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2009年12月の記事

2009.12.31

ちゅうすけのひとり言(46)

年末・年始---手をぬいているとおもわれそうですが、決してそんなことはありません。
寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』8000ページを総点検したうえに、その日その日、また改めて該当ページを確認しながに入力しています。
いつもよりも時間と手間がかかっています。

本邦、初のリサーチといっても過言ではなさそう。
学会で発表されたことがあるのかしら?

こういう基礎的なデータも、データとして残しておくのが、このブログの特徴なんです。
きっと、10年後、20年後に、「へえ、こんなたいへんなデータを残しておいてくれた奇特人がいたんだ」という人の出現を信じながら、やっています。


銕三郎(てつさぶろう)が相続を許された安永2年(1773)。その年の7月5日の『徳川実紀』---


交替寄合五嶋右膳盛峯が子盛恭。西城小十人頭土岐十左衛門頼雄が養子寅之助頼久。寄合山木織部正伴明が養子小姓組次郎八勝明。松平亀松侶之允定則が養子侶之充定能。渡辺久蔵義が子伊十郎胤をはじめ。父死して。その子家をつぐもの九人。

うち、『寛政譜』からひろえた者、8人。

養父:松平(久松)亀松侶之允定則(さだのり 5000石)
    安永2年4月4日卒 18歳
養子:(小笠原)貞次郎定能(さだまさ)
    (跡目) 16歳
    天明5年(1785)9月10日持筒頭出仕


養父:五嶋右膳盛峯(ものみね 3000石)
    安永2年4月6日卒 48歳
養子:(五嶋)時之助盛恭(もりやす)
    (跡目) 20歳
    寛政元年(1789)歿 36歳


養父:土岐十左衛門頼雄(よりお 1100石)
    安永2年4月27日卒  59歳
養子;(石尾)寅之助頼久(よりひさ)
    (跡目) 28歳
    安永3年8月4日小姓組


父 :渡辺久蔵義(よし 1000石)
    安永2年4月24日卒 50歳
子 :   猪十郎胤(つづく) 
    (跡目) 16歳
    天明4年5月6日書院番出仕


養父:山木織部正伴明(ともあきら 400俵)
    安永2年4月24日卒 73歳
養子:(依田)次郎八勝明(かつあきら)
    (跡目) 31歳
    宝暦12年(1762)9月28日小姓組出仕ずみ


父 :青沼斎宮政安(まさやす 300俵)
    安永2年4月13日 72歳
子 :   友三郎政直(まさなお)
   (跡目) 27歳
   天明元年(1781)7月11日小十人出仕


養父:湯川文:軒寛房(ひろふさ 200俵)
    安永2年4月4日卒 50歳
養子:(多喜)左膳忠房(ただふさ)
    (跡目) 16歳
    寛政2年9月27日寄合


父 :秋鹿勝之助友春(ともはる 100俵)
    安永2年4月21日卒 28歳
子 :   亀三郎正信(まさのぶ)
   (跡目) 15歳(信じられない、養子?)
    天明8年(1788)9月16日小十人出仕

山木次郎八伴明がなぜ『実紀』に載りえたは、先手の組頭や持筒の頭、一橋家の家老もやっているから、布衣の格ということか。   


       ★      ★     ★


ことし1年間、アクセスしていただき、感謝。

トータル・ページ・ヴューがあと1歩で50万を超えられず、残念でした。
(もっとも、年賀状に記した目標数は45万ページで、それは軽く達成)

1月半ばには50万ページを越えられると予想しています。

来年も引きつづいて、よろしくお願いいたします。

よいお年をお迎えください。 ちゅうすけ      


    

   
   

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2009.12.30

ちゅうすけのひとり言(45)

長谷川平蔵宣以(のぶため 28歳)が跡目を相続した安永2年(1773)年に、同じように相続をゆるされたお目見以上の幕臣の調査リポートをつづけている。
幕府の諸式の一端がのぞけるとおもったからである。

6月6日の『徳川実紀』---

この日、書院番組頭宮崎三郎左衛門仲武が子小姓組与十郎安澄。寄合水野源右衛門忠香が子兵庫忠候をはじめ、父死して。家をつぐ者七人。

寛政重修諸家譜』でひろえたのは、5人。

父 :水野源右衛門忠香(ただか 2800石)
    安永2年閏3月10日卒 53歳
子 :   兵庫忠候(ただもり)
    (跡目) 24歳
    天明4年(1784)10月2日西丸小姓組出仕


父 :宮崎三郎左衛門仲武(なかたけ 600俵)
    安永2年閏3月22日卒 53歳
子 :   与十郎安澄(やすずみ)
    (跡目)37歳
   宝暦13年(1763)12月18日小姓組出仕


兄 :井沢平三郎正芳(ただよし 500俵)
    安永2年3月2日卒 28歳
弟 :   十三郎正長(まさなが)
   (遺跡) 19歳  


兄 :難波田善左衛門憲道(のりみち 280俵)
    安永2年閏3月11日卒 30歳
弟 :     喜久蔵:憲輝(のりてる)
   (跡目) 26歳
   安永6年(1777)5月18日御納戸


養父:設楽助蔵惟精(これきよ 300俵)
    安永2年閏3月29日卒 35歳
養子:(嶋村)信五郎能次(よしつぐ)
    (跡目)
    天明4年9月26日逐電 家たゆ


        ★     ★     ★

名前ばっかり並べて---とお思いの方には、お口直しに、アイデアあふれる↓こちらのブログを。

『創造と環境』 ←クリック

   

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2009.12.29

ちゅうすけのひとり言(44)

安永2年(1773)年に相続をゆるされたお目見以上の幕臣の調査リポートをつづけている。

おもいたったのは、徳川の正史ともいえる『徳川実紀』iには、氏名が1割もあかさられていないため、その選択はどんな基準によっていそうなのかも推測できればとおもったからである。

(この満5年間、自分の都合では1日として休まないで更新をつづけてきたが、年末年始はアクセス数が極端に落ちるので、いますぐ見なくても、将来、思いついたときに参考になさればいい---と腹をくくり、これまでアップしたつづきを1月4日までに入力する)

既アップ分

 [ちゅうすけのひとり言](41) 9月8日  跡目13人中10人
                   (平蔵宣以を含む)

 [ちゅうすけのひとり言](42
 2月11日  跡目 1 人 
 3月 7日  跡目12人中9人
 3月 16日  跡目 1人
閏3月 5日  跡目 9人中5人

 [ちゅうすけのひとり言](43
 4月 6日  跡目10人中7人 
 4月 8日  家督21人中15人


きょうからアップするのは、このつづき---

5月6日の『徳川実紀』---

美濃衆高木内膳貞往が子大炊貞歳。船手頭板橋左五兵衛盛祥が養子豊次郎盛隆。寄合田中左膳貞宜が養子七郎兵衛貞幹をはじめ。父の家つぐ者六人。

寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』からひろえたのは以下の5家だけである。

兄 :岡部熊三郎盛真(もりざね 1500石)
   安永2年2月26日卒 28歳
弟 :   千之助盛美(もりよし)
      (跡目) 15歳
   安永4年(1775)駿府城の守衛
 

父 :高木内膳貞往(さだゆき 1000石)
    安永2年3月11日 多羅郷で卒 72歳
子 :   大炊貞歳(さだとし)
    (跡目) 50歳
     

養父:板橋左五郎兵衛盛祥(もりよし 500石)
    安永2年3月23日卒 59歳
養子:(疋田)豊次郎盛種(もりたね)
    (跡目) 36歳
    安永3年2月25日小姓組


養父:田中左膳貞宣(さだのぶ 250俵)
    安永2年3月17日卒 62歳
養子:(山村)七郎兵衛貞幹(さだもと) 
    (跡目) 33歳


兄  :石川内馬法暁(のりあきら 200俵)
    安永2年3月5日卒
弟  :   弥市郎忠方(ただまさ)
    (跡目) 26歳
     安永3年8月18日大番

ここで疑問は、田中家である。
実紀』には「寄合」とあるから載せられたとおもうが、家禄はわずか250俵。
ほかにも、このように少禄の「寄合」の家があるのであろうか。


     

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2009.12.28

茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(4)

松造(まつぞう 22歳)を遣いにだすとき、太作(たさく 55歳)に道筋をよく訊いてゆくように言葉を足した。
太作には5年前、北本所の石原町(現・墨田区石原2丁目)の書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)の屋敷を訪ねさせたことがあった。

「齢のせいで、うろ覚えだども、三ッ目ノ橋をわたっての、法恩寺橋からの道を西へ4丁ばっかいくと、徳山(とくのやま)さまのお屋敷のある石原町へでる。その手前を右手にとってすぐのあたりで、ま一度訊くことだな」
太作は、齢とともに気がゆるむと郷里の上総弁が多くでるようになった。

参照】2008年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿] () 

主馬安卿の家の者の返事だと、明後日が宿直(とのい)明けだから、午後なら在宅しているとのことであった。
書物奉行は音物(いんもつ 贈り物)が少ない。
家の者としては、平蔵宣以(のぶため 28歳)の訪問は、大歓迎であった。

有徳院殿(吉宗)に従って二の丸入りし、その後、500石から600石前後の録高にすすみ、数年前に歿した仁のう。これはむずかしい。姓の一字とか、どのあたりに屋敷があったとか、ちょっとした手がかりはでもあればのう」
「それが、かけらほども---紀州藩での知行地に貴志村がふくまれていたやもしれないといった程度でして---」
長谷川主馬は、5年前よりも薄くなった髷(まげ)を傾け、
「うーむ、どのように探せばよいものか。10日か15日もお待ちいただくことになりますぞ」
「かまいませぬ。よろしゅうにお頼みもうします」

帰り道、平蔵は、
「おれは、なんのために、こんなことにかかずらわっておるのか」
つぶやいた。
が、かつて経験したこともないほど底の深そうな謎に挑戦する、若者特有の向こう見ずな勇気と、なぜともしれない不安にもひたっていた。

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2009.12.27

茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(3)

佐野与三郎政親(まさちか 42歳 1100石 西丸目付)と入れ違いの形で現れたのは久栄(ひさえ 21歳)の父・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 60歳 200俵 新番与頭)であった。

ついでながら、組頭は600石格であるから、家禄との差---足高(たしだか)は400石である。
久栄は、継妻のむすめで、三女。
先妻は2女を産んで歿した。
長女は、与惣兵衛親英の実家の黒田家の養女となっている。
次女は、病いの床にある---といっても臥せっているのではなく、いまの病名の鬱の状態が長くつづいているといったほうが正しい。

参照】2008年9月19日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) () (4) (5) (6) (7) (8)

一統が揃うまで、玄関脇の控えの間で待つことにしている父に、久栄が、
「父上。銕三郎(てつさぶろう)さまが菅沼さまのことをお訊きになりたがっておられます」

平蔵宣以(のぶため 28歳)から、婿としてのあいさつを受けおわると、
菅沼どののなにを---?」
ほかの客がいないほうがいいとおもったのであろう、さっそくに切りだした。
平蔵どのは、お父上・備中守宣雄 のぶお 享年55歳)どの後任として、目付から京都町奉行に大抜擢された山村信濃守良旺 たかあきら 45歳 500石)どのの母者(ははじゃ)が、日光ご奉行の菅沼主膳正虎常 とらつね 59歳 700石)どのの姉者(あねじゃ)ということはご存じでしたか?」
平蔵には初耳のことであった。

右府(うふ)方の出の山村家が、紀州方の菅沼家から嫁を迎えられたというのは---?」

茶寮〔貴志〕の女将・お里貴(りき 30がらみ)の亡夫が、紀州藩からの御家人であったといった夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)の言葉とともに、4年前に田沼意次 おきつぐ)邸でちらりとみたその顔が脳裡をかすめた。

摂津どのの産後、数年もせず、その女性(にょしょう)は歿され、山村家では継室を迎えられた。川窪:系武田六左衛門信常(のぶつね 1700石)どののご息女であった」
「お舅どの。山村家に遺恨はございませぬ。知りたいのは、菅沼主膳正さまのことで---」
「ま、もう一言。主膳正どののご継嗣・次郎九郎定昌(さだまさ 32歳)は、中奥の番士を休んでおられるが、その四女が山村信濃どのの養女として迎えられておりますのじゃ」
「縁がつづいておるということですな」

「で、菅沼主膳正どのご息女じゃが、上のお2人は幼くして病没、ご三女が先年、夏目家(300俵)へ嫁がれた」
「きょう、ともに跡目を相続した藤四郎信栄の室です」
与惣兵衛親英はふかくうなずき、
「たしか、久栄と似た齢ごろのご息女であったが---菅沼家のことがお知りになりたいというのは、まさか、そのご息女のことではありますまいな?」
「いえ、違うともいえますし、そうだともいえます---」
「といわれると---?」

「かすかに耳にしたのですが、紀州・菅沼家にご縁の方が、田沼家とつながっているとか---」
「それは初耳ですな」
「いえ。紀州藩士時代のことですが---」

参照】2008年3月4日~[田沼意次の父] () (
2009年3月20日[菅沼攝津守虎常] (

平蔵は、舅・与惣兵衛親英が話してくれた菅沼主膳正虎常についてのくさぐさを、
(おれが訊きたいのは、こまごました家庭事情ではないのだ)

4年前に四谷の戒行寺で会った菅沼攝津守虎常(55歳=当時)は、鷹揚なものこ゜しの裏に明察を秘していた。
50代なかばという年齢に似合わない澄んだ双眸(ひとみ)が、そのことを洩らしていた。

その仁が、日光奉行という遠国(おんごく)へ配された真意を訊きたかった。
三女・菸都(おと 20歳)が田沼意次の中屋敷にいたお里貴と知り合いなのは、なぜか。
そもそも、お里貴の素性は?

