将軍・家治(いえはる)、薨ず
虫の報らせというのであろうか、病気届けをだして出仕をひかえていた田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳 5万7000)は、4日目の天明6年8月25日、急遽、身ごしらえをして登城し、将軍・家治(いえはる)への拝謁を願った。
ところが老中首座・松平周防守康福(やすよし 68歳 石見浜田藩主 5万4000石)に拒まれた。
「周防どの。なぜかなわぬ?」
意次としては、温厚な康福に似合わない強硬さに不審を覚えながら、周囲の耳をはばかって声を高めることはひかえていた。
「枕頭に付きそっておられる大納言さまのいいつけでござる」
「大納言さま? 若君が---?」
「西丸の大納言さまではない。尾張侯(宗睦 むねちか 54歳)じゃ」
家治の病室はご三家と継嗣・家斉(いえなり 13歳)によって護られていた。
「頼む。この臣・意次、ひとこと、お上にお申しひらきをいたさねば、死んでも死にきれないないのだ」
「主殿どの。詮(せん)ないことをいうでない」
「詮ない---?」
「いまは、病気辞任願いをお出しになるべきときであろう」
「------」
康福とすれば長年、盟友としてともに政務にはげんできた意次にかけた忠告であったが、動転していた意次にはつうじなかったようだ。
一日前の24日の『徳川実紀』から数行を写しておく。
さきに命ぜられし寺社、農商より金、銀を官に収めしめ、諸家にかし給ふべしといえる令を停廃せらる。(中略)
これにさしつぎて、さきに令せられし、大和国金剛山の金鉱尋ること、下総国印旛、手賀開墾のこともみなとどめられたりといふ。
もちろんこの『実紀』の記述は、のちのちに諸資料を勘案して記載されたものだが、それが家治が生死の境にあった月日に置かれたことの事情を推理してみるべきであろう。
3件とも、徳川体制の建てなおしを計った意次が推進していた事業であった。
翌25日の『実紀』から、あらゆる記述が欠落している。
深井雅海さんは既出[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次 小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)に、家治の永眠を、
八月二五日の暁に没した。
と明記。
ほかにも数人の史家が8月25日説を洩らしているからには、どこかに隠蔽された文書があるのかもしれない。
ただし、『実紀』は、
八月二七日 宿老田沼主殿頭意次、病により職ゆるされ雁間詰にせらる。
九月六日 御病いよいよおもくわたらせ給ふによて、三家、溜間、国持、普第(譜代)、外様をはじめ、布衣以上出仕して御けしき伺う。
九月八日 巳下刻つゐに御疾おもらせたまひ、常の御座所にして薨じたまふ。御齢五十。
旧暦といえども寒冷にはほどとおい8月末から9月初旬にかけて11日間も喪を伏せなければならなかったのは、田沼一派の追い落としの手続きに必要な日時だったと見るのはうがちすぎとはいえまい。
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