央公論社 『随筆百華苑』第8、9巻)も刊行されていなかった。

そこで、滝川先生は窮余の策として、「全幅の信頼を措くには足らないが---」とことわりながら、牢人・岡藤利忠の『京兆府尹記事』を引き、京都時代の銕三郎(てつさぶろう 28歳)を素描なさっている。

その一つ---家族を引き連れて江戸へ帰府する銕三郎を、町奉行所の与力・同心が見送るくだり---、
,
平蔵が曰、おのおの方御堅固に御在勤あるべし。后年長谷川平蔵と呼ばれて、当世の英傑と世に云れん事を思う。(中略)各(おのおの)方御用として参府あらパ、必らず訪(とむら)ハせらるべく候、と暇乞いたしける。組士とかくいふ、幼者とて平蔵大言猥(みだ)りに吐(はく)。

いつかも記したが、筆者の藤岡は、銕三郎をこのとき13歳としている。
史実は28歳だから、半分以下に誤記しているぐらいだから、信用度は薄い。

が、言ったかどうかはともかく、
「用務で江戸へお下りになった節は、南本所のわが屋敷へもお立ちよりになり、その後の都の話などに花を咲かせて、奥などを楽しませてやってください」
くらいのお世辞を吐いたとしても、別に、おかしくはない。

鬼平犯科帳』では巻16[見張りの糸]で、町奉行所の与力・浦部彦太郎が訪ねてき、〔五鉄〕のしゃも鍋をふるまわれているが、じっさいに組士がきたかどうかは、分明でない。

似たような逸事が、四壁菴茂蔦わすれのこり』(中央公論社 『続燕石十種 第2巻』)に「長谷川平蔵殿」と題して掲げられている。

本所花町に、火附盗賊改長谷川平蔵殿役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓知の捌(さばき)多し、名高き稲葉小僧といふ賊も、その手にて召捕らたり。人々、今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて、世にかくれなし。上にも、町奉行になされ度き御含なれど、持高の少き故、其御沙汰もなかりし。

【参照】2006年7月27日[ 「今大岡」とはやされたが

盗賊・稲葉小僧は、ある資料によると、明和元年(1764)の生まれというから、平蔵宣以が火盗改メに任じた天明7年(1787)にはまだ14歳である。
池之端で厠の用をいいたてて縄抜けし、いらい行く方しれずとなったというから、捕らえたのは長谷川組ではなさそう---というひことは、「わすれのこり」の記述も信用がおけないということになる。

しかし、この件は別段、正確さをうんぬんするほどのものでもなので、以下、現代語訳にして綴っておく。


そのころ、本所三ッ目のあたりに、大工職で平蔵というのおり、かせぎのために京へ上り、2,3年後に江戸へ帰るにあたり、もし、江戸へくるようなことがあったら「本所の平蔵」でわかるから、寄ってくんねえ。悪いようにはしねえから」と大言をぬかした。

ところか゜、真にうけたのが江戸へやってきて平蔵を探し、火盗改メの平蔵のところへ案内された。
もちろん、平蔵宣以に覚えはないが、捨ててもおけず、手をつくして大工の平蔵を見つけだし、面倒をみてつかわせ」と、その京男を渡した。

この話から察するに、牢人・藤岡は、「わすれのこり」から換骨脱胎したのではあるまいか。


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2009.11.27

銕三郎、京を辞去

推測ではあるが、(陰暦)安永2年(1773)6月23日の葬儀を終えた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、手ばやく諸事をかたづけ、月末近くには所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ほか、東町奉行や禁裏付、山科代官所などへの返礼まわりをすませていた。

司所代では、用人・矢作(やはぎ)吉兵衛(きちべえ 39歳)と密談の形で、禁裏役人の不正の暴露ができなかったことを詫びた。
「なにしろ、ご任期がお短かすぎましたよ。せめて、もう半年、任につかれておられれば、手がかりがえられましたものを。備中さまも、さぞや、ご無念でありましたろう」
矢作用人は、銕三郎をなぐさめた。

「じつは、堺町四条上ルの宮中御用の白粉卸〔延吉屋〕へ、お(おかつ 32歳)と申す化粧(けわい)指南師をもぐりこませ、地下(じげ)官人の女房かむすめがひっかかる手はずをしております。もし、手がかりがつかめた節は、矢作さまへお伝えするように申しつけておきましたゆえ、しかるべくお手配をお願いいたします」
「おお、そのような奇特なお手くばりをなされておりましたか。さすがは、田沼老中さまが見込まれた備中さま---」

strong>銕三郎は、自分の手配であることを、ついにいいそびれたてしまった。

には、首尾があがらないようなら、てきとうに打ち切り、〔狐火(きつねび)〕のお頭のところへ戻るなり、江戸下ってくるようにいってあった。

の返事は、いまの仕事の実入りがいいし、お乃舞(のぶ 14歳)とその妹とのこともあるから、しばらく指南師をつづけるといったあと、
「もし、江戸へ行くようなときには、お乃舞たちもいっしょでいいですか?」
「江戸へ帰れば、亡父の跡目を継いでいようから、おぬしら3人くらいの面倒はみられよう」
「ありがとうございます」

参照】2009年9月24日~[お勝の恋人] () () (

祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)と2代目・角兵衛(かくべえ 41歳)に別れを告げに行き、〔化粧読みうり〕の板元は、打ち合わせ通りに、しばらくは〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)ということで町奉行所へ登録をすませたことを告げた。
角兵衛は、お披露目(ひろめ 広告)枠の手数料がつづいてはいることを喜んだ。
もっと嬉しがったのは彦十で、彫り師や刷り職へ手間賃をくばってまわるだけで1板でるごともに、2両(32万円)をこえる広告料がころがりこんでくるというので、有頂天であった。

さん、2両からはみ出た分は、貞妙尼(じょみょうに)の供養料ということで、母親のお(かね 47歳)にとどけてやってくれるとありがたいのだが」
「がってんでやすとも」
銕三郎には、彦十がおを抱くことはわかっていたが、花園の天寿院の住職の通い妾をするより、貞尼(ていあま)の供養になるとおもえたのである。

最後に、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)に別れを告げに、川原町すじの骨董舗〔風炉(ふろ)屋〕を訪ね、お(りょう 享年33歳)が葬られている寺を訊いた。

祇園丸山町の安養寺の墓域の中の、塔頭・蓮阿弥(れんあみ)の区画だと教えられた。
「そこのご住職が茶碗がお好きなもので、最初の女房・お(せい 没年26歳)が死んだときに、ささやかな墓地を買ったので、おの墓石も隣につくってやりました」
「分骨はしていただいおりますが、別れの墓参をいたしてやりたくて---」
「お(しず 25歳)に案内させましょうか?」
6年前、おが〔狐火〕のもちものになってすぐに、向島の寮で2人はできてしまったが、たしなめただけで勇五郎は若かった2人を許してくれた過去があった。

「とんでもない。いえ、葬儀にも加われなかったので、独りで、ゆっくり詣でてやりたいのです」
「それでは、庫裡(くり)のほうへ通じて、花と塔婆を用意させておきます」
「なにからなにまで、かたじけない」

参照】2009年8月1日[お竜(りょう)の葬儀] () () (

安養寺へ詣でた銕三郎は、はじめて左阿弥という塔頭もあることを知った。

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(円山・安養寺 左端中が蓮阿弥、下中が左阿弥 
『都名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)

小さな墓石に香華をたむけ、銕三郎は胸の中で語りかけた。
(江戸へ帰る。ふたたび、この地へくることはあるまい。が、お、江戸の戒行寺にも納骨する。彼岸ごとに詣でてやるからな。それより、お前は、おれの頭のすみにいつもいて、なにかと教示してくれ。頼りにしている。あすは、大津に泊まり、お前を呑んだ湖に花を撒いてやろう)

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2009.11.26

京都町奉行・備中守宣雄の死(7)

この[宣雄の死]の項の(4)に引いた、江戸時代の初期から幕末までの幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録を、ふたたび引く。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

参照】2009年11月23日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (4)

ちゅうすけ注】山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)に信濃守に叙されたのは、京都着任後の9月1日付であった。
山村信濃守良旺の【個人譜

宣雄の卒日が、6月でなく、1ヶ月近くもずれていることも指摘しておいたが、これだと、後任の山村十郎右衛門良旺は、卒日の翌日に着任してきたようにこみえないこともない。
いや、正確にいうと、内示があってから発令とみ、内示の段階で上洛の準備をはじめたとしても、正式の申し下しがなければ、江戸でのあいさつ廻りができまい。

2日でそれをすませたとして、行列を組んで東海道を順調にのぼって14日、千本通りの役宅へはいったのは、早くて8月10日---じっさいは、それよりも少し遅かったのではあるまいか。

その到着まで、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、役宅を整理しながら待っていたのであろうか?
なんのために?
引継ぎ?

彼は、正式に嫡子であるが、父の京都・町奉行の職務とは、表向きにはかかわりはない。
引き継ぎは、京都在住の与力・同心たちが全員、そのまま居座っており、筆頭与力が中心となっておこなうであろう。

ちゅうすけとしては、役宅の整理を手早くすませ、内与力格で働いていた桑島友之助(とものすけ 40歳)を山村新奉行への応対にのこし、遺跡(400石)相続の呼び出しがいつあってもいいように、早ばやと京をあとにしたのではなかろうか。
少なくとも、残暑のきびしい6月晦ごろには京を発したとみる。

銕三郎の遺跡相続の申しわたしは、同じ年(安永2年)の9月8日であったことは、[宣雄の死]の項の(1)に記しておいた。

参照】2009年11月20日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1)

銕三郎は、久栄に言った。
「去年の初冬、父上とともに京へのぼるときには東海道であったろう。帰府には中山道というのは、どうかな?」
(てつ)さまが、そうなさりたいのでしょう?」
「歩いたことがないゆえ、この機会の目におさめておけば、今後の勤めに役立つようにおもえるのだ」
「東海道の宿場々々のおなじみのおんな衆へのごあいさつが欠けますが、それておよろしいのでしたら、中山道といたしましょう」
「こいつめ---」
「う、ふふふふ」

柳営補任』の誤記を鵜呑みにした書き手がいたらしい。
着任した山村良旺が、帰府する銕三郎の世話をあれこれしたというふうなことを書いていた。
ところが、いま、その文章をあちこち探しているのだが、どこへまぎれこんだのか、みつからない。

明記しなくても、まあ、どうってこともないか。

気になったので、あれこれ検索していたら、3年前の当ブログ---2006年7月27日[今大岡とはやされたが]にぶつかった。
なんのことはない、自分で書いていたのである。(笑)
なにを読んでそう記したか、やはり記憶はない。

(始まってきたのかな---?)

