夏目藤四郎信栄(のぶひさ)(3)
帳場から呼ばれ、女将・お里貴(りき 30がらみ)が、なごりおしそうに、色白の顔をくもらせながら部屋から去ると、平蔵宣以(のぶため 28歳 400石)が、ひらめの上身じめに箸をつけながら、
「夏目どのの大祖に次郎左衛門吉信(よしのぶ 47歳=永禄7年)といわれるお方がおられましたな?」
吉信の名が平蔵の口から出たことで、藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)は満面に笑みをうかべ、
「三河一向衆に与(くみ)しまして、野羽(のば)にたてこもりましたが---」
持ち前の大声で話しはじめた。
【ちゅうすけからのお願い】三河の野羽の所在がわかりません(幸田町野場がそうでしょうか)。なんという町になっているのか、ご存じの方からのご教示を俟ちます。
だらだらとまとまりが悪いので、宮城谷昌光さん『新三河物語 上巻』(新潮社 2008.8.30)をもって代えていただく。
すでに、家康に脊逆して野羽に立て籠もっていた夏目次郎左衛門吉信(よしのふ)は、深溝(ふこうず)松平の伊忠(これただ)に攻められて、降伏した。家康はこの降将を誅殺せず、しばらく伊忠に付属させたが、
---みどころがある。
と、おもい、自身の下においた。吉信は、家康の恩遇(おんぐう)を痛感し、法恩の機を待っていたが、元亀(げんき)三年に遠州の三方原(みかたがはら)において徳川軍が武田軍に惨敗したとき、浜松城を留守(りゅうしゅ)していたかれは、主君の危殆(きたい)を知って出撃し、敗走してきた家康を援護して討ち死にした。享年が五十五であった---。
【参照】2008年8月4日[ちゅうすけのひとり言] (18)
吉信には男子の遺児が5人(うち2人は父に先だって歿)いたが、伊豆・韮山城1万石を賜った本家・吉忠は、嗣がなく絶えた。
吉信の兄・信次(のぶつぐ)が興した家(733石)から分家したのが藤四郎信栄の夏目家であった。
「大祖・吉信さまの家が絶えたということでは、家史のたぐいは---?」
「きょう、手前の貢献をしてくだされた、次郎左衛門信卿(のぶのり 54歳 733石 書院番士)伯父のところで蔵しているとおもいます。継ぎ名からもお察しのとおり、本家です。ところで、吉信の戦死のもようが、長谷川どのとなにかのかかわりが---?」
信栄の問いかけに、平蔵は、長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ 37歳)とその弟が三方ヶ原の合戦で討ち死したことはたしかなのだが、どの大将の旗の下にいて戦ったのか、はっきりしないので、もしかして、夏目家に記録の端っこにでも記されていればとおもったまで、と応えた。
【参照】2008年11月30日[三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長]
「今夕の、牛込ご門内二合半坂下の拙宅での祝いの席に、とうぜくん、信卿伯父も参会しますから、早速に尋ねておきます」
「かたじけない」
信栄は、訊きもしないのに、二合半坂の講釈を、それが癖の大きな声ではじめた。
坂の上から日光山が半分ほど望めるゆえの命名と。
「半分なのに二合半はおかしゅうござろう。日光山は富士山の半分、したがって、富士山なれば二合半ていいとのしゃれにもならないこじつけですな。は、ははは」
ひとりで悦にいっていた。
一説によると、日光山が半分---つまり、日光半がなまったのだと。
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