将軍・家治の体調
登城した平蔵(へいぞう 41歳)は、顔なじみの同朋(どうぼう 茶坊主)を本丸の小姓組6の組の番士・浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)のところへやった。
「非番でご出仕ではありませんでした」
「われのところの松造(よしぞう 36歳)を門のところまで呼んでくれ」
先手組頭へ昇格したので、同朋につかませる小粒も倍にした。
松造を市谷・牛小屋跡の浅野長貞の屋敷へやり、今夕七ッ半(5時)に市ヶ谷八幡社の境内の料理茶屋〔万屋(よろずや)〕で会う段取りをつけさせた。
「〔万屋〕の席取りもわすれるなよ」
〔万屋〕は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の生前に2,3度つれられてあがったことがあった。
「表からの石段はかなり急だから、大(だい)の屋敷からだと裏から入れば石段をのぼらずにすむぞ」
つけくわえた注意のごとく、社殿も〔万屋〕も市ヶ谷台地の上にあった。
【参照】【参照】聖典・文庫巻6[狐火]
(市ヶ谷八幡宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
もしこの日、平蔵が約束の時刻どおりにあらわれていたら、19年ぶりに再会することになった女性と旧交をあたためたというより、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 60すぎ)の大泥棒の片鱗をつかんだであろうに。
【参照】聖典・文庫巻4[おみね徳次郎]
【ちょうすけ注】長貞に井戸で冷やしておいた麦茶を給仕した男ずきのする仲居は、座敷名をお濃(のう 26歳)と変えていた、〔法楽寺〕のおんなのおすみであった。
下城まぎわにちょっとしたごたごたがあった平蔵がいそいでかけつけたときには、昼番のおすみは伝馬町裏通りの長屋へ帰ってしまっ
てい、長貞は、神田川をはさんだ東側の台地の武家屋敷――番町につらなっている甍(いらか)をめずらしげに眺めていた。
「なんだ、こんな近まの料亭なのに初めてか?」
「近まだからかえって足遠くなるのが高名料理屋よ」
「それもある」
酒が運ばれ、亭主の喜作が、先手組頭へ昇進の祝辞とともに、ぬけなく、
「ご尊父さまのとき同様に、今後ともご贔屓のほどを---」
お定まりの追従を述べてさがると、
「わざの呼び出しはなんだ? 平(へい)さんのお祝いは佐左(さざ)と相談しているところだ」
佐左とは、盟友のひとり・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)の仲間うちでのあだ名というか、呼び名であった。
西丸・書院番3の組でくすぶっていた。
浅野大学長貞は「大」、平蔵は「平」。
「本丸のほうに異常はないか---?」
「うん。お上(かみ)のお具合がよろしくないぐらいかな」
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