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2009.11.25

京都町奉行・備中守宣雄の死(6)

京都町奉行の交替の期間差を調べることで、幕閣の動き方や幕府枢要・所司代間の連絡などがのぞけたらとおもい、長谷川備中守宣雄(のぶお 享年55歳)から10人ほど前の京・町奉行の任免の年月日を『柳営補任』でたしかめている。
メモのつもりでおつきあいいただければ幸い。

きょうは、東町奉行---。

山口安房守直重(なおしげ 2000石)
正徳3年(1713)2月29日(64歳)禁裏付ヨリ
享保6年(1721)正月22日辞(72歳)


河野勘右衛門通重(みちしげ 豊前守 500石)
享保6年(1721)2月15日(70歳)佐渡奉行ヨリ
500石加増
享保9年(1724)12月18日卒(73歳)


小浜六之助久隆(ひさたか 志摩守 900石)
享保10年(1724)1月18日(50歳)佐渡奉行ヨリ
ちゅうすけ注】『柳営補任』は享保9年としていたが、訂正しておいた。
享保12年(1727)9月8日卒(56歳)


永田三右衛門元隣(もとちか 越中守 680石)
享保12年(1727)10月22日(50歳)御目付ヨリ
300石加増
享保17年(1732)3月1日(55歳)小普請奉行


向井兵庫政暉(まさてる 伊賀守 900石)
享保17年(1732)3月1日(49歳)先手組頭加役ヨリ
元文4年(1739)7月2日卒(56歳)


馬場宮内尚繁(なおしげ 讃岐守 2000石)
元文4年(1739)7月19日(43歳)先手組頭加役ヨリ
延享3年(1746)7月21日(50歳)町奉行


永井監物尚方(なおかた )
延享3年(1746)7月22日(44歳)小普請支配ヨリ
宝暦2年(1752)d)正月11日(50歳)勘定奉行

土屋長三郎正方(まつかた 越前守 700石)
宝暦2年(1752)2月15日(57歳)駿府町奉行ヨリ
同  3年(1753)12月24日(58歳)町奉行


小林甚五左衛門春郷(はるさと 伊予守 400石)
宝暦3年(1753)12月24日(57歳)町奉行ヨリ
明和3年(1766)9月12日普請奉行(70歳)


石河庄九郎政武(まつたけ 土佐守 2700石)
明和3年(1766)9月12日(43歳)御目付ヨリ
同  7年(1770)閏6月3日(47歳)持弓頭


酒井善左衛門忠高(ただたか 丹波守 1000石)
明和7年(1770)閏6月3日(61歳)奈良奉行ヨリ

在府の現職が京都へ赴任すばあいは、期間差がみじかいのかと予想していたが、それもみごとにはずれた。
前例を大事にすると諸書にあるが、そういうものでもないみたいだ。

ちゅうすけのつぶやき】年齢の割り出しに時間をとられる。
これが安永以前だから、9割9分の人が没しているので、没年から数え齢が逆算できるが、平蔵宣以と同世代の幕臣だし、『寛政譜』ではまだ生存している確率が5割前後だから、こういう年齢つきのリストりの作成は困難をきわめる。

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2009.11.24

京都町奉行・備中守宣雄の死(5)

長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)の役務中の死にことよせて、遠国奉行の筆頭ともいえる、京都町奉行の交替の期間差をみている。
幕政のしきたりの一端がうかがえるかもしれないとおもってのこころみである。

宣雄から10人ほどもさかのぼれば、ある提示の傾向が知れようか。
では、まず、西町奉行すから---。


水谷弥之助勝阜(かつおか 信濃守 1700石)
元禄12年(1699)9月28日(40歳)御目付ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
宝永2年(1705)8月4日(46歳)辞
ちゅうすけ注】『寛政譜』8月3日と。
なお、水谷は(みずのや)と読み、この本家の伊勢守勝久が宣以が書院番にあがったときの番頭。


中根宇右衛門正包(まさかね 摂津守 1000石)
宝永2年(1705)8月5日(45歳)書院番与頭ヨリ
同         9月28日500石加増
正徳4年(1714)8月15日(57歳)辞


諏訪七左衛門頼篤(よりあつ 肥後守 500石)
正徳4年(1711)8月15日(54歳)小姓組与頭ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
享保8(1723)7月24日(66歳)町奉行
ちゅうすけ注】前任の奉行が辞任の場合は、前もって届けているから、同日後任が発令されている。
また、このころは、京都町奉行になると、500石加増が例であったらしい。
役高が1500石格と定まつたのは吉宗の享保からか?


本多勘右衛門忠英(ただひで 筑後守 1200石)
享保8(1723)7月28日(56歳)小姓組与頭ヨリ
元文2年(1737)3月10日(70歳)御旗奉行


島 角左衛門正詳(まささだ 長門守 1000石)
元文2年(1737)3月10日(51歳)駿府奉行ヨリ
同  5年(1740)12月28日(54歳)町奉行


三井采女良竜(よしたつ 下総守 1000石)
元文5年(1740)12月28日(43歳)御目付ヨリ
寛延2(1751)7月6日(52歳)御勘定奉行


稲垣精右衛門正武(まさたけ 出羽守 600石)
寛延2(1751)7月23日(51歳)御目付ヨリ
宝暦6年(1756)10月28日(58歳)御普請奉行


松前隼人順広(としひろ 筑前守1500)
宝暦6年(1756)11月3日(43歳)駿府奉行ヨリ
明和元年(1764)閏12月15日(57歳)御旗奉行
ちゅうすけ注】


太田三郎兵衛正房
(まさふさ 400石 播磨守)
明和元年(1764)閏12月15日(50歳)御目付ヨリ
同  9年(1772)10月8日(59歳)小普請奉行


長谷川平蔵宣雄(のぶお 備中守 400石)
明和9年(1772)10月15日(54歳)先手組頭加役ヨリ

こうしてみてみると、引継ぎの期間差には、この50年近くには、さしたる法則性はないようにもおもえる。
明日は、東町をあたってみよう。

(ふうー、くたびれた。4日ついやしての作業であった)

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2009.11.23

京都町奉行・備中守宣雄の死(4)

(旧暦)安永2年6月22日

幕府が10数年がかりで編纂した『寛政重修l諸家譜』に記されている、京・西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日であることは、これまで何度も告げてき、さらにこれが実際の卒日ではなく、幕府への諸手続きをとどこおりなくすますための公けの歿日であることも報じてきた。

実際の歿日を推測するただ一つの手がかりは、香華寺・戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿にある、

6月12日歿

これがもっとも史実に近いとおもわれるが、宣雄が歿したのは江戸においてではなく京師であり、戒行寺には、後日、納骨された。

いちおう、一鬼平ファンとしては、6月12 日で納得しておきたい。

想像するに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、<この日の亥の刻(夜10~12時)>として、江戸の三ッ目通りの屋敷で留守宅を守っていた備中守宣雄の内妻・(たえ 48歳)と、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 先手・弓組頭)には、早飛脚でことを報せたろう。

忌日をめぐって、ずっとこだわっていることがある。


江戸時代の初期から幕末まで、幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録がそれである。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

ちゅうすけ注】(  )内の官名は町奉行着任後に贈られたもの。

なんと、宣雄の卒日が『寛政譜』のそれよりも1ヶ月近くも遅らされている。
後任・山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)の発令の前日である。

備中守宣雄が卒したことは、『徳川実紀』には記されていないが、山村良旺の発令は、『柳営補任』どおりに記載されている。

それで、京で任期中に卒した町奉行の忌日はそのようにしているのかと、あたってみた。

もっとも近いのは、備中守宣雄と同時期に東町奉行だった酒井丹波守忠高(ただたか 没年62歳 1000俵)である。

酒井然右衛門忠高(丹波守)
明和7年(1770)閏6月3日奈良奉行ヨリ
安永3年(1773)3月6日卒


赤井越前守忠晶
安永3年(1773)3月20日御先手加役
天明2年(1782)1月25日御勘定奉行

赤井越前守忠晶(ただあきら 45歳=着任時 1700石)の発令は『寛政譜』のとおりであり、酒井忠高の公式卒日から17日後である。
その間に、継飛脚が往復はする余裕は十分にあった。

もう1例、あげよう。
備中守宣雄と同じ西町奉行である。

井上太左衛門正貞(志摩守 重次)
延宝7年3月4日御先手ヨリ
元禄2年11月12日卒


小出淡路守守秀strong>(守里)
元禄3年1月11日御書院番与頭ヨリ
同  9年5月25日辞

寛政譜】とつきあらせたところ、井上志摩守(丹波守)重次(しげつぐ 没年60歳 3000石)の歿日は22日となっていたが、それにしても、後任の発令まで2ヶ月近くある。

宣雄の分だけが遅らせられた理由は、依然として不明である。

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2009.11.22

京都町奉行・備中守宣雄の死(3)

このタイトルの項(1)で、鬼平こと平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の死後、家督した宣義(のぶのり 30歳=寛政11年)が『寛政重修l諸家譜』編纂の基材として上呈した[先祖書]を引き、備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が逝去前に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)への家督相続を老中に願っていたかのように記していたことをとりあげた。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みずのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間で
(老中)板倉佐渡守(勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
伝えられた。

備中守宣雄の逝去のとき、辰蔵は4歳であったから、経緯のはっきりした記憶はなかったろう。
成人するどの段階かで、父・平蔵宣以か母・久栄から聞かされていたのを、[先祖書]の記したとおもわれる。

_100滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)は、京都在住の牢人・岡藤利忠が書いた『京兆府尹記事』を引き、宣以の機転と利発のあかしとされている。
長くなるが、現代語に置き換えて資として供してみる。

(宣雄が逝去したとき)息子・銕三郎は父に同伴する形で京都にいた。(中略=原著)

まだ、跡目顔いを呈していなかったので、家士たちが銕三郎に、「末期願いの取りはからいを相役の東町奉行の酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000俵)どのにお願いしました」ことを告げた。(中略=同)

末期願いは、死去の節は、継嗣のだれそれへ跡式を継がされたくと願いおくことで、それにはお目付役の判元見届が必要なので、「酒井奉行どのが入来されます」と。(中略)

ちょうど、在京している目付役が大坂へ出張中であったので、相役・酒井丹州が判元見届けにやってきた。

ちうすけ注】東・西の京都町奉行の役宅は、3丁と隔たってはいない。

そこで、家士が銕三郎にすすめた。
「判元見届けをする役を、誰にかお申しつけになってください」
銕三郎は十三歳(原文のまま)であったが才智抜群で、凡慮の者は及ばないほどであった。
銕三郎は笑って言い放った。
「実子がいるのに、どうして見届の人を臥床へ入れる理由があるものか。拙みづからが応対しよう」

そうはいっても、幼年の銕三郎の言い分なので、家士たちは安堵せず、再度、説得ほ試みたが、聞き入れない。 

仕方なく、ことの次第を東町奉行宅へ参じて酒井丹州に告げた。
「長谷川家のためをおもってのおのおの方の忠告とこころえた。悪くははからわないから安心しておられい」

酒井奉行は西町奉行の役宅に来、
「判元を見届けいたそう」
言いながら案内を求めた。

麻裃で式台で迎えた銕三郎は、
「父の名代として、ここで印形をいたしましょう」
「なるほど。実子どの調印なさるのであれば子細はないが、先例では本人の臥床にいたり、調印を見とどけることになっておりますぞ。それゆえ、この度もそのように致されませぬと、ことが荒立ちます。ご幼年ゆえに案じておられるのであろうが、この丹州を信用なされて、おまかせあれ」

「先例にそむいたときはご役義がはたされないとのお言葉、一見、理があるやに聞こえますが、臥床にいらっしゃっても、お役義が勤まるとは申せませぬ。父・備中守が死去しているので、夜具の袖から代人が印形を捺したものをお持ちになると、後日、そのことが発覚しましたならば、丹州さまのお手落ちということになって、お家がとりつぶされるやもしれませぬ。それより、実子が代印したので、 一応、備中守へは挨拶だけしておいたとお届けになれば、後日露顕しても、、私の不調法ということですみ、丹州さまへはおとがめはありませぬ」

丹州は横手を打って、
「才子なるかな。その明智に従うべし」
といい、13歳平の銕三郎に教られ、60歳を超えていた丹州も、その言葉に従い、遺願書を持ちかえって、所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主)へ届けた。


このとき、著者・岡藤牢人は銕三郎を13歳としているが、われわれは28歳であったことを熟知している。
岡藤がなぜ銕三郎の年齢を間違えたか、この際、いくら詮索しても解明できはしない。
それよりも、末期(まつご)願いの手続きを学んだほうがよかろう。

ちゅうすけは、酒井丹波守がもともと、銕三郎に好意をいだいていたため>の処置であったと解しているのだが。


参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

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2009.11.21

京都町奉行・備中守宣雄の死(2)

京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日については、いくつかの記述がある。

まず、『寛政重修l諸家譜』の安永2年(1773)6月22日説。

_360
(『寛政譜』 長谷川家より宣雄の項)

