三歩、退(ひ)け、一歩出よ。
彦(ひこ)さん。膺懲(ようちょう)は、これまでだ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)にいいわたした。
万吉と啓太は、せっかく馴れてきて、尾行や噂のばらまきが面白くなってきたところであったので、がっかりした気配をあからさまに示した。
安堵したのは、誠心寺(じょうしんじ)の寺男・又平(またへい 50がらみ)であった。
山端(やまはな)の知りあいの山寺・弘法寺の順慶(じゅんけい 40歳)が逐電しないですんだからである。
つい、調子にのり、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の問責犯人の一人として順慶の名をあげてしまったことを後悔する気持ちがだんだんに強くなってきていたのである。
【参照】2009年11月8日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (4)
貞妙尼の母親・お兼(かね 47歳)は、不満と同時に、油小路・二条通りの家へ戻れることを喜ぶという、奇妙な感覚をかみしめていた。
自分の住まいに帰れば、花園の天寿院の庫裡(くり)へ泊まりに行けるうれしさ半分、むすめ・お貞(てい)を責め殺した僧たちが死罪になりそうもないくやしさが半分であった。
(死んだえお貞はかわいそうだが、生きている自分のほうがもっと大事)
おもわぬでもなかった。
彦十が反問してきた。
「銕(てっ)つぁんは、それでいいのかえ?」
「もちろん、気はおさまらない。が、父上の裁決だからな」
銕三郎は、心の中で、高杉銀平師の決別の献辞ともいえる忠告をかみしめていた。
---三歩、退(ひ)け。一歩出よ。
(ここまで、彼らを苦しめたのだから、おれの立場がわかっている貞尼(ていあま)なら、許してくれよう)
ひょんなことから、2人が噂を流した若者と、竜土寺や延命寺のまわりのものに気づかれることをおもんぱかった銕三郎は、万吉と啓太に言った。
「元締には、拙から話を通すから、2人は、2年か3年、江戸の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところで世話をみてもらうことにしてほしい」
「重右衛門元締はんのことは、2代目からいつも聞かされてきとります」
〔音羽〕の重右衛門は若いとき、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)に預けられ、角兵衛(かくべえ 41歳)と兄弟のようにして仕込まれた。
誠心寺の寺男・又平は、西町奉行所にとどめおかれ、聞き取りをうけていたことにし、その旨を浦部源六郎(げんろくろう 51歳)与力が告げると、そのまま寺へ戻り、後任の尼僧に仕えるようにとのことであった。
お兼が油小路・二条通りの2軒長屋へ戻ってみると、隣家のお銀(ぎん 60歳すぎ)婆は、さっさと息子夫婦の家へ越していたあとであった。
お兼が移転する前に、彦十が銕三郎に訊いた。
「銕つぁん。これで、ぜんぶ終わったのかえ?」
銕三郎が頚をふり、
「そもそもの始まりをつくった、婆ぁさんの仕置きがのこっておる」
「やるかえ?」
「やらなきゃ、おさまらない」
彦十は、錦小路通り・室町通りの2階家に、居座っていた。
「お銀婆ぁさんが移った先をあたっとく」
「息子は、仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕の通い番頭をしておる」
「仏光寺通りの旅籠〔炭屋〕からもう1本東の通りだ」
「その息子の家にでもころがりこんだのかもしれない」
【参照】2009年11月7日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (3)
そういってから銕三郎は、気がついた。
お銀をこらしめたら、息子がお兼へまわしていた仕立ての賃仕事がとまるのではないかと。
それでなくても、お兼を避けて引っ越している。
お兼のこれからの生活(たつき)を、すっかり見てやるというわけにはいかない。
(なんとしたものか---)
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