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2009.11.22

京都町奉行・備中守宣雄の死(3)

このタイトルの項(1)で、鬼平こと平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の死後、家督した宣義(のぶのり 30歳=寛政11年)が『寛政重修l諸家譜』編纂の基材として上呈した[先祖書]を引き、備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が逝去前に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)への家督相続を老中に願っていたかのように記していたことをとりあげた。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みずのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間で
(老中)板倉佐渡守(勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
伝えられた。

備中守宣雄の逝去のとき、辰蔵は4歳であったから、経緯のはっきりした記憶はなかったろう。
成人するどの段階かで、父・平蔵宣以か母・久栄から聞かされていたのを、[先祖書]の記したとおもわれる。

_100滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)は、京都在住の牢人・岡藤利忠が書いた『京兆府尹記事』を引き、宣以の機転と利発のあかしとされている。
長くなるが、現代語に置き換えて資として供してみる。

(宣雄が逝去したとき)息子・銕三郎は父に同伴する形で京都にいた。(中略=原著)

まだ、跡目顔いを呈していなかったので、家士たちが銕三郎に、「末期願いの取りはからいを相役の東町奉行の酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000俵)どのにお願いしました」ことを告げた。(中略=同)

末期願いは、死去の節は、継嗣のだれそれへ跡式を継がされたくと願いおくことで、それにはお目付役の判元見届が必要なので、「酒井奉行どのが入来されます」と。(中略)

ちょうど、在京している目付役が大坂へ出張中であったので、相役・酒井丹州が判元見届けにやってきた。

ちうすけ注】東・西の京都町奉行の役宅は、3丁と隔たってはいない。

そこで、家士が銕三郎にすすめた。
「判元見届けをする役を、誰にかお申しつけになってください」
銕三郎は十三歳(原文のまま)であったが才智抜群で、凡慮の者は及ばないほどであった。
銕三郎は笑って言い放った。
「実子がいるのに、どうして見届の人を臥床へ入れる理由があるものか。拙みづからが応対しよう」

そうはいっても、幼年の銕三郎の言い分なので、家士たちは安堵せず、再度、説得ほ試みたが、聞き入れない。 

仕方なく、ことの次第を東町奉行宅へ参じて酒井丹州に告げた。
「長谷川家のためをおもってのおのおの方の忠告とこころえた。悪くははからわないから安心しておられい」

酒井奉行は西町奉行の役宅に来、
「判元を見届けいたそう」
言いながら案内を求めた。

麻裃で式台で迎えた銕三郎は、
「父の名代として、ここで印形をいたしましょう」
「なるほど。実子どの調印なさるのであれば子細はないが、先例では本人の臥床にいたり、調印を見とどけることになっておりますぞ。それゆえ、この度もそのように致されませぬと、ことが荒立ちます。ご幼年ゆえに案じておられるのであろうが、この丹州を信用なされて、おまかせあれ」

「先例にそむいたときはご役義がはたされないとのお言葉、一見、理があるやに聞こえますが、臥床にいらっしゃっても、お役義が勤まるとは申せませぬ。父・備中守が死去しているので、夜具の袖から代人が印形を捺したものをお持ちになると、後日、そのことが発覚しましたならば、丹州さまのお手落ちということになって、お家がとりつぶされるやもしれませぬ。それより、実子が代印したので、 一応、備中守へは挨拶だけしておいたとお届けになれば、後日露顕しても、、私の不調法ということですみ、丹州さまへはおとがめはありませぬ」

丹州は横手を打って、
「才子なるかな。その明智に従うべし」
といい、13歳平の銕三郎に教られ、60歳を超えていた丹州も、その言葉に従い、遺願書を持ちかえって、所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主)へ届けた。


このとき、著者・岡藤牢人は銕三郎を13歳としているが、われわれは28歳であったことを熟知している。
岡藤がなぜ銕三郎の年齢を間違えたか、この際、いくら詮索しても解明できはしない。
それよりも、末期(まつご)願いの手続きを学んだほうがよかろう。

ちゅうすけは、酒井丹波守がもともと、銕三郎に好意をいだいていたため>の処置であったと解しているのだが。


参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

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