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2012.03.11

ちゅうすけのひとり言(87)

有明のがん研病院の個室病棟での夜明けの4時ちょっと前からこの[ちゅうすけのひとり言]をしたためている。
じつをいうと、[小笠原若狭守信喜])としてもよかったのだが本題からそれそうなので、[ひとり言]のくくりにした。

昨日家人に、本郷の書斎から[紀州藩からのご家人(けにん 新しく幕臣になった武家) 300石以上]と表題をふったファイルを持参してもらっていた。
([300石以上]をつくっているからには[299石以下]のファイルもつくってあることはいうまでもないが、きようの話題には[以下]の家はかかわりがない)

ファイルの本体は、『寛政重修書家譜』を各家ごとにA4版の用紙に規格をそろえて貼りなおして一覧性を高めたものの集積で、50音順に綴ってある。。

なぜ、いつごろ、こんな大部なものをつくったかは、

参照】2008年2月14日~[ちゅうすけのひとり言] () (

つくるのに3ヶ月ほどかかったが、この2年ほどは手にしていなかった。

ファイルの冒頭には、静岡のSBS学園の[鬼平クラス]でともに学んだ安池さんからいただいた『南紀徳川史』のコピーが目次がわりに綴じてある。
コピーは、吉宗にしたがって江戸城入りした115名の藩士の名簿である。

今回の探索の主旨は、小笠原若狭守信喜(のぶよし 7000石 享年74歳)と小笠原主膳胤次(たねつぐ 4500石 享年62歳=享保3年 1718)の関連をたしかめるためであった。

名簿には、小笠原家が3家あがっている。
その筆頭が、

小笠原 主膳(紀州藩で若年寄 2500石) 江戸城では御側

寛政譜』の冒頭に---


家伝に、信濃守長高は小笠原修理大夫貞朝が長男なり。
長高5歳の時母死せしにより、父貞朝ふたたび海野弥太郎幸高が女を娶りて信濃守長棟を生り、継母長棟をして家を継しめむと欲し、長高を父に讒するにより父子不和となり、長高つゐに信濃国を去て尾張国にいたるといふ。
按ずるに貞朝長棟は旧家清和源氏義光流小笠原右近将監忠苗が家代々正統の祖なり。
しかるに彼系図に所見なきにより忠苗が家にたづぬるのところ古系図に長朝が男長高なるものたえてみるところなしとこたふ。
これによれば家殿うたがはしといへども、しばらく其よしをここにしるす。

尾張の武衛家に属した長高から系図をはじめている。
遠江・浅羽庄で馬伏(まぶし)城に住していた縁で徳川に仕え、後裔・清政(きよまさ)が頼宣(よりのぶ)にしたがって紀州へくだった。


名簿の13人目が信喜の養家の祖にあたる、


小笠原三右衛門正信(紀州藩で具足奉行 30石) 江戸城では小納戸800石

寛政譜』の頭書に---


家伝に、その先は藤原氏藤原氏にして遠江権守為憲の末葉左近将監清信、遠江国堀江に住せしにより地名をもって堀江を称す、その男四郎右衛門信峯今川家に属し、のち小笠原信濃守長高一族に準じてその屋号を授与せしより、氏を清和源氏にあらため小笠原を称す。信倫は其男なりといふ。

この信倫(のぶとも)は今川家につかえ、永禄11年一族とともに人質をたてて家康の陣営に加わり、三方ヶ原の合戦で武田方の2人を討ちとり戦死。


む---、
今川方から徳川方につき、三方ヶ原で戦死というと、長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳)の祖・紀伊守正長(まさなが 戦死33歳)と弟・藤九郎(戦死19歳)とおなじ陣営に配置されていたのかもしれない。

これは、見逃せないぞ。

参照】2008年6月13日[ちゅうすけのひとり言] (14

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コメント

なるほど、小笠原信喜に、そのことが頭にあれば、安永4年12月から8年に家基が没するまで、共に仕えた平蔵への評価は好意的であったでしょうし、更に、天明元年に豊千代の御側御用取次として、西丸に帰ってきたときも、変わらなかったでしょうね

投稿: 安池 | 2012.03.11 15:03

>安池 さん
小笠原若狭守信喜と田沼主殿頭意次との関係は微妙です。
さらに、信喜と同僚だった横田筑後守松準や本郷泰行とのかかわりも調べる必要がありますね。

投稿: ちゅうすけ | 2012.03.13 08:02

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