小笠原若狭守信喜(のぶよし)(8)
,しかし、なんとも納得がいかない。
小笠原若狭守信喜(のぶよし 67歳=天明5年 5000石)が内通に与(くみ)したきっかけが、である。
家斉(いえなり 13歳)が西丸の主(あるじ)となっていた天明5年(1785)には、年初の加増2000石をあわせて家禄は5000石となり、諸事を執啓していた。
交友もひろがっていたろうが、信喜の筋をとおす性格からいって、実家と養家のかかわりの濃い紀州藩からきた幕臣とのつなかりが多かったろう---と書き、あっ、とひらめいた。
加納備中守久周(ひさのり 33歳 伊勢・八田(やつた)藩・養子 1万石)とのあいだがらである。
加納家の祖は累代、三河国加茂郡(かもこおり)加納村に住していたと『寛政譜』にある。
【参照】2007年8月16日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]
2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究] (4)
2008年2月15日[ちゅうすけのひとり言] (8)
高澤憲治さんも信喜の係累に気がついたらしく、既掲出[松平定信の幕政進出工作](『国史学』第176号(平成14年4月 2012)に以下の一節を記しおられる。
加納久周は松平定信の求めに応じて同邸への訪問を心掛けており、至誠が天地を動かすので目的実現を目指して学問に励んでいるという。(中略)
加納久周の実父・大岡忠光はかつて田沼意次の上司であり、養祖父・久通は田沼の父と同じく紀州藩出身であり若年寄まで進み、養父・久堅(ひさかた)は現職の若年寄であった。
しかし、久周は大岡・加納両家が家禄と役職の両面で田沼家に凌駕され、しかも久堅より遅れて就任した水野忠友が老中に進んだことに対して不満を抱いて定信に近づいたのであろう。(中略)
久周は実父と養祖父がともに将軍職側近を勤めたばかりか、娘は御側御取次稲葉正明の嫡子である正武の室、実妹は御側御用取次小笠原信喜の養女であった。
終わりの一句には驚かされた。
小笠原信喜と松平定信との確実な接点を探して苦労していたのに、なんといういう見落としをしていたものか。
【参照】2012年3月6日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)] (6)
上掲個人譜の終段の末から3人目の[女子]にこうあるではないか。
女子 実は大岡兵庫頭忠喜が女。信賢が配にさだむといへども信賢死するにより、信喜にやしなはれて小笠原安房守政恒が妻となる。
珠は嚢中にあった。
(加納備中守久周の個人譜)
(大岡久周と妹の個人譜)
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