「朝会」の謎(7)
遺跡相続のために、奏者番・松平信明(のぶあきら 吉田藩主 7万石)が実年齢に3歳上積みしていたこを、『豊橋市史』によって明らかにした。
以後は『大河内家譜』(『豊橋市史 第六巻』)にしたがい、天明5年(1785)は22歳として話をすすめていく。
この年、まだ白川藩主(11万石)であった松平定信(さだのぶ)は27歳であった。
人にもよろうが、20代での5歳の年齢差は大きい。
信明が定信に兄事したのもゆえなしとしない。
(もっとも、双方が30代になってからの間柄は微妙に変化したらしいが---)
父・信礼(のぶうや 享年34歳)の死の前年に、春之丞の幼名を名乗っていた彼は7歳で元服して信明を諱(いみな)とし、翌明和7年(1770)遺領を相続したが、幼かったために公務には一族の縁者が名代をつとめた。
鍛冶橋内の江戸藩邸での伝役(もりやく)は新藤右衛門、浅井権右衛門があたっていたというが、両人の地位・年齢など詳細についてはもちあわわせていない、
『宇下人言』の定信の表現---
松平伊豆守は明敏で人あたりがよろしい。
才は徳にまさるといえようか。
予はいつも、高望みして理想にはしってはいけないよと忠告していたが、効きめはあったのであろうか。
これによって想像するに、青年らしく理想を口にしすぎていたようである。
一方、寛政10年(17998 信明治36歳時点)に提出された『寛政譜』によると、2女6男、そ没する55歳までの19年間にさらに8男6女をもうけた子福者というか、絶倫・多情さに瞠目する。
異腹であるからとうぜんの数といえるが、その費用をまかなった領民の苦労はさっするにあまりある。
信明は、幕府の役についてからは、ほとんど国へ帰っていないから、これらの子は江戸藩邸において生まれたらしい。
子をつくるときにのみ女人(にょにん)に接すると公言した定信とは、こと閨事(ねやごと)に関するかぎり、2人は天と地ほどの差がある。
が、このブログは幕閣や大奥の性事をあばくことを目的とはしていない。
さしあたっての関心事は、何度も記したように、『実記』の天明5年(1785)6月18日の、
臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)
の真相解明である。
大分、枝道にそれたようだ。
明日からは当ブログの本道に復帰しなければ---。
(松平(大河内)伊豆守信明の個人譜)
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コメント
「丈夫届」痛快々々。決して枝道なんかじゃありません。吉田藩のあわてぶりがうかがえるエピソードです。氏教さんの子沢山も人柄の側面をうかがわせます。
投稿: 文くばりの丈太 | 2012.01.07 06:56
>文くばりの丈太 さん
いつも、お心のこもったコメント、ありがとうございます。
なによりの贈り物です。
このようなブログは、孤独な作業ですからコメントをいただくと、とたんに元気がでます。
とりわけ、こんなこと書いてご興味が引けるのかなと疑心暗鬼のときはことさら勇気づけられます。
フェイスブックやツイッターでは鬼平ファンの方との交流がほとんどありませんので。
ありがとうございました。
投稿: ちゅうすけ | 2012.01.07 16:51