これの基となったはずの、孫・平蔵宣義(のぶのり 『鬼平犯科帳』時代では辰蔵)が幕府に上呈した[先祖書]では、安永2年(1773)6月22日と読める。

_360_3

同じ[先祖書]で、本稿(1)に披露した平蔵宣以の項でも、6月21日になっていたが、どちらにしても、公式の命日で、実際の逝去日ではない。
公式の---とは、幕府に対しての諸届け・手続きをすますための命日の意である。

幕臣の任免・辞職の詳細を記した『柳営補任』にいたっては、安永2年7月17日卒と、半月以上も遅らせている。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行


それで、京都と江戸とのあいだを結ぶ、公用の継飛脚のことをかんがえた。
どれほどの日数で、備中守宣雄の死が、管轄している老中へ届き、後任が選ばれるのかと。
継飛脚でもっとも早いのは、70時間であったとWikipediaにある。

それに近い至急便で、宣雄の死は、老中へ告げられたろう。
秘密の要務---禁裏役人の不正摘発のこともあった。
老中たちは、後任の登用に意をつくしたとみるが、この推測は後日にまわしたい。

いや、推察はもう一つある。
京都へ付随しないで、江戸の留守宅を守っていた、宣雄の非公式の奥方で、銕三郎(てつさぶろう 28歳)にとっては実母の(たえ 48歳)のもとへの知らせは、どれほどの日数で達したか。
早くて7日後か。

陰暦の6月中・下旬といえば新暦の7月下旬で、酷暑の季節であり、遺骸の傷みも早かろう。
の上洛を待って葬儀というわけにもいかなかったろう。
もちろん、遺骸を江戸の菩提寺・戒行寺へ移送して葬るわけにもいかない。

葬儀は、『寛政譜』にあるとおり、京・千本通り出水(でみず)の華光寺(けこうじ)で行われた。
戒名も華光寺が贈った。
叙太夫・従五位下の宣雄にふさわしく、泰雲院殿夏山日晴大居士

参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (
2005年3月25日[女盗(にょとうおたか(お豊)]

長谷川本家の末・雅敏(まさとし)さんが華光寺へ問い合わせた結果は、すでに記している。

参照】2007年4月14日~[寛政重修諸家譜] (10)おたか(お豊

肝要な史料なので、煩瑣をいとわず、再掲示する。

_300

これには、西町奉行の示寂(じじゃく 死」)は、6月17日亥刻いのこく 午後10~11時代)となっている。

葬儀は23日の酉刻(とりのこく 午後5時)からだが、晩夏なのでもだ明るかった。
所司代に次ぐ要職である京・町奉行の現役の葬儀であるから、弔問者は多かったろう。

進行・整理には、浦部源六郎・彦太郎父子をはじめ、奉行所の同心や小者や、彦十(ひこじゅう 38歳)らがあたったことも想像がつく。

ただし、遺族席に、内妻・の姿はなかった。

回向帳に、化粧指南師・お(かつ 33歳)の名があり、〔狐火きつび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)は骨董商・〔風炉(ふろ)屋〕勇五郎と記名していた。

参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい〕のお豊)] () (

祇園一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の父子は、はっきりと屋号と名を記帳していた。

葬儀がおわり、香典をあらためた西町奉行所の同心たちが首をかしげたのは、四条通り麩屋j町の〔紅屋〕平兵衛が1両(16万円)つつんでいたことであった。
「お奉行は、口紅の〔紅屋〕と、どんなかかわりがおありになったのか?」
ひとしきり、隠しおんなの詮索を話題にしてみたものの、けっきょく、わからずじまいで話がつきた。


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2009.11.20

京都町奉行・備中守宣雄の死

平蔵宣以(のぷため いわゆる鬼平)の没後4年---寛政11年(1799)12月20日に、嫡男・平蔵宣義(のぶのり 30歳 辰蔵の家督後の継承名)が幕府に提出した[先書祖]を、にらんでいる。

_300
(平蔵宣義(辰蔵)が上呈した[先祖書]の表紙)

先祖書]は、先の老中首座・松平定信の発案で企画されたもので、お目見(みえ)以上の幕臣、および大名に提出が下達されていた。

12月20日は、締め切りぎりぎりともいえる期日であった。

5,200余家から上提された[先祖書]は、編纂役人たちの照合をへて、13,年後の文化9年(1812)に完成をみた。

参照】『寛政重修諸家譜

にらんでいるのは、『寛政譜』の基となった[先祖書]のほうである。

その[先祖書]は、長谷川本家の末裔である長谷川雅敏氏が国立公文書館からコピーしてきたものが、研究家・釣 洋一氏iにわたり、氏がワープロ活字化したのと、原文のコピーをいただき、おりにふれてにらんできた。

いや、〔にらんでいる〕のは、もっぱら、ワープロ活字化されたほうである。
それの、八代目・平蔵宣以の冒頭部分。

ブログでは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は京都にいる。
在・京都の条をアップにしてみよう。

_360_2

1行目の最初の5文字は、前の事項のしっぽだから無視。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みすのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間
(老中)板倉佐州(佐渡守勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
小普請支配・長田備中守の組へ入ると伝えられた。

ちゅうすけ注宣雄の歿年月日について別の日にふれるので、いまは、ここには立ちどまらない。
小普請支配・長田備中守も、管見では『寛政譜』に見あたらない。
長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の誤記とみる。

眸(め)を凝らしているのは、

(父が願いおきましたとおり、跡目---)

この1行である。

いつ、願いおいたのであろう?
病床にあり、回復がままならぬと自覚し、急遽、継飛脚便を発したのであろうか。
そのとき、備中守宣雄の胸中には、25年前、病弱だった6代目の従兄・宣尹(のぶただ 没年35歳)の死の前後の末期(まつご)継嗣の手続きのあわただしさ---というより、一種の偽装がよみがえっていたろうか。

参照】2007年4月14日~[寛政重修l諸家譜] (14) (15) (16)(17) (18
2007年5月2日[柳営補任〕の誤植

それで、まだ生きているうちに、願書を江戸へ送ったのかもしれない。
あるいは、死の日時を糊塗し、あたかも生前に願い出たようにしたか。

宣雄が病床にあった期間はどれほどであっか。
病名はなんであったか。
記録はまったくのこされていない。

明和19年(1772)10月15日に京都西町奉行を拝命し、8ヶ月と7日ばかりの、短すぎた病死であった。
備中守宣雄までの京都町奉行で、これほど勤務年月が短かった奉行はいない。


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2009.11.19

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(3)

「ひとりの比丘尼をめぐり、人が死にました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が告白する気分になった。

老師のやわらかな眸(め)は、動かなかった。

「拙との淫行がもとでした」
「淫行---とは、ちがいまんな」
「は---?」
「おことは俗界の人。いつくしみおうただけのことや」
「------」
「夫婦(めおと)の睦みごとを淫行と禁じよったら、子がでけしまへん。歓喜の所行(しわざ)や」
「比丘尼とは、夫婦ではありませなんだ」
「還俗(げんぞく)しましたやろ?」
「する、と申しておりました」

老師が眸を湖中の弁財天の社へやり、
「あそこのご本尊は、淫らな姿態で修行者を試してはる。釈尊が比丘尼に得度しィはったんも、比丘(男僧)らの淫心を試しはったんかもな」
いいおえて、かっかかかと笑った。

老僧がいうには、、五戒とはいうが、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)は、俗界でも悪行であるが、害を蒙った者とその縁者のほかはこだわりをもたぬ。
不妄語(ふもうご)---うぬぼれて自分を誇大にいう者は、俗界では嫌われる。
不飲酒(いんしゅ)---飲酒は俗界では禁じられてはいないし、罪の意識もない。

やっかいなのは、不邪淫(ふじゃいん)である。
淫心は、老若男女をとわず、だれのこころにもある。
こころにあっても、おいそれと実行できるものではない。
それだけに、やりえた者への妬みが大きい。

釈尊の教えをうまく汲みとって天竺(インド)国で栄えたヒンズー教では、その所行そのものを歓喜であるとしている。
_120仏道では戒のままなので、妬みのほうが害をなしているといっては、いいすぎになるかな---と苦笑した。

「おことの父ごどのが、元賢(げんけん 43歳)坊におだやかなんは、仏門の不邪淫を、悪法と観じていやはるためかもしれへんな」

「かたじけのうございます。いまのお言葉で、かの比丘尼も許されたと喜びましょう」
「なに、あの女性(にょしょう)は、われからわれを許しとったやろ」

(三歩、退(ひ)け、一歩出よ---は、むしろ、貞尼(ていあま)のほうが会得していたとおもいたい。退きすぎたかもしれないが---)

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2009.11.18

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(2)

白居易の、こないな詩ィ、ご存じやろか?」
老師が低い声で楽しげiに朗唱した。

「30、40やと、五欲が牽(ひ)きよる
 70、80やと、、病気の問屋や
 50、60は、いいことだらけ
 愛貧声利、ほどほどに手に
 よたよたなんぞ、はるかに先や

貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)と銕三郎(てつさぶろう 27歳)との逢いびきのことを、隣家のお(ぎん 60すぎ)婆ぁが旦那寺・西迎寺の暁達(ぎょうたつ 36歳)にしゃべったことから、2人もの人が死んだ。

銕三郎としては、おを許すわけにはいかない。
そうであろう、嫁入りするまで、お(てい)は、隣の老婆にこころをかけ、なにかと世話をやいてきていたのである。

そのおが、好きな男と睦んだからといって、おにはかかわりはないことだ。

_360
(歌麿『洗い髪』 貞尼(ていあま)とのイメージ)

参照】2009年10月24日[貞妙尼(じょうみょうに)の還俗(還俗)] (

それを、道家者ぶって---。

ただ、相手は60過ぎの婆ぁである。
仕置きするのは、なんとなく、気がとがめる。
手だてもおもいつかないまま、役宅に近い神泉苑(じんせいえん 現・上京区御池通り門前町)に老師を訪ねた。
銕三郎の表情を読んだ老師は、茶を点じながら、白居易の間適詩の断片を暗唱したのである。

「拙は、唄われている30には、まだ、達しておりませぬが---」
「ということは、五欲---とりわけ、淫欲がさかりで、真っ赤に燃えとるいうことやの。この欲はしつこうて、寿量をすぎた愚僧かて、熾火(おきび)のように、かかえとる」
「寿量と申されますと---?」
「80歳のことや」

寿量の80歳は、釈迦が入滅した年齢である。
世俗でいう傘寿(80歳の祝い)---喜寿(77歳の祝い)もこれからきているのであろう。

「ははぁ、80をおすぎになられても---」
「生きとるうちは、淫欲との戦いや。男もおんなも、比丘も、比丘尼も、な」

高僧にしてそういうことであれば、貞妙尼の淫心は、貞尼(ていあま)が打ちあけたとおり、とがめられるおよばないことにもおもいいたった。

また、僧たちの言いより、それを拒まれた憤りと嫉妬もうなずけた。

そればかりか、60すぎのお婆ぁの妬みの変形にもおもいがおよんだ。

すると、父・備中守宣雄(のぶお 55歳)は、どうやって淫欲を抑えこんでいるのであろうか。
白居易によれば、50、60は、淫欲をおのれでほどほどに制御できるいい時期ということか。

しかし、父の立ち居は、いかにも大儀げである。
70、80の病魔が気ぜわしく先ばしって襲ってきているのであろうか。

目の前の老師は、寿量をすぎたとおっしゃっているのに、矍鑠(かくしゃく)としておられるが---。

「(弘法)大師は、中寿(なかじゅ 40歳)までにやるべきことをすませとかな---いうて、さとしてはる。たしかにそうや、中寿からのこっちの歳月の脚の早いこと---矢のようや」

