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2009.11.14

奉行・備中守の審処(しんしょ)(9)

「その坊主の名前を、あっしが八幡・橋本村の行慶寺へひとっ走りして、調べてきやしょう」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、いまにも出かけそうにいったのは、淀川ぞいの橋本津(みなと)には、船頭たち相手に繁盛していた私娼窟が目あてだったかもしれない。

「この雨の中を出かけていくこともあるまい」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、京都町奉行の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)に問うまでもなかろうと判断した。

天慶寺の和尚の稚児趣味と、元賢(げんけん 43歳)と、貞妙尼(じょみょに 享年25歳)の私刑とはつながるまいとふんだこともある。
貞妙尼のうつぶせになっていた死顔は、あくまでおだやかで美しかった。

_100_2元賢貞妙尼を、背後から馬乗りに犯している姿を想像するのもはばかられた。
元賢が懸想したことすら許せなかった。

銕三郎には、謙虚に淫らな尼僧から還俗し、自分なりの考え方にしたがって生きるお(てい)であってほしかった。
そういえば、新造になってからの呼び名も決めないまま逝ってしまった。

貞妙尼へのおもいにふけっていた銕三郎に、〔女誑(めたらし)〕の〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)が問いかけた。
長谷川の若はん。〔松坂屋〕のおは、ご用済みでおますか?」
「惜しいのか?」
「もちぃと、舐(な)めてみとぅおますが---」
「それより、寺町五条上ルのちょうちん問屋〔鎰(ます)屋〕のお(こう 30歳)から、元賢坊の癖をさらに訊きだせないものか」
「ほな、そないに---」

由三は2日目に、
「聞いとるのが阿呆らして---」
帰ってくるなりの嘆息であった。

は、松原通り烏丸の平等寺の塔頭・西の坊に水子地蔵を寄進し、日参しているとわかったので、門前で張っていて、話しかけた。
水子にしたことに同情をしたふりをよそおうと、、にわかに心を許してき、寄進をすすめたのは水子の父親だと打ち明けた。
その父親はなぜだか、あのときに稚児髷(ちごまげ)の鬘(かつら)をかぶり、おを下腹をまたがせるのを好んだと。

「おのときのと、違うではないか」
「あのことの好みは、相手によって変わることもおますよって、いちがいにはきめられしまへん」
「そういうものかの」
「そないなもんどす」
銕三郎の眸(ひとみ)の奥をのぞきこむようにして笑った。
(おんな極めつくしたといううぬぼれの顔つきだな。いずれ、その鼻柱は、おなごによってへし折られるであろう)
銕三郎は自分の予想を、洩らしたりはしなかったが---。

とのときの元賢の好みのことは、父・備中守宣雄には打ち明けることがはばかられた。
(しかし、どちらにしても、橋本村の行慶寺での体験が基になっているに相違なかろう)

このあいだに、万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、別の計略をすすめていた。
西銅院通り・五条通りあたり---ということは、照顕(しょうけん 39歳)が住職をしている竜土寺のある俗称・湯屋町近辺の一膳飯屋、茶飯屋をわたって昼飯・夕飯を食いながら、あたりの者の耳にはいるほどのひそひそ声で、
「お奉行所は、誠心寺(じょうしんじ)の美人尼殺しの片割れと目ぼしをつけたらし---」
「寺男が顔を見たいうことか?」
「竜土寺はんも、美人尼はんに言いよってひじ鉄くらははった一人やいうことや」
などと噂をまいてまわっていたのである。

夜は呑み屋を3軒も5軒もはしごをするので、きりあげるときには、そうとうにまわっており、あと3日もつづいたら躰がもたないとぼやいていた。

ぶったおれる前に、照顕が夜逃げをしたので、
「明日からは、桂川の西の松室村の延命寺のあたりで、秀涌(しゅうゆう 32歳)について、同様の噂をばらまけ」
げんなりしていたところへ、近くの西芳寺の小坊主が、秀涌も行く方知れずになったとの報らせをとどけてきた。
備中守宣雄が手配しておいてくれたのである。
ちなみに、西芳寺は、俗称・苔寺として知られている。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事

コメント

銕三郎さんが〈めたらし)の由三にいいつけたのは、そうしいうリサーチだったのですね。お仲さんの仕込みがやっと実をむすんだ感じですね。深慮遠謀とはこのこと。

投稿: tomo | 2009.11.14 06:01

ああ、お仲ですね。
彼女は、後家ていうものは、齢下の若い未経験な男に、手ほどきから勘どころ、熟練コースまで教えるべきだという考えの信奉者でしたからね。
女中頭のお栄から春画も借り出して、今夜はこのテで---などと、銕三郎を仕込みました。
それで、銕三郎としては、元賢のクセから、なにかを推測しようとしたんでしょう。
いい時代に育ちました、銕三郎は。堅苦しい定信の時代とちがって。
定信は、子をつくるとき以外は、同衾しなかったとも伝えられています。禁欲主義者だったんですね。

投稿: ちゅうすけ | 2009.11.14 09:50

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