小笠原若狭守信喜(のぶよし)(9)
退院・自宅緩和ケアになったら真っ先にやりたいのは、都中央図書館へ出かけ、深井雅海さん[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むことと決めていた。
当ブログでも明かした。
(もっとも記したときには右肺にも病巣がある身で、東京メトロ・広尾駅の地上への階段、図書館への長い坂道を無事にこなせるかなと危惧はしていたが……)
この計画は喉につまったなにかのつかえのように、病棟のぼくを責めたてていた。
明かしてよかった。
静岡の〔鬼平クラス〕でともに学んだ安池欣一さんがコピーを送ってくださったのである。
病室で読んだ。
引用・解説されていたのは、天明6年(1786)7月下旬から水腫で静養中であった10代将軍・家治(いえはる 51歳)が、
田沼意次が推輓した奥医師若林敬順の調合した薬を服用してから、病状は急激に悪化し、八月二五日の暁に没した。これを契機に意次への非難が高まり、意は家治の死の翌二六日に辞職願いを提出し、二七日に老中を罷免されて失脚した。
……という諸書に書かれている経緯があり、田沼派追い落としの政治劇がはじまるのだが、家治の病気の現代的推測、蘭方医・若林が処方した薬の内容といった陰謀の疑いのもてる事項には触れられていない。
ご三家と一橋治済、表の政治的権力機構---大老・老中、中奥のお側ご用取次、大奥の年寄たちといった政治状況の中にいた人名と解説があり、将軍実父・一橋治済からお側ご用取次・小笠原信喜にあてた天明6年(1786)閏10月21日から同7年(1787)6月15日にいたるあいだの10通の書簡が公開され、要点に解説がつけられている。
(書簡はいずれも徳川林政史研究所が保管している徳川宗家の史料)
一読しての性急な印象は、一橋治済と小笠原信喜が密約を結んだあとのやりとりで、信喜が田沼意次を裏切った真意や、定信新政権ができてからの信喜の処遇については明かされていなかった。
もちろん、深井さんの考察は、当ブログがいまとどまっている時期の1,2年先をいっていたから、ちゅうすけの疑問の直接の解答にはならなかったが、うるところは少なくなかった。
教示で大きかったのは、
1.三家の政権への介入がこの時期、強くなっていたこと。
1.将軍・家斉の実父である一橋治済の政治的黒幕としての野心。
1.お側ご用取次衆の隠然たる政治力。
『鬼平犯科帳』は、深井雅海さんが摘出してくださった[天明末年における将軍実父・一橋治済の政治的役割]から数年後が舞台である。
しかし、人間生活に明滅する信頼と裏切り劇――仲間と密偵という明と暗の人間関係をかいま見せてくれた点では、平蔵(へいぞう 40歳)が通過しなければならない主題でもあった。
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