「老師。お名をおうかがいしておりませぬ」
「なんで、そんなもん、訊かはるのや。名ァなんちゅうもんは、かりそめのもんでの。死んだときの戒名も、100年もすぎてみなはれ、ご先祖さま---でいっしょくたにされよる。名ァは、あってなきにひとし。おことの目の前におるのが愚僧、そのもの---」


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2009.11.17

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。

(ひこ)さん。膺懲(ようちょう)は、これまでだ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)にいいわたした。

万吉啓太は、せっかく馴れてきて、尾行や噂のばらまきが面白くなってきたところであったので、がっかりした気配をあからさまに示した。

安堵したのは、誠心寺(じょうしんじ)の寺男・又平(またへい 50がらみ)であった。
山端(やまはな)の知りあいの山寺・弘法寺の順慶(じゅんけい 40歳)が逐電しないですんだからである。
つい、調子にのり、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の問責犯人の一人として順慶の名をあげてしまったことを後悔する気持ちがだんだんに強くなってきていたのである。

参照】2009年11月8日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

貞妙尼の母親・お(かね 47歳)は、不満と同時に、油小路・二条通りの家へ戻れることを喜ぶという、奇妙な感覚をかみしめていた。
自分の住まいに帰れば、花園の天寿院の庫裡(くり)へ泊まりに行けるうれしさ半分、むすめ・お(てい)を責め殺した僧たちが死罪になりそうもないくやしさが半分であった。
(死んだえおはかわいそうだが、生きている自分のほうがもっと大事)
おもわぬでもなかった。

彦十が反問してきた。
(てっ)つぁんは、それでいいのかえ?」
「もちろん、気はおさまらない。が、父上の裁決だからな」

銕三郎は、心の中で、高杉銀平師の決別の献辞ともいえる忠告をかみしめていた。

---三歩、退(ひ)け。一歩出よ。

(ここまで、彼らを苦しめたのだから、おれの立場がわかっている貞尼(ていあま)なら、許してくれよう)

ひょんなことから、2人が噂を流した若者と、竜土寺や延命寺のまわりのものに気づかれることをおもんぱかった銕三郎は、万吉啓太に言った。
「元締には、拙から話を通すから、2人は、2年か3年、江戸の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところで世話をみてもらうことにしてほしい」
重右衛門元締はんのことは、2代目からいつも聞かされてきとります」

音羽〕の重右衛門は若いとき、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)に預けられ、角兵衛(かくべえ 41歳)と兄弟のようにして仕込まれた。

誠心寺の寺男・又平は、西町奉行所にとどめおかれ、聞き取りをうけていたことにし、その旨を浦部源六郎(げんろくろう 51歳)与力が告げると、そのまま寺へ戻り、後任の尼僧に仕えるようにとのことであった。

が油小路・二条通りの2軒長屋へ戻ってみると、隣家のお(ぎん 60歳すぎ)婆は、さっさと息子夫婦の家へ越していたあとであった。

が移転する前に、彦十銕三郎に訊いた。
つぁん。これで、ぜんぶ終わったのかえ?」
銕三郎が頚をふり、
「そもそもの始まりをつくった、婆ぁさんの仕置きがのこっておる」
「やるかえ?」
「やらなきゃ、おさまらない」

彦十は、錦小路通り・室町通りの2階家に、居座っていた。
「お婆ぁさんが移った先をあたっとく」
「息子は、仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕の通い番頭をしておる」
「仏光寺通りの旅籠〔炭屋〕からもう1本東の通りだ」
「その息子の家にでもころがりこんだのかもしれない」

参照】2009年11月7日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

そういってから銕三郎は、気がついた。
をこらしめたら、息子がおへまわしていた仕立ての賃仕事がとまるのではないかと。
それでなくても、おを避けて引っ越している。
のこれからの生活(たつき)を、すっかり見てやるというわけにはいかない。
(なんとしたものか---)

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2009.11.16

奉行・備中守の審処(しんしょ)(11)

「父上。いまのままの吟味ですと、元賢(げんけん 43歳)は、島送りとなりますな」
表の役所から役宅へもどり、夕餉(ゆうげ)の席についた西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が話しかけた。

晩酌はしない宣雄は、はやくも箸を手にしていた。
銕三郎の膳には、銚子が1本添えられているのは、いつものとおりであった。
書院での夕餉は、ずっと前から、2人だけである。
もっとも、辰蔵(たつぞう 4歳)が元服すれば、3代そろっての食事になったはずだが。

「決裁は、まだ、してはおらぬぞ」
「しかし、拝聴しておりますかぎり、死罪はないと---」
「不満のようじゃな?」
「いえ。流島となれば、どの島であれ、囚人として生きていくのはきわめて困難でしょうから、これから先、10年、15年の苦難をかんがえれば、当人にとっては、死罪にもまさる刑かと存じます」

宣雄は、慮外な---といった面持ちで銕三郎を瞶(みつめ)た。
(てつ)は、人の生死を、そのように観ておったのか」
「は------?」

箸を置き、両こぶしを膝にそろえた宣雄は、
「人はだれも、死後の世界を看(み)てはおらぬ。つまりは想像の国にすぎない。とはいえ、仏道では、極楽と地獄を絵巻にしておる。元賢に死罪を申しわたせば、地獄図をおもいうかべるは必定であろう。そこへおちるよりも、いかになる苦難が待っていようと、流島のほうが苦しみがすくないと推察するのではなかろうか」

「あの者が、そのようにかんがえましょうか?」
元賢は、自分勝手な男である。自分に都合がいいようにかんがえるは必定じゃ。島で生き延びられるほうを選ぶであろう」

銕三郎は、元賢がきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)との出事(でごと 情事)のときの好みを、ためらいながら父に洩らした。

宣雄は深く嘆息し、
は、そのような細事まで、探索しておるのか?」
「探索したわけではなく、たまたま、知りえましたことで---」
「人には、知られたくない秘事というものがある。たとえ、公事(くじ)であろうと、明かしてはならないものは、そっとしておいてやるのが人情というものである---」
「承りました。爾後、肝に銘じておきます」

「ところで、。だいぶ、酒の腕があがったようであるな。今宵から、銚子は2本にしてよいぞ」
「かたじけのう、ございます。久栄(ひさえ)!」

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.15

奉行・備中守の審処(しんしょ)(10)

「きょうの取り調べは、正式のものである。そのつもりで、よく考えて答えるように」
白洲に引きすえられた元賢(げんけん 43歳)に、吟味方の次席与力・入江吉兵衛(よしべえ 48歳)が申しわたした。


梅雨の晴れ間の白洲ではあったが、1ヶ月をこえた入牢(じゅろう)暮らしと、庵主(あんじゅ)面責の顔ぶれの大半が割れていること、さらには言いよった僧たちの証拠も奉行所がつかんでいるらしいことをにおわされてきた元賢は、眠られない夜をつづけているらしく、顔色もさえず、憔悴しきっていた。

「「その前に、報せておくことがあろう」
奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が上座からうながした。
ふつう、奉行は口述取りの席には立ち会わないのだが、この日は、とくに着座した。

入江次席与力がかしこまったふうで、
「「その方と親しかった竜土寺の照顕(しょうけん 39歳)と、延命寺の秀涌(しゅうゆう 32歳)は逐電しおった」
元賢が疑うような目で吟味方与力の表情をうかがった。

「逐電の理由(わけ)は、近所の噂の耐えきれなくなったのであろう。
誠心院(じょうしんいん)の庵主(あんじゅ)を問責、死にいたらしめた者たちの一味であったことを奉行所に知られ、吟味を恐れたためとおもわれる。
むろん、奉行所からすべの代官所はいうにおよばす、寺院へも手くばりがまわっておることゆえ、どこを頼るわけにもいくまい。
あわれであるが、いずれ、盗人と化すか、野たれ死にすることになろう」

「これ、吟味役どの。元賢坊がおびえるようなことまでいうでない」
奉行がたしなめたが、入江与力はこころえたもので、ちょっと頭をさげただけで受け流した。

元賢坊。きょうの吟味は、暁達(ぎょうたつ 36歳)坊の死は、自分からご坊の包丁にぶつかってきたものか、ご坊のほうが刺したものかを決めることが主題で、貞妙尼の問責殺しは、別の日の裁きとなるから、暁達坊の死因に集心するように---」
奉行は子どもをさとすようにいうが、それなら、照顕秀涌の逃亡を告げることはなかったのである。

暁達が庫裡(くり)にかけこんできて、なんとわめいたのだ?」
しぱらく思念している体(てい)であったが、
「なんで発覚(ばれ)たんや、と---」
「なんと答えた?」
「11両、盗んださかいに、奉行所が動いたんや、と。そしたら---」
「そうしたら---?」
「淫乱尼(いんらんあま)は、殺してぇへん。引きあげるときには、生きとった、と」
「生きておった?」
「確かに、そない、わめきよりましてん」
「おかしいな。庫裡(くり)の軒下に潜んでいた密偵は、そのわめき声は聞いてはおらんぞ」

奉行・備中守が手で書役(しょやく)を制し、
「庵主のことはおき、ご坊は、いつ、出刃包丁を手にしたかの?」
暁達の剣幕がはげしかったゆえ---」
暁達坊の剣幕は、最初からはげしかったのではなかったのか?」
「はい。そやよって、暁達が駆けこんできてすぐに---」
「出刃は、いつも庫裡に置いておるのか? 仏に任える身で、魚を料理する出刃を---とは、どういうことかな?」
「護身用に---」

「護身用なら、短刀でもよいのではないのか?」
「--------」
「厨(くりや)にあったものを、つい、庫裡へ持ってきてしまったのであろう?」
「そうどした---」
「うむ。与力どの。つづけられよ。この場は、破戒裁きどころではないゆえな」
奉行は、おだやかに微笑み顔で元賢をながめた。

暁達を威嚇する出刃をどのように構えたかを訊いた与力に、元賢は、腹に刃先を相手側に向けて---と答え、備中守が首をかしげ、
「おかしいな。暁達の傷はもっと上方で、あれだと胸のあたりにあげていないと、符合しない」
「あげたかもしれまへん。興奮してましたよって、よう、覚えておりまへん」
「あげたんだな」
「ええ」
「あげて、突きだした。それに暁達がかぶさるように突っこんできた」
「たしか---そないどした」
「しかし、ご坊は、その出刃を抜いている」
「おもわず---」
「ふむ---」

入江与力が代わって訊いた。
「出刃が暁達の心の臓を突き刺したとき---」
奉行が訂正を求めた。
「吟味与力どの。元賢坊は、突き刺したとは申してはおらぬ。向こうが出刃へぶつかってきたのだ」
与力が訂正した。
「出刃に暁達が心の臓をぶつけてきたとき、なんと言ったか?」
「おぼえてぇおへん」

備中守宣雄の後方でやりとりを聞いていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、尋問の呼吸、安心した罪人にしゃべらせるコツを学んでいた。
それと同時に、
(父上は、殺人の死罪から、裁決を、なんとかして事故殺人にして流島へもちこもうとなさっている)
と感じた。


 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.14

奉行・備中守の審処(しんしょ)(9)

「その坊主の名前を、あっしが八幡・橋本村の行慶寺へひとっ走りして、調べてきやしょう」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、いまにも出かけそうにいったのは、淀川ぞいの橋本津(みなと)には、船頭たち相手に繁盛していた私娼窟が目あてだったかもしれない。

「この雨の中を出かけていくこともあるまい」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、京都町奉行の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)に問うまでもなかろうと判断した。

天慶寺の和尚の稚児趣味と、元賢(げんけん 43歳)と、貞妙尼(じょみょに 享年25歳)の私刑とはつながるまいとふんだこともある。
貞妙尼のうつぶせになっていた死顔は、あくまでおだやかで美しかった。

_100_2元賢貞妙尼を、背後から馬乗りに犯している姿を想像するのもはばかられた。
元賢が懸想したことすら許せなかった。

銕三郎には、謙虚に淫らな尼僧から還俗し、自分なりの考え方にしたがって生きるお(てい)であってほしかった。
そういえば、新造になってからの呼び名も決めないまま逝ってしまった。

