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2012.04.16

盟友との宴(うたげ)(2)

家斉(いえなり 14歳)とともにご用取次として本城へ移った小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)の動きはどうかと、浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石 )に訊いた平蔵(へいぞう 41歳)は、大学が聴かなかったそぶりをとったので、
(しまった。先だってのあの席には佐左(さざ)を招いてはいなかった。(だい)、つい、あせった。許せ)
胸のうちで、長貞に手をあわせた。

佐左とは、西丸・書院番3の組の番士・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)である。

参照】2012年4月4日[将軍・家治の体調] () () () () () (

「本城の上っかたの衆は、相良侯主殿頭意次(おきつぐ) 68歳)への懲罰をどう見ておられるかな?」
とっさに問いを変えた。

将軍・家治(いえはる)が50歳で水腫という珍しい病気で、初秋に薨じたのを利用し、尾張・紀伊・水戸の三家と三卿の一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)が策動、田沼派の追いおとしに動いた。

三家と一橋は、田沼意次の厳罰を申しあわせた。

諸施策は、吉宗時代に農民からのしぼりあげで破綻に瀕していた幕府財政の建てなおしのためのものであったが、その重商主義的な発想は、家康以来の農本主義の墨守を旨とする三家には理解できなかったのである。

現実主義というか、目の前のことをすなおに直視し、金銭の手当てもふくめた合理的な解決をもっぱらとしてきた平蔵とすれば、精神主義的なやり方には賛成しかねた。
田沼と共通するところが少なくなかった。

そうおもっていたところに、三家と一橋の謀略的な懲戒が昨年閏10月5日の処分であった。
続徳川実紀』は、

閏十月五日 田沼主殿頭、さきに職ゆるされしが、かねて思召旨もあればふたたび賜りし加恩の地二万石収公
せられ、御前をとどめられる。大坂にある所の蔵屋敷及び是迄の邸宅をも召上られ、今日より三日をかぎり立退くべしと命ぜらる。

重ねて書く。
田沼意次が公金を横領したとか他人を殺傷したとかいうのではない。
役人として発布された諸施策が気にいらなければ、政権をとって施政者となり、改めるなり廃止すればすむことである。
それをあたかも犯罪者視しての処遇をしたのは、大向こうねらいできった大見得にほかならないばかりか、ルール違反になる。

旧守門閥派が演じた度外れというか、幼児じみた追罰スタンド・プレイはまだつづきがある。

このときの笑劇を調べていて、攻防戦では、攻めるほうが一方的に有利だということ。
守衛にまわったほうは微綻も命取りになりかねないが、攻めるほうは押す手さえゆるめなければいい。

意次の微綻は、松平(松井)周防守康福(やすよし)のあいまいと小笠原若狭守信喜の裏切りであった。


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