銕三郎、初見仲間の数(5)
銕三郎(てつさぶろう 23歳=初見の齢)といっしょに明和5年12月5日に初お目見(めみえ)した仲間の数が、『徳川実紀』の記述と大きく食いちがっていることに気づき、思いだしては調べ始めてから、2~3年たったろうか、いや、もっとかな。
ブログを書いていて、突然おもいだしたのが、釣 洋一さんの、
「『実紀』から洩れている初見者を全部あたってみましたよ」
このセリフ、いつだったかの〔鬼平忌〕で耳にした。
釣さんは、〔鬼平忌〕の主催者の一人である。
もう一人は、長谷川平蔵家の菩提寺・戒行寺の住職である星 和道師。
〔鬼平忌〕は、平蔵宣以の歿後200年にあたる1995年(その前年かも)を記念し、戒行寺に〔長谷川平蔵宣以慰霊碑〕が釣さんほかの有志によって建立されて以来、つづいている。
(戒行寺の鬼平慰霊碑)
10回ほど前の〔鬼平忌〕で、ぼくもスピーカーを勤めさせていただいた。
会は、平蔵宣以の命日である5月10日(旧暦)が新暦だと6月26日にあたるので、たしか、第4日曜日の午後1時半からだったように記憶している。
いや、最近は、体調がおもわしくなくて欠席をきめこんでいるが、今年あたりは参会させていただこうかとかんがえているのだが。
閑話休題。釣さんの、
「洩れを全員あたった」
の一言で、急遽、鬼平がらみのファイルをひっくりかえしてみた。
「あった!」
なんと、A3の用紙に6段に組んだ、すごいデータである。
ワープロ文字でなく活字組だから、釣さんが公刊物に発表なさったもののアレンジと推察。
全部で133人とある。
これに、釣さんは、手書きで、
法制史研究家の重松一義教授は、鬼平の御初見は23歳で遅かった。10歳や12歳の子を含めた30人もの旗本の子一緒に交じって針の筵の恥辱と受け止めたであろう---としているが、10歳や12歳の子は一人もいなかった。
『族徳川実記』で30人の初御目見とあるが、『寛政重修身諸家譜』を調べたところ、133人もの人たちが初御目見しており、その平均年齢は鬼平より上で、25.5歳だった。遅いどころか、早い方だった」
(へえ、初見の平均年齢をただすために、橙色版22冊を全部あたったのか。ご苦労さま)
というのが率直な感慨だったが、史実の探求を旨としている釣さんのこと、目的はほかにもあったろうと推察してみた。
前記のように、徳川の正史ともいえる『実紀』の初見の記録に大漏れがあるとすると、正確とはいいがたい。
2008年12月5日の当ブログに、明和3年(1766)から同5年上半期までの『実紀』からの記録として、
『実紀』によると、将軍・家治の初見は、明和3年は、3月18日に11人、7月18日14人、12月3日17人で、計42人であった。
しかるに、4年は、12月8日の22人としか記されていない。
さらに明和元年(1764)と同じ2年(1765)の記録も、
明和元年 4月17日に11人、12月15日は記名者4人
2年 5月12日に15人 6月1日に6人、12月22日に10人。
少なすぎる。
年に100人初見したと仮定しても、30年間で3000人にすぎない。
『実紀』が初見のすべてを記録しているわけではないとすると、何に拠ればいいのだろう?
やはり、釣さんやぼくがやったように、『寛政譜』を総ざらえするしかないのだろうか。
橙色版の『寛政譜』の索引には、記述内容に属する初見の項目はないからなあ。
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