貞妙尼へのおもいにふけっていた銕三郎に、〔女誑(めたらし)〕の〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)が問いかけた。
長谷川の若はん。〔松坂屋〕のおは、ご用済みでおますか?」
「惜しいのか?」
「もちぃと、舐(な)めてみとぅおますが---」
「それより、寺町五条上ルのちょうちん問屋〔鎰(ます)屋〕のお(こう 30歳)から、元賢坊の癖をさらに訊きだせないものか」
「ほな、そないに---」

由三は2日目に、
「聞いとるのが阿呆らして---」
帰ってくるなりの嘆息であった。

は、松原通り烏丸の平等寺の塔頭・西の坊に水子地蔵を寄進し、日参しているとわかったので、門前で張っていて、話しかけた。
水子にしたことに同情をしたふりをよそおうと、、にわかに心を許してき、寄進をすすめたのは水子の父親だと打ち明けた。
その父親はなぜだか、あのときに稚児髷(ちごまげ)の鬘(かつら)をかぶり、おを下腹をまたがせるのを好んだと。

「おのときのと、違うではないか」
「あのことの好みは、相手によって変わることもおますよって、いちがいにはきめられしまへん」
「そういうものかの」
「そないなもんどす」
銕三郎の眸(ひとみ)の奥をのぞきこむようにして笑った。
(おんな極めつくしたといううぬぼれの顔つきだな。いずれ、その鼻柱は、おなごによってへし折られるであろう)
銕三郎は自分の予想を、洩らしたりはしなかったが---。

とのときの元賢の好みのことは、父・備中守宣雄には打ち明けることがはばかられた。
(しかし、どちらにしても、橋本村の行慶寺での体験が基になっているに相違なかろう)

このあいだに、万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、別の計略をすすめていた。
西銅院通り・五条通りあたり---ということは、照顕(しょうけん 39歳)が住職をしている竜土寺のある俗称・湯屋町近辺の一膳飯屋、茶飯屋をわたって昼飯・夕飯を食いながら、あたりの者の耳にはいるほどのひそひそ声で、
「お奉行所は、誠心寺(じょうしんじ)の美人尼殺しの片割れと目ぼしをつけたらし---」
「寺男が顔を見たいうことか?」
「竜土寺はんも、美人尼はんに言いよってひじ鉄くらははった一人やいうことや」
などと噂をまいてまわっていたのである。

夜は呑み屋を3軒も5軒もはしごをするので、きりあげるときには、そうとうにまわっており、あと3日もつづいたら躰がもたないとぼやいていた。

ぶったおれる前に、照顕が夜逃げをしたので、
「明日からは、桂川の西の松室村の延命寺のあたりで、秀涌(しゅうゆう 32歳)について、同様の噂をばらまけ」
げんなりしていたところへ、近くの西芳寺の小坊主が、秀涌も行く方知れずになったとの報らせをとどけてきた。
備中守宣雄が手配しておいてくれたのである。
ちなみに、西芳寺は、俗称・苔寺として知られている。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


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2009.11.13

奉行・備中守の審処(しんしょ)(8)

手ちがいがおきた。

五条橋下の料理屋〔ひしや〕の女中・お(つね 32歳)が、〔女誑(めたらし)〕・〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)にぞっこんになってしまったのである。
仲居時代の仲よしで、きせる問屋〔松坂屋〕の後妻におさまり、いまは後家になっているお(さと 30歳)に
はんを引きあわせたら、うちから乗りかえはります」

そうではない、おからあることを訊ききだすためだ---どれほどいいきかせても、承知しなかった。
世慣れたおんなの直感で、たくらみを見抜いたのであろう。

彦十(ひこじゅう 38歳)が、業をにやし、
「将を射んとおもえば、まず馬を死よ---とはいうけれど、由どんのように、馬を矢でなく、槍(やり)殺しにしてしまったんでは、しゃれにもならねえ」

「〔女誑〕の面目にかけても---」
由三は、おの名を騙(かた)った文(ふみ)でおを、五条橋下の料理茶屋〔丸中屋〕へ呼びだした。

_360
(五条橋下の料亭〔丸中屋〕 『商人買物独案内』)

は案内された先に、かつての仲よしの同僚ではなく、見しらぬ男がいるのを見て、店の者が案内する部屋を間違えたかと、
「鈍(どん)なことで、かんにんどっせ」
すかさず立ってきた由三が、手首をやわらかくにぎり、肩に触れた掌にそっと力を加え、
「ご新造はんをお待ちしてましてん---」
耳元でいわれただけで下腹がほてり、ふらふらと坐りこんでしまった。

元賢が入牢(じゅろう)してから20日以上も男の肌に触れていなかったこともあり、着物を着たままの相手をあつかうことに馴れている由三のいいなりになったあと、
「お寺はんは、馬みたいのんがお好きどした」けど---」
つい、もらした。

_360_2
(北斎『させもが露』 イメージ)

由三からの仔細を告(つ)げられた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、苦笑まじりに、
「馬みたいに---とは?」
「うしろから、おおいかぶさりまんのんや」
「わかった]

なにかおもいつくことでもあったのか、銕三郎は、
「つぎにおと出あったとき、元賢が稚児として修行した寺と、そのときの住職の名をもらしていないか、訊いてみてくれ」

3日のちに、由三が答えを持ちかえってきた。
寺は、八幡・橋本村の行慶寺、和尚の名は洩らしていないらしかったと。

由三どん。約束してくれるか。おが口にしたことのすべてを忘れ、他には一言も洩らさないと」


うなずいた由三に、銕三郎が真顔で約定した。
こんご、もし、由三が捕まるようなことがあり、拷問にかけられそうになったら、江戸の南本所・三ッ目通りに屋敷がある旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)を呼べ---というがよい。どこの町奉行所であろいう、生きているかぎり、駆けつけて、拷問はさせないと。

さいわい、その後、由三銕三郎(のちの鬼平)も、、この約定をつかうことはなかったのだが---。

ついでだが--と前置きし、
「着付も髪もくずさないで相手を極楽に昇天させる手くだも教わりたいが、それより、おの名を騙って、出あいの場所を五条橋下の、しかも、おの店のならびの〔丸中屋〕にした理由(わけ)は?」

由三の返事は、
「おんないうのんは、おのれがよう知っとる場所やと、安心してしまう動物でやす」

銕三郎は、おもいあたった。
一瞬のうちに浮かんで消えた、ほろ甘い記憶のかずかずであった。

14歳のときにはじめておんなというものに接したお芙佐(ふさ 25歳=当時)も、18歳のときの阿記(あき 22歳=当時)も、それぞれのホーム・グラウンドともいえる家であった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)] 
2008年1月2日[与詩(よし)を迎に] (13

(いや、かえりみれば、おとお(りょう)は同じ家とはいえ、そうであったな)

参照】2008年6月2日[お静という女] (
2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

(これはしたり、おとのときも---)

参照】 2009年7月29日[千歳(せんざい)〕のお豊] (10

この、〔女誑〕が体験から編みだした教訓を覚えていたお蔭で、のちの鬼平は、誘拐されたおまさを助けだすこともできたし、〔荒神(こうじん)〕のおを捕らええたが、これは、20年のちの物語である。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.12

奉行・備中守の審処(しんしょ)(7)

役宅の庭の紫陽花(あじさい)が咲き、京都は梅雨iにはいっていた。

その庭へ勝手にはいってきた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が
(てっ)つぁん。そろそろ---」
久栄(ひさえ 21歳)の耳を気にした銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、目くばせするのもかまわず、
「ゆんべ、ダチが久しぶりにやってきて、この雨は、ホトケが泣いてるんだって、せかしてやしたぜ」

あわてて傘ももたずに塀の外へ連れだし、
「いま、父上が詮議をすすめておられるから、もすこし、様子をみてからでも、遅くはない」

彦十は、山伏山町(錦小路通り・室町通り)の家で待っているといいおいて、尻からげした下帯にはねをあげなら引きとっていった。

銕組(てつぐみ)〕には、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)の手くばりによる新顔が加わっていた。
今働きの〔牝誑(めたらし)〕・〔梅津(うめづ)〕の由三(よしぞう 32歳)がそうであった。

源七に伴なわられてきた由三に会ったとき、この男が{狐火きつねび)〕や〔蓑火みのひ)〕といった名門盗賊が必要とするときに口をかけるすご腕の〔女誑〕とは、一瞬、信じられなかった。
色黒の丸顔で團子鼻、脊も5尺4r寸(1m62cm)あるかなしのずんぐりむっくりなのである。
世にいう優男(やさおとこ)とはほど遠かった。

ところが、あいさつされて、驚いた。
なんとも透明な響きで、こちらの腹の底へとどくような快い声なのである。
(男のおれが聞いてさえこれだから、おんなだと、下腹の芯がしびれる声とでもいうんだろうな)

源七が口をそえた。
由三どんの小唄で、帯をときたくならなかったらおんなじゃねえ、っていわれてます。65の婆ぁさんでも腰をもぞもぞしはじめるってぐえのもんで---」

「雌犬がよってきて困ったこともありやす」
彦十が大真面目に、
「鹿はどうかね?」

由三の役割は、富小路(とみのこうじ)五条のきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)に近づき、このあいだまで肌身をあわせていた破戒僧・元賢(げんけん)について、しるかぎりのことを訊きだすことであった、それも短時日のうちに。

に近づくために、〔松坂屋〕へ後妻に入る前にはたらいていた五条橋下の料理茶屋〔ひしや〕で仲のよかったのがお常(つね 32歳)たということは、彦十がしらべずみであった。

さしあたっておのなじみ客になった由三が、おを誘いだそうというわけであった。

もう一人の老〔牝誑〕・〔千本(せんぼん)〕の世之介(よのすけ 60すぎ)は、東山・源泉院の門前の花屋に泊り込み、老躰にむちうって女主人・お(とき 57歳)の夜伽をつとめながら、寺の小坊主・賢念(けんねん 13歳)から、前の住職・元賢の生地やらなにやらを問いただしていた。

小坊主・賢念は山科・花山村の生まれ。
元賢も同村の出ということで、源泉寺へ修行にはいった。
元賢の母親は、村の取り上げ婆ぁで、父親は、本山の事務方らしいということしかしらなかった。
その事務方の引きで、源泉寺の住持になれたと、寺男・五平(ごへえ 59歳)から聞いたことがあると。

元賢は気まぐれなところのある性格で、何かに熱中したかとおもうと、いつのまにやらあきて、ほかのことしに熱中している。おんなのこともそうで、賢念が寺へきたときは、3日にあげずの感じでちょうちん問屋{鎰屋(ますや)〕の後家・お(こう 30歳=いま)を寺町五条上ルに呼びにいかされたが、半年ほど前、ふいと、きせる問屋〔松坂屋〕のお(さと 30歳=いま)に変わったこと暴露(ばら)した。

賢念は、おが水子をして、躰をこわしたことまではしらなかった。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


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2009.11.11

奉行・備中守の審処(しんしょ)(6)

「わざわざ呼びだして、すなまない。一つだけ、訊かせてもらいたいもとがあっての」
西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が、尋問部屋へ連れてこられた元賢(げんけん 43歳)に、にこやかに話しかけた。

法衣あつらえ司〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳)が弘法寺の順慶(じゅんけい 30歳)和尚の子を産んだことを、に告げた翌日である。

東山のふもとの源泉院の住職であった元賢は、同宗派の僧・暁達(ぎょうたつ 36歳を刺殺した疑いで入牢しており、本山から滅擯(めっぴん)の罰をうけていた。
滅擯の罰とは、僧籍を剥奪されて宗門から追放される、もっとも重い処分である。
もちろん、奉行所の刑とは別の、仏門の戒である。