しかし、お里貴田沼邸にいたことは口外できないし、もどかしさを顔色にもだせない。

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2009.12.26

茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(2)

神保小路の角で東と西に別れるとき、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)が、
「では、10日後の18日の九ッ(正午)に〔貴志〕で---」
「承知した、昼餉(ひるげ)を---」
平蔵宣以(のぶため 28歳 400石)が手をふって、東へとった。

(きょう、相続したばかりなのに、なんだか、一人前の旗本の気分だ。家禄を継ぐということは、こういうことなのだな)
表猿楽町の通りを本所へ向かって歩をすすめながら、ひとりでに頬がゆるんでいた。

三ッ目の屋敷には、はやばやと佐野与八郎政親(まさちか 42歳 1100石 西丸目付)が祝いにきており、辰蔵(たつぞう 4歳)を膝にのせて久栄(ひさえ 21歳)と話していた。

参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親] () () (
2009年7月11日[佐野与八郎政親

「これは、佐野の兄上。宿直(とのい)と聞いておりましたので、お見えにはなるまいと、よそで野暮用をすませており、失礼いたしました」
「弟分の祝着ごとゆえな---」
「拙の跡目はそれとして、兄上のところの与次郎政敷(まさのぶ 18歳)どのの初お目見(めみえす)は、いかがでごとざいますか?」
「うむ。体調がな---」
「それはご心配なことで---」

久栄辰蔵を伴ってさがったので、
「兄上。じつは、遅くなりましたのは、一ッ橋の前、三番火除地角の茶寮〔貴志〕で昼餉を、ある仁と摂っていたからです。あの地に、あのような店が許されたのは---」
「そのことは、柳営では、禁句になっておる」
「禁句?」
「宿老さまたちのなされたことゆえ---」
「合点がまいりませぬが---」
「出仕すれば、わかる」

政親の口ぶりから、この話題をつづけてはならぬと察した平蔵は、お里貴(りき 30がらみ)のことも呑みこんだ。

与八郎がほどなく辞したので、久栄に、夏目藤四郎に嫁いだ菅沼家(700石)の三女・菸都(おと)のことを訊いてみた。
大橋の実家がご近所といいましても、あちらさまとでは家格がちがいましたゆえ、手習いごとでごいっしょしたことはありませぬが、それは美しい姫でございました。(てつ)さまなら、一目ご覧になっただけで---」
「馬鹿」
「は?」
「きょうよりは、銕三郎(てつさぶろう)なる者は、当家にはおらぬ」
〔殿さま、でした。でも、寝室(ねや)ではさまでないと、気分が高まりませぬ」
「ばーか---は、ははは」
「う、ふふふふ」
「親類衆がまもなくお見えになろう。着替えを」
「かしこまりました、お殿さま」

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2009.12.25

茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)

「明日からは、しばらくお礼j廻りですな」
夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)は、だれにともなくいい、厠(かわや)へ立った。
やや太りがかっているので、用足しが近いらしい。
案内しようとした女将・里貴(りき 30がらみ)に、いや、存じている---とでもいうように、掌をふって断った。

信栄の姿が消えたところで、平蔵(へいぞう 28歳)は里貴に盃をうながしてから、
里貴どのには、木挽町(こびきちょう)の中屋敷でお目にかかったようにおもえてならぬ」
「お人違いをなさっていらっしゃいます」
「うむ。ちらりと見ただけゆえ、間違うているやもしれぬ」
「お間違いになっていらっしゃいますとも---」
こんどは、里貴の眸(め)が、意味ありげに笑っていた。
長谷川さま。いまのこと、夏目さjまにも、ほかのどなたさまにもおっしゃらないとお約束ください」
「心得た」

木挽町の中屋敷とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 3万石 相良藩主)の屋敷のことである。
見かけたようにおもったのは、もちろん、この安永2年(1773)から、4年ほども前であった。
その中屋敷は、明和9年晩春の行人坂の火事で焼失し、いまはいささか小さく建てられている。
焼ける前は、部屋数も多かった。

里貴を見かけたのは、久栄(ひさえ 17歳=明和7年)との婚儀の祝いに贈られた源内焼の皿のお礼を述べに訪れたときであった。

廊下に指をついた召し使いが、目くばせをすると、意次が立っていって、耳を寄せた。
何度か訪問していて、初めて目にする珍しい光景であったので、どういう格の召使であろうかと、おんなの顔をうかがった。
25、6とおぼしい召し使いは、眉をおとしており、とっさに、三島宿で14歳だった銕三郎を男にしてくれたお芙沙(ふさ)をおもいだした。

参照】2009年3月6日[蝦夷への想い
2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

茶寮〔貴志〕から、一橋小川町通りを表神保小路へ向かいながら、
「三番火除け地の角に、よくもあのような茶寮が建てられたものだな」
平蔵の問いに、信栄は、
「なんでも、重職のお歴々が、あのあたりは武家屋敷ばかりで、喉をしめらせる仮の水屋(みずや)があってもいい、ということで、去年、できたようです」

平蔵は、里貴に似たおんなを田沼宿老の中屋敷で見たと洩らしそうになったが、
「で、夏目うじは、いつからの馴染みで---?」
「室の菸都(おと 20歳)が、女将と知己とかで---」
「さようでしたか。菅沼さまは、紀州の出だから、知行地にゆかりでもあったのでしょう」
平蔵は、わざとカマをかけておいた。

(紀州藩士から有徳院殿吉宗)にしたがって直臣になり、数年前に歿した600石の家ということであれば、調べようもある)
ただ、平蔵にも、なんのために調べるのか、わかっていなかった。

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2009.12.24

夏目藤四郎信栄(のぶひさ)(4)

夏目うじ。日光山と申せば、菅沼摂津守虎常 とらつね 59歳)さまが秋から春までの日光お奉行(2000石格)として任命なされて何年になりますか?」
菸都(おと 20歳)が嫁(か)してきた1年前---そう、 明和7年(1770)の師走でしたから、まる3年になりますか」

平蔵(へいぞう 28歳)は、菅沼攝津のさらりとした人ざわりを好ましくおもてっいた。
(あの方のむすめごであれば、気性もさわやかであろう)
銕三郎(てつさぶろう)のころの摂津守は、先手・弓の4番手の組頭で、火盗改メを拝命していた。
それで、筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 48歳=明和6年)にたのまれて〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう 先代)の探索にかかわったことがあった。

(あのころは、暇をもてあましておったからなあ)

「そういえばも菅沼攝津さまには、定昌(さだまさ 32歳)とかおっしゃった中奥の番士のご嫡子がおられたはずだが---菩提寺がいっしょで、そこでお目にかかったが、今夕の祝賀の宴でお会いになったら、よしなにお伝えおきを---」
「それが---」
声の大きい夏目藤四郎信栄(のぶひろ 22歳 300俵)がいいしぶった。
「どうかなされたかな?」
「体調不良で、そのような席はご遠慮なさっておられるのですよ」
「具合がよろしくない?」
「勤仕をお休みになるほどではないのですが、ご疲労がはげしいとか---」

「それはご心配なこと---」
「母方の体質を引き継いでおられるようなのですよ」
「母方の? 夏目うじの奥方は大丈夫なのか?」
「母ごが違うのです。次郎九郎定昌)さんの母ごは、戸田家からの方で、20年ほど前に亡じられたと聞いております。手前の室のは継室で、春日家からの方なのです」

女将・里貴(りき 30がらみ)が、あたらしい銚子とともに戻ってきた。
「もう、いただけない。今夕、祝宴があるのです。主人側なので、赤い顔をしてはでられない」
「では、私に注いでくださいませ」

「ところで、この屋の名の〔貴志〕のいわれを教えていただけますか」
酌をしながら、さりげなく訊いた。
「いわれなど、ございません。私が生まれた里の名です」
「どちらの?」
「紀州(紀伊国那賀郡(ながこおり)貴志村(現・和歌山県紀ノ川市貴志川町神戸)です」
「ほう」
「どうかしましたか?」
「いや。紀州生まれの女性(にょしょう)の肌は、京洛の女性のように、そのように透けているのかとおもいまして」
「また、お上手をおっしゃいます---うふ、ふふふ」
声は笑っているが眸(め)は澄んだままであった。

(そういえば東三河の野田・菅沼家は、頼宣侯付になり、紀州へ移り、有徳院殿さまについて二の丸入りされたと承知しているが---この里貴という女性(にょしょう)が、わざわざ、一橋の向いに茶屋をだしたのとかかわりがあるのであろうか?)


       ★     ★     ★

_週刊『池波正太郎の世界』3号が届いた。
ちょっぴり、お手伝いしたのは、この号に反映しています。
というのは、池波さんの3大・江戸もの連作『鬼平犯科帳』『:剣客商売』『仕掛人・藤沢梅安』を身近なものと読むには『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵を塗り絵してみるといい---と気がつき、見開きごとに2枠になっている絵をつないで合成、それを各文化センターの受講者有志に塗ってもらった。
編集部で、その絵を使いたいということだったので、クラスの有志の塗り絵をCD化して編集部に、「この中からご指定を---」と渡したのです。
2点が、この号に載っています。6ページの雉子の宮(佐藤清隆さん)の作品と、25ページの汐見坂(石橋裕子さん)のものです。
池波さんは、「1日に1度は『江戸名所図会』をひらく」とエッセイに書いています。池波ファンなら、真似してやってみては?

参照】[わたし彩(いろ)の江戸名所図会] () () () () () () (

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2009.12.23

夏目藤四郎信栄(のぶひさ)(3)

帳場から呼ばれ、女将・お里貴(りき 30がらみ)が、なごりおしそうに、色白の顔をくもらせながら部屋から去ると、平蔵宣以(のぶため 28歳 400石)が、ひらめの上身じめに箸をつけながら、
夏目どのの大祖に次郎左衛門吉信(よしのぶ 47歳=永禄7年)といわれるお方がおられましたな?」

吉信の名が平蔵の口から出たことで、藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)は満面に笑みをうかべ、
「三河一向衆に与(くみ)しまして、野羽(のば)にたてこもりましたが---」
持ち前の大声で話しはじめた。

ちゅうすけからのお願い】三河の野羽の所在がわかりません(幸田町野場がそうでしょうか)。なんという町になっているのか、ご存じの方からのご教示を俟ちます。

_120だらだらとまとまりが悪いので、宮城谷昌光さん『新三河物語 上巻』(新潮社 2008.8.30)をもって代えていただく。

すでに、家康に脊逆して野羽に立て籠もっていた夏目次郎左衛門吉信(よしのふ)は、深溝(ふこうず)松平の伊忠(これただ)に攻められて、降伏した。家康はこの降将を誅殺せず、しばらく伊忠に付属させたが、
---みどころがある。
と、おもい、自身の下においた。吉信は、家康の恩遇(おんぐう)を痛感し、法恩の機を待っていたが、元亀(げんき)三年に遠州の三方原(みかたがはら)において徳川軍が武田軍に惨敗したとき、浜松城を留守(りゅうしゅ)していたかれは、主君の危殆(きたい)を知って出撃し、敗走してきた家康を援護して討ち死にした。享年が五十五であった---。

参照】2008年8月4日[ちゅうすけのひとり言] (18

吉信には男子の遺児が5人(うち2人は父に先だって歿)いたが、伊豆・韮山城1万石を賜った本家・吉忠は、嗣がなく絶えた。

吉信の兄・信次(のぶつぐ)が興した家(733石)から分家したのが藤四郎信栄夏目家であった。

「大祖・吉信さまの家が絶えたということでは、家史のたぐいは---?」
「きょう、手前の貢献をしてくだされた、次郎左衛門信卿(のぶのり 54歳 733石 書院番士)伯父のところで蔵しているとおもいます。継ぎ名からもお察しのとおり、本家です。ところで、吉信の戦死のもようが、長谷川どのとなにかのかかわりが---?」

信栄の問いかけに、平蔵は、長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ 37歳)とその弟が三方ヶ原の合戦で討ち死したことはたしかなのだが、どの大将の旗の下にいて戦ったのか、はっきりしないので、もしかして、夏目家に記録の端っこにでも記されていればとおもったまで、と応えた。

参照】2008年11月30日[三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長]

「今夕の、牛込ご門内二合半坂下の拙宅での祝いの席に、とうぜくん、信卿伯父も参会しますから、早速に尋ねておきます」
「かたじけない」

信栄
は、訊きもしないのに、二合半坂の講釈を、それが癖の大きな声ではじめた。
坂の上から日光山が半分ほど望めるゆえの命名と。
「半分なのに二合半はおかしゅうござろう。日光山は富士山の半分、したがって、富士山なれば二合半ていいとのしゃれにもならないこじつけですな。は、ははは」
ひとりで悦にいっていた。

一説によると、日光山が半分---つまり、日光半がなまったのだと。


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2009.12.22

夏目藤四郎信栄(のぶひさ)(2)

退出の時、中の口から書院ご門までは、来たときと同様に、小普請同心がつき添った。

門をでると、後ろから、
長谷川どの」
声の大きさから、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)とわかった。
陽性の性格らしいので、嫌いなタイプではないし、納戸町の叔父・久三郎正脩(まさむろ 63歳 4070石 小普請・8の組支配)の組下にはいったとなれば、無碍(むげ)にもできない。

足をとめて待つ間もなく、すぐにならび、
「いかがでしょう。そのあたりでお茶でも---」
「そういう店がありますか? 拙は、住まいが川向こうなもので、このあたりは、とんと---」
「一橋ご門を出たところに、ちょっとした茶店があります」

夏目信栄は、先で待っている内膳正珍(まさよし 64歳 500石 小姓組)に頭をさげ、
長谷川さまの組下になりました、夏目藤四郎です。こちらは、本家すじの伯父・次郎左衛門です
ぬかりなく紹介した。

夏目次郎左衛門信卿(のぶのり 54歳 733石 書院番士)は、
「ときどき、柳営でおみかけはしておりますが---」
如才ないのに、内膳正珍のほうは、
「さようですな」
いたって無愛想である。
平蔵宣以(のぶため 28歳)に、
「一橋門だと、千駄ヶ谷とは反対方向になるので、ここで別れる。夕刻までには、参着するからな。ご免」
右に折れ、桜田ご門へ向かってしまった。

次郎左衛門信卿も、屋敷が本所・南割下水の二ッ目と三ッ目の橋のあいだなので、神田橋ご門からのほうが近いからと、別れた。

一橋をわたったところに小体(こてい)な茶屋があり、2人はあがって裃を脱ぎ、それぞれの供のものに持ち帰らせた。

運ばれてきた昼の膳には、銚子がのっていた。
「祝杯です」
夏目信栄が、手なれたふうにすすめる。
「いい店ですな」
平蔵がほめると、藤四郎は、すぐに女将(おかみ)を呼んだ。

