愛馬・月魄(つきしろ)の妄想
天明6年(1786)年が明け、長谷川家はつつがなく一つずつ加齢した。
平蔵(へいぞう 41歳)
久栄(ひさえ 34歳)
辰蔵(たつぞう 17歳)
於敬(ゆき 19歳……じつは25歳)
津紀(つき) 3歳)
初(はつ 15歳)
清(きよ 12歳)
銕五郎(てつごろう 4歳)
妙(たえ 61歳)
与詩 29歳)
奈々(なな 19歳)
正月10日の夕刻、多岐(たき)安長元簡 医師夫妻(もとやす 32歳とお奈保(なほ 23歳)が茶寮〔季四〕に顔をみせていた。
平蔵がお祝いに招いたのである。
お祝いというのは、火災で焼失した躋寿館(せいじゅかん)を多岐家が自費で再建した医師養成所が、昨日、名を医学館とあらため、幕府の正式機関と公認されたからであった。
当時34歳だった平蔵が躋寿館とかかわりができたのは、火盗改メの組頭・贄(にえ)安芸守正寿(まさとし 39歳=当時 300石)を介しての奇遇であった。
【参照】2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
こうして平蔵は、多岐安長元簡と知りあった。
【参照】2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
里貴(りき 35歳=当時)も、元簡に奈保を引きあわせた。
『剛(ごう)、もっと剛(つよ)く』の板行で、平蔵と元簡の仲がもっと深まっただけでなく、町駕篭〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)や香具師(やし)の大元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 59歳)たちともつながった。
【参照】2011年12月23日~[別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』] (1) (2 (3) (4) (5) (6) (7)
今宵はお祝いということで、権七と重右衛門も招かれている---というより、2人が元簡に相談をもちかけたいということで、平蔵が気をきかせた。
:献酬がひとわたりすんだところで権七が、平蔵に問いかけるふりでく口火をきった。
「長谷川さま。あちこちの元締衆が廻り資本屋たちからの強い要望としてあげてきとるのは、『剛(ごう)、もっと剛(つよ)く』の刷り増しです。
もちろん、当初に一刷りで刷り増しは一切なしと釘をさされておりますが、お客の声は天の声でして---」
平蔵はちらりと元簡に視線を走らせ、
「安さんの躋寿館(せいじゅかん)が念願かなって公けの医学館に格上げになったお祝いの席で、刷り増しの件を持ちだすとは権らしくもない---」
「申しわけありません」
ぼんのくぼをかいて引きさがった形の権七を、
「いや、人の慾に、まだ---はあっても、もう---はないのが、昔からのいいつたえです。刷りましの代わりになるものをなにか考えてみましょう」
元簡がとりなした。
「ところで多岐先生。男はんの精を剛(つよ)める八味地黄丸がよしとして、精を弱める漢方はおまへんの?」
訊いた女将・奈々を、怪訝な---といわんばかりに奈保が瞶(みつめ) た。
| 固定リンク
「089このブログでの人物」カテゴリの記事
- 〔銀波楼』の今助(4)(2009.06.23)
- 〔銀波楼〕の今助(2009.06.20)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(4)(2012.05.12)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(3)(2012.05.11)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(2)(2012.05.10)
コメント