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2012.04.09

将軍・家治の体調(6)

「お殿はん。お城、お休みいうことやけど、按配、どないですのん?」
カスドースを半口かじりおえた奈々(なな 19歳)が訊いた。

気づいた佐野豊前守政親(まさちか 55歳 1100石)と平蔵(へいぞう 41歳)が驚いた面持ちで田沼意次(おきつぐ 68歳)を見た。

意次の端正な頬にうすく朱がさしたが、口調はいつものゆるやさで、
「大事ない。周防(すおう)どのが表向きは病気静養という形で静かにしていよ、としつこくすすめたので、とりあえず、したがっているだけだ」

周防とは老中首座の松平(j松井)周防守康福(やすよし 68歳 石見浜田藩主 6万4000石)がことで、次女が田沼意知(おきとも 享年36歳)の正室であった。

「しかし、お上のお加減もおよろしくはないとの---」
銕三郎。そのこと、どこから聴いた?」
「本丸の小姓組の者から---」
「お上のお躰のことは天下の秘事である。めったなことで口にのぼしてはならぬ」
「不調法でございました。お許しを---」
「うむ---」

その剣幕に、平蔵は、ご用取次・横田筑後守準松(のりとし 53歳 6000石)と、西丸・取次の小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)の名を口にだすのをはばかったことが、結果、意次の老中罷免につながったかもしれないと、のちのちまで、しこりとなって胸中にのこった。

というのは、『徳川実紀』の天明6年8月15日の記述をどう読みとるかで、推察は大きくかわる。

御感冒のよしにて外殿に出給はず。よて朝会の群臣皆大納言殿(家斉 14歳)に拝謁す。(中略)
こたびの御病気はこの月はじめより水腫をうれいたもふ。

最初のころは、河野仙寿院通頼(みちより 73歳 500石)が調薬をしていたが病状があらたまらないので、この日から替わった奥医・大八木伝庵盛昭(もりあきら 47歳 200俵)がお脈をとっていた。

参照】2010年9月13日[佐野与八郎の内室] (

近臣たちは、当初はさしたることはないとおもっていたようで、この15日に外殿で拝謁をお受けにならないとしらなされ、さてこそとことの重大さにおどろいた。
家治が将軍の座について26年のあいだに一度もなかったことだからであった。

(『実紀』)8月16日 さきに拝謁ゆるされたる市井の医・日向陶奄某、若林敬順某を田沼主殿頭意次推薦し、にわかに内殿に召して御療治の事にあづからしむ。

(『実紀』)8月19日 日向陶奄、若林敬順新に召出れて奥医となりともに林稟米200俵
これが裏目に出たことは諸書が言及している。

(『実紀』)8月22日 このほど大納言殿(家斉 いえなり 14歳)日ごとに本城にわたらせ給ひ、宮内卿(清水家)重好(しげよし 42歳)卿、民部卿(一橋)治済(はるさだ 36)卿も出仕あり。三家使いして御けしきうすずはる。

病枕で家斉なり治済なりから田沼誹謗がそれとなく家治の耳にふきこまれるようなことはなかったであろうか?

(『実紀』)7月同日) 又、田沼主殿頭意次病もて家にこもる。

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