あらわれてたのは、30歳前後とおもわれる、容姿がちょっとお(りゅう 享年33歳)に似ていた。
「お里貴(りき)でございます。本日は、おめでとうございます」
(ほう。藤四郎は、よく利用しているようだな。気をつけよう)

酌をした手が、貞尼のように透き通った白さであった。
そういえば、白粉をはたいていない首すじも、光が通りぬけているようだった。

「長谷川どのはご存じかとおもいますが、手前の室は、菅沼さまから帰嫁(きか)しております」
「それはそれは、お美しい奥方さまでございますよ」
里貴がもちあげた。

菅沼さまといわれたが、まさか、下谷御徒町にお屋敷のある---」
「その、まさかの、摂津守虎常(とらつね 59歳 700石)さまが、手前の舅どのです」

参照】2009年3月19日[菅沼摂津守虎常] () () () (


「奇遇です。拙の奥・久栄(ひさえ 21歳)の実家・大橋の家も菅沼さまのところに近いそうで---」
「奥から、長谷川どのの奥方のおうわさは伺っております」
「お転婆(てんば)で有名だったからでしょう?」

「私の前で、奥方さま方のお噂は、耳が痛うございます」
「あ、これは失礼。長谷川どの。このお里貴女将は、数年前まで、600石の直臣のご内室であられましてな」
「ほう。それで、どことなく、気品のある女御(にょご)とお見受けしていたところです」
「お上手ばっかり---」
「上手を申さねばならぬ義理はありませぬ」
「とりあえず、うれしゅうございます。おほ、ほほほ」
「あ、はははは」

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(夏目信栄の個人譜 『寛政譜』)

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2009.12.21

夏目藤四郎信栄(のぶひさ)

月番の奏者番が、一人ずつ名前を呼ぶ。
呼ばれた者は、控えていたご入側(畳敷きの廊下)から菊の間へ膝行ですすむ。
老中・板倉佐渡守(勝清 かつきよ 68歳 上野国安中藩主 2万石)が、肉がつきすぎてたるんだ頬をふるわせながら、
「だれそれの子ないがしに、父の跡目をつぐことをお許しになられた」
と奉書を読み上げる。

なるほど、先夕、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 27歳 600石 西丸書院番士)が警告しておいてくれたように、声が口内にこもって聞き取りにくい。

が、当人たちは平伏してうけたまわっているのだから、分明できようができまいがどうでもいい。
要するに、もったいぶっるための儀式なのである。
儀式は、複雑なにするほど権威が強まる。

と、はるかむこうから、将軍・家冶とおぼしい甲高い声で、
「はげめ」
さらに額を畳にすりつけ、荷車につぶされた蛙のようにへばりつく。

別の声が、
「なにがしに、本日ただいまより小普請入りを命ずる。支配はだそれであるゆえ、しっかりとはげむように---」

かしこまって退がるのも膝歩きである。

ここではじめて目線をあげると、はるか先の上段の席に将軍の姿が見える。
この日の13人全員が廊下へ戻ったころ、茶坊主があらわれ、相続者だけを焼火の間へみちびいた。

そこには、小普請支配の下で組頭を務めている12名が待っており、自分の組へいれられた相続者を引き取り、これからの義務について簡単に説明をし、おのおのが自分の屋敷のあり場所をつげ、
「月の10日と晦日が応対日だから、なにによらず相談にくるように---」

さすがに、
「手みやげを要しますか?」
訊き返した新参者はいなかった。

銕三郎(てつさぶろう)---いや、相続をゆるされた瞬間から、相続名・平蔵である。
宣雄から、伊兵衛でなく、平蔵が相続名となった。

したがって、安永2年9月8日の四ッ(御前10時)以後は平蔵と書かねばなるまい。

平蔵宣以は、予測どおり、長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の組に配られた。
与(くみ 組)頭は、顔見知りの朝比奈織部昌章(まさとし 54歳 500石)。
だから、
「お初にお目にかかります」
代わりに、
「お久しゅうございます」

隣の、長谷川久三郎正脩(まさひろ 64歳 4050石)の組の与頭にあいさつをしていた若者が、驚いたように平蔵を見た。

朝比奈組頭も、さらりと受けたあと、
「お父上は、これからというときに、さぞや、ご無念でありましたろう」

ところが、隣の若者をうけとった与頭も、
「お父上のこと、異郷でのご病歿、さぞかし、ご無念でしたな」
慰められた若者は、大きな地声で、
「現地の寺で香華(こうげ)いたしましたが、年忌に行くこともかなわず---」
それでいて、目をぬぐっていた。

朝比奈与頭が、そっちの若者に顔を向けた平蔵に、
「お引きあわせしよう。長崎ご奉行の嫡子の夏目藤四郎うじです」

菊の間で、平蔵の3,4番あとに呼ばれた若者と、覚えていた。
場所が場所だけに、お互いに頭を軽くさげただけのあいさつですませる。

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2009.12.20

ちゅうすけのひとり言(43)

これで3日つづきの、ちょっと見には、データの羅列としかおもえない記録(採集)で、ふつうの鬼平ファンには、無味乾燥な事実のつみかさねとしか思えないであろうことは、百も承知である。

史実に目を凝らす人なら、いろんなことを読みとるはず。
一例をあげると、致仕と家督に同日が多いのはなぜ? とか。
それにしても高齢致仕が多すぎるのは、やはり、人間、権力を離したくないからか、とか。
いや、戦争がなくなり、武士は体力よりも口説の徒になりつつあるのか、とか。

たとえば、銕三郎(てつさぶろう)が23歳の、明和5年(1768)の初見(おめみえ)は、年に2回しかなかったが、安永2年(1773)の相続は、16回も小きざみに行われているのは、幕臣にとって収入は重大事だから、長く待たせるわけにはいかなかった儀式であったと、納得できる。

そう、初見は、旗本としての資格を認可される通過儀礼の一種だが、相続にはじかに生活がかかっているのである。遅らせるわけにはいくまい。

というわけで、3日めの今回でとりあえず中断し、残りは、多くの人がアクセスするよりも年末年始の行事を優先させる12月27日から正月3が日までの1週間に、ひっそりとアップし、記録として残しておくことにしたい。


さて、安永2年4月6日の『徳川実紀』----。

けふ寄合岡部熊三郎盛真養子千之助盛美をはじめ。父死して。その子家をつぐもの十人。

寛政重修諸家譜』からひろう。

兄 :岡部熊三郎盛真(もりざね 1500石)
    安永2年2月26日卒 28歳
弟 :   千之助盛美(もりよし)
    (跡目) 15歳 
    安永4年(1775)駿府城守衛出仕


養父:市川勝兵衛忠盈(ただみつ 300俵)
    安永2月晦日卒 25歳
養子:(広戸)亀次郎忠延(ただのぶ)
    (跡目) 17歳


父 :武井源蔵忠良(ただよし 300俵)
    安永2年2月14日卒 44歳
子 :   源次郎義泰(よしやす)
   (跡目) 16歳
   

養父:吉田三弥苗孫(みつよし 250俵)
    安永2年正月17日卒 26歳
養子:(三宅)銕五郎正長(まさなが)
    (跡目) 24歳
     安永6年(1777)5月17日御納戸出仕 


父 :石原伊5右衛門政志(まつゆき 200石)
    安永2年2月晦日卒 56歳
子 :   半弥政能(まさよし)  
    (跡目) 23歳 
    

父 :飯島八郎右衛門国武(くにたけ 200俵)
    安永2年2月晦日卒 56歳
子 :   次平国方(くにかた)
    (跡目) 17歳
    天明2年(1782)8月126日西丸小十人組出仕


養父:大久保次5右衛門忠暁(ただあき 60俵2人扶持)
    安永2年2月20日卒 39歳
養子:(岩下)銕五郎勝忠(かつただ)
    (跡目) 19歳
    寛政9年(1797)6月17日表火番


4月8日の『実紀』---。

高家前田出羽守房長が子式部清長。寄合土屋丹後守応直が子富三郎業直。多賀大和守高但が子左近高当。佐野兵庫頭徳行が養子三蔵義行、堀甚五兵衛信明が子書院番帯刀知秀はじめ。父致仕して。其子家をつぐもの廿一人。

寛政譜』で16人がみつかった。

養父:佐野兵庫頭徳行(とくゆき 3500石)
    安永2年4月20日致仕
養子:(植村)三弥義行(よしゆき)
    (家督) 17歳
    天明元年(1780)小納戸出仕 


父 :土屋丹後守応直(まさなお 3000石)
    安永2年4月8日致仕
子 :   富三郎業直(かきなお)
    (家督) 22歳
    天明元年(1780)11月28日中奥の小姓出仕


父 :多賀大和守高但(たかただ 2000石)
    安永2年4月8日致仕 54歳
子 :   左近高当(たかまさ)
    (家督) 26歳
    安永3年6月7日書院番出仕


父 :前田出羽守房長(ふさなが 1400石)
    安永2年4月8日致仕 65歳 
子 :   式部清長(きよなが)
    (家督) 40歳 
    安永5年(1776)高家となる

父 :堀 甚五兵衛信明(のぶあき 72歳 1000石)
    安永2年4月8日致仕
子 :  帯刀知秀(ともあき)
    (家督) 36歳
    宝暦12年(1762)9月28日より書院番士


養父:曾我権之丞彭助(ちかすけ 800石)
    安永2年4月8日致仕 44歳
養子:(森) 幸之助助義(すけよし)
    (家督) 23歳
    安永2年6月7日書院番出仕


父 :本多弥五右衛門安秀(やすひで 600石)
    安永2年4月8日致仕 52歳
子 :   金次安積(やすつむ)
    (家督) 22歳 
    安永3年(1774)9月5西丸小姓組 出仕


父 :小河甚左衛門益親(ますちか 500石)
    安永2年4月8日致仕 45歳
子 :   栄之助益利(ますのり)
    (家督) 27歳
    寛政2年(1790)12月8日書院番出仕


養父:筧 源左衛門保寿(やすとし 450俵)
    安永2年4月8日致仕 66歳
養子:(岡野)幸次郎保規(やすのり)
    (家督) 36歳
    安永2年12月大晦日大番出仕


父 :大道道孫十郎直正(なおまさ 300石)
    安永2年4月8日致仕 55歳
子 :   小膳直道(なおみち)
    (家督) 31歳


父 :鈴木久四郎茂信邦(のぶくに 300石)
    安永2年4月8日致仕 46歳
子 :   主水政積(まさつむ)
    (家督) 17歳
    天明4年(1784)9月5日大番出仕


父 :町田伊左衛門恒光(つねみつ 200俵)
    安永2年4月8日致仕 58歳
子 :   金次郎重嶠(しげたか)
    (家督) 20歳
    安永3年(1774)6月18日小十人組


父 :加藤清吉郎景信(かげのぶ 200俵)
    安永2年4月8日致仕 52歳
子 :   富三郎景昇(かげたか)
    (家督) 27歳
    天明2年(1782)9月4日大番出仕


父 :平野甚右衛門幸友(たかとも 150俵)
    安永2年4月8日致仕 53歳
子 :   為之助幸祥(たかよし)
    (家督) 28歳
    天明2年(1782)9月4日大番出仕


父 :川原清兵衛正知(まさとも 150俵)
    安永2年4月8日致仕 57歳
子 :   九助正長(まさたけ)
    (家督) 25歳
    天明3年(1782)9月19日小十人出仕


父 :石川佐十郎総恒(ふさつね 100俵2人扶持)
    安永2年4月8日致仕 74歳
子 :   大三郎総武(ふさたけ)
    (家督) 26歳

一家ごとに、致仕の年齢やつづいての没年、養子の場合はその前後の事情を類推していると、よくできた短篇時代小説を読んでいるような気分になってくる。

ちゅうすけからのお願い】このつづきは、12月27日~1月4日にアップしておきままから、こ゜興味のある方は、年があけてから、アクセスしてくださいますよう。


         


     

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2009.12.19

ちゅうすけのひとり言(42)

きのうのつづき。

どうせ、史料とするなら、時日を要しても、安永2年(1773)だけでもきちんとリスト化しておきたい。

まず、安永2年は、2月11日の『徳川実紀』からはじまる。

家をつぐ御家人一人。

と、まことにそっけない。家名すら無視。
しかし、超スピードで処理。どこかで細工をしているのでは?、

兄 :青木巳之助義芳(よしふさ 400石)
    安2年2月8日卒 27歳
伯父:   主税利盈(としみつ)
(跡目) 31歳 
    天明2年(1782)5月14日小姓組出仕


3月7日の『徳川実紀』---

火消役板倉主税勝延が子甚太郎勝宦をはじめ。父死して。家をつくもの十二人。

寛政譜』で抽出できたのは、9人。

父 :板倉主税勝延(かつのぶ 8000石)
    安永元年12月21日卒 37歳
子 :   主税助勝宦(かつひろ)
    (跡目) 6歳


養父:小田切十兵衛昌興(まさおき 700俵)
    安永元年12月24日二条城で卒
養子:(三宅)千次郎昌応(まさたか)
    (跡目) 18歳


養父:渡辺伝六郎盛(さかる)
    安永元年12月24日卒 40歳
養子:(金田)鎌五郎信(のぶる)
    (跡目) 17歳
    安永9年(1780)5月11日西丸書院番


兄 :本間孫十郎李致(すえむね 300俵)
    安永元年12月25日卒 37歳
弟 :   舎人李珍(すえよし)
    (跡目) 25歳
    安永3年(1774)6月7日書院番出仕


養父:遠山権八良直(よしなお 300俵)
    安永元年12月16日卒 38歳 
養子:(水野)次郎吉良緩(よしとを)
    (跡目) 20歳
    天明3年(1783)8月12日大番出仕


父 ::小幡小兵衛正豊(まさとよ 280石)
    安永元年12月22日卒 83歳
子 :  主膳正孝(まさたか)
   (跡目) 43歳
   安永2年12月20日大番


