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2012.04.10

ちゅうすけのひとり言(92)

これまで、うっかりして、先手組の与力は200石、同心は30俵2人扶持――と書いてきたような気がする。
さらに、屋敷は与力200~300坪、同心100坪とも。

じつは、この数字は町奉行所の与力のものであることに、先日気づいた。
その町奉行所の与力の俸給にしても、知行地がお縄地でわたされているので、格によって220石の格上与力もいれば170石という格下与力もいたらしい。

_170信用できる文献である松平太郎さん『江戸時代制度の研究』(復刻 柏書房 1964)を取りだし、改めて調べてみた。
この貴重な著作は上巻にあたる部分が刊行されただけで、下巻の草稿は焼失して未刊のまま現在にいたってい、上巻に書かれているのは先手組一般ではなく、その中の火盗改メを/命じられた組の与力についてである。

与力は秩禄200石より現米80石と明記している。
どういうことかというと、知行地を与えられたときの取れ高は200石だが、この中には采地主分と農民の取り分がふくまれている。

采地主分を4割、農民の取り分を6割とすると、表向き200石の采地のばあい、采地主分は200石×0.4で80石(800斗)である。
1俵を4斗入りとすると200俵となり、3斗5升入りでは228.57俵である。

江戸時代小説が描いている奉行所の与力の200石の実際は上のとおりだ。

米価は時代と豊・不作によって大きく変動したが、概算では現米1俵1両(16万円)と見られていた。
与力の秩禄200石は現米の80石……200俵(16万円×200俵=3,200万円)。

組頭が火盗改メを命じられると、先手組の与力には上記に役扶持が20口(1日10升)が加えられる(1升が100文の米相場なら1000文、1両=16万円として4朱=1分 4万円)。
個人が取ったのか組でプールして諸費用にあて、残りを各与力に分配したのかはどうかは不明。

組屋敷の敷地のひろさはどうか。

新宿区に「二十騎町という町名の区画がある。
江戸時代に先手・弓の1の組と9の組の与力それぞれ10ずつの屋敷が集まっていた珍しい区域であったので、明治になってからけられた町名である。

_169その記録があるというので、新宿歴史博物館を訪ねた。
係の人に訪意をつげると、どこかにある書庫から鈴木貞夫さんによる『二十騎町先手組』と題したB5版50ページほどの報告書をだしてきてくれた。

江戸時代の所在地を現在の地図に重ねると、市谷高良町の東で1の組の与力は俗称・牛込元天竜寺前に南北2列に5軒ずつ、弓の9の組は同・牛込天竜寺前に同じく2列に5軒ずつ並んでいたらしい。

安政3年(1856)に幕府屋敷改メが作成した『諸向地面取調書』は、弓1の組の与力10軒の拝領屋敷の総面積は3,978坪で、1戸あたり345坪から390坪が下賜されていたと。

この坪数は、弓2の組の目白坂上の組屋敷で与力衆に割りふられていたものと大差ないとみなしていいのではあるまいか。

345坪から390坪といえばかなり広大であるから、中には医師とか幕臣に敷地の一部を貸していたものもあったであろう。

同心についても『二十騎町先手組』は『地面取調書』から引いている。

組屋敷 牛込佐渡原町 2,352坪は同心13人分で、1人につき155坪余から200坪。内138坪は矢場。
敷地の半分以上は前庭・裏庭にあてられており、四季の花木を賞(め)でていたろう。

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