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2009.12.08

熨斗目(のしめ)・麻裃

「7代の殿がお召しになったものだけど---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が屋敷へ帰ると、母・(たえ 48歳)が久栄(ひさえ 21歳)を相手に、書院に熨斗目(のしめ)をひろげていた、

_130老竹(おいたけ)色と呼ばれている、灰みの沈んだ緑地の脊と袖の下部の1尺(30cm)幅ほどのあいだに、白い中太の横縞が6本も染めのこされている小袖である。

「季節からいうと、この色味でかまわないとおもうのですが---」
7代の殿とは、備中守宣雄(のぶお 没年55歳)のことである。
京都西町奉行として就任中に病死した。

Photo
 (老竹(おいたけ)色 『日本の伝統色』より)

「母上。7代さまの跡目相続は何月だったのでございますか?」
久栄が訊いた。
「寛延元年(1744)の4月初め(旧暦)でした」
「30年近くも前---」
「いいえ、6代(宣尹 のぶただ)さまが跡目をお継ぎになった儀式のとき(17歳=当時)---享保16年(1731)におつくりになったものと伺っております。私はまだ長谷川の赤坂の家に入っておらず、上総の寺崎の実家で6歳でした」

「父上は、伯父上のおさがりでよろしいといわれたのですか?」
銕三郎は、いかにも倹約家の父らしい---とおもいながら訊いた。
「6代さまの跡目相続の季節も、ちょうど、4月だったのだそうです」

久栄は、初夏だというのに、渋い老竹色を選んだところが、長谷川の家風にふさわしいと感心した。
なにごとにも見えをはらないが、遣うべきところには惜しげもなく注(つ)ぎこむ。
老中や若年寄、奥祐筆の頭や小普請支配、その与頭などへの音物(いんもつ)や、親戚・先輩同僚の冠婚葬祭の義理がそれである。
嫁として3年間任えて、久栄も心得てきている。

「それでは、(てつ)、相続当日の熨斗目はこれでよろしいのですね?」
「上等です」

「納戸町の叔父上は、お召しのご奉書はいつごろと仰せでしたか?」
「8月の22日に当主の致仕による家督組が召されているから、拙は、翌9月の6,7日前後とおもっておけば間違いあるまいと---」
「あと、20日もありませぬな」
「招待の礼札ですか?」
「当然でしょう? お前さまが家督するのですよ。お旗本の仲間入りがかなうのです。お招きするご同輩の方々にも、いまからそれとなく打診をしておきなさい」
「うけたまわりました」

(父上のお仕込みがよすぎる。武家出の婦人よりも武家の奥方らしい)
しかも、母・のこころづかいには無駄がない。

銕三郎は、朋友のだれかれを胸算用した。

まず、浅野大学長貞(ながさだ 26歳 500石 未出仕)
それと、長野佐左衛門孝祖(たかのり 27歳 600石 西丸書院番士)
はずせない。
両人とも、銕三郎の初お目見(めみえ)仲間である。
が、あの儀式ときは、400俵以上の家格の者だけでも36人いた。

参照】2009年5月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

100俵前後の家の者までふくめると、150名を超える大人数であったから、同期の付きあいはおのずから限られてきている。

ちゅうすけ注】銕三郎が跡目相続をした安永2年(1773)iに相続を許された総数は204名と、12月3日[銕三郎の跡目相続まで] ()で数えた。
銕三郎が初お目見した明和5年には、お目見は2度しかなく、12月に棚卸しのように150人前後が一気に片付けられた形になっても、いたしかたなかったろう。
お目見の年間の数と、相続の数が、平均すればほぼ等しくなるのが道理なのである。

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コメント

老い竹色って、あったんですね。日本の伝統色ですか。いい色合いです。
長谷川家の趣味の良さがしにばれます。

投稿: kayo | 2009.12.08 06:00

>kayo さん
机脇の色見本帳『日本の伝統色』(大日本インキ)を開いて、美しい色---と思い、決めました。
お気に召して良かった。

投稿: ちゅうすけ | 2009.12.08 09:59

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