父 :大草左兵衛忠政(ただまさ 245石5俵)
    安永元年12月25日卒 30歳
子 :   栄之丞忠孝(ただたか)
    (跡目) 7歳


父 ::西山八兵衛昌長(まさなが 125石80俵)
    安永元年12月25日卒 66歳
子 :    靭負昌寿(まさなが)
   (跡目) 22歳 


父 :岩堀権右衛門房利(ふさとし 90俵5人扶持)
    安永元年12月28日卒 58歳
子 :   市太郎良翰(よしもと)
    (跡目) 22歳
    世継ぎ前に勘定

 
ご覧のとおり、1000以上がひとりきりでは判断の資とはいいがたい。

『実紀』k3月16日の項---。

家をつぐ御家人一人。またも家名なしなので、『寛政譜』でみつけた。

甥 :河野弥市郎通員(みちかず 230石)
   安永2年3月12日卒 28歳
叔父:  吉次郎通亮(みちあきら)
    (跡目) 19歳
   

閏3月5日の『実紀』---。

寄合藤枝千次郎貞雄が養子安十郎教行をはじめ。父死して。家をつぐ御家人9人。

寛政譜』でひろえたのは、藤枝家をふくめて5人。


養父:藤枝千次郎貞雄(さだお 4000石)
    安永2年正月11日卒 24歳
養子:(徳山)安十郎教行(のりゆき) 
    (跡目) 16歳
   天明5年(1785)遊女ょを殺して自殺下ので家禄を収められる。


養父:岩瀬左京忠英(ただふさ 800石)
    安永2年正月20日卒 39歳
養子:(小栗)平之丞忠福(ただよし)
    (跡目) 16歳 
    天明8年(1788)5月9日書院番出仕   


兄 :中山三郎兵衛巣勝親(かつちか 400石)
    安永2年正月22日卒 34歳
弟 :   橘三郎勝将(かつまさ)
    (跡目) 28歳
   天明2年(1782)2月4日大番  


祖父:東(とう)宗雲貞胤(さだたね 300俵)
    安永2年正月12日卒 78歳
孫 :   宗庵邦喜(くによし)
    (跡目) 28歳
    天明7年(1787)9月29日番医


養父:丸山昌貞ス英真(ふさざね 200俵)
    安永2年正月22日卒 50歳
養子:(曾谷)昌倫英積(ふさつむ) 
    (跡目) 25歳
    安永4年(1775)6月3日番医 


       ☆     ☆     ☆


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2週間ほど前に、朝日新聞出版部から『週刊 池波正太郎の世界』第1号を贈っていただいたことしるしました。
先週の土曜、江東区の古石場文化センターで、区内解説員養成講座で『時代小説と江東区』と題するレクチャーをしたたとき、来年は池波さん没後20年だから、区の池波関連スポットへの来訪者も多くなろうと、『第1号』を推薦しておいた。
すでに購入していたメンバーも少なくなかったのだが。

一昨日、第2号『剣客商売一』をいただいた。
ブログの『剣客商売』は、迷惑コメントのために開店休業状態なので、こちらで紹介します。
12月27日号とあるから、発売は24日の木曜日か、その前の17日かな。

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2009.12.18

ちゅうすけのひとり言(41)

この12月3日の[銕三郎の跡目相続まで]()に、安永2年(1773)中に跡式を相続をゆるされた家205という総数と、月日、跡目と家督の別をあげた。
再掲示すると、

2月11日(跡目)  1人
3月7日(跡目) 12人
3月16日(跡目)  2人
閏3月5日(跡目) 9人
4月6日(跡目) 10人
4月8日(家督) 21人
5月6日(家督)  6人
6月6日(跡目)  7人
7月5日(跡目)  9人
8月6日(跡目) 17人
8月22日(家督)  9人   、
9月8日(跡目) 13人
10月7日(跡目) 16人
11月5日(跡目) 15人
11月29日(家督)21人
12月6日(跡目) 10人
12月27日(跡目)26人

*太字は、銕三郎が召出されたグループ。

徳川実紀』は、その9月8日を以下のように書き留めている。

京町奉行は長谷川備中守宣雄が子平蔵宣以。先手頭永井内膳尚尹が子主水尚喜。使番安部助九郎信方が子信尹をはじめ。父の家をつぐもの十三人。

長谷川家が筆頭に書かれているのは、備中守宣雄の下賜称号のゆえと推察する。

名があげられていない10人を、『寛政重修諸家譜』5200余家を総点検して、やっと7人、みつけた。
禄高順にならべると---


養父:嶋田虎之助利広(としひろ 1800石)
    安永2年6月5日卒 21歳
養子::(松平)吉十郎氏馬(うじうま)
    (跡目) 19歳
    天明2年(1782)5月14日小姓組出仕


父 :安部助九郎信方(のぶかた 1000石)
    安永2年6月9i日卒 69歳
子 :    主税信尹(のぶただ)
    (跡目) 35歳
    安永3年(1774)2月25日書院番出仕


父 :永井内膳尚尹(なおただ 500石)
    安永2年6月30日卒 76歳
子 :   主水尚喜(なおよし)
   (跡目) 46歳
    天明6年(1786)3月16日西丸御膳奉行出仕  


父 :長谷川備中守宣雄(のぶお 400石)
    安永2年6月22日京で卒 55歳
子 :   平蔵宣以(のぶため)
   (跡目) 28歳
    安永3年(1774)4月13日西丸書院番出仕 


父 :松倉外記高則(たかのり 300石)
    安永2年6月8日卒 46歳
子 :   彦五郎高住(たかすみ)
    (跡目) 22歳
    安永8年(1779)10月22日書院番出仕


父 :夏目藤四郎信政(のぶまさ 300俵)
    安永2年6月12日長崎で卒 62歳
子 :   虎之助信栄(のぶひさ)
   (跡目) ?歳
    安永3年(1774)2月25日小姓組出仕


父 :山田源三郎直永(なおなが 200俵)
    安永2年6月8日卒 43歳
子 :  甚之丞尚陽(なおはる)
   (跡目) 17歳
   安永5年(1776)4月10日大番出仕


兄 :山本大蔵長卿(ながあきら 200俵)
    安永2年7月9日卒 25歳(無役)
弟 :   直吉長孝(ながたか)  
    (跡目) 17歳


兄 :中村藤次郎敬基(よしもと 200俵)
    安永2年6月29日卒 31歳
弟 :   藤三郎徳基(のりもと)
    (跡目) 24歳
    無役


祖父:笠原養泉述満((のぶみつ 100俵月10口)
    安永2年6月21日卒 77歳
子     岩之丞武嘉(たけよし)
    (跡目) 27歳
    寛政6年(1794)小石河川養生所見習


これで、『徳川実紀』に抜粋される家格が推測できるだろうか。
家禄1000石以上というと、嶋田家が落ちているのが解せない。
永井家の記載から、父親が使番(布衣)以上という線も仮定できないでもなさそうである。

ま、学問的な発表では、もちろん、ないのだし、長谷川平蔵かかわりであるていどのことがわかればよしとしたいが、それではあまりに無責任すぎよう。

明日、もうすこし、サンブルをアップすることにしたい。
これだけのデータをそろえるのに、--週間と眼精疲労からきた頭痛を要した。

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2009.12.17

跡目相続、申し渡しのご奉書(2)

宇都宮藩への橋渡しは、老中・田沼主殿頭意次(とのものかみ 55歳 3万石 相良藩主)の用人・三浦庄司(しょうじ)に頼んだ。

火盗改メ・赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)の例繰方・白石恭太郎(きょうたろう 30歳)同心が調べてくれた引継ぎ用件書留め帳には、〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち)なる盗賊の手配書きは載っていないとの報告を、使いに行った松造(まつぞう 22歳)が持ち帰っていたからであった。

参照】2009年12月11日[赤井越前守忠晶] (

江戸で盗(つとめ)をしていないなら、在方を襲っているであろう、乙畑村(現・栃木県矢板市乙畑)からでて、絹糸や絹織物でうるおっている町や村で仕事をしているにちがいない、近いのは宇都宮城下とふんだ。

「何をお知りになりたいのかな?」
「喜連川(きづれがわ)藩内生まれの〔乙畑〕の源八(げんはち)と申す盗賊が、深溝(ふこうず)・松平さまのご領内で盗みをはたらいているかどうかをお聞きしたいのです」
「あいかわらず、捕り物がかわりですな。よほどにお好きとみえる」

笑いながらも、宇都宮藩の在府用人・羽太(はぶと)喜太夫(きだゆう)につなぎをつけてくれた。

羽太用人のいい分では、
(さほどの件で、わざわざ、上屋敷(数寄屋橋内)へお越しいただくには及ぶまい。書状でお申し越しいただけば、当役の者にいいつけ、お返事する)
とのこと。

早速に、書状をしたためた。

宇都宮城下、および下野(しもつけ)国内の塩谷、河内郡、出羽(でわ)国村山郡、陸奥(むつ)国信夫(しのぶ)郡、常陸(ひたち)国多賀郡の領内で、この3、4年のうちに、〔乙畑〕の源八なる盗人一味とおもわれる、やや、多額の盗難届け出があったら、お教えいただきたい、その首領について、いささか懸念の儀があるので、火盗改メ・赤井越前さま組の次席与力・脇屋清吉どのと連名でお伺いする。なお、ご公儀領内でその賊の所業があったばあいには、貴藩へお報せするに、やぶさかではない---といった趣旨のもので、直臣としての威も、ちらつかせないではなかった。

届けた桑島友之助(とものすけ 40歳)の口頭によると、相手の応対は丁重で、誠意が認められたとのことであった。
これは、もう、待つしかない。

しかし、そのうちにも、おまさ(17歳)が盗みの毒に冒かされてゆくような気がして、いらだちはかなりあった。
気づいた久栄(ひさえ 21歳)がからかうような口調で、
(てつ)さまは、おまささんのこととなると、まるで妹あつかいですからね」
久栄にとっても、手習いの愛弟子(まなでし)であろうが---」
「はいはい。そのとおりでございます。私も心配で、心配で---」
舌をちょろりと出して肩をすくめた。
おまさが演じたしぐさでもあった。

参照】〔〔高畑(たかばたけ)〕の勘助〕 (

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2009.12.16

跡目相続、申し渡しのご奉書

「かねて願いでていた跡目相続の申し渡しをするから、9月8日、四ッ(午前10時)に、菊の間へ、後見者ともども出頭のこと」

ご奉書が20日前に届けられた。
後見者には、本家から3代前に300石を分与されて分家した当主・内膳正珍(まさよし 64歳 のち200石加恩があり500石)を頼んだ。
正珍は、享保20年(1735)から38年間、黙々として小姓組番士として出仕をしている、おとなしい人柄の仁である。

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
「当日の1刻(2時間)j前の五ッ(午前8時)にお迎えにあがります」
「うむ」
うなずいただけで、意見らしいことは口にしなかった。

正珍の屋敷は千駄ヶ谷の硝煙蔵跡だから、南本所三ッ目の銕三郎のところからは、ほぼ1里半(6km)はたっぷりあり、それから江戸城までさらに小1里(4km)も歩く。

「それは大儀であろうから、一番町裏新道のご本家で落ちあってまいろう」
とでもいってくれるかとかんがえていた銕三郎は、なんとも気がきかないとがっかりしたが、顔色にはださなかった。

事情を久栄(ひさえ 21歳)から訴えられた本家・太郎兵衛正直(まさなお 65歳 1470石 先手・弓の7番手組頭)が介入してくれ、一番町で待ちあわせすることにはなったが。

20日のあいだに銕三郎がしたことは2つであった。

まず、5年前の明和5年12月5日に家治(いえはる)に初目見(おめみえ)した仲間の浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石 小普請組)と長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600歳)を、例のごとく飯田町中坂下角の料亭〔美濃屋〕に呼びだした。

参照】2009年6月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (
2009年3月11日[明和2年(1765)の銕三郎] (
 
〔美濃屋〕では、主人・源右衛門の弔辞をうけ、帰りぎわには線香の包みをわたされたが、そのことよりも、銕三郎の用件は、5年前の12月5日の初目見よりも1ヶ月早く遺跡相続を許され、その2年後に西丸の書院番士として出仕している長野孝祖に、相続申しわたしの式次第を訊くことであった。

あらかじめに様態をしっておいて臨めば、不安にかられて粗相をしなくてすむ。
亡父・宣雄の教えであもあった。

長野孝祖が先輩然として語ったことをかいつまんで書くと、当人と後見者は、さだめられた時刻の前にご書院ご門の前に出頭する。
時刻になると、普請方同心が中の口へ導く。
そこから本丸内のご入側(廊下)をえんえんと歩き、小さいほうの中庭に面した菊の間のご入側に控える。

ちゅうすけ注】ご入側(廊下)には、もちろん、畳か敷きつめられている。

「控えているあいだは、後継者同士とも、後見者とも口をきいてはならぬ。ただ、宣告を待つ者同様に、座って、月番老中のお出ましを待つのだ。銕三郎は、とかく口数が多いから、とくにこのことをわきまえておくように。もっとも、菊の間まで、城内のあれこれの部屋の前を、初めてえんえんと歩くのだから、足はふるえ気味だし、喉はからからで、銕三郎といえども、口をきく勇気はあるまい」
「挑戦させる気か?」
「悚然(しょうぜん びくび)とするなって忠告だ」

廊下からいって菊の間左手---南側には、12名の小普請支配がならんでいる。

「月番ご老中は、板倉佐渡(守 勝清 かつきよ 68歳 上野国安中藩主 2万石)さまであったな。
あの方は、口跡がはっきりしなくなってきておるゆえ、聞き逃すでないぞ」
孝祖の注意は、仲間のことをおもんぱかってのことであった。

(3歩退(ひ)け。1歩出よ)
銕三郎は、あらために自分にいいきかせ、孝祖の盃を満たしてやった。

浅野長貞がめずらしく、こぼした。
「こっちは、家督して5年になるというのに、まだ、お召しがない。待つというのが、こんなに辛いものとはおもわなかった」
「あせるな、大学(家督前の長貞の幼名)。いちど出仕すると、もう、あとには引けないのだぞ。いまのうちに嫡子づくりにはげめ」

