医学館・多紀(たき)家(2)
「奥医の多紀(たき)どの、のう。平安朝のころから御所の典医をつとめていた家柄で、江戸へ移ってからも、ずっと奥に伺候しておられる。家柄から申せば、わが家など、はるかにおよばぬ」
非番の日、久しぶりに芝・新銭座町に井上立泉(りゅうせん 62歳)先生を訪ね、多紀元悳(もとのり 50歳 200俵)法眼について訊いた平蔵(へいぞう 34歳)への応えであった。
【参照】2007年8月9日[銕三郎、脱皮] (5)
「先代の平蔵(宣雄 のぶお 享年55歳=1773)どのが放火犯を逮捕なされた目黒・行人坂の大火(1772)で躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)も類焼した。しかし、いまの法眼どのは、私財を注ぎこんで再建なされた」
「私財を---?」
「左様、私財を---」
「美談でございますな」
「塾生たちの親元や終了者へも寄進状がまわされたが---当時、うちの息・茂一郎(もいちろう 銕三郎と同年配)もあそこで学んでいたから、応分の寄進をさせてもらったがの」
立泉の苦笑ぶりを見、平蔵は大方の経緯を推察した。
多紀家の祖は、大陸から半島へ移った王族の渡来人・兼康氏(かねやすうじ)であるといわれている。
躋寿館の建築をおもいたった31代目にあたる法眼元孝(もとたか 享年72歳=明和3年 1766)が、幕府の許可をもらったのは明和2年(1765)の5月(陰暦)であった。
江戸および近郊にも医学校の必要が感じられていた。
明和2年といえば、銕三郎(てつさぶろう)は20歳で、長谷川家は築地鉄砲洲tから、三ッ目通りの1238坪の敷地に新築なった家へ引っ越した年でもあった(敷地を購入したのは前年末)。
50年以上も前に求めておいた富士川遊博士『日本医学史』(裳華堂 1904)が初めて役立った。
上掲書[徳川氏中世の医学 医学教育]からの引用---。
織・豊ニ氏時代ニ至テハ大学及ビ 国学ハ既ニ廃頽セラレ、医学ノ教育ハ学校ニテ施サルルコトナク、医学ヲ修メントスルモノハ各々其師ニ就キテ、其経験シ来タレル所ヲ伝授スルニ過ギズ、徳川氏ノ代ニ至リテ、江戸ニ多紀元孝ノ躋寿館(せいじゅかん のちに)医学館ヲ興セルアリ。
京都ニ畑黄山ノ医学院ヲ立ツルアリ。
各藩ニテモ鹿児島ノ造士館内ニ医学院アリ(安永ニ年 1773 創立)。
熊本ニ再春館アリ(宝暦六年 1756 創立)。
福岡ニ采真館アリ。
萩ノ明倫館内ニ医学部アリ。
会津ノ日新館内ニモ医学部アリ。
学校ヲ設ケテ、秩序的ニ医学ヲ教授スネコト此頃ヨリ始マレリ。
躋寿館ハ明和ニ年(1773)五月、多紀元孝ガ江戸神田佐久間町ニ創立スル所ニシテ、薬苑及ビ書庫ヲ始トシテ諸般ノ設備ナリ。
教課ハ本草経・素問・霊枢・難経・傷寒論・金匱要略ノ六部ヲ講究シ、更ニ経絡・計灸・診法・薬物・医案・疑問ノ六課ヲ設ケ、医案疑問ハ文辞ニ預カリ其他ハ皆事ニ就テ之ヲ伝へ、診法ニハ諸生ヲシテ鄙賎ノ治ヲ乞フモノヲ診シ、都講之ヲ教導シテ習熟セシム。
元孝歿スルノ後ハ其子元徳(元悳 もとのり)代リテ之ヲ監理シ、天明四年(1784)ヨリ百日教育ノ挙ヲ始ム。
其法格ハ毎年ニ月十五日ヨリ百日ノ間、有志ノ生徒ヲシテ学舎ニ入リテ研学セシメ、又外来ノ生徒モ日々講義ヲ聞クコトヲ得サシム。
其教説明ハ、前例ニ仍リ、六部ノ書ニシテ、元徳ノ子・元簡(もとやす 桂山ト号ス)ハ素問ヲ講ジ、山田図南、桃井陶庵ハ傷寒論、目黒道琢ハ難経、服部玄広ハ霊枢、加藤俊又ハ難経、田村元雄ハ本草、小坂元祐、岡田道民ハ経絡ヲ講ジ、儒家井上金峨、吉田篁墩、亀田鵬斉等モ亦経書を講ゼリ。
すでに記したように、医学館は2度の被災のあと、新シ橋北の向う柳原に再建された。
配置図が手元にあるので掲示する。
引越し前の神田佐久間町の配置も似たようなものであったろう。
多紀家の所在も薬園も書庫も記載されている。
帰宅した平蔵は、松造(まつぞう 29歳)を、松島町に居宅を拝領している野尻助四郎高保(たかやす 63歳 35俵3人扶持)のところへやり、多紀家の諸事を依頼させた。
野尻高保は、庭番の子として生まれ、40歳まではその職にあったが支配の才と知識を認められ、3年前から書物奉行(役高200俵 役扶持7口)に抜擢されていた。
用を弁じていた長谷川主馬安卿(やすあきら 享年61歳=安永8年 1779 150俵)がそのころから病気がちになり、依頼を野尻助四郎へふったのである。
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