小笠原若狭守信喜(のぶよし)(7)
宝暦元年(1751)に並んで家重(いえしげ)のお側にすすんだ小笠原若狭守信喜(のぶよし 33歳 2000石)と田沼主殿頭意次(おつぐ 33歳 2000石)の2人であったが、家重が将軍職を家治(いえはる)にゆずって二の丸に引退した10年間に、大きな差がついてしまった。
信喜は病気がちになり、現役をしりぞいた。
意次のほうは5000石と3000石の2度の加増で1万石の小大名にのしあがっていた。
それだけ、人望がましたというべきかもれない。
[仁]の字を彫った珊瑚珠をつねに嚢中に携行した意次は、相手の言葉をたがわずにとらえ、依頼ごとがいささかでもかなうように諸事をはからった。
信喜は[智]にこだわりすぎるところがあり、正しいことは正しいとしながらあちこちに角がたちすぎた。
家重はおのれが[智]に遠いため、信喜の肩を借りたがったが、:けっきょくは使いこなせず、嫡子・家基(いえもと 享年18歳)につけた。
家基が不慮の死で心に隙ができたかして、[智]同士の松平定信(さだのぶ)の誘いにのったとみる。
もちろん、意次の政治手法への批判もあったろう。
以上は、ちゅうすけのひとり言ともいえる推測である。
なにごとも退院して、(深井雅海さん[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むまでの時間かせぎみたいな妄想といっておこう。
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コメント
>落合さん、安池さん
ご丁寧なコメントらいただき、デイスプレイのアップする手配をとりましたが、なぜか、画面にでまくせん。
このところ、メールの送受信がおかしくなつています。
ベテランに問い合わせますので、いましばらくご猶予ください。
投稿: ちゅうすけ | 2012.03.10 17:26
>落合 さん
ご苦労の宝物、ありがとうございます。
勇気づけられます。
長いあいだのクラスでした。
おかげて、勉強させていただけました。
これからも、ご精進のほどを。画像処理はお仕事のお役に立つとおもいます。
投稿: ちゅうすけ | 2012.03.13 07:57