元賢が入れられている六角獄舎から西町奉行所までは6丁ばかりある。
縄をかけられて往還するのは、元賢にとっては屈辱的な6丁であるにちがいない。
思いやりということまだ知らない子どもたちが、伸びかけた坊主あたまの元賢に、
「乞食坊主!」
「やーい、盗人坊主」
罵声をあびせるのである。

「昨日の話した、山端(やまはな)の奥、一本松の弘法寺の順慶坊が、本山へ納める奉恩金(ほうおんがね)は、年にいかほどかの?」

どうして奉行がそんな宗門内のことを訊くのかと、一瞬にうかんだ怪訝な顔をかくすように、
「檀家が少ないあのような寺やと、年に3両(48万円)ほどかと---」
「ほう、檀家が50軒として、1軒割で、年に金子で1万円とは、きびしいものよの」
「お奉行。拙僧の---」
いいかけて、僧籍がなくなっていることに気づき、
「源泉院のように、檀家に商家をかかえとる寺やと、年に9両(144万円)もおさめななりまへん」

「それはことよのう。ては、五条通り毘沙門町の竜土寺では、いかほど?」
「あこも、うちと同格で、9両---」
答えてから、はっとおもいあたったらしく、顔色が青ざめた。

かまわず、宣雄が追い討ちをかける。
「延命寺は?」
元賢の目がつりあがり、うつぶせた、肩を小刻みにふるわせ、慟哭をはじめた。

その姿を冷ややかに見下ろした奉行は、
「大儀であった。退(さ)がって、ゆっくり休むがよい」
警備の小者に目で連れてゆけと指示した。

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、感嘆して、部屋をでていく奉行の父の後ろ姿に礼をした。
横で、浦部源六郎(げんろくろう 51歳)・与力が、たのもしげにその銕三郎をみていた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7


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2009.11.10

奉行・備中守の審処(しんしょ)(5)

「食が口にあわぬとみえるな。しかし、獄舎の勝手方(経理)もやりくりに苦労しておってな---」
六角獄舎から西町奉行所の尋問部屋へ引きだされた犯戒僧・元賢(げんけん 43歳)に、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)がいたわるように声をかけた。

最初の尋問があってから、5日後であった。

東山の源泉院での酒食ででっぷりと重みのあった元賢だが、半月ほどの入牢で、頬の肉がおちて口元に小皺ができ、目の下が黒ずんできていた。

「まわりの者のいびきが耳について、眠られしまへんのどす」
「だからというて、個牢というわけにもいくまい。あそこは、死罪ときまった者しかはいれない」

(あと、半月も雑居牢へいれておくと、へばるな)
脇にひかえていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)がおもったとき、宣雄が書役(しょやく 記録掛)同心に、
「退(ひ)け刻(どき)までの採決はすべてすましてある。よしなしごとを話しあうだけゆえ、筆記はせずともよい」

宣雄が口にしたのは、元賢の情事の前の前の相手であった法衣問屋〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳=いま)がややを産んだという世事であった。

お陸のことは銕三郎が耳にいれたのだが、ご用聞きの〔大文字町(だいもんじまち)の藤次(とうじ 50歳前)が聞きこみをしたものらしい。

「京にはめずらしく背筋がぴんとのびたおなごらしいが、おぬしは、なぜ、付きあうのをやめたのかな。ややの父親は、若狭街道に近い弘法寺の順慶(じゅんけい)とか申す僧らしいが、2番番頭を婿にいれて世間体をつくろったとか」
元賢の頬に皮肉な冷笑がはしった。

つづけて、子の父親の僧とは、3ヶ月とつづかなかったことも告げた。
「おぬしの情の細やかさというか、かゆいところに手がとどくような技(わざ)が忘れられなかったらしいぞ」
「ふ、ふ---」
元賢が、おもわず漏らした。

(いったい、父上はなんのために、このような閨房(ねや)ばなしを---?)
銕三郎は、耳をすました。

突然、宣雄が話題を変えた。
「弘法寺の順慶は、おぬしが推薦した住職の資格を、本山からもらえなかったらしい。今度の事件がかかわっておると、順慶は憤慨しておるとか---」
ことばをきって、じっと元賢に視線をそそいだ。
(ひとあし先に、父上の探索の手がのびていたか---さすが、父上)

元賢のこころに、宣雄が懊悩をタネを植えていることに気づいた。
そして、今宵あたり、おとの情事ばかりか、ちょうちんの〔鎰屋(ますや)のお(こう 30歳)とのぬれ場、きせる問屋の〔松坂屋〕のお里(さと 30歳)の白い裸躰の感触をおもいだして、眠れない一夜に呻吟(しんぎん)するさまをおもいえがいた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

 

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2009.11.09

[鬼平クラス]リポート 11月7日編

静岡SBS学苑[鬼平クラス]の11月は、日曜日でなく第1土曜日の7日でした。
教室でなく、お江戸ウォーキング。
第一目標は、浅草寺の宝物館と本坊・伝法院の小堀遠州の庭園の拝観。

両所とも、同寺教化部の藤本先生の解説つきという、まさに豪華版(ぼくはただついているだけというラクちんの1日となりました)。

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(シャツ姿の方が藤本先生。宝物館には、戦災をまぬがれた名品のかずかずが---)

写真は、館の入口の部屋。巨額に関羽の絵が(館内は撮影禁止なんです)

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(大板碑を読んでくださる藤本先生)

どっちを向いても、国宝・重文級の芸術品・工芸品--。

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(五代将軍・綱吉は玄人はだしの絵描きでもあった。白衣観音像)

撮影禁止では---? そうですよ。撮影はしていません。

『江戸名所図会』の挿絵でおなじみの長谷川雪旦の彩色「桜井駅の別れ」の正成・正行もありました。

宝物館から降りていくと伝法院の小堀遠州の庭園。

「浅草のど真ん中に、こんなに静寂で美しい場所が何百年もたもたれていたのか」と、くちぐちに。

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庭園で心があらわれたあとは、池波さんがご贔屓のティールーム「アンヂェラス」(浅草・オレンジ通り)であわただしくお茶をのんで、
「池波正太郎記念文庫」で、鶴松顧問から親しく解説を。


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来年は、池波さん歿20年ということで、特集企画がどっさり---とお忙しいのに、最後までつきあってくださいました。鶴松先生、ありがとうございました。


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で、仕上げはは、これまた、池波さんご愛用の銀座・{煉瓦亭}で明治の洋食の味を賞味。
16時10分から、行列の一番先頭を占拠すること、30分。隣の店から苦情がきたほど。


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2009.11.08

奉行・備中守の審処(しんしょ)(4)

「あ、一人、おもいだしよりました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)から、一番槍の手柄---と持ち上げられた寺男・又平(またべえ 50すぎ)が、声をあげた。

「ほう。誰かな?」
銕三郎が如才なく水をむける。

「弘法寺の順慶(じゅんけい)はんでおます」
「弘法寺というと---?」
「山端(やまはな)の、小さな山寺はんどす」
「やまはな---?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻1[老盗の夢]で、引退した〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 67歳=小説に登場時)が瓜生に墓参にいった帰りに知りあい、男の兆しをよみがえらせた大女のおとよ---彼女が働いているのが愛宕郡(あたごこおり)、高野川ぞい、麦飯が売りものの〔杉野や〕をすぐにおもいうかべるはず。

参照】2006年6月19日[超ロングセラー、一つの条件
2007年2月24日[京・瓜生山

722
(山端の2軒の麦飯屋 『都名所図会』)

弘法寺は、〔杉野や〕の東、一本松よりにあった。

「よくおもいだしてくれました」
そうはいったものの、又平が隠していたことはわかっている。
(ついに、仲間意識がまさったようだ)

又平は、若狭街道の山端からもっと奥、三宅八幡宮のある村の出身であった。
八幡宮の別当が弘法寺であったために、きょうまで、順慶をかばってきた。

これで、啓太(けいた 20歳)が尾行してつきとめた、毘沙門町・竜土寺の照顕(しょうけん 39歳)と、照顕がつなぎ(連絡)をつけにいった延命寺の秀涌(しゅうゆう 32歳)がわかった。

殺された暁達(ぎょうたつ 享年36歳)をいれると、4人の身許が割れたことになる。

飲みすぎて真っ赤な顔をしている〔千本(せんぼん)〕の世之介(よのすけ 60すぎ)に、
「ご苦労だが、明日、万吉(まんきち 22歳)どのといっしょに、源泉院の門前の花屋へいき、賢念(けんねん 13歳)に、師の元賢(げんけん 43歳)のところへよくきていた僧たちの名を聞きだしてくれませぬか。そのあとは、お(とき 57歳)をかわいがってやってください」
先宵は、元賢の人殺しさわぎで、おを889本目にできなかった。

万吉どの。手みやげには、祇園新地の〔市山〕の牡丹餅を20ヶほど買っていってください」
「20ヶもどすか」

_360
(京極の〔市山〕の牡丹餅)

「そんなに食われしまへん」
悲の齢ご鳴をあげた世之介に、
賢念の男の子の胃の腑は底なしなのです。胃に入ればはいったほど、知っていることが頭からこぼれでるのです。おにはあまりすめないこと。おんなは、甘いもので胃がふくれると---」
「わかっとります、気がはいらしまへん」
真にせまった世之介のいい方に、みんな、また大笑いであった。

どの。そろそろ、ダチがあらわれるのでは?」

_360
(奈良公園の絵葉書)


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

   

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2009.11.07

奉行・備中守の審処(しんしょ)(3)

「このたびの銕組(てつぐみ)の探索、奇得(きどく)であった。礼をいう」
西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)から誉められた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、
「父上。先刻の審問では、元賢(げんけん 43歳)が貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の宗門の名を借りた問責にかかわっていたかどうかは、糾明(きゅうめい)がかないませぬでしが---」

「そうかの。われは白状したとおもうたがの」
宣雄は、済まし顔で応えた。
「は?」
浦部与力に申したように、5,6日後には分明(ぶんみょう)しようぞ」
浦部源六郎(げんろくろう 51歳)は、目付与力として、こんどの事件を主査している。

宣雄は、1分(4万円)を懐紙につつみ、
「組下の者たちに酒でも、ふるまってやれ」
奉行の間へ消えた。

浦部
与力が、貞妙尼のものであった11両1朱(33万円)が入った錦の巾着を、
「母親のお(かね 47歳)へわたし、この受けとりに爪印をとっておいてください」

山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠では、その夕刻、彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)、世之介(よのすけ 60すぎ)、寺男・(50すぎ)、それに母親のおもくわわり、酒盛りをはじめた。

父・西町奉行からの礼金を、最初(はな)は4人に1朱(1万円)ずつ分けようかとおもったが、これからのこともある、それには腹をわった付きあいをしたほうがいいと判断したのである。

〔銕組〕への奉行からの礼金---というので、一同が歓声をあげた。
「お奉行が、〔銕組〕っていってくださった、てぇのがうれしいやね」
彦十のことばに、みんながうなずく。

「これからは、〔銕組〕を名乗らせてもらいまひょ」
すかさず、万吉が和した。

町奉行からの礼金で飲むなんて、そんな誇らしい仕事など、これまでやったことがない連中だけに、うれしさも大きい。

料理は、おが腕をふるった。

酒がまわってくると、それぞれが自分の手柄話を際限もなくしゃべった。

ひとしきり、それががはずんだところで、銕三郎が、
「みんなの働きには、お奉行も感謝しているし、よくやってくれたと拙も礼をいう。しかし、拙にいわせてくれ、こんどの一番槍は、西迎寺の暁達の顔をおぼえていた又平(またへえ 50すぎ)どのだ」
みんなが手をたたいて祝したので、それまで小さくなっていた又平が、顔をくしゃくしゃにして喜び、手拭いで目
拭いた。

「しかし、又平どのは、貞妙尼をなぶり殺した僧ども全員の顔をおぼえていたわけではない。あと、5人いる。この坊主たちのこらしめに、一層、手を貸してもらいたい」
頭をさげると、また、一同が腕をたたいて協力を誓った。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


