佐野与八郎の内室(4)
いつもと違い、[佐野与八郎の内室]の項にかぎり、歳月を無秩序に行き来している。
藤田 覚さん『田沼意次』に書かれている---
幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん 通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の子の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、堺奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。
学者でもないのに、上の当否に近づこうなどと、身のほど知らずなことをおもいついている。。
河野仙寿院(せんじゅいん 通頼 みちより)の「仙寿院」は、父・通休(みちやす)医師が、将軍・吉宗から賜った称号である。
これは、紀伊大納言頼宣の生母・お万の方が赤坂の中屋敷内に祀った小庵にちなむ庵号でもある。
小庵はその後、千駄ヶ谷へ移され、法雲山仙寿院という日蓮宗の山梨の本遠寺の末寺となったが、境内の景観が日暮里に似ているところから、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。
千手(せんじゅ)観音の語呂にあわせたものであろうか。
仙寿院通頼(49歳)が家治の篤い信頼を得たのは、宝暦11年(1761)に御台所・五十宮倫子の不予を快癒させたことによると『寛政譜』に記載されている。
このころ、田沼意次(おきつぐ 44歳)は、1万5000石を領して相良藩主、御側御用取次であった。
佐野与八郎政親(まさちか 31歳)は、家治の本丸入りにしたがって小姓組番士として本丸へ出仕していたし、河野通喬(みちたか)の末女を妻(めと)って8年が経っていた。
長谷川銕三郎宣以(のぶため)は17歳で、初見は7年後のこと。
意次が側用人にすすんだのは、この5年後の明和4年(1767)7月1日であった。
家治に見込まれた佐野与八郎は、宝暦12年(1762)の年末には西丸へ返され、家基に仕えた。
使番、目付を経て、堺奉行を拝命したのは、15年後の安永6年7月15日、46歳。内室は42,3歳になっていたろう。
さて、佐野与八郎政親の前任10人中、目付(1000石高)から堺奉行(1000石高)へ転じた仁を書き出してみよう。
桑山三郎左衛門一慶(かずよし 44歳~ 1200石)
宝永3年(1706)正月11日目付ヨリ
正徳元年(1711)5月1日大坂町奉行
山田十大夫利延(としのぶ 37歳~ 2000石)
寛保2年(1742)5月28日西丸目付ヨリ
延享4年(1751)2月2日普請奉行
池田修理政倫(まさとも 40歳 900石)
宝暦6年(1756)9月15日西丸目付ヨリ
8年(1758)12月7日大目付
石野八大夫範至(のりとを 70歳 1100石)
安永元年(1772)4月28日西丸目付ヨリ
6年(1777)7月8日卒
佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)
安永6年(1777)7月26日西丸目付ヨリ
天明元年(1781)5月26日大坂町奉行
10人中、佐野与八郎政親を含めて5人が目付から転じている事実があるから、与八郎政親は決して異例ではない。
さらにつけたすと、池田修理政倫の「個人譜」には、大坂町奉行が参府していたあいだその代理をつとめたとあるから、堺奉行には、そういう職務もあったらしい。
佐野与八郎政親の後任も書き添えておく。
山崎四郎左衛門正導(まさみち 61歳 1000石)
天明元年(1781)5月26日駿府町奉行ヨリ
4年(1784)7月26日京都町奉行
京都町奉行も大坂町奉行とおなじく1500石高であった。
佐野豊前守政親の大坂町奉行は、ほとんど本人の力量によるといってもいいのではなかろうか。
もっとも、松平定信側の幕閣が、政親を田沼派と断じたことと、本人の力量・人柄とは無縁である。
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