将軍・家治(いえはる)、薨ず(3)
男の最高の愉楽は、人事への容喙(ようかい)だと、むかしからささやかれている。
他人の生死を与奪する権力の一端がおのれの手中にあることを実感できる瞬間だからかもしれない。
ちゅうすけは(幸いなことに)、そのように血生臭い場に立ち会ったことはないが、なんとなく肯首はできる。
将軍・家治(いえはる 享年50歳)が病気になったことで、それまで政治の外にいることが多かったご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 54歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 59歳)、水戸宰相治保(はるもり 35歳)のうちのだれが、人事をもてあそぶ趣味をとりわけ強くもっていたであろう。
根がそういうことが嫌いではなく、ましてや養子にだしたわが子が新将軍の座につく一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)にしてみれば、徳川一門のためという立派な口実でこの際とばかり動いたとおもわわれる。
近々にあげた深井雅海さんが西丸の主・家斉(いえなり 14歳)の用取次・小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)にはたらきかけた経緯と、依頼の形で将軍側近の人事を間接操作しようとした書簡も[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)で明らかにされている。
【参照】2012年3月4日~[小笠原信濃守信喜(のぶよし)](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
いささか先走るが、上に紹介した深井雅海さんによって徳川林政史研究所の『研究紀要』(1981)に寄航された、一橋治済(はるさだ)から次期将軍の取次となる小笠原若狭守にあてられた書簡で最初Iに公けにされたのは、天明6年(1786)閏10月21日付のもので、
「先日はひさびさに、ゆるりとした談合で貴意も伺うことができ大慶でした。ご用繁多でたいへんでしょうが、あの節ご依頼した:件、なるべく早い機会に老中衆の評議にかけていただくようにお手くばりをお願いいたします。これまでと同じ顔ぶればかりでは老中評議も変わりばえしないでしょう----(以下、治済の経世観が長々とつづく)」
依頼事項とは、松平定信(さだのぶ 29歳 白河藩主 11万石)を老中に加えることを評決すること。
家治の死で、多くの藩主たちは帰国を見合わせているのにならった形で、定信も江都にとどまり政情の変化を静観をよそおいながら、在府の譜代大・小名たちとの謀議をつづけていた。
ところで、一橋治済と小笠原信喜とのあいだがらは、第1の文面でみるかぎり、定信のことからつながったというより、治済の子・豊千代(家斉)が西丸入りしたときからできていたのであろう。
また、治済と定信のつながりは、三卿の一で世継の絶えた田安家に治済の五男・斉匡(なりまさ)を養子に迎える件で、
田安の出である定信が斉匡の父・治済としばしば面談しているあいだに、その政治観や学識をみとめられたというのがもっぱらの推測であった。
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