銕三郎の盟友・浅野大学長貞
明和8年(1771)の新春である。
「久しぶりに夕餉をともにしたいが、落ちつける料亭を存ぜぬか。本郷元町・御茶ノ水の長野も誘いたいので、足場のことも考えて指定してほしい」
浅野大学長貞(ながさだ 25歳 500石)の下僕が、書簡をとどけてきた。
長貞の屋敷は、市ヶ谷牛小屋跡である。
体調がすぐれないからと、兄・長延(ながのぶ)が27歳の若さで小姓組番士を致仕したので、次弟の長貞が家督したものの、出仕はまだきまっていない。
【参照】2009年5月16日[銕三郎、初見仲間の数] (3)
本郷・御茶ノ水の長野佐左衛門孝祖(たかのり 25歳 600石)も、ともに初見をした仲で、去年からすでに西丸の書院番として出仕している。
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳 先手・弓の組頭)に意を伝え、元飯田町中坂下角の〔美濃屋〕を推してもらった。
(飯田町 左:九段坂 中:中坂
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
なるほど、中坂下なら、本郷からも市ヶ谷からも近い。
宣雄は、先手・弓の組頭に就任したときに、この店で披露(ひろめ)の宴をもよおして以来、馴染みである。
〔美濃屋〕は、清水門、田安門にも近く、水戸家、一橋家のご用もつとめているほどに格式も高く、一見(いちげん)の客は受けない。
(飯田町中坂下の〔美濃屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)
【参照】2008年3月11日[明和2年(1765)の銕三郎] (その6)
銕三郎が〔美濃屋〕へ入ったときには、浅野長貞と長野孝祖が先に着いており、中坂を利用した滝が望め、梅の香りが流れてくる座敷で、主人の源右衛門(45歳)が相手していた。
宣雄の口ききということで、源右衛門みずからがあいさつら出てきたのであろう。
源右衛門は、銕三郎と目が会うと、器量を読むことにたけた商売柄、一目でその人柄が気にいってしまったらしく、
「組頭さまには、いつもご贔屓をいただいておりますが、若も、どうぞ、いつなりと---」
商売用のお世辞とはおもえない口調であった。
武士はともかく、市井の町人職人たちが銕三郎に魅されてしまうことを知っている長貞は、源右衛門の気持ちをすかざず読みとり、
「銕どのにいい店を教えたもらった。ご亭主、手前は家督したといっても、まだ出仕がきまらない身ゆえ、いささか敷居は高いが、今後とも、長谷川の殿同様によろしく頼みますぞ」
孝祖も、
「いや、近間に、このような風雅な座敷があろうとは---屋号から推して美濃の出と察したが、われも浅野うじも祖は尾張者、隣国のよしみでぜひ、これからも使わせていただきたい」
幕臣の継嗣2人に如才なく頭をさげられた源右衛門はかえって恐縮し、
「せいぜい、お口に合いますように勤めますれば、ご贔屓のほど、お願い申しあげます」
源右衛門が引きさがったところで、銕三郎が訊いた。
「ところで、今宵の題目は?」
「佐左(さざ)にややが生まれる」
「いつ?」
「来月だ」
「それはめでたい」
「子なしは、われ一人となった」
「奥も娶(めと)らないで、子ができたら、ことだ。庶子には世継ぎの利がないからな」
「いま、話がすすんでいる」
「なんだ、それを言うための夕餉か」
「さきほど、大(だい)から訊いたのだが、諏訪一族の息女らしい」
孝祖が、口をはさんだ。
「いくつだ?」
「それが、薹(とう)がたちかけておる」
「いくつだと、訊いておる」
「17」
「もちろん、初婚であろう?」
「しれたことを訊くな」
それから、ひとしきり、若者らしい猥談めいた話をしたあと、
「銕。半月ほど、躰があけられぬか?」
「どういうことだ?」
「知行地に---」
「どっちの村だ?」
浅野家の知行地は、安房国朝夷郡(あさいこうり)と平郡(たいらこおり)に分かれている。
「朝夷郡の江見村(現・千葉県鴨川市東江見)のほう---」
「どうした?」
「賊がな---」
「む?」
(長野佐左衛門孝祖の個人譜)
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