余談ながら、浅野家が嗣子をえたのは、この夕べから2年のちのことであった。
室は、諏訪七右衛門頼容(よりなり 51歳=当年 西丸小姓組 1500石)の長女(21歳=同前)で、3年前に嫁してきていた。

銕三郎がやったその2は、下野国・宇都宮藩への縁つなぎであった。

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2009.12.15

銕三郎の追憶

2_130松造(まつぞう)。しばらく、黙っていてくれ。考えごとがある」
長田(おさだ)家から借りた、家紋・枝柏入り提灯を、銕三郎(てつさぶろう 28歳)の足元にさしかけている松造(22歳)にいいつけた。(丸の内二枝柏)

神田川の北岸ぞいに、浅草橋門にむかっている。
神田川には、三日月の影をさざ波でゆらして行き来する舟が、たまに行きかっていた。
浅草橋までたどりつけば、船宿が数軒あるから、舟で帰ってもいいとおもっている。

長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)と交わした会話の中の一片に、銕三郎はこだわっているのだ。

「で、禁裏付をまる16年も---?」
「なじむと、京の水もおいしゅうござる。あ、長谷川うじは、なじむまもなく---?」
「いえ。いささかは---」
「ほう。お若いということは、なににもまして、甘いものに聡(さと)うござるな。それがしの禁裏付の発令は、人生も晩秋の51歳がおりで、しかも、妻同伴の身ゆえ、そちらのほうの楽しみは厳しい冬の晩ばかりでの---ふ、ふふふ」
「とても、まともにはお受けいたしかねますが---」

(「いささかは---」と応えたとき、おれはだれをおもい描いていたろうか?)
〔千歳(せんざい) 〕のお(とよ 24歳=当時)のことではないはずである。
女ざかりであったおは、幼いときに尾張・鳴海の宿で捨てられたといっていた。
京おんなではない。

【参照】2009年7月27日~[〔千載(せんざい)〕のお豊] () () (10) (11

盗賊の一味とわかり、捕り方がふみこんだときには、穴道づたいに逃げおおしていた。
いまは、どこでどうしているか。
かなうことなら、捕まらないでほしいような気がする。

すると、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)であろうか。
青みがかってみえる透けるような肌が、興奮が高まると淡い桜色に変わり、下腹からもやってくる濃い香り---たしかに京のおなごのものといえた。

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))]() () () () () () (7

C_170貞尼(さだあま)は、仏門にはいる前は若妻であった。
亡夫は、貧乏牢人だったといっていた。
めずらしく美貌をおんなの宝にしないところが、いさぎよかった。

(そういえば、お(りょう 享年33歳も、そうだった)

は、後家になると、その美貌に魅せられていた男たちが待っていたようにいい寄ってくるので、さっさと尼になって身を隠したつもりが、こんどは僧たちに口説かれた。
銕三郎には、融(と)けたように躰を許した。
求められなかったからかもしれない。
銕三郎が、金銭に恬淡としていたこともある。
婚ずる前に母親と住んでいた2軒長屋で抱きあうときには、仏法の戒律を破っている罪深さにおののくことで、おなんなとしての喜悦を高めていた。
それが、僧たちの嫉妬心に火をつけた。

参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10

ただ、貞尼は口にはださなかったが、20歳ですでに2児をもうけている久栄(ひさえ)をうらやんでいる気配があった。
還俗したら、銕三郎の子を産むつもりだったのかもしれない。
いじらしいとおもうとともに、かなえてやりたい気持ちもあった。
父・宣雄が逝き、家禄を継げる資格をできたいまなら、その子を長谷川の庶子として届けることもできた。

たが、長田越中守に、「いささかは---」と応えたときに心中にあったおなごは、京生まれの貞尼ではなかったようにおもう。

そう、お(りょう)であったような---。
奇妙である。
は、京へいそいでいる途中に湖中に消えた。
銕三郎は、京ではおを抱いていない。
しかし、夢の中では、結ばれあっていた。
京の三条白川橋西入ルの旅籠〔津国屋〕で見た夢には、会ったことのないおの母親・飛佐(ひさ)まで登場した。

参照】2009年7月25日[千載(せんざい)のお豊] (

を意識したのは、芝の牛小屋の牛の角に火のついた松明をくくりつけて放ち、捕り方のをほかへそらした盗(つと)めぶりと、その沖あいに小舟をうかべ、灯りでつなぎ(伝信)を送った者に目星をつけたことによる。

参照】2008年9月3日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] () () (

それで、おが生まれ育った甲斐国八代郡中畑村まで探索にでかけた。
その旅のとっかかりで久栄に出会ったのもなにかの縁というものであろうが、そのことはおいて---。

深い結びつきができたのは、おの知恵をもとめてであった。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (

その後は、、深慮遠謀をわかちあいながらの躰の結びつの深まりであった。
これは、それまで銕三郎が体験したことのない男女の交合の深みといえた。

2008年11月25日[屋根舟
2009年1月1日[明和6年(1769)の銕三郎] () () (
2009年1月24日[掛川城下で] (
2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛] () (

「殿。浅草橋ご門です。舟を頼みますか?」
松造のことばに、銕三郎はわれに返った。
「そうしよう」

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2009.12.14

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)(3)

「それがしは、齢で、もはや酒をうけつけぬ躰となりましてな。息・元著(もとあきら 政之丞 36歳 小姓組番士)にお相手させますこと、お許しを---」
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石 小普請9の組支配)が断ったのには、かえって銕三郎(てつさぶろう 28歳)が恐縮してしまった。
政之丞元著は、父に似て長身痩身だが立ち居は、小姓組番士として練られてい、折り目正しく、しかも柔らかかった。

「遠慮もかないませず、ずうずうしく、ご馳走にあいなります」
「お相伴、あいつとめます」
ものなれた手つきで盃をとらせ、注ぐ。
(なるほど、桜田の館(六代・家宣)ご新規召しかかえの長田家のご栄達は、このそつのなさだな)

受けた銕三郎が、訊く。
「どなたさまの組にお勤めでございましょう?」
「西丸の中坊讃岐守秀亨 ひでみち 57歳 4000石)さまの組に---」

「1の組でございましょうか?」
「さようですが、なにか?」
中坊秀亨が駿府の町奉行をしていたときに、〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう 55歳)一味の盗(つと)めを吟味したことがあると言おうとおもったが、自慢話にとられてもつまらないとおもいなおして、やめた。
中坊讃岐守は、あれから持筒頭を経て、小姓組番頭(3000石高)になっていた。

参照】2009年1月12日[銕三郎、三たび駿府へ] (

替わりに、
柴田日向守康闊 やすひろ 2000石)さまが小普請お支配のころに、父がそのお組に入っておりました」
柴田さまなら、てまえが本丸から西丸お小姓組へ移ったのと同日に本丸4のお組頭から組替えで転じてこられ、その組下iなりました」
半分居眠りらしていたような元鋪がことばを挟んだ。
「奇縁じゃの」

参照】2008年6月28日[平蔵宣雄の後ろ楯] (

同日づけで柴田日向守と政之丞元著が西丸へ移ったことが奇縁なのか、宣雄日向守支配の組にいたことがあったことを指しているのか、銕三郎は判じかねたが、うなずいておいた。
(父上は、目立たないようにしていたらしい)
「西丸の書院番組に、初見(はつおめみえ)仲間の、長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)がおります」
「ここ、本郷元町に屋敷をお持ちの長野うじなら、3の組です」
「そのように、申しておりました」

参照】2009年6月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

また、元鋪が口をはさんだ。
「地下官人(じげかんじん)の中でも、高屋遠江はすこぶるつきの悪(わる)じゃ」

参照】2009年9月22日[御所役人に働きかける女スパイ] (
2009年9月23日[ 『幕末の宮廷』因幡薬師 ]

元著が苦笑まじりに躰を銕三郎のほうへかたむけ、
「どこも悪くはないのですが、耳が遠くなりましてな」
「上つ方のほうで、余人をもっては替えられぬとお考えなのでしょう」
{忘れられているのですよ」
「まさか」
「聞こえておるぞ、悪口は---」
元著が肩をすくめた。

銕三郎の勘ぐりは、
(余計な暗示を与えたかな---)


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2009.12.13

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)(2)

「公家(くげ)方がお放しにならなかったのでございましょう」

銕三郎(てつさぶろう 28歳)のお世辞ともとられかねない言葉に、なんと、小普請・9の組支配・長田元鋪(もとのぶ 74歳 980石)は、老顔を莞爾とほころばせ、
「父(三右衛門元隣 もとちか 50歳=享保12年当時)が京都東町奉行として赴任したときは、それがしは28歳でしたがの、有徳院殿吉宗)さまの小姓組から小納戸に転じており、随行をお許しいただけませなんだ」

父の越中守の授称とともに、三右衛門を継承していた元鋪の、抜群の強矢(すねや)のためであったらしい。
狩を好んでいた吉宗にしたがっての猟場で、猪や鹿を射止める実績がかさなっていたために、吉宗が手放さなかったのである。

「しかし、父が在職5年が歳月のあいだに、それとなく結んでおいてくだされた公家衆との縁(えにし)が、20年後に禁裏付として着任いたすと、父・越中の嫡子ということで、たちまちに、よみがえりましての。京の歳月の進みは、江府の5倍も10倍もゆるやかですな」

「で、禁裏付をまる16年も---?」
「なじむと、京の水もおいしゅうござる。あ、長谷川うじは、なじむまもなく---?」
「いえ。いささかは---」
「ほう。お若いということは、なににもまして、甘いものに聡(さと)うござるな。それがしの禁裏付の発令は、人生の晩秋の51歳がおりで、しかも、妻同伴の身ゆえ、そちらのほうの楽しみは厳しい冬の晩ばかりでの---ふ、ふふふ」
「とても、まともにはお受けいたしかねますが---」
「それはさておき---」
とつぜん、越中守元鋪が口ごもった。

が、気分ほ変えたような口調で、
「お訪ねになった向きは、京の水の甘い、辛いの話ではござりますまい。本題は?」
「禁裏に働く、地下(じげ)の官人(かんじん)衆の印象を、お聞かせいただきたく---」
「なにゆえの、お尋ねかな?」

銕三郎は、お(かつ 32歳)という女化粧(けわい)指南師と、おのれの小遣いかせぎのために、お披露目(ひろめ 広告)入りの〔化粧読みうり〕を板行したが、禁裏の地下官人の女房やむすめたちが客としてこなかったので、そのものたちを惹(ひ)きつける企ての足しにと、お教えを乞うている、と告げた。

越中守元鋪はさすがである、銕三郎の眸(め)の奥までとどくような鋭さで瞶(みつめ)たが、すぐに光りをゆるめ、
「その化粧指南師は、どの商舗の?」

参照】2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師お勝] () () () () () () () () (

堺町四条上ルの〔延吉屋半兵衛〕という白粉卸だと答えると、
「その店、たしか、禁裏御用の指定をうけているはずじゃが---?」
つぶやくように言い、すぐに察しをつけたか、
「長谷川うじ、まもなく夕餉(ゆうげ)の刻(こく)です。粗餐なれど、ご伴餐くださるまいか?」
「よろこんで---」

        ★     ★     ★


_180旧知の重金敦之さんから新著『小説仕掛人 池波正太郎』(朝日新聞 2009.12.30)が送られてきた。
ご念がいったことに、「謹呈」の献辞しおりとは別に、ハガキ大のごあいさつが挟まれていた。


「ご無沙汰しておりますが、お変わりございませんか。
早くも来年は池波正太郎没後二十年となります。
朝日ビジュアルシリーズで、「週刊 池波正太郎の世界」の刊行も始まりました。
小生も書き下ろしの「池波正太郎は捕手型作家だった」を中心に、『仕事人・池波正太郎』を上梓することができました。今まであまり知られていなかった一面を描出できたのではないかと、自負しております。
ご笑覧願えれば幸いでございます。
これからは、寒さもますます厳しくなのます。風邪には充分ご注意ください。
 十二月十日                                    署名


重金さんは、『週刊朝日』の編集者として、『食卓の情景』の連載を依頼、食通---というより、独特の酒食のエッセイを池波さんに書かせた人であり、9年にもおよぶ大河小説『真田太平記』の執筆によりそった編集者として名高い。
「保守型作家」という着目は、野村克也監督のことばを牽きながら、読み手をして肯首させずにはおかない発見であり、卓見である。
書店にならぶのは、いつだろうか? 池波ファンは、店頭で手にとり、第一章 池波さんは「捕手型作家」だった だけでも立ち読みし、挿架を決心なさることをおすすめしておく。

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2009.12.12

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)

長田(おさだ)越中どのが8月19日の逢対日の八ッ半であれば、お待ちしている---とのお返事がいただけたということでございました」
納戸町の親戚・長谷川久三郎正脩(まさひろ 61歳 4070石 小普請8の組支配)のところの小者が伝えてきた、

長田越中(守)とは、先日、叔父・久三郎正脩に引き合わせを頼んでおいた、小普請9の組支配・長田元鋪(もとのぶ 74歳 980石)である。
4年前から、9の組の支配をつとめている。

役があてがわれていず、出仕していないお目見(めみえ)以上、3000石以下の旗本を束ねているのが小普請支配である。
員数は時代によって増減があったが、この時期は12名。
役高は3000石---したがって、980石の長田元鋪には、2020石の足高(たしだか)が支給されている。もっとも、役高2000石の普請奉行からの栄転だら、足高だけでいうと、1000石(1000両相当)の増収ともいえる。

ついでにいうと、仲にたった長谷川忠脩が家禄し4070石なので役高の3000石を超えており、足高なしの持高(もちだか)勤めである。

指定された日の八ッ半よりすこし早めに、本郷水道橋の建部(たけべ)坂上近くの東側の長田邸を訪問した。

_360
(青○::建部坂上の長田越中守の屋敷)

余談だが、建部坂の坂名の由来は、坂下に旗本・建部邸(1400石 現・文京区元町公園)があったからである。
別名、春日坂とも呼ばれていた所以(ゆえん)は、幕臣宅が建つj以前、あたりは春日の藪だったからと。

