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2010.09.22

佐野与八郎の内室(3)

このブログでは、佐野与八郎政親(まさちか 27歳=宝暦8年 1100石)を長谷川平蔵宣雄(のぶお 40歳=-宝暦8年 400石)に引きあわせたのは、宣雄が小十人組頭に抜擢された宝暦8年(1758)で、仲立ちしたのは本多采女(うねめ)紀品(のりただ 44歳=宝暦8年 2000石)とした。

確たる史料があってのことではない。

本多紀品と前・田中藩主の本多正珍(まさよし 49歳)とのあいだがらから推測した。

宣雄は、、佐野与八郎の人柄を見こみ、一人っ子の銕三郎(てつさぶろ 14歳)の精神的な支柱である兄者となって振るまってほしいと頼んだ。
一人きりの弟・与三郎を早くに逝かせていた与八郎は、二つ返事で引きうけた。

さて、藤田 覚さんの『田沼意次』(ミネルヴァ書房)の、佐野与八郎田沼と近づくために、奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったという推測の当否を検証するために、ながながと、『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』(文春ネスコ)を引用したわけではない。

藤田 覚さんも、あからさまに田沼意次に「近づく」ためにとは書いてはいない。
推測をうながした史料も明かされてはいない。

ただ、与八郎政親の西丸・目付から堺奉行、さらには大坂西町奉行への栄転が異例であることを指摘しているのと、田沼意次が失脚した天明7年(1787)8月27日をおっかけるように、(田沼派とみなされて)10月7日に大坂町奉行を解職と書いている。

寛政譜』は、

天明元年(1781)5月26日大坂の町奉行にすすみ、天明7年10月7日職をゆるされ、寄合に列し、寛政2年(1790)8月24日御先鉄砲の頭となり、10月7日より盗賊追捕の事を役し、3年3月17日これをゆるさる。

もちろん、田沼派とみられたから大坂町奉行を罷免---などと『寛政譜』が記すはずはない。

ところで、与八郎政親が奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったのはいつか? 
寛政譜』に拠(よ)って推理してみよう。

手がかりは、長子・与八郎(幼名 元服名=政敷 まさのぶ)の生年である。
初見の寛政2年(1790)35歳から逆算すると、宝暦6年(1756)の生まれである。
父・政親は25歳、西丸の小姓組番士として出仕3年目、このときの西丸の主は家治(いえはる 20歳 幼名・竹千代)であった。 

番頭(年齢は宝暦4年)は、1の組---
三枝土佐守守応(もりまさ 44歳 7500石)
2の組---
藪 主膳正忠久(ただひさ 40歳 5000石)
3の組---
松平内匠頭康詮(やすあきら 52歳 3000石)
4の組---
横田備中守清松(きよとし 56歳 9500石)

どの組であったかは、記録が見あたらない。
三枝家横田家は、武田系
藪家紀州系で、このあと10数年間は影響力をもっていたと推察できる。

ちゅうすけ注】別の史料『柳営補任 三』の使番の項に、

大久保因幡守忠翰
宝暦13年正月11日西丸御小姓組大久保因幡守組ヨリ
同年7月上州厩橋城松平大和守修復見分御用
明和4年12月朔日西丸御目付

とあり、大久保因幡守忠翰(ただなり 44歳=宝暦13年 5000石)は西丸4の組の番頭であった。


佐野政親の長子は宝暦6年に誕生と書いた。
内室の年齢の推測には、河野豊前守通喬(みちたか 1000石)の8男7女の末女だから、すぐ上の末兄で大久保家(1300石)へ養子にはいった康寛(やすひろ)の宝暦6年の年齢を『寛政譜』によって計算すると、23歳。
政親の内室が、佐野家へ帰嫁したのを出産の前年とすると、宝暦6年は23歳以下、20歳前後か。

その宝暦6年に、河野仙寿院と内室はいく歳であったろう?
夫の仙寿院は没年(80歳)が分明しているから、逆算すると43歳。
内室のすぐ上の兄の清和(きよかず)が、養子先・桑山家(1000石)の家譜から、この年には31歳、また、すぐ下の弟・国英(くにひで)は、養子先・小菅家(1500石)の『寛政譜』から29歳であったこともわかる。

兄と同年か30歳、あるいは弟と同年ということもあろうが、それにしても、仙寿院との年齢差がありすぎるのがくせもの。

というのは、この内室の子であるらしい金之丞は早世しているが、某女が産んだ第2子で、のちに家督した平次郎通久(みちひさ)が宝暦6年には16歳だから、早世した子を14歳か15歳で産んだ計算になる。

年齢調べをしたのは、仙寿院の政治的な力量を推測してみたかったから。


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(再録:仙寿院と佐野政親の内室の実家・河野通喬の個人譜)


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(大久保因幡守忠翰の個人譜)


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094佐野豊前守政親」カテゴリの記事

コメント

佐野与三郎政親クラスの幕臣だと、西丸の何番の小姓組に入ったか、記録がないわけですね。

投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.22 10:14

>文くばり丈太 さん
国立公文書館へ行き、『寛政譜』のために佐野家が提出した[先祖書]でもコピーをとってくれば、もうすこし詳しくわかるのでしょうが---。
その時間がとれません。残念。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.22 11:07

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