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2009.11.06

奉行・備中守の審処(しんしょ)(2)

この夏、8月16日~21日の6日間、筆休みの夏休みのつもりで、30回以上にわたってアップしていた史料『よしの冊子』を、下の↓【参照】のごとくに連結しなおし、6日分にまとめた。

手間がはぶけて、するすると読めるようなったはず。
もっとも、その分、1回iに目を通す量はふえはしたが--(ブログは本来的には日記だから、長い文章は読み手に負担であるが、これは鬼平ファンには有用な史料だから、時間のあるときにじっくりと読んでいただきたい)。


参照】2009年8月15日~[よしの冊子 (まとめ篇)] () () () () () (

上の↑ (まとめ篇 ())の寛政元年9月9日の末尾近くに、

一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(? 京都の勘違い)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。

とあり、以下のような解説ょ加えている。

  【ちゅうすけ注:】
  父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
  10月17日53歳のとき。
  本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
  日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
  本役を発令。
  幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
  焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
  があったからだ。
  その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
  たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
  行へ栄転した。
  『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
  宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳か
  ら28歳で、立派に助手がつとまった。


上の【】によるまでもなく、進行中のストーリーでお分かりのように、リンチで貞妙尼(じょみょうに)を責めて死にいたらしめた事件でも、銕三郎個人(てつさぶろう 28歳)の私情はさておいて、探索の主たる狙いを、父・宣雄奉行の判断の資をあつめることに置いている。

しかも、町奉行所の与力・同心およびその下役のご用聞きの手がおよばない風評あつめに専心している。
いわゆる、傍証がためと、心象づくりである

宣雄町奉行も、そのことはきちんとわきまえており、職務権限をもっていない銕組(てつぐみ)には、過度の任務は課さないようにしながら、銕三郎(てつさぶろう 28歳)を教育している。

[銕三郎、膺懲(ようちょう)す]2009年10月29日~() () () () (5) () (

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2009.11.05

奉行・備中守の審処(しんしょ)

月がかわり、5月になった。
奇数月は、西組が月番で、西町の奉行は、備中守宣雄(のぶお 55歳)であった

元賢(げんけん 43歳)は、六角(ろっかく)獄舎に入れられたまま、取り調べをうけていなかった。

東の奉行・酒井丹波守忠高ただたか 62歳 1000石)へ、西の長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が親書で、息・銕三郎(てつさぶろう 28歳)に審理の手だてを教えたいので、この事件は西町奉行所のあつかいにしていただきたいと依頼したからである。

もちろん、備中守宣雄は、所司代・土井大炊頭利里としさと)の内諾を先にとっていた。
所司代としても、寺社かかわりの事件だけに、西組があつかうほうが、筋がとおっていると判断していた。

(てつ)。禁裏の不正探索のこともあるが、元賢の審問に立ちあってみないか?」
「ぜひ」
「おそらく、難儀な問答になるとおもうが、のちのちのためになろう」
銕三郎には、父の思惑(おもわく)はわかっていた。

貞妙尼(じょみょうに)への恋情はそれとして、法をあずかっている幕府方の者として公正に裁くとはどういうことかを見おぼえよ、といっているのである。

尋問部屋に引きだされても、元賢はふてぶてしい態度をくずさなかった。
5分(1.5cm)ほどにものびた頭髪と鬚のせいで、よけいに不遜に見えた。

自分は、殺してしはいない。
暁達(ぎょうたつ)が自分を非難しにき、激昂のはてに手をかけようとしたので、護身用にもってきた出刃で脅したしたところ、かまわずに飛びかかってき、自分から出刃に刺されて死んだのであるとの主張を変えなかった。

また、貞妙尼の破戒の審問の場には立ち会っていなかったから、その死にはまったく無縁であるといいぬけていた。

さらに、御用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕〕の藤次(とうじ 50前)が庫裡に押しいってき、自分に縄をかけたのは違法ではないかと抗議までしていた。
たしかにご用聞きは、奉行所の与力・同心が立ちあっていないところで逮捕する権限はもっていない。

宣雄が、目付方与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)と銕三郎をしたがえて、尋問部屋へあらわれた。

_200むしろに引きすえられている元賢の前で、宣雄たちが床机にかけた。
「あ、元賢どのに座布団をあてがうように---」
宣雄が小者にいいつけた。

小者は、かつてないことなので、逡巡している。
〔足が痛くては、答えも満足にいくまい。早う、持て」

元賢に語りかけるように、
「石抱きの拷問だと、むしろどころの痛さではすまぬ。向こうずねの骨がおれ、一生、歩くこともままならなくなる。なに、元賢どのを三角柱の上に正座させようというわけでは、いまのところは、ない」

元賢の顔色が変わり、ふてぶてしい態度が潮が退くに消えていった。(゜[石抱き]『風俗画報』)

「〔大文字町〕のが、元賢どのに縄をうったのは、これなる---」
銕三郎(てつさぶろ 28歳)をさし、
「われの内与力が命じたことで、違法ではない」

座布団があたえられた。
元賢は、奉行に一礼してあてがった、

「富小路・五条角のきせる問屋・〔松坂屋〕の若後家とは、いつごろからの知りあいかな?」
元賢が答えをしぶった。
浦部与力が、怒鳴った。
〔お奉行にお答えいたせ」

それを制した宣雄が、お(さと 30がらみ)が五条橋下の料亭〔ひしや〕で働いていたときに、〔松坂屋〕の主人がまだ元気だったころに、元賢どのとつれだって食事しているところを見たという者がおっての---」
「それは、4年前---
「後妻にとりもった?」
「そないなわけやおへんが---」
「おが〔松坂屋〕へはいる前から、ちょくちょく、食事にいっていた?」
「はい、2,3度」

「あそこは川魚料理がうまいといわれておるが---」
「------」
「食ろうたな」
「------」
「仏道の戒をやぶった。ついでにきくが、おと睦んだのは、〔松坂屋〕の主人が逝く前からであろう」
「------」
「淫戒もやぶった。しかも、後家になる前の人妻とじゃな」
「それは、奉行所にはかかわりのないことでございます」
「そうじゃな。〔松坂屋〕の亭主と本山が、成敗することじゃな」

うなだれきている元賢に、
「同じ宗派の誠心院(じょうしんいん)の庵主に言いよったのは、何回かな」
「それも、宗派内のことゆえ---」
「違うな。強要は犯罪である」
「人殺しに比すると---」
「いま、なんと申した? おぬしが人殺しなどとは、一度も申してしいない。それを自ら口にしたようたな」 

はっとたじろぐ元賢を尻目に、浦部与力に、
「きょうは、これまで---獄へ戻せ」
さっと立ち、尋問部屋をでていった。
浦部与力と銕三郎もつづいたが、廊下で、
「お奉行。恐れ入りましてございます」

浦部。不安になれば、人はおもわず、真をもらすものよ。4.,5日、ほおっておけ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (

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2009.11.04

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(7)

暁達(ぎょうたつ 36歳)は、啓太(けいた 20歳)が予想したとおり、毘沙門町の竜土寺へはいっていった。

彦十(ひこじゅう 38歳)たちが前門の暗部でうかがっていると、暁達ともう一人の僧がでてき、暁達は五条通りをきた方角へ、この寺の住職らしい僧は西の桂川のほうへ別かれた。
当寺の住職のほうは、また、啓太が尾行(つけ)、行く先をたしかめることになった。

暁達は、彦十万吉が追う。
行き先は源泉寺とわかっている。
〔大文字町(だいもんじまち)の藤次もまようことなく、東行きのほうを選んだ。

千本(せんぽん)〕の世之介iに吹きこまれたとおりのことを源泉寺の元賢(げんけん)の耳にいれたお(とき 57歳)は、意気揚々と戻ってくるや、ふくみ笑いをしながら表戸をしめはじめた。
「お。戸を閉めるのんは、ちょっと待ちィ。夜は長いのんや、あせるでない」
「そやかて---もう、腰がうずいとるよ」
万吉はんがきよる。裸で出会うわけにもいかんやろ」
「なんで、今夜、きィはるの?」
科(しな)をつくっているつもりで腰をふり、鼻をならした。

「それより、元賢少僧正の様子をきかせてんか」
元賢は、おの耳打ちに、真っ赤になって、
「どこのど奴がいうてんねん」
あまりのどなり声に、おは、さっききた客の口からでた話だとごまかし、あわてて庫裡(くり)を飛びでてきたと打ちあけた。

が床を延べおわったとき、万吉が、
「〔千本〕の---〕
顔をだした。
は、鼻をしかめてお茶の用意に立った。
世之介に、世話女房らしいところを見せたかったのである。

万吉は、世之介を手招きし、耳元で、
暁達がワナにはまりよった。これから、庫裡で修羅場がはじまりよる。彦十の旦那も、長谷川はんも、向かいの寺にひそみはった」
世之介は、賢念(けんねん)小坊主が描いた見取り図をわたし、
長谷川の若はんに、早く、これを。わてもすぐにいきますよって」

聞きとがめたおが、
世之はんの舞台はこっちやでぇ---」
悲鳴に近い声であった。

ほんとうの悲鳴は、庫裡からあがった。
「ぎゃあッ」
どうすれば、人間にそんな声がだせるのかといえるほどの恐ろしげな悲鳴であった。

銕三郎(てつさぶろう 28歳が飛びこんだ。
つづいたのは、別のもの陰にいた藤次---。

元賢は、略衣の胸から裾にかけて返り血にそめ、うわごとのように、
「自分がへまをしといて、ひとをゆすりおって---阿呆が---金子になど、手をつけよってからに---」
繰り返していた。
その足元に、暁達が伏せたおれていた。

銕三郎がいった。
藤次どの。元賢のいい分、聞きましたね」


宗派は、さっそくに、殺人と姦淫の破戒により、元賢を破門に処dqしたと、西町奉行所にとどけてきた。

錦布の巾着にはいっていた貞妙尼(じょみょうに)の11両(176万円)は、そっくり西迎寺の庫裡の手文庫にあった。

奉行所から本山に、その11両は、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元名代料として貞妙尼個人にわたされたものであって、誠心院への寄進ではないとの、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締の言葉を伝えると、処分はそちらのおもうままに---との返事がかえってきた。

奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が空咳をし、
(てつ)。そういうわけで、この11両、貞妙尼の母親へわたすが、異存あるまいな」
銕三郎は、深ぶかと頭をさげ、
「お気のままに---」

山伏山町の家に集まった彦十万吉啓太に、銕三郎がはっきりと告げた。
貞妙尼を責め殺した数人の僧たちへの膺懲(ようちょう)は、まだ終わっていない」
{おもろい。やってこませまひょ」
啓太が応じ、あとの2人もしっかりとうなずいた。

源泉寺門前の花屋では、連日、夜おそくまで表戸をしめないで、おがなんども五条坂のほうをすかしてみていたという。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.11.03

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(6)

烏丸蛤ご門前の粽司(ちまきつかさ)〔川端道喜〕の10代目あての書状をしたため、朝早に松造(まつぞう 22歳)を7やり、求めさせた粽20本のうち半分を久栄(ひさえ 21歳)に、あとを携えて山伏山町(錦小路・室町上ル)の家へ寄った銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、待っていたご用聞・〔大(文字町だいもんじまち)〕の藤次(とうじ 50前)と話した。

藤次は、東町奉行所の目付与力・浦部源六郎(けげんろくろう 51歳)から十手をあずかって20年近くにもなる、老練の者であった。
貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)がいびり殺された現場も検分しており、犯人たちが寺僧との推測はついているものの、寺域にふみこむことははばかられたのと証拠がないので、手をこまねいていたところであった。