ちゅうすけ注】ちゅうすけの住まいに近いので、さんぽコースの一つにしている、女子進学高校として高名な桜蔭校の裏手の道ぞいに下る坂である。

供の松造(まつぞう 22歳)が訪(おとな)いを乞うと、ちゃんと通じていたらしく、すぐさま、逢対の部屋とはちがう、書院へ通された。

待つほどもなく、痩身の越前守元鋪が、逢対のままであろう、きちんと袴をつけてあらわれた。
「お疲れのところ、申しわけございませぬ」
恐縮の体(てい)の銕三郎(てつさぶろう 28歳)に、
「お楽になされよ。8の組頭どのからは、ご用の筋はうけたまわってはおらぬが、京洛からお戻りになったばかりとか---」
気軽に話しかけてきた。

京都で、父・宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀を、千本出水の華香寺で執りおこなったとき、住職からこちらさまもあの寺をお使いになったと聞いたときりだすと、
「家族同伴で赴任したのじゃが、むすめが歿しましてな。わが家の菩提寺は、谷中・東寺町の法華宗・正運寺なのじゃが、葬儀はとりあえず華光寺であげたのござる」

ちゅうすけ注】正運寺の所在は、史書によっては三崎町と記しているものもあるが、場所は同じである。しかし、その後いずこかへ移転したらしく、現在は台東区内にはない。

禁裏付は、いろいろな理由から、妻子同伴の赴任がしきたりになっていた。
長田元鋪夫妻は、3人のむすめをえたが、2人は上洛前に病没しており、同伴した末のむすめも京でみまかった。

「拙のところの旦那寺は、四谷・須賀町の戒行寺で、同じく法華宗でございます」
寺の話から、気ごころが通じてしまった。

「で、長谷川うじ、ご用件は?」
「よしなきことで時をついやし、失礼つかまつりました。越中さまは、何年ほど、禁裏付をお勤めでございましたか?」
「そう---まる16年---異例の長きにわたり申した」
「摂家(せっけ)公家(くげ)衆がお放しにならなかったのでございましょう」


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2009.12.11

赤井越前守忠晶(ただあきら)(2)

内庭への通用口まで出て待っていた次席与力・脇屋清吉(きよよし 45歳)が、控えの間に招じ、
「いつでしたか、目白台へお越しの節は、お城の勤務についておりまして、お目にかかれませんでした」
「4年前になります。その節は、(たち)(伊織(いおり 52歳=当時)筆頭与力さまに、いこう、お世話になりました」

参照】2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助](

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、目白台の組屋敷でうけた好意のかずかずをおもいだした。
あの日は、よく晴れて日陽ざしがまぶしく、目白坂を登るのに、武家屋敷の塀から差し出た枝がつくる日陰をえらんで歩いたことまでよみがえった。

「で、ご用の向きは---?」
「こちらに、〔乙畑おつはた)〕の源八(げんぱち)と申す盗人一味の書留めがあれば、拝見させてただきたいとおもいまして---」
「4年前にお手伝いした元・例繰り方同心の息・白石恭太郎(きょうたろう 31歳)と申す者が、統(の)べております。明朝、出てまいったら、早速に調べさせますが、お届けはいづこへ?」

「昼までに、松造(まつぞう 22歳)と申す若党をさしむけますゆえ、その者にお持たせいただければありがたく---」

脇屋与力は、身の丈が5尺8寸(175cm)はあり、当時としては大柄といえる体型で、顔の造作も大振りであったが、声がやさしかった。

「〔乙畑〕の〔呼び名(通り名ともいう)〕をもっているところからみると、下野(しもつけ 栃木県)の生まれのようですな」
脇屋次席与力にいわれて、銕三郎は、途端におもいだした。

脇屋次席さまは、もしやして、上野(こうずけ)・新田郡(にったこおり)脇屋村(現・群馬県太田市脇屋町)のご出身では---?」
「よくおわかりで。遠祖が由良成繁)氏に従っていたようですが、北条方に攻められたとき(天正12年 1584)に牢人をしたのを、その後、あのあたりを知行された榊原康政公のお引きで、こちらにご奉公しました。それにしましても、脇屋が村名だと、よく、お気づきになりましたな?」

銕三郎は、京都からの帰りには、中山道を選び、高崎城下で宿泊した旅籠が〔脇屋〕であったので、亭主に店名の由来を訊くと脇屋村の赤城社の近くの出と聞かされことを、明かした。

脇屋の姓の出自にふれたことで、次席与力は一挙にうち解けた。
人は、自分のことに関心をもってくれた者にこころをひらきやすい。

安永2年(1773)正月11日に、小十人頭から組頭として着任した赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)が、すぐさま火盗改メを命じられたので、前任の安部兵部信盈(のぶみつ 50歳 2000石 先手・鉄砲の8番手組頭)組から引きついだが、安部組もほんの9ヶ月ばかり任に就いていただけのことなので、さしたる実績はあげていなかったようである。

弓の2番手の赤井組の面々としても、ほんの2ヶ月前に16年ぶりに火盗改メを命じられたので、致仕・引退している古老から若い者が知恵をまなんでいるところである。

とはいえ、3代j前の組頭・小笠原兵庫信用(のぶもち 53歳=当時)が火盗改メの役に就いた宝暦6年(1756)から9ヶ月のあいだに与力だった者が3名、同心だったのが11名、さいわいにものこっているので、組下のほうは、まずまず、とどこおりはない。

「手前は、菅沼攝津守虎常 59i歳 現・小普請支配 700石)さまが火盗改メをなさっていた、先手・弓の4番手の筆頭与力の村越増五郎 ますごろう 52歳)どのと懇意にしておりまして、長谷川さまの盗賊召し取りのお手柄のほどはずいぶんとうかがっております。わが組のためにもお力をお貸しいただきますよう、組頭どのに申してみようと考えております」

参照】2009年3月19日~[菅沼摂津守虎常] () () () (

「かたじけないお言葉ですが、近々に、跡目のお許しが下りると、両番の家柄でありますゆえ、小姓組か書院番のどちらかへ出仕となり、暇がとれなくなりましょう。それまでの小普請入りのあいだであれば、いつにてもご用命ください」

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2009.12.10

赤井越前守忠晶(ただあきら)

「伯父上。先手・弓の2番手のお頭・赤井越前さまをお引きあわせいただけませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石)の下城を待ちかまえて頼んだ。
正直の屋敷は、前々から一番町裏丁通りに800坪ほどを拝領している。

360
(長谷川本家・太郎兵衛正直邸 1番町裏丁通り)

太郎兵衛正直は、もう10年間も先手・弓の7番手の組頭をつづけてきた---といっても、このまま終わる気はしていない。
その間に、火盗改メを2度勤めた。

いまの火盗改メの本役は、赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)であった。
先手・弓の2番手のお頭に、この安永2年(1773)の正月に小十人組頭から出頭し、同年7月9日からは火盗改メを役(えき)している。

「父が健在でありますれば、かようなことで、いちいち伯父上をわずらわすことはないのですが---」
「それはそうだな。宣雄(のぶお 享年55歳)どのの帰館のときに一言頼めば、翌日には手はずがかなっていたろう。(てつ)は人使いが荒いと、宣雄どのはこぼしておられたぞ」
「ご冗談を---。しかし、親に頼みごとをするのも孝行のうちでございますれば---」
「孝行したいときには親はなし---であろうが」
「まったく---」

正直は、用人の磯辺(いそべ 48歳)を呼び、裏六番町の赤井邸ヘ伺いに行かせた。
赤井越前の屋敷は、善国寺坂通り---このあいだまで日本テレビ通りと呼ばれていた、その日本テレビの社屋のあたりにあった。
同じ番町内の長谷川本家からは、小半刻(こはんとき 30分)もかからない。

「宿直(とのい)の次席与力・脇屋(清吉 きよよし 45歳)どのがお会いくださるそうでございます」
磯辺用人が戻ってきて告げた。

ちゅうすけ注】先手・弓の2番手の次席与力は天野甚造ではなかったのか? とおもうファンも多かろうが、あれは小説での登場人物。史実では脇屋与力である。
そういえば2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助]()に登場した筆頭与力・(たち)伊蔵(いぞう)も史実の人物である。

銕三郎は、供の松造(まつぞう 22歳)をせかし、暮れなずむ御厩谷を西へ横切り 赤井邸に至った。

火盗改メが組頭の自邸を役宅にすることは、いまではファンのあいだでも常識であろう。

赤井越前守忠晶の屋敷は、1000坪近くあるので、仮牢や白洲を敷地の一画にしつらえるのもさして苦でなかったことは、2000石の本多采女紀品(のりただ 60歳=安永2年 2000石 表六番町)のところでも記した。2008年2月16日~[本多采女紀品]() () () (

松造が門番に、訪門者の名と脇屋次席与力に訪(おとな)いが告げてある旨を伝えた。
門番は、供が一人きりなのを見て軽々しくあつかい、のそのそと与力部屋へ向かったが、あたふたと戻ってき、丁重に銕三郎を案内した。

脇屋与力は、筆頭から4年前に銕三郎のことを耳にしてい、門番を叱ったらしい。

ちゅうすけ注】ついでだから補記しておくと、2年後、赤井越前守が着任した先手・弓の2番手の組頭に、長谷川太郎兵衛正直が組替えで転じ、その縁で、さらに12年後に銕三郎(そのときは平蔵宣以)が組頭として就いた。
もちろん、そのときには筆頭も脇屋次席も隠居しており、その息子たちが役をこなしていたのだが。

もう一つ加えると、赤井越前守は、翌安永3年(1774)3月には、病没した京都東町奉行・酒井丹波守中忠高(ただたか 享年63歳 1000石)の後任として転出している。

参照】2009年11月22日[京都町奉行・備中守宣雄の死](

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2009.12.09

〔名草(なぐさ)〕の嘉平

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、先刻から、その茶店を観察している。
茶店は、千駄ヶ谷村の日蓮宗の名刹・法雲山千寿院門前にあり、農家を改造した風雅な構えをしていた。


294
(新日ぐらしの里といわれた千寿院 〔『江戸名所図会』)

銕三郎がいるのは、納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 61歳 4070石 小普請支配)の先祖が家光から賜っていた別荘地(2万3000坪)の千寿院側の片隅である。
塀はまわされておらず、矢来の柵が道路とへだてているにすぎない。
だから、茶店の表が見わたせた。

ちゅうすけ注】この別荘地は、のちの切絵図では出羽・山形藩の抱え地となっているが、銕三郎のころは、長谷川家の拝領地であった。

銕三郎は、通行人があると、樹木の具合を確かめているふりをし、怪しまれないような所作をくりかえしたが、いずれにしても2本差しの若侍には似合わない。

あきらめて、.留守番の番人に声をかけてから、供の松造(まつぞう 22歳)を番人小屋に待たせ、独りで茶店に向かった。
なんとなく、松造の顔を伏せておきたかったのである。

「あら。長谷川の若さまではございませんか」
声をかけてきたのは、赤い前掛けをつけて、給仕女をよそおっているお(こん 34歳)であった。

参照】2008年4月30日~[〔鶴(たずがね)〕の忠助] () () () () () (
2008年8月27日~[〔物井(ものい)のお紺] () () 

「やあ、おさん。足利ではなかったのかね?」
「お白っぱくれになっては、嫌。おまささんを探しにいらっしゃったんでしょ?」
「見破られたか、はっははは」
「ほ、ほほほ」

奥から、〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへえ 56,7か)も姿を見せた。
_100_2「〔名草〕の爺(と)っつぁん。正直に答えてくれ。おまさを足利へやったのか?」
「いいえ。〔法楽寺ほうらくじ)〕のお頭のところにはいません」
「もし、〔法楽寺〕の直右衛門(なおえもん 50歳前)が、おまさに手をつけていたら、ただちに火盗改メを足利へむかわすからな」
「ご安心なさって。うちのお頭は、そこまでご不自由はなさってはおりやせん」
「言ったな。で、おまさはどこだ」
(清長 おまさのイメージ)

「訊いてどうなさろうってんです?」
おまさは、うちの奥方の手習い子だ」
「そんな古い話を---都はいかがでごさんした?」
「誤魔化すな」
「誤魔化してなんぞ、おりやせん。その、火盗改メとやらに、〔乙畑おつばた)〕の源八って盗人のことをお訊きになってごらんなせえ」
「〔乙畑〕の源八だな」

_100「へえ。嘘も隠しもいたしやせん。ところで、長谷川の若さま。〔狐火きつねび)〕のお頭はおかわりございやせんか?」
「なぜ、拙に訊く?」
「あれ、〔中畑(なかばたけ)のおりょう)どんは、〔蓑火みのひ)〕のお頭から〔狐火〕のお頭にゆずられたんじゃ、なかったんではやせんかい?」

(この盗賊たち、どこまで通じているのか?)
(歌麿 お竜のイメージ)

【参照】2009年8月1日~[お竜の葬儀] () () (

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2009.12.08

熨斗目(のしめ)・麻裃

「7代の殿がお召しになったものだけど---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が屋敷へ帰ると、母・(たえ 48歳)が久栄(ひさえ 21歳)を相手に、書院に熨斗目(のしめ)をひろげていた、

_130老竹(おいたけ)色と呼ばれている、灰みの沈んだ緑地の脊と袖の下部の1尺(30cm)幅ほどのあいだに、白い中太の横縞が6本も染めのこされている小袖である。

「季節からいうと、この色味でかまわないとおもうのですが---」
7代の殿とは、備中守宣雄(のぶお 没年55歳)のことである。
京都西町奉行として就任中に病死した。

Photo
 (老竹(おいたけ)色 『日本の伝統色』より)

「母上。7代さまの跡目相続は何月だったのでございますか?」
久栄が訊いた。
「寛延元年(1744)の4月初め(旧暦)でした」
「30年近くも前---」
「いいえ、6代(宣尹 のぶただ)さまが跡目をお継ぎになった儀式のとき(17歳=当時)---享保16年(1731)におつくりになったものと伺っております。私はまだ長谷川の赤坂の家に入っておらず、上総の寺崎の実家で6歳でした」

「父上は、伯父上のおさがりでよろしいといわれたのですか?」
銕三郎は、いかにも倹約家の父らしい---とおもいながら訊いた。
「6代さまの跡目相続の季節も、ちょうど、4月だったのだそうです」

