小笠原若狭守信喜(のぶよし)(4)
高澤憲治さんが『国史学』(第176号 平成14年4月 2012)に発表した労作[松平定信の幕政進出工作]に、こんな一節がある。
(田沼意次は天明)元年(1781)一二月一五日には嫡子意知を奏者番に任じ、三年一一月朔日には若年寄に昇進させて世間の反発を招いた。だが、四年三月に意知が暗殺されて将来の政権移譲のもくろみが潰え、庶民のほか幕臣層にも徐々に田沼批判勢力が形成されていったがも閨閥関係による幕閣支配を続ける一方で、名門譜代層を奏者番に多数起用して親田沼勢力の拡大を計っている。
指摘によって『柳営補任』の奏者番の項をあらためてみた。
天明3年(1783)3月朔日(年齢は天明5年現在)
松平右京太夫輝和(てるやす 36歳 上野・高崎藩主 8万2000石)
(同4年4月26日寺社奉行兼)
同
板倉肥前守勝暁(かつとし 59歳 上野・安中藩主 3万石 )
同
松平能登守乗保(のりやす 41歳 美濃・岩村藩主 3万石 )
つづいて、
天明4年(1784)5月15日
板倉左近将監勝政(かつまさ 29歳 備中・松山藩主 5万石)
(同8年寺社奉行兼)
同
西尾隠岐守忠移(ただゆき 40歳 遠江・横須賀藩主 3.5万石)
【参照】2007年1月20日[[西尾隠岐守忠移の内室]
同
植村右衛門佐家利(いえとし 27歳 大和・高取藩主 2.5万石)
さらに、
天明4年12月24日
松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳 三河吉田藩主 7万石)
前にも報じたが奏者番は、若手譜代大名の嫡男たちのうちから、いささかでもまともな人物であれば選抜される。定員というか、構成員数は30名前後。
上記のとおり、天明3年から4年へかけ、田沼意次が奏者番として意識的に新規に選抜したのは上記の7名である。
任期がつづいている22名の奏者番の色分けのリスト化は、
【参照】201215[「朝会」の謎] (5)
---上記のとおりだが、新任の7名の中の板倉左近将監勝政、植村右衛門佐家利、松平紀伊守信明は、高澤憲治さんが定信派と[松平定信の入閣をめぐる一橋治済と御三家の提携]であげていた若手大名たちである。
あぶりだしのために登用したのであろうか?
裏読み的な興味をそそられる。
(板倉肥前守勝政の個人譜)
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