そこへ、銕三郎からの呼びだしがき、浦部与力に伺いをたてたところ、いわれたとおりに働けとの指示が返ってきていた。

誠心院(じょうしんいん)の寺男・又平(またへえ 50がらみ)が山伏山町の家にいたので、不審をつのらせはしたが、浦部与力の指示をおもんぱかって、訊くことはひかえた。

銕三郎の頼みは、油小路通二条通り上ルの、鞘師・三右衛門の店の裏手、2軒長屋のお銀(ぎん 60すぎ)婆(ばば)に、十手をちらつかせ、「貞妙尼が邪淫な破戒を隣の実家でやっていると、どこかの住職に、お前はんが告げ口したため、尼が責め殺されたと見て、奉行所は宗門裁きみたいなことに加わった全員を調べていると脅し、後ろをつけて、告げにいった先をたしかめてほしい---であった。

生前のお(りょう 享年33歳)が、なにかのときに、潜入している閒者を見つけるには、秘密めかしたことがらをさぐりとらせたふりをして、その後の動きでたしかめる法もある---といったあと、山本勘助どのの〔啄木鳥(きつつき)〕の戦法の変わり形---と笑ったのをおもいだしたのである。
は、商舗の金のかくし場所をさぐりだすための法として考えていたのかもしれない。

が駆けこんだ先は、やはり、筋屋町の西迎寺であった。

出かける暁達(そうだつ 36歳)を尾行(つけ)たのは彦十(ひこじゅう 38歳)と万吉(まんきち 22歳)と啓太(20歳)、〔千本(せんぼん)〕の世之助(よのすけ 60すぎ)だが、その後ろをさらに追っいる者がいるのを、4人は気づきもしなかった。

五条通りへでたところで、暁達は、左へ折れないで右に折れた。
啓太が、
「毘沙門町へいくきよるんやないか。おとといの僧の寺は、そこの竜土寺やった」

4人はちょっと相談をし、手に粽をもった世之助だけが左折した。
彦十万吉啓太は、まよわず、右に折れて暁達を追ったが、まん前のきせる問屋の〔松坂屋〕の店舗を指さした万吉が、
「この大店の年増の後家はんが、元賢(げんけん 43歳)から功徳を施こされとるんや」

4人を尾行していた藤次は、とりあえず〔松坂屋〕もおぼえておくことにしたものの、事件とどうかかわっているのかは見当もつきかね、首をひねった。

源泉院前の花屋では、お(とき 57歳)の誘いでやってきた小坊主・賢念(けんねん 13歳)が3本目の粽をほうばりながら、
「〔松坂屋〕のご内儀は、お(さと)いうて、若うは見えるけど、白粉と紅おとしたら、やっぱり、30は30で、ごまかしはきかへん」
「白粉おとすこともあんの?」
「泊まっていかはるとき、湯殿をのぞき見しとんのや」
「悪い小坊主や」
「うちだけやあらへん。寺男の五平(ごへえ 59歳)はんが板に穴、刳(く)りはってん」

は、粽よりも世之助で、引きよせた手を、着物の上から尻にみちびいていた。

「和尚はんは、おはんと、湯ゥもいっしょ?」
「そうどす」
「おもろい。湯殿から寝間までの図を書いてェみ」

賢念は筆を借り、手の米粉をはたき、間取り図を描いた。
「本堂へつながっとる廊下は?」

賢念が4本目にのばした手をぴしゃりと叩いいた世之助が、
「〔道喜〕の粽は、1本、なんぼするおもうてんねん。値段聞いたら、口がまがるでェ」

小坊主が満足して源泉院へ戻っていくと、おは、世之介にしなだれかかって口をさしだした。
ちょっと吸ってやってから、
「お---」
「あい」
呼び捨てにされ、もう、情婦気どりで甘えている。

「これからすぐに、向かいの寺の住持の---なんていうたかな---」
元賢少僧正はん」
「そや。その少僧正はんにな、誠心院はんで、庵主(あんじゅ)はんが殺されはったとき、11両(176万円)ほどが紛失しとるを、奉行所がみつけたらしと、わいがいうとったと、耳うちしてやってんか。10両盗んだもんは、死罪なんや」
「奉行所?」
「そや」
「すると、世之はんは、奉行所かかわり?」
「ちがう。奉行の息子はんと知り合いの、知り合いなんや」

「ほな、いてきますよって、帰らんと、待ってておくれやす」
「待ちなはれ。も一つあんのや。誠心院の須弥壇(しゅみだん)の陰から、殺された尼はんの手控えがでてきよってな、それには、言いよった坊(ぼん)さんの名ァと、口説きせりふがぜぇんぶ書きとめてあったらし、とささやいてきなはれ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.11.02

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(5)

瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)に頼んだのは、なんと、〔牝誑(めたらし)の現役と古手(ふるて)であった。

「古手のほうは、今日明日にもほしい」
源七は、さすがである。
遣い道などは訊きもしないで、しばらく思いをめぐらせていたが、ぽんと手をうち、
「〔千本(せんぼん)}の世之介などというふざけた名を〔通り名〕にしていますが、なに、生まれが千本通りの北の端の浄興寺の住職が妾に産ませたって奴で。千本を目ざしたが寄る年波には勝てねえ、888本で撃ちどめだなんて、大ぼらをふいてます。1本はおなご衆1人だっていうからタチがわるい。まあ、面(つら)だけは〔牝誑〕を自称するたけあり、若いときはそれなりに見えたようですが---」

ちゅうすけ注】〔牝誑めたらし)鶉〕の福太郎(25歳)は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p20  新装版p21に登場。
巻7[はさみ撃ち]で薬種屋〔万屋〕の30妻・おもんをたらしこんだ〔針ヶ谷(はりがや)〕の友蔵(31歳)は、〔女だまし〕専門と。p81 p85

万吉が中古の牝誑〔千本〕の世之介をともない、東山の源泉院の門前の花屋へあらわれたのは、翌日の午後おそくであった。

老婆・お(とき 57歳)は、一目で世之介が気にいったようで、お茶を淹れるは、饅頭をすすめるはして、歯が浮くようなお世辞に脂っけのぬけた躰をくねらせている。
このままいくと、臍くりをみつぐから、今夜、泊まっていけといいかねないかもしれない。

世之介にまかせた万吉は、店の奥から、源泉院の山門からあらわれる年増を待っている。

きょうあたりは庫裡(くり)へしけこむころだと、きのう、おから告げられていた。
花屋の奥で隠れて見張るために引っ張りだされた世之介だったのである。

おんなは、見込みどおりに庫裡から出てきた。

山門にも夕やみがしのびよっているので、遠目には25歳をすぎたかかどうかの齢ごろとふんだ。

着つけは乱れていないが、髪はいくらかほつれている。
家へ帰りつくころにはすっかり暮れているから、とおもいさだめているのであろう。

20間(300m)ほどの距離をおいて尾行(つけ)ていく。
さっきまでの情事をおもいかえしているのか、腰がひだるそうな歩きぶりである。
「ちきしょう。うまいことやりよって---」
坂の両側に表戸をおろした焼きものの小店が点在している五条坂で、おもわず、つぶやいた。

富小路五条の南角、〔きせる問屋 松坂屋〕の看板があがっている店の、くぐり戸に消えた。

C_360_5
(きせる問屋〔松坂屋〕 『商人買物独案内』)

その先の路地の呑み屋の灯が見えたので、障子戸をあけ、空き小樽に腰をすえ、
「おお、こわかった」
「どないしはりましたん?」
訊いたのは、燗したばかりの徳利を、黙って飯台(はんだい)に置いた店の親父である。
このごろは、こんな店までが、銅製の燗用ちろりから、陶器製の徳利になっていた。
冷めがおそくなるからである。

五条坂をくだっていたら、別嬪(べっぴん)の年増が清水焼の窯元の脇からあらわれて前をゆくので、ゆれてる腰からいつ尻尾がでるかとつけてきたら、表通りの〔松坂屋〕で消えてしまったと、万吉が即席のつくり話に、、
「〔松坂屋〕のご新造はんでしすやろ。後家にならはったばかりやで、
おおかた、旦那寺からの帰りどしたんやろ」
亭主が笑い顔で、一夜漬けの小かぶを呈した。

「後家?---25,6の若年増にしかも見えへんかったが---」
「若うても、後妻なら、後家にならはります」
「後妻? あない別嬪で?」
「〔松坂屋〕はんほどの身代(しんだい)があったら---」
「どこから、きィはったんどす?」
「------」
しゃべりすぎたとおもったらしい親父は、聞こえないふりをして大徳利からちろりに酒を注ぐことで、問いをそせらせた。

向かいの相客に酒をすすめると、その中年男が飯茶碗で受け、小声で、
「五条橋下におます料理屋〔ひしや〕の座敷女中やったんが、〔松坂屋〕の55歳の旦那に見初められよって---」

C_360
(料亭〔ひしや〕 『商人買物独案内』)

源泉院の門前の花屋では、引きとめるお婆ァに、
「あすの夕刻まえに、手みやげに〔川端道喜〕の粽(ちまき)をさげてくるよって、向かいの寺の小坊主も呼んどいきなはれ」
銕三郎から口うつしの甘言をのこし、〔千本〕の世之介は、どうやら、889本目を数えられるとほくそ笑みながら、おぼつかない足どりで、五条坂をくだっていた。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.11.01

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(4)

(お(りょう)だったら、どういう策でのぞむだろう?)
久しぶりに、お(享年33歳)のことが懐かしくおもえた。
この場にいて、知恵を貸してほしかった。

どんな奇策を立てるか。
あるいは、正攻法でのぞむか。

躰の触れあいも忘れがたい女性(にょしょう)であったが、おの頭脳の動きは、名将と閒者を一身に秘めていた。
(どんなことを言っていたか)

「必ず敵の閒者をさがし、これを利すべし」

そんなことを、笑いながらささやいたことがあった。
(そのときおれは、おの右の内股のつけ根にあった黒子(ほくろ)を、舌でなぶっていた。

〔利すべき敵の閒者---〕
いまのところ、2人いる。

その一人からの風音(ふういん)をもって、万吉(まんきち 22歳)が戻っているはずである。

〔炭屋〕の2階の部屋へはいったときであった。
彦十(ひこじゅう 38歳)が啓太(けいた 20歳)をまねき、西迎寺の山門から出てきた僧形の男を窓から見せ、
「帰る先と、身許をつきとめな」

すばやく降りていった。

部屋へあがる前に頼んでおいたきつねうどんの出前がとどいた。
万吉は、出ていった啓太のどんぶり鉢にも箸をつけながら、源泉院の門前の花屋の老婆の話を述べる。

いちばん新しい後家の身許はいずれわかるが、この前までは、寺町五条上ルのちょうちん傘屋〔鎰屋(ますや)〕の寡婦となった内儀・お(こう 30歳)がそうであった。
それが、ややができてしまい、水子にして躰をこわし、お呼びでなくなった。
「ぽってりした、ええおなごどしたけど---」

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(ちょうちん問屋〔鎰屋〕 『商人買物独案内』)

「姐(ねえ)はんの若いときに似てましたんやろ」
万吉の大仰な冗談を真けた婆さんは、その前の寡婦を教えた。

六角堂高倉角の、主として真言宗の法衣を商っている〔岡屋〕の女将・お(りく 28歳=当時)は、背筋がすっきりとのびたいいおんなだったが、そのときの声が大きすぎて、隣の寺までとどくというので〔鎰屋〕の寡婦にとってかえられた。

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(法衣〔岡屋〕 『商人買物独案内』)

さん。〔風炉(ふろ)屋〕の番頭さんに顔を貸してもらうように、使いをだしてくれと、ここの主人にいってきてくれないか」

参照】〔風炉屋〕の番頭とは、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七のことである。まわりの耳を気づかって、〔通り名〕で呼ばなかった。
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () () () (
2009年7月20日~[千歳(せんざい)〕のお豊] () (

彦十がおりていくと、
万吉どの、その花屋の婆さんは、50幾つだといってましたか?」
「60までに3年とか---」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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