久栄は、初夏だというのに、渋い老竹色を選んだところが、長谷川の家風にふさわしいと感心した。
なにごとにも見えをはらないが、遣うべきところには惜しげもなく注(つ)ぎこむ。
老中や若年寄、奥祐筆の頭や小普請支配、その与頭などへの音物(いんもつ)や、親戚・先輩同僚の冠婚葬祭の義理がそれである。
嫁として3年間任えて、久栄も心得てきている。

「それでは、(てつ)、相続当日の熨斗目はこれでよろしいのですね?」
「上等です」

「納戸町の叔父上は、お召しのご奉書はいつごろと仰せでしたか?」
「8月の22日に当主の致仕による家督組が召されているから、拙は、翌9月の6,7日前後とおもっておけば間違いあるまいと---」
「あと、20日もありませぬな」
「招待の礼札ですか?」
「当然でしょう? お前さまが家督するのですよ。お旗本の仲間入りがかなうのです。お招きするご同輩の方々にも、いまからそれとなく打診をしておきなさい」
「うけたまわりました」

(父上のお仕込みがよすぎる。武家出の婦人よりも武家の奥方らしい)
しかも、母・のこころづかいには無駄がない。

銕三郎は、朋友のだれかれを胸算用した。

まず、浅野大学長貞(ながさだ 26歳 500石 未出仕)
それと、長野佐左衛門孝祖(たかのり 27歳 600石 西丸書院番士)
はずせない。
両人とも、銕三郎の初お目見(めみえ)仲間である。
が、あの儀式ときは、400俵以上の家格の者だけでも36人いた。

参照】2009年5月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

100俵前後の家の者までふくめると、150名を超える大人数であったから、同期の付きあいはおのずから限られてきている。

ちゅうすけ注】銕三郎が跡目相続をした安永2年(1773)iに相続を許された総数は204名と、12月3日[銕三郎の跡目相続まで] ()で数えた。
銕三郎が初お目見した明和5年には、お目見は2度しかなく、12月に棚卸しのように150人前後が一気に片付けられた形になっても、いたしかたなかったろう。
お目見の年間の数と、相続の数が、平均すればほぼ等しくなるのが道理なのである。

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2009.12.07

納戸町の老叔母・於紀乃(4)

(てつ)どのは、いまどきの若者じゃゆえ、、現金(げんぎん)とは存じていたが、京へ旅立つときに餞別をねだりにきてから、今日までそれきりとは、あまりにも現金すぎないかの」

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
〔納戸町の老叔母〕
と、そのふところをあてにしてきた、4070石の長谷川家の老後家・於紀乃(きの 74歳)は、1年前よりさらに縮み、歯も下の左右に1本ずつを鬼婆の牙のようにのこしたきりなので声が抜け、意味がたどりにくい。

「叔母上。お達者なのが、なにより重畳。しかし、お言葉ではありますが、大権現(家康)さまも、ご当家の初代・讃岐さまに、いまどきの若者は現金じゃ---とのたまったそうですぞ」
久三郎どの。まことかの? 紀乃は、亡き殿_(正誠 まさざね 享年69歳=10年前)からは、さようなことは聞いておりませぬぞ」
の口まかせですよ」
「さもあろう。正妻の紀乃におもらしにならないことを、(てつ)ごとき道化におっしゃるはずはないわの。は、ははは」
男のように笑う齢になっているらしい。

久三郎正脩(まさひろ 63歳 小普請支配)は、隠居の養母の相手はしておれぬとばかりに、
「夕餉は半刻(はんとき 1時間)あとだから---」
早々に立ち去った。

それを見すました於紀乃は、、
「のう、どの。あの、甲斐の軒猿(のきざる 忍びの者)のむすめごは、その後、どうなったかの」
「あ、中畑(なかばたけ)村のお(りょう)でございますか?」

参照】2008年9月7日[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 


「さよう、さよう。おと申したかの---いやな、この齢になると、食い物も歯ごたえがなくなっての、本も目がきかなくなってすぐに疲れるし、男衆はちやほやしてくれないし---つまるところは、面白い話をきくだけが楽しみになってしもうてな」
「そういえば、こ本家すじの八木丹波守補道(みつもち 60歳 4000石)さまは、まだ、甲府勤番支配のままで?」
「まる3年も山流しというのに、お上はお忘れになっているのかもな---さ、それより、軒猿のことよ」

銕三郎は、おの死をどう告げたものか、おもい迷った末に、真実を話さないことに決めた。
親類に話が洩れることより、真実をあらためて自分にいいきかせることがつらかった。

とっさに、〔千歳(せんざい)〕のお豊(とよ 25歳)とすり替えことにした。
齢を33歳にした。
御所へ毎朝、つくりたての粽を奉供している〔道喜〕の財産を、おの一味が狙ってさぐりをいれているらしいことを、銕三郎が察知したふうに話した。

紀乃には、禁裏が理解できなかった。
それでつい、政権をご公儀に依頼なさっているお方だと解説し、おが、

 をみなへし 佐紀(さき)沢のへ辺(へ)の 真葛ヶ原 
        いつかも繰りて 我が衣(ころも)がに着む

などという和歌を〔道喜〕の10代目当主に贈って気を惹いたりしているというと、
「どういう意味の和歌かの?」
「あなたの樹皮を剥いて、糸につくり、織って、自分の身にまといたい、という恋の和歌です」
どのは、京で和歌も修行なさったか。えらいな。しかし、甲斐の軒猿にしては学があるの」
「御所出入の粽司をたぶらかすためには、学も身につけます」
「それで---?」

京都町奉行所の配下の者が、お---ではなかった、お竜の茶店に打ちこんだものの、抜け穴からまんまと逃げられたというと、お紀乃は不謹慎に、歯のない口を大きくあけ、
「は、ははは」
笑い転げた。

そして、訊いた。
「その、〔道喜}とやらの粽はおいしいのかな?」
(食い気もなくなったといったくせに---)

その笑い方から、本所ニッ目通り、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の女主人・お(くま)を連想してしまった、
(そういえば、おどのもそろそろ、50歳のはず---)

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2009.12.06

小普請支配(3)

「その長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)どのですが、正脩(まさひろ 63歳)叔父ごのすぐ上の姉上がお嫁(とつ)ぎになった長田家とは?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、元服のあとあたりだったか、長谷川一族の系譜について、父・宣雄から聞かされたことがあった。

寛政譜』に記されている元祖は、三方ヶ原で家康の馬前で討ち死した、紀伊守(きのかみ 享年37歳)正長である。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻3[あとがきにかえて]で、長篠の戦争---とあるのは誤記。

三方ヶ原の戦いの4年前、駿河・今川方の田中城(現・藤沢市)を守っていた紀伊守正長には4子がいた。
永禄11年(1568)、武田信玄軍の猛攻にあった正長は、一族郎党と城をで、浜松の徳川の麾下へ入った。
息子3人も従い、乳児だった男子は、駿府の東北の瀬名へ隠れ、長谷川家の本拠・小川(こがわ)の「川」と田中城の「中」をとって中川を姓として残った。

参照】2008年10月4日[ちゅうすけのひとり言] (25

浜松へ移った3児は、それぞれ、
藤九郎正成(まさなり 1750石)、
伊兵衛宣次(のぶつぐ 400石)、
久三郎正吉(まさよし 4070石)
として徳川の家臣にとりたてられた。

銕三郎宣以(のぶため)の家は次男の系統であり、正脩は3男の系統である。

もっとも、3男の家は、3代目・正相(まさすけ)の次々弟・久太夫正栄(まさよし)が稟米500俵を分与されて分家を立てた。

正脩は、じつはこの分家の
2代目の3男で、本家の養子に入った仁である。
正脩のすぐの姉もおなじく養女として育てられ、長田十右衛門守乾(もりなり 650石)に嫁(か)した。
長田家の本家(700石)は、知多の大浜を領したころ以来の世良田松平から改姓)広忠に与(くみ)していた家柄である。

正脩の姉は、嫁ぎ先で実子を産むことなく病死、継妻が入ったこと、13年前に守乾か64歳で歿し、継嗣が養子であったことなどで、
「交際は耐えていた」
「その大浜の長田一族と、小普請支配の長田越中守どとのかかわりは?」
平氏・良兼流ということでは、遠い祖先でのつながりはあったろうが、いまでは別流のようなものであろう。いやに、長田どのにこだわるな。出世の早馬といったのが気にいったか?」
「おからかいになってはなりませぬ。銕三郎をさような軽い男をおおもいでございましか?」
「ざれがすぎた。許せ」

銕三郎は、しばらく記憶をあらためていたが、
「もしかして、越中守どのは、京で禁裏付をなさっていたお方では?」

参照】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (

「御普請奉行から小普請支配におなりになったが、その前は、たしか都にお勤めであったような---」

1_360
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「お訪ねして、お伺いしてみたいことがあります。お引きあわせください」
「妙な頼みごとをするのではあるまいな?」
銕三郎をお見そこなわないでください」
「分かった、数日のうちに手配しよう。用が片付いたら、夕餉(ゆうげ)前に、養母(はは)がちょっと顔を見せてたもれ---とおっしゃっていたが」
「ご機嫌をうかがいましょう」


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2009.12.05

小普請支配(2)

「おととい、城中で朝比奈織部昌章 まさとし 54歳 500石)うじに話しかけられての---」
小普請支配を勤めている長谷川久三郎正脩(まさひろ 63 4070石)の、納戸町のひろい内庭に面した書院である。
「ほう」

参照】2008年6月29日[平蔵宣雄の後ろ楯] (14

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、40代の昌章しか知らない。
父にいいつかった季節の届け物を持参すると、在宅しているときには着流しで応対にあらわれ、父・宣雄(のぶお)の出世に、おしむことなく賀辞をつらねてくれた。
自分が、名流・朝比奈一族の末であることなど、意に介していないふうであった。
あとで父にそのことを告げると、織部どのは土屋家(2500石)からの養子だが、そういうことをまったく気になさっていないところができぶつなのだと教えられた。

「それで、朝比奈さまは、いまだに与頭(くみがしら)をお勤めなのですか?」
「なにをいうか。与頭の大練達で、すべての組の与頭が頼りにしておる。なにせ、もう、25年近くも与頭---という仁なのじゃ」
「それは、それは---」
「その朝比奈うじがな、平蔵どののご嫡子・銕三郎どのが跡目を継いで小普請入りなされるようだが---と、奥歯になにかはさまったような風情でな。あれは、奥祐筆に手をまわして、朝比奈うじの組---長田(おさだ)越中守)組へ入れるつもりのように見たがの」

「長田越中守さまと申しますと---」
「さきほど、手控え帳の名簿を見たであろうが」

9の組
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)
明和6年(1769)1月28日 70歳 普請奉行ヨリ
安永4年(1775)7月2日 76歳 辞

「最長老の---」
「不満か? そうではないぞ。小普請組中から役にふさわしい士を推薦するときに、もっとも発言力が強いのが長老で、しかも与頭が、同列の中での生き字引とあがめられておる朝比奈うじときておる。(てつ)どのは出世の早馬に乗っも同然じゃぞ」
「そういう仕組みでございますか」
備中(宣雄 のぶお 享年55歳)どのの出世が早かったのも、ご本人の実力もさることながら、朝比奈うじ、それに当時の柴田ご支配の引きたてが大きくものをいっておる---」

参照】2008年6月26日[平蔵宣雄の後ろ楯] (12

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(昌章・個人譜)


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2009.12.04

小普請支配

「こういうことも、書き記しておくと、ときには意外に役に立つ。これからは、書きものの時代じゃて」
長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石 小普請支配)は、別の手控え帳をもちだしてきた。

(たしかに、心覚えを書き留めておくことが、有能とみなされる時代なのかもしれないな。じつは、新しい着想が貴重とされなければなにも変わらないのだが---)
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、あえて沈黙を守り、帳面をのぞきこんだ。

小普請支配は、役務についていない3000石以下の幕臣を統括・通達・小普請金の集金を行う。
もちろん、3000石から5000石級の大身旗本が任じられるから、本人たちがその実務を行うわけではない。
実務は、各組に1名ずつつけられている組頭や世話役が担当している。

支配は、毎月の6日、19日、24日に逢対日に組下の訪問を受け、就きたい役職の希望や特技、家庭の事情など面問しておく。

銕三郎も、遺跡を継いだら、その日から役務を任命されるまで、小普請入りすることになっている。
ひょっとして、叔父の長谷川久三郎正脩の組に入れたら重宝だなとおもわないでもないが、幕府がそういう安易を許さないとは覚悟していた。

12組の支配のリストを掲げる(内の年齢=安永2年)

1の組
有馬采女則雄(のりお 62歳 3000石)
宝暦12年(1762)6月1日 51歳 新番ヨリ
安永3年(1774)10月24日 63歳 仙洞付

2の組
久世平九郎広民(ひろたみ 42歳 3500石)
明和9年(1772)7月12日 41歳 使番ヨリ
安永3年(1774)2月8日 43歳 浦賀奉行

3の組
渡辺図書貞綱(さだつな 57歳 3100石)
明和8(1771)11月1日 55歳 使番ヨリ
安永4年4月12日 59歳 甲府勤番支配  

4の組
奥田美濃守高甫(たかよし 42歳 3300石)
明和5年(1768)12月7日 39歳 新番組ヨリ
安永8年(1779)8月5日卒 48歳

5の組
牧野伝蔵成如(なりゆき 48歳 3000石)
明和9年(1771)10月26日 47歳 新番組頭ヨリ
安永5年(1776)11月29日卒 52歳

6の組
市橋大膳長能(ながよし 70歳 2500石)
宝暦12年(1762) 12月7日 59歳 使番ヨリ
安永3年(1774)9月24日 71歳 西丸留守居

7の組
岡野外記知暁(ともさと 54歳 3000石)
明和8年(1770)11月1日 50歳 使番ヨリ
安永5年(1776)10月15日 57歳 小姓組番頭

8の組
長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石)
明和8年(1771)9月28日 61歳 新番組頭ヨリ
安永3年(1774)4月21日 64歳 辞

9の組
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)
明和6年(1769)1月28日 70歳 普請奉行ヨリ
安永4年(1775)7月2日 76歳 辞

10の組
堀 三六郎直昌(なおまさ 55歳 2000石)
明和元年(1764)7月10日 46歳 使番ヨリ
安永3年(1774)10月24日 56歳 仙洞付

11の組
神尾若狭守春由(はるよし 54歳 1500石)
明和3年(1766)4月23日 47歳 日光奉行ヨリ 
安永7年(1778)12月1日 59歳 西丸留守居

12の組
青山喜太郎忠義(ただよし 51歳 3000石)
明和8年(1770)6月15日 49歳 使番ヨリ
安永4年(1775)2月4日 54歳 断家

もちろん、正脩の手控え帳には、安永2年(1773)の7月までしか記されていず、退任・転任の記録は、ちゅうすけが別の史料から補った。

ちゅうすけの手控えファイルである。
『寛政譜』をコピーして一覧性を高めるためにA3に貼りなおし、二つ折りにしてA4サイズにそろえ、さらに半分を折り返ししている。
メモなどを貼りとめ、データを補強してもいる。

_360
(ちゅうすけ作:安永2年在職の小普請支配12家の『寛政譜』綴り
色変わりの見出しラベルが9の組の長田家。引きだしたのは青山家)

名簿に目を通し終えた銕三郎に、
(てつ)どのは、いまは亡き備中守宣雄 享年55歳)が初めて小普請入りしたときのことを聞いておるかの?」
「幼少でございましたから、その後、なにかのおりに、柴田七左衛門康闊(やすひろ 50歳=当時 2000石)さま組であったと聞きました」

4年前の明和6年(1769)夏、麹町の栖岸院での柴田日向守康闊)の葬儀に、宣雄が参列したことは、はっきりとおぼえている。

「その柴田どのの与頭(くみがしら)に朝比奈織部昌章(まさとし 54歳=安永2年 500石)と申す仁がいてな---」
「お待ちください。その朝比奈どのの屋敷は、小日向(こひなた)の服部坂(はっとりさか)の上---」
「よく、覚えていたな。その仁が、引きつづき、9の組の長田(おさだ)越中どのの与頭をしておってな---」
「お懐かしい。父からいわれて、小日向のお屋敷へ季節のごあいさつをとどけたものです」
「さすが、備中どの。ご念がいってござったな」

A
A_360
(長谷川久三郎正脩の個人譜)


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2009.12.03

銕三郎の跡目相続まで(2)

「当主が没し、7月5日に跡目の相続を許されたのが9人。8月6日が17人---願いがでてから3ヶ月後じゃな」
眼鏡ごしに、長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石 小普請支配)が真面目くさった口ぶりでいうのを、銕三郎(てつさぶろう 28歳)も、控え帳をのぞいたことは伏せ、さも恐悦したふりで拝聴している。

正脩叔父ごどの。2件とも、跡目でございますな?」
「さよう。近年は、当主の致仕(退任)による家督相続願いよりも、当主の死による跡目願いのほうが多いな。しかし、銕三郎のところは、備中守どのが就任したばかりの京都町奉行を致仕というわけはない。とうぜん跡目ということじゃな」
「はい」

「家督だと、この8月22日に言い渡しの召し状がとどいているはずじゃ」
「受けておりませぬ」
「もちろん、そんな手違いがあるはずはない。家督の者9人が呼ばれておる」
正脩は、手控え帳をくり、もごもごと、つぶやくように読みあげた。


南部幸吉信由(のぶより 22歳 3000石)
養父・彦九郎信起(のぶおき 無役 致仕=同日)

佐野源之助政言(まさこと 18歳 500俵)
父・伝右衛門政豊(まさとよ 61歳 致仕=同日)

ちゅうすけ注】この佐野政言が11年後に、城中で若年寄・田沼山城守意知(おきとも 36歳)に刃傷におよび、切腹を言い渡された仁。
徳川実紀』は、この日の記述には政言の名をはずしている。

参照】2006年6月30日[美質だけを見る
2007年1月4日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (
2009年2月12日[一橋治済の陰謀説

鈴木銕五郎之武(ゆきたけ 32歳 450石)
養父・市左衛門之房(78歳 致仕=同日)
など、父の家を継ぐ者9人。

この年、この日まで行われた相続を書き上げると、

2月11日(跡目)  1人
3月7日(跡目) 12人
3月16日(跡目)  2人
閏3月5日(跡目) 9人
4月6日(跡目) 10人
4月8日(家督) 21人
5月6日(家督)  6人
6月6日(跡目)  7人
7月5日(跡目)  9人
8月6日(跡目) 17人
8月22日(家督)  9人   

跡目が67人、家督が36人で、銕三郎の感想は当をえている。

このあとは、
銕三郎も召された、
9月8日(跡目) 13人
10月7日(跡目) 16人
11月5日(跡目) 15人
11月29日(家督)21人
12月6日(跡目) 10人
12月27日(跡目)26人

前段のに加えると、跡目が147名、家督が57人。
総計204人。

目見(めみえ)以上の幕臣は『寛政重修諸家譜』に5000家以上が載っており、ほとんどすべての家が家禄を引き継ぐとして、5000家を200人で割ると、25年で世代交代がおこなわれるといえる。

人生50年と見て、25歳で家督し、50歳前後に嫡子か養子に継がせるわけだが、末期跡目相続が多いということは、現職に執着している当主がふえたといえるかもしれない。

もっとも、安永2年の1年間だけの数字で結論してはいけないが---。

「拝察したところ、月の上旬のお召し日は、5日から8日のようでございますな。としますと、拙が召されるのは9月のそのあたりと、心のそなえをいたしておきましょう」
「そのつもりでいれば間違いなかろうよ」

「ところで、正脩叔父ごどの。わが家は両番の家柄とはいえ、跡目を継いですぐは、とりあえず小普請入りでありましょう。叔父ごどのの組に入れていただけましょうや?」
「そうはいくまい」
「どのような方々が、いま、小普請支配にお就きでございましょう?」

          ★      ★      ★

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池波正太郎の世界 1 鬼平犯科帳1』が、湯気をたてて、朝日新聞出版、分冊百科編集部から送られてきた。
この春ごろ、企画を聞かされ、ほんのちょっとしたお手伝いをしたためである。
そろそろ、出るころかな---と、書店の前をとおるたびにのぞいてみていたのだが---。

30冊すべての表紙絵は中一弥翁が筆をおふるいになるらしい。たいへんな壮挙だ。
来年は、池波さん没後20年ということで、多くの出版社で腕によりをかけているらしい。

池波ファンにはうれしい年であるとともに、財布が痛い年にもなりそうな。
いまから、節約をこころがけねば。

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2009.12.02

銕三郎の跡目相続まで

松造(まつぞう)は、納戸町のご分家どのは初めてであったな」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、供をしている松造(22歳)にたしかめた。
きのう、松造は、納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石 小普請支配)の屋敷へ、きょうの訪問を前触れしていた。
(当主・正脩は非番で在宅しているから、夕餉(ゆうげ)でも相伴するつもりでお越しを---)
との返事をもらっていた。

本家・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 65歳 1450石 先手・7番手組頭)の一番町新道の屋敷で、奥方・於佐兎(さと 58歳)に帰府の報告と京での葬儀に心づかいをいただいたことへの礼を述べたあと、市ヶ谷門を経て、急な左内坂をのぼっている。

ちゅうすけ注】鬼平ファンなら、辰蔵が通っていた坪井主水の道場がこの坂の上にあることを覚えていよう。
また、愛犬家のファンだと、坂上の〔桔梗屋〕の喜楽煎餅(せんべい)を好物としているのが、長谷川家に飼われているクマ--と言っただけで、文庫巻9[狐雨]p251  新装p262の情景を想起なさろう。

正脩叔父のところの屋敷は広かったろう? なにしろ、山の手に2000坪近くも拝領している」
銕三郎にしてみれば、南本所三ッ目の自家の屋敷も1238坪あり、400石の身分としてはとほうもなく広いが、亡父・宣雄が大金をだして手にいれた土地なのに、納戸町は、お上からの拝領だからタダなのである。
もっとも、家祖が家光に寵愛された結果の優遇であった。

「はい、広大なお屋敷と申せば、ご分家さまもですが、ご隣家の三枝(さいぐさ)さま、そのお隣の巨勢(こせ)さまの広いのには驚きました」

隣の三枝源之助守恭(もりたか 37歳 6500石 寄合)の屋敷は、3500余坪、さらにその隣の巨勢求馬之助利喬(としたか 38歳 5000石 小納戸)のところは2400坪で、あのあたりでは、3家で2町内ほどを占めていた。

参照三枝家については、2007年6月1日~[田中城の攻防] () () (

2007年6月19日~[田中城のしのぶ草] () () (18

2008年10月7日[納戸町の叔母・於紀乃] (

左内坂のその先を右ななめに中根坂をのぼると、突きあたりに三枝家長谷川家の塀が見えてきた。
中秋だというのに、松造は額にうっすらと汗をうかべていた。
2つの坂が急なのである。

久三郎正脩は待っていてくれた。
1年前に、京へ旅立つときにあったときにくらべ、急激に老けた感じに見えたのは、白髷が小さくなっていたこともあるが、頬の肉がそげ、口の両端に深い皺がきざまれていたためであった。

香典の礼と、返礼の品をわたし、
「跡目相続の日どりは、いつごろになりましょうか?」

正脩は、3年前から、大身旗本の役職の一つである小普請支配を勤めている。
小普請支配は、12人いて、正脩は8の組のお頭である。

京都から相続願い送った銕三郎としては、きちんと受けつけられていることをたしかめたかった。

そう訊かれることを予想していた正脩は、かたわらに手控え帳を置いていた。

「7月8日に跡目を継いだ者たちが、願いをだしてからどれほどのあいだ待機したかだがな---」
眼鏡をさがしに立った正脩に代って、ちゅうすけがその手控え帳をのぞいてみよう。

安永2年(1773)7月8日

(久松)松平信之允定能(さだまさ 16歳 5000石)
養父・亀松定則(同年4月4日卒(18歳)

五嶋兵部盛恭(もりやす 20歳 3000石)
父・右膳盛峯(同年4月6日卒 48歳 交替寄合)

土岐寅之助頼久(よりひさ 28歳 1100石)
養父・十左衛門頼雄(同年4月27日卒 59歳 西丸小十人頭)

渡辺伊十郎胤(つづく 16歳 1000石)
養父・久蔵義(よし 同年4月24日卒 50歳 寄合)

山木次郎八勝明(かつあきら 31歳 400俵 小姓組)
養父・織部正伴明(安永2年4月24日卒 73歳 一橋家老)

など父死して家を継ぐもの9名。

末期養子がかなり多いこと、歿日からかなり間があいていることが目立つ。

もうすこし、帳面を盗み見してみよう。
正脩老、眼鏡の置き場所を忘れたらしい。


安永2年(1773)8月6日

安部金平正恭(まさゆき 30歳 2000石)
養父・伊織正実(同年5月11日 46歳 書院番士)

宇都宮文蔵正尚(まさひさ 22歳 500石)
養父・弥十郎正季(同年5月3日卒 49歳 大番)

五味源次至豊(としとよ 20歳 200石200俵) 
父・乙十郎豊長(同年5月6日卒 57歳 新番)


建部r駿河守広通(ひろみち 32歳 300石 徒頭)
父・和泉守広高(同年5月9日卒 広敷用人)

石野大助唯従(ただより 29歳 300俵)
父・藤十郎唯義(同年5月27日 67歳 先手組頭)

など17人が跡目を相続。
跡目とは、当主の死後の相続のこと。生前の相続は家督。

おや、正脩老が戻ってきたみたい。
このあとは、老から直かに聞くことに---。


参照】2006年5月22日[長谷川正以の養子先
2006年5月23日[平蔵の養父
2006年5月24日[正以の養家

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2009.12.01

おまさが消えた(2)

「なにか、わかりましたら、お報せくださいますように---」
久栄(ひさえ 21歳)が権七(ごんしち 41歳)に頼み、思いだしたように、
「おちゃんはお幾つでしたか?」

参照】2009年4月14日[〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] (

〔早いもので7歳に---」
「いただきものの京人形を、お持ちくださいますか?」
「もってえねえことでございます。与詩(よし)お姫(ひぃ)さまへどうぞ」
「2つもありますから---」

久栄が人形をとりに部屋をでたすきに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
「葬式の前後に、お(こん)という、30歳なかばの大年増が〔盗人酒屋〕へ現れなかったかな?」
「お---ですか? そういえば、あのおんながそうかな。ちょっと婀娜(あだ)っぽいところが隠せない、常陸(ひたち)なまりのある---」
「やっぱり---左馬が春慶寺にいなくてよかった。わかりました。こころあたりがないでもないから、跡目相続の諸式が片づいたら、あたってみよう」

参照】2008年8月27日~{物居(ものい)〕のお紺} () (


ちゅうすけ注】おまさの失踪(?)と、銕三郎の跡目相続のあれこれが重なったことが手遅れとなり、おまさの盗人入りが防げなかった。

亡父・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)のつながりで、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)が、盟友・〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)の下へ配した。

一流の引き込みおんなとなったおまさは、年譜に記したように何人もの盗賊の首領たちのもとで働いたせいで、銕三郎---家督して平蔵を襲名した鬼平---の下で、かけがえのない密偵として働けたともいえる。

_130それはそれとして、四壁菴茂蔦『わすれのこり』を観ていたら、深川黒江町の煮売酒屋で、屋号を〔泥棒酒屋〕としていた店があった、と。
ちゅうすけが所有しているのは中央公論社『続燕石十種 第2巻』(1981.7.25)に再刊されたもので、元版は明治40年に国書刊行会から出ている。

長谷川伸師の書庫は、まだ、確認はしていないが、池波さんは、自分の図書館のように利用しつくしていた書庫である。
そこで読んだとおもえる。
というのは、同書に、[長谷川平蔵]なる項目のほかに、入江町の局(つぼね)見世(私娼窟)や谷中いろは茶屋などが記載されているからである。

長谷川